また、これに散見するテキストや固有名は別の構造への転換契機であることを、そうあらしめる責任を負っていることを述べておきたい。*1
*1:同上
1936年3月11日生
1992年3月11日~ 松下昇 (印影)
1.死亡の時間を延長する措置は不要。
2.死亡の通知はどこへも不要。風のたよりに任せる。
3.死亡診断書を添えて火葬の手続きをし、死亡の場にいる任意の者が実行する。
4.密葬~公葬を含めて全ての葬儀はしない。
5.遺骨は墓地に埋葬しない。一部を希望者の保管に任せる他は廃棄~散布自由。なお、 未宇の眠る{B109}には野草以外のものは不要。任意の人の散歩の場所にする。
6.遺品は私の文書および口頭による指定のある場合を除いて譲渡、複写、刊行はせず、 基本的に廃棄してよい。
mujige 2010/12/06 09:00 id:noharra 氏、指摘されて「まずい」と思ったからツイートを削除したんでしょうが(名誉毀損が成立しておかしくないレベルですから)、それをわざわざ自分のブログに転載って、やってることが理解不能です。ブログが公的な表現物だということが分からないのでしょうか。
mujigeさんへ。
http://teri.2ch.net/korea/kako/986/986434444.html HANBoardについて考える PART12 投稿日: 2001/04/05(木) ~2001/05/21(月)
には、上記以外にも、米津篤八さん? に対する言及がたくさんあります。
ここのコメント欄あるいはどこかのブログで反論されたら如何でしょうか?
一部修正
>2-3.①2-1事件後の警察の対応
警察は要注意人物として大内に監視の目を光らせ、彼の勧誘を受けた周旋業者に説諭して、慰安婦の募集を断念させたが(山形県の例)、しかし和歌山のように婦女誘拐容疑で検挙することはしなかった。
②についての永井の解釈(以下、『大内事件処理の永井解釈』という。)
②の後に、①を挿入してください。
3月15日付けと3月19日付けの私の該当コメントを、『永井和論文の批判的検討』などといったタイトルで独立のエントリにしていただけると、うれしいです。』(2007/03/28 00:35)
日本書紀冒頭にはこうある。
「 古(いにしへ)に天地(あめつち)未(いま)だ剖(わか)れず、陰陽(めを)
分(わか)れざりしとき、
渾沌(まろか)れたること鶏子(とりのこ)の如(ごと)くして、溟(ほのか)にして
牙(め)を含(ふふ)めり。」
http://www.meijigakuin.ac.jp/~pmjs/resources/bungo/02_nihonshoki.html
林羅山はこう書いている。『神道伝授』という本で。
「混沌は一気のまろきを云うなり。天地開けず陰陽未だ分かれざる時、コントンと
マンマロにして鶏子のごとし。その中に神霊の理 自ずから在りて未だ現れず。
その分かれ開くるに及んで天地の間に万物生ず。」
「また人の心にたとゆれば、まどかなる理の中に、動と静とを合わせて
念りょ未だ芽(きざさ)ざるは、コントンなり。既に動発して種々の思うこと
多く出来るは、天地開け万物生ずるに似たり。神は未分の内より備て、開闢の後に
あらわる故に、始まりもなく終わりもなし。人心も同理なり。
静にして虚なれば、今日も混沌未分なり。」
(p26 『近世神道論・前期国学』日本思想体系)
<太極にして無極>を宇宙の根源とする朱子の思想の焼き直しともいえるが、
混沌を直接肯定するのは儒教からは外れている(のではないか)。
今ここに在るわたしでも、<静にして虚なれば>、宇宙を開く混沌未分
という原理がそのうちにあるのだ、というのはちょっと良いと思った。
<静><敬><未発の中>などというのは宋学においていわば士大夫が
