id:mujigeさんへの質問

@mujigedari あらためてお聞きしますが、あなたは何がしたいの? 私にブログから削除せよ、との明示的要請がまだないのはなぜ?

posted at 12/7 20:30:02

中道右派 『>これほどの長い、しかも永井論文を単にまとめただけのものを貼り付けるなんて常軌を逸していると思いませんか?

常軌を逸しているとは思いません。

単にまとめただけと思われたとしたら、あなたは知的推理力と相手の意図の洞察力が欠けています。

永井論文の構成を示し、批判的検討を詳しく加える部分は詳しく引用し、あっさり検討する部分は短くまとめ、後でまとめて独立のエントリにしてもらうことで、一覧性を高め、議論の際も該当箇所が参照しやすいような再構成をする意図がありました。

>御自分でブログを作って検証してトラックバックをすればいいんじゃないですか?

お断りします。

先に、あなたから得るものは何もないとか、逃げたとみなすとか、喧嘩を売られた方にお説教されるいわれはありません。

私は、単に喧嘩を買っただけです。

あなたのブログをご紹介くだされば、そこに移ってもいいですが。

もしかして、櫻井よしこ氏の検索を示唆した先のブログのブログ主さんですか?

>しかもコメント欄で分割すれば読みにくさは倍増します。しかもはてなのコメント欄には容量に限界があります。少しはお考えになってはいかがでしょうか?

上記のとおり、そのことを考えて、初めから独立エントリにまとめてもらうつもりでした。

>>3月15日付けと3月19日付けの私の該当コメントを、『永井和論文の批判的検討』などといったタイトルで独立のエントリにしていただけると、うれしいです。

>厚かましいにもほどがありますな。

どうぞご自由にそう思われてください。

市川海老蔵に似ていると良く言われるので、『厚顔海老蔵』とHNを変えましょうか?

>それからはてなの容量のことも調べずに「逃げた逃げた」と中傷したことについて言及は一切無しですか?とことん礼儀知らずの人ですね。

印象操作は止めてください。

元々私は、逃げたと断言した訳ではなく、逃げたのではないでしょうね?と質問しているだけなので、中傷ではないでしょう。誤謬です。

また、その点については、3月15日付けのエントリで、自分の誤謬を認め、あなたの感覚の正常さを褒め、自戒の念を示すと共に、今後のより良き指針とする決意を示したつもりだったのですが、これでは満足されませんか?謝罪と賠償をお求めになりますか?

野原氏は、私が自省の念を示しただけで、以後特に追及もされませんでしたが。

一方、あなたは私のコメントを誤解曲解して断言したり印象操作をされることが多いが、そのことを私が指摘しても特に気にされるそぶりも無い。別にそんなことで一々あなたが非を認めることを求めるつもりもありませんが。

お互い、礼儀と考えるところがかなり違うようですな。

やはり、人類普遍の真理道徳はありえず、最大公約数的な道徳的価値判断を含む比較的価値中立的な法による支配を目指すのが良いようですね。』(2007/03/28 11:42)

* ノーモア 『人を売国奴だの無知だのなんだのと罵っておいて、御自分に礼儀があると信じていらっしゃるところに心より憐れみを覚えます。

>喧嘩を買った?

バカを言いなさんな。あなたが勝手に野原氏を中傷したのが先でしょうが。私はそれを恥知らずの行為だと指摘したまでです。それから「印象操作」という言葉が安売りなさっているようですが、それを立証したいなら陰謀論や「(歴史学の専門では全くない)『M2』もこう言ってるよ」みたいな「印象操作」は止めて御自分の力で積み残しを解決なさったらいかがですか?今のところ私の議論にあなたはまともに太刀打ちできていないことをお忘れなく。

このコメント欄はあなたの質問に答える為だけにあるのではありません。あなたが長文を貼り付けて容量をオーバーさせれば他の人は書き込めなくなるんですよ。そんなことも分かりませんか?』(2007/03/28 11:54)

* ノーモア 『「野原氏にアクセス禁止処分をされたもようです。今後全てのエントリにアク禁される可能性もあるかもしれないので、ここに最後になるかもしれない私の返事を書き込み、ウェブ魚拓もとっておきます。まさか、野原氏はあなたと同一人物で、自分で勝利宣言して直後にアク禁にして、私が逃げたと印象操作するつもりだったのではないでしょうね?」