聖人になろうとする方法にすぎないともいえる。(そこにおいて、宇宙原理たる
理と一体化していかなければいけないのだが。)それをむりやり、
日本神話の原初の混沌に結びつけたのは大変な力技だと思える。
「マンマロニシテ」なんていう純日本語が出てくるところもおかしい。
「民は神の主なり。民とは人間のことなり。人有りてこそ神をあがむれ、
もし人なくば誰か神をあがむる。然からば民を治むるは神をうやまう本なり。
神徳によれば人も運命を増すべし。」p14
もう一つ引用してみた。儒者にとってはうまく民を治めるのが目標なのは当然
なのだが、神が出てくるのでなかなかおかしい。
というわけで、名前だけは高校教科書にしっかりでてくるが仁斎などと違い
著作は一冊も見たことがない林羅山先生の文章を引用してみました。
野原燐
岩波の日本思想体系は註は充実しているが現代語訳がついてないので、
わたしには難しいです。前から探していた『山崎闇斎学派』というのを見つけた
、翌日十冊ほどのこのシリーズを1,200円で店頭セールしていた。
『キリシタン書・排耶書』というのを選び、あともう一冊ぐらい買っとこうか
とこの本を選びました。スピヴァックやアレントであればマイナーとはいっても
興味を持つ人はいるわけですが、日本儒教になど誰も関心を示しさないでしょうね。
わたしも積読だけになってしまっては困る、そこでここで一人でむりやり書いて
みているわけです。
さて、羅山の文には「摩多羅神」なんてのもでてきた。なんだかいやらしそうな
神だなとグーグル検索してみたらいくつか記事が出てきた。
摩多羅堂という専門のサイトがあり正体不明のこの神について丁寧に紹介していた。
職場の新年会で酔っぱらってしまった。というかわたしは弱いのに別に酒嫌いでもないから自制しない限り酔っぱらいます。人と会うのが苦手なので、人がいるところでは。
会合はすばやく終わり、わたしは一人で「マンガ喫茶」に行きました。マンガ喫茶とかもっと行っても良いのになぜかなかなか行けません。店の過半のマンガをざっと見渡したて、「やっぱり」の大友と(名前がどうしても出てこずにグーグルしてやっと分かった)岡崎京子を一冊づつ読んだ。岡崎は“Take it easy”というの、大友は王、仁、惨、吾、岩、なんていう名前の付いたボスたちが活躍するSFみたいなの。ググールしてもなかなかでてこずやっとわかった「ナンバーファイブ(吾)」という作品。(酔っているから記憶力がないのか。)ある方が「これが文字通りの傑作。」と書いてますがわたしも同意見です。粗筋と登場人物の異様さはワンピースに少し似てるが、でも比べられないほど大友の方が取っつきにくい。一方岡崎のは、(云々と昨日書いたが読み返すと嘘なので削除)やっぱり名作には違いない。
TUTAYAに寄ってから帰ってテレビを見た。なぜか今頃ブッシュ再選をテーマにした番組で、藤原帰一氏が出てた。ブッシュとアメリカの大衆は、911とフセインが関係あると思っているが、プロから見ればなんだそりゃ、と言うしかないようなもんだ。ブッシュとアメリカの大衆は、世界の一般的感覚からどんどんずれて行ってるのに気付かずにこのまま行きそうだ。でも日本だけはアメリカに付いて行ってるのかも。という話で、ネクラな反米左翼にも受け入れやすい話だったが、視角がまったく違って新鮮だった。あの女性はなんというのだろう。切り込みが鋭く感心した。それでもそれでもブッシュ再選可能性は55%以上あるんだと・・・日本人なら小泉の心配をしろ、という意見が正しいが。
「歴史の終焉」というコジェーヴの議論についてバタイユが解説してる文章を読んだので、ちょっとまとめてみよう。
前提としては、「人間とは否定を行う存在である」ということ(ヘーゲルのテーゼ)がある。であれば「もしも創造的反抗がなく所与がそのまま受け入れられるなら」そういった存在は果たして「人間」と言いうるのか?人間の姿をしているが動物の特徴をもってると言えるのじゃないか。*1
わたしたちがみな同質的である社会の到来が、歴史の終焉の条件である。つまり「人々が相互に対立し、様々な人間的な様態を次々に実現していた活動が停止する」ということ。*2
ヘーゲル、マルクスにおいては人間たちは承認のために互いに闘争し(階級闘争)、また労働を通して<自然>と闘争する。しかしいまや<自然>は決定的に制御されてしまっている、人間と調和してしまっている、闘争は必要ない。……戦争と流血の革命の消滅。<人間>はもはや自分自身を本質的には変化させない。認識の根底にある原則も変わらない。芸術、恋愛、遊び等々、要するに<人間>を幸福にするものはすべて、そのままに保たれる。*3
<動物化>についてははてなキーワードにあったはずと思って見るとしっかり、百行以上あった。ただ当然ながら、バタイユとはニュアンスは違う。「絶対的引き裂きのなかに自分自身を見出す*4」という契機抜きには人間は人間たり得ない、というのがバタイユの人間観。
「…動物の欲求は他者なしに満たされるが、人間の欲望は本質的に他者を必要とする。」と東氏はいってるらしいが、あらかじめ同質化されてる他者から承認されても、バタイユ的には否定を体験したことにはならない。
また、「人間は死を賭けることができるからこそ人間であり、戦争はそのための最高の試練であるが、」と浅田氏の本のなかにあるらしい。軍隊という制度において目的のために駆り立てられる人間も、死つまり「否定的なものを真っ向から凝視し、その傍らに留まり続けるとき」(ヘーゲル)という体験からははなはだ遠い。
「人間は死を賭けることができるからこそ人間であり、戦争はそのための最高の試練である」といったセリフは近い将来薄められて大量散布される危険性がある。バタイユの言うことは、神秘的でヒロイックすぎてついていけないと思う人もあろう。ヘーゲルやバタイユがどうあろうと、「戦争のために死を賭ける」というのは普遍的に馬鹿げたことだ。でもそう言いきれるのか。植民地解放戦争などの場合は「馬鹿げた」とは言えないかもしれない。日本人が、先の支那事変の悪を承認したくないという(ひそかな)思いを持ちながらやる戦争に1ミリの正しさもないのは自明だ。
話が逸れた。現在の日本に対する「動物化」という診断は、わたしを含めた多くの人にとって切実に響く。わたしたちはすでに欲望からさえ見放されつつあるのだ。というか、欲望から自由になるのは良いことではないか。ひとは衣食住さえ満たされればよい。若い労働者の救済と男女平等のためには、労働時間半減ぐらいのワークシェアリングが必要だ。より少なく働きより少なく食べより少なく遊ぶ。人間は自己の深淵を見つめる時間を限りなく持てるようになる。医療費も半減すれば死も身近になる。
金時鐘の長編詩『新潟』の真ん中部分を読む試みです。
3章 http://www.eonet.ne.jp/~noharra/ikesu2.htm
「風は海の深い溜息から洩れる。」「朝は冷静に老漁夫の視界へ現実を押しひろげてくる。」前章の少年に変わり老漁夫に焦点が当たる。「済州海峡はすでにひとつの生簀(いけす)でありその生簀のなかの生簀に父が沈み少年がただよい祖父がうずくまっている。」少年が海へ下りたとは入水したということだったのか。それとも、「爆発」「横ったおしの船腹」「少年の冷たい死」という言葉がこの章の終わりぐらいにあるから、(船底にひそんで)海を渡ろうとしたが(1章の浮島丸のように)時限爆弾で爆破されて死に至ったのか。