これが単なる質問?印象操作はそっちでしょうが(笑)

ちなみに私は野原氏はアク禁にすべきだと思います。理由は大量のコメントを連日貼り付けてすぐに容量をオーバーさせ他の人がコメント出来ないから。魚拓とりたいならとらせればいいんですよ。自分が勝ったと思っているなら自分でブログでも作って堂々と貼り付ければよろしい。出向きますよ、私は。』(2007/03/28 12:24)

* ノーモア 『それからついでに。私へのコメントは私宛にして下さい。分かりにくいので。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20070318#c1174804311

ノーモアはなぜ論点のすり替えを追及しないかですが。

(1)まずご自分が論点のすり替えを行ったと認めるんでしょうか(笑)

(2)で、吉見氏が論点のすり替えをやったということを実証してください。

これもまた「検索」でしょうか(笑)』(2007/03/28 12:49)

353 Re:宅間氏の死刑のコメントです。

F さん

昨日はごくろうさまでした。せっかく発言してくれたのに発見が遅れちゃってすみません。「邪魔」なんてとんでもありませんのでどんどん発言してください。

さて、今日は(昨日飲み過ぎたせいで)元気がなく、書こうと思っても頭があまりまわりません。*1

 「もしも、愛する人が誰かに殺されたら、その殺した相手に死んで欲しいと望むだろう」と人は言う。そうかもしれない。その時の胸の痛みを想像してみようと思う。ではそこから死刑制度を肯定するところにいけるかというと、そうはならない。

そのとおりだとわたしも思います。

処刑されたのは、宅間守だけじゃなくてもう一人いたみたいですね。アムネスティによれば、大阪拘置所の宅間守さんと福岡拘置所の嶋崎末男さんに対して9/14に死刑執行されたようですね。

http://homepage2.nifty.com/shihai/kougi.html

http://homepage2.nifty.com/shihai/message/message_hirata.html

上記に平田オリザさんのメッセージというのがあって、下記の部分が印象的でした。

「逆に言うと、加害者と被害者がいて、殺していいですよと判決を下して、ナイフが置いてあったとき、被害者が加害者を殺すかといったら――殺す人もいるかも知れませんが――まず殺さないのではないでしょうか。

死刑という制度があるから、「殺したい」という気持ちが、「殺す」という行為に直結してしまうのではないかと思うのです。」

死刑廃止を正面から論じるより、(想像上だが)殺しても良いよとナイフを投げてやる。わたしたちが殺しても飽き足りないほどそいつを憎んでいるとして、また殺してもいいよと許可が出たとして、そのときすぐ殺すだろうか。鶏一匹殺せないわたしが本当に人を殺せるのか。理屈で考えた上で殺すというのは普通の人間にはなかなかできないことだろうと思われます。「悪である」ことも結局のところ否定しがたいし。

 人はみな「自分は人を殺さないし、死刑のような極刑を受けるような悪いことはしない」と思っている。だが、国家が人を殺す制度をもっているということは、必ずしも客観的・妥当的な「悪いこと」をした者にだけその刑を適用するためではない。かろうじてまだ「民主的国家」の看板を掲げている日本でもそれが外れるや否やその持っている権力をどのように濫用し始めるのか。それを想像するのは恐ろしいことであるが、もし少し歴史を振り返ってみるなら事実として容易に認められるはずだ。

 自己保存のために、権力に刀を預け、お上に守ってもらおうと思う人々によって死刑制度は支えられている。

そのとおりですね。テレビなどで見ている限り、殺人者は絶対的悪であり、わたしは善の側にいるという図式から離れることはできません。でもそれはわたしの想像力の問題に過ぎない。死刑までいったら困るが、現実に色々な形で国家と出会い軋轢し問いただしていくなかでしか、「民主的国家」の内実を守っていくことはできないでしょう。

                野原燐

http://replay.waybackmachine.org/20050127175829/http://otd9.jbbs.livedoor.jp/908725/bbs_reply?reply=353