2章の主題だった海に沈んだ屍体たちはこの章ではもはや屍体でさえなく、無数の魚たちの小さな口によって食いちぎられる餌となっている。「もはや老眼はありあまる人肉の餌づけに慣れた魚と人との区別をもたない。」それでも漁師は魚を捕る。「海の密教が山と野を伝いしきられた暮らしを奥ふかく結んで彼らのみだらな食卓へ日夜屍体に肥えた殺意を盛り上げる。」太古から定められた食物連鎖という掟は循環し、貧しかった食卓は急に豊かになる。「四十年のくびきを解いたという彼らの手に早くも南朝鮮は食用兎(ベルジアン)の胴体でしかないのだ。」食べることは食べられることだ、みたいな錯乱した感覚に導かれ、「朝鮮半島=食用兎」という喩が現れる。「ただひとつの国がなま身のまま等分される日。」1948.5.10南朝鮮単独選挙。「人はこぞって死の白票を投じた。町で谷で死者は五月をトマトのように熟れただれた。」投票場で白票を投じたのだろうか。済州島の2州でだけ選挙が無効になりそれが苛酷な鎮圧作戦の原因になる。*1トマトのようにどこにも血が流れ死者が発生し、ただれた。「血はうつ伏せて地脈へそそぎ休火山のハンラをゆりうごかして沖天を焦がした。」「鉄の柩へ垂直にささった五十尋の触手をたぎる景観のなかで老漁夫がたぐり上げる。触感だけに生きた漁師の掌に解放にせかれ沈んだ盲目の日は軽石ほどの手ごたえもない。もぬけの自由だ!」解放への性急な思いは死へ、そして死はもはや軽石ほどの手ごたえもない。「仕組まれた解放が機関の騒音にきざまれる時限爆弾の秒針ではかられていたときやみくもにふくれあがった風船のなかで自己の祖国は爆発を遂げた。」「横ったおしの船腹をひっかき無知の柩に緩慢なひびきをおしこんだいかり石が今しずかに祖父の手元へ手繰り込まれる。」
4章
4章は読みにくい。3章の終わりに「船底」*2「区切られた」「柩」という言葉があり、4章の始めには「鉄窓」「ヘルメット」「エアポケット」といった言葉がある。ここから受け取れるのは潜水艦のようなものに閉じこめられたイメージだ。(済州島事件の後)日本へ密航してきた人たちのことを“潜水艦組”と言ったそうだが、そうした(長く秘されてきた)体験がここの背後にはある。*3「朝を見た。」*4「大気の飛沫を」「自己の生成がようやく肺魚のうきぶくろとなってふくらむのを知った。」*5潜水艦の閉鎖から開放されていくイメージだ。日本への密航が解放であったわけではない。ただ熟れたトマトのように屍体が折り重なる空間から脱出することは喜びだった。「飢餓を自在に青みどろの海面へ振り切り」「くも糸に吊された蛹さながら蘇生を賭けた執念が身もだえる。」*6「暮らしにへたった指に水かきをつけ息をつめとおした日日の習癖を鰓に変えて彼はただ変幻自在な遊泳を夢見るのだ。」「海そのものの領有こそ俺の願いだ!」*7開放感は全能感に移っていく。「縦横無尽なイルカの流動感こそいい!」「エネルギッシュなアシカの欲望だ!」「いやセイウチだ!選り放題の女どもを囲い気の向くままに稼ぎ産み遊び民族も種族もへったくれもない。」「おお神さまこの世はなんとすばらしいんでしょうか。」次ぎに転換が起こる。「それが丸ごとかっさらえるのです。もう数ではなく固まりのままが喰えるのです。戦争とはいっても海のずっと向こうのこと。胃袋を通ったものが何に化けようと勝手です。腹の足しにもならずじまいの鋳型を追われた蛇口ですら削り取られて爆弾になったんだ!」*8過剰な全能感は不安や(屍体の島済州島に父母や仲間を置き去りにし逃げてきたという)罪責感を隠していた。そこで1年後朝鮮戦争に出会うや、「蛇口」や「ネジ」が爆弾に成ることにより日本経済が復興するという戦後日本の原罪を、誰よりも深く背負うことになる。*9(こういうのも郵便局的誤配というのかな。)「はっぱがかかるぞお--深くつらぬく光と闇をくゆらせて重い藻にからまっているのは横むいたままの落ち込んだ家路だ。」帰国直前に爆沈された<浮島丸>がまた回帰する。「骨の先端ではじけている盲目の燐光よ。あばくことでしか出会えぬわれらの邂逅とはいったいどのような容貌の血縁にひずんだ申し子なのか?」*10「海の厚みのなかをこり固まった沈黙がきき耳をたてる。」「うっ積した塵を噴き上げ覗きこんだ奴の首をもかっさらった骨の疾走が囲いを抜ける!」沈黙の持続があり時が満ちる一挙に爆発が起こる。「海の臓腑に呑まれた潜水夫の目に朝は遠のいた夜のほてりのように赤い。」潜水夫が見るのはなきがらだ。「澱んだ網膜にぶらさがってくるのは生と死のおりなす一つのなきがらだ。えぐられた胸郭の奥をまさぐり当てた自己の形相が口をあいたまま散乱している。」なきがらは逆光に高高と巻き上げられる。「逆戻るはしけを待っているのは宙吊りの正体のない家路だ。」とここで、第二部「海鳴りのなかを」は終わる。
以上、“故郷へ”というベクトルとその挫折を、松代大本営、浮島丸事件、済州島人民蜂起後の虐殺などなど朝鮮半島と日本の歴史の曲がり角の動乱を横糸に織り上げた叙事詩だといえるでしょう。これだけのエネルギーがなお挫折以外に出口を持たないことには言葉がない。これだけ構成の整った大叙事詩を書き上げながら、(左翼詩人なのに)故郷への思いというものを形而上学的高みへの単線的ベクトルへと疎外することなく、わがからだの卑近さ挫折の近くに保ち続けたことは大変なことだと思う。
*1:http://www.dce.osaka-sandai.ac.jp/~funtak/papers/introduction.htmによれば 「しかし同年五月一〇日に実施された、南朝鮮単独政府樹立のための代議員選挙が、済州島の二選挙区では民衆の抵抗によって、投票率が五〇パーセントに満たず無効となると、米軍政は国防警備隊(のちの韓国軍)を本格的に動員し、苛酷な鎮圧作戦に乗り出した。」とある。ちなみに『原野の詩』p420の自註では投票日が5月9日となっているが間違いなのだろう。
*2:p405『原野の詩』
*3:時鐘が日本に密航してきたのは、1949年6月。参照p287『なぜ書き続けてきたか なぜ沈黙してきたか』isbn4-582-45426-7 1991年刊行の『原野の詩』は60頁に及ぶ詳細な年譜が添付されている(野口豊子作成)が肝心の密航については固く口を閉ざしている。1年後の6月朝鮮戦争始まる。
*4:p407
*5:p408同書。 ここで52年後にようやく語られた、実際の密航体験の一断面を引用しておこう。「 その密航船には、ぼくら入る余地がないくらい人が乗ってたから、たかだか半畳ぐらいのところにね、五、六人入っている。魚を入れる、蓋什きの升目の仕切りが二つある古びた小さな漁船だった。たぶん四、五トンくらいやったろうね。とにかく立錐の余地なく人が詰ってるのよ、だから僕ら後からの五人は入るところがなくて、煙突にバンドで胴をくくって波かぶって……、お金も払ってない手前、闇船のおやじは、つっけんどんや。みな甲板の上に体くくって、入るところがないねん!……それで五人乗ったうち、一人は波かぶって流されてもうた。五島列島の灯リが見えてほっとしたときに、だぁーと波かぶったら、四人連れのうちの一人はいなかった。……まっ暗闇で助けようがない。つらかったけどそれでもこれで日本の警察に捕まっても処刑はないと、惨殺されることはないと。 」p121『なぜ沈黙してきたか』
*6:p408
*7:p410
*8:p413
*9:ネジと朝鮮戦争については当日記3月31日参照
*10:p419の註には、浮島丸事件の犠牲者遺骨285体が、目黒区の祐天寺に遺失物のように保管されている、とある。そうしたことをイメージしているのか?
(朝日新聞 5月1日 01:41)からの記事を貼れば、
http://www.asahi.com/international/update/0501/002.html
バグダッドの米拘置施設でイラク人虐待、写真放映で波紋
カイロの街頭で1日、米兵に虐待を受けるイラク人容疑者の写真が1面に掲載された地元紙を読むエジプトの人たち。アラビア語で「スキャンダル」との見出しが掲げられた=AP
イラクの米軍兵士がバグダッド郊外の監獄に拘置しているイラク人を虐待する写真がテレビで報道され、大きな波紋を広げている。米軍は今年に入って虐待問題で米兵6人の起訴を発表したが、4月28日に米CBSテレビが証拠写真を放映。同じ写真が30日、英国BBCやアラビア語衛星テレビのアルジャジーラ、アルアラビアでも流れた。アラブ連盟は同日、「人権侵害の野蛮な行為」と非難した。
放映された写真は数種類。数人のイラク人男性が裸で重なり合って性的なポーズを取らされているものや、イラク人男性が手に針金を結ばれて箱の上に直立不動で立たされ、箱から落ちたら針金に電流が走ると脅されているものなどがある。
駐留米軍のキミット准将は30日の記者会見で、「(虐待に)我々は失望しているが、かかわっているのはごく少数で20人以下の兵士に過ぎない」と語り、犯罪捜査に加えて行政的な調査も行い、再発防止策をとることを明らかにした。AFP通信によると、ブッシュ米大統領は「強い嫌悪感」を持ったと述べたという。
AFP通信によると、カイロに本部を置くアラブ連盟の広報担当は「人権を侵害し占領下で守られるべき国際法に違反するイラクでの虐待と侮辱行為を強く非難する」として、虐待にかかわった人間全員の処罰を求めた。
(05/01 01:41)
画像はここにもある。
米 CNN
http://www.cnn.com/2004/WORLD/meast/04/30/iraq.photos/index.html
Daly Millor
バクダット郊外アブグレイブ監獄での虐待について、JNNニュースでも見られるそうです。と書いたが表示できないです。すみません。
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn/20040501/20040501-00000032-jnn-int.html
今日自動車税の通知を開けると、なんと去年までの約半額だった。2月に新車を買ったので、「低燃費車」かつ低排出ガス認定車、に該当し約半分になるという。まけてもらえるのは嬉しい。排出ガスを低くしたいという公益のために誘導するという税制なのだろう。だからといって、50%も軽減するというこの制度が正しいのかどうか議論の余地はあろう。
だがそれより一般的に考えると、減税というのは喜んではいけないのではないか。確かに今日1万円まけてもらえば嬉しいのだが、その結果全国では0.001%ほど税収が減り、来年以降にまた別の形で増税になるのだ、とも考えられる。自分が適用を受ける制度は認識するが、日本には自分以外の人が受益者である減税制度が無数にある。したがってそうした制度も一切止めれば、実は将来の本当の減税につながるかもしれない。税金を払わないために努力を惜しまないのは当然の態度だが、それと同時に分かりにくい税制をシンプルで公平なものにしていくべく監視する、そのための勉強もしていくべきだ。(私が止めていくべきではと思う控除制度は、所得税では定率減税、住宅ローン減税、配偶者控除などだ。)もちろん廃止するだけでは損するからどこかで取り返さないといけない。
軽減の対象に当たったことを喜んではいけない。対象者とそれ以外の格差が本当に必要なものなのかどうか考えて見よう。