*1:発言日不明

見えないがそこにある民力

 え。場違いな感じもするが、『漢文入門』岩波全書 という1957年刊行で今でも刊行中の本から引用しよう。

 楚の荘王という人がいて、陳という国を伐(う)とうとして、スパイを派遣し調べさせた。帰ってきて曰く、「城郭高く、掘りは深く、蓄積がとても多い」だから勝てそうもないですよ、と。だが、荘王は「陳伐(う)つべし」と意見を変えない。「陳は小国である。だのにそれだけの備え、蓄積を用意したのは、民をどんどん収奪したからだ。もはや陳には民力はないはずだ」と。(『説苑』BC1Cより)

 それでつらつら思ったのだが、今日北朝鮮の脅威を言う人がいるが、むしろ金正日を挑発し日本に上陸させればどうか。もしそうできれば、北朝鮮はそれに耐えるだけの国力は持っていないから自然に崩壊するだろう。まあこんなことを言っても誰も賛成しないでしょうけどね。でも国境というものがあるということは破られる可能性があるということで、それがあっても別におかしくないという前提で物事を考えないとおかしい。国というものがあればそれが滅びることもあるという2000年前の感覚の方がかえって健全である。排外主義をあおったり武力に頼ったりしている場合ではないのである。

ナショナリズムを超えられない

メルマガ『カルチャー・レビュー35号』の村田 豪氏「困惑する福田和也」について、著者ほかにメールしたのでこちらにもあげておきます。

http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re35.html#35-3 で全文読める。(上記の上部にある岩田氏の文章にもすこしだけ言及)

  *  *  *

今回の村田さんと岩田さんの文章をとても興味深く読ませてもらいました。

まず岩田さんの文章が、「伝統」という言葉をどう定義しているか見てみよう。

 「福沢諭吉が異常に目立っているのですが、このような人物を輩出したのも、も

ともと中津に知的伝統が根付いていたからだと思います。」突出して有名になっている(良くも悪くも)福沢個人ではなく、その背後にあった「知的伝統」に眼を向けようとしています。 伝統の実体は(例に挙げられるのは)漢文的教養です。しかし、過去に存在し現在まで残っているものというように伝統を実体的にとらえるのではない。「まったく異なる知的世界を自らの世界に取り入れるためには、自らの知的能力を最大限に問い返す必要があります。その時に日本人にとって助けとなったのは漢籍の知識ですが、おそらくこの知的伝統がなければ私たちは日本語で西洋の文化を取り入れることは出来なかったでしょう。」西欧文化との出会いという危機において他文化を取り入れるのは格闘にも似た必死の営為でした。このような知的格闘を可能にする物を指して、岩田氏は伝統と呼んでいるようです。

(えー枕で、伝統について考えたのは、村田氏の文章が「右翼:進歩派」という図式から始まっていたのでそれを相対化する軸になれば、と思ってのことですが、上手くいきませんでした。)

 で、福田和也は伝統については、「自分が「日本」や「伝統」という言葉を通じて唱えているのは、言ってみればカント的な「趣味の共通感覚」の再建なのだという議論」をしているようです。わたしは福田を読んでないので、村田氏の文章を読んだ印象だけで言うことになります。でも<趣味の共通感覚としての伝統>とはいったい日本に即して言うと、一体どんなものなのだろうか?(セリーヌやバタイユの背後にいたファシズム作家を扱ったのが彼のデビュー作のはず。フランスのような先進国住民においてすら、なだらかに現象するかに思いきややはり伝統という名に於いてファシズムが呼び込まれてしまう、というのに。)

福田は一貫して、左派や市民主義に巣くう無自覚なナショナリズムが、欺瞞的な自己正義しかもたらさないことを批判してきました。しかしその一方で、小林よしのりや「新しい教科書を作る会」に見られるナショナリズムが、戦争の実体を正視できず、責任を欠いたものであり、弱者のルサンチマンにすぎないと指弾することも忘れませんでした。左右の対立は、所詮見かけ上のものにすぎず、「弱者のナショナリズム」「似非ナショナリスト」としてどちらも厳しく斥けなければならない。(村田)

わたしはこの福田氏の主張に賛成です。村田さんは理解を示しつつ搦め手から無化しようとしているようです。

 翻って、福田の擁護する「日本」や「文芸」というものへの批判も、この「ナイーブ」から始まるようにも思います。なぜなら福田の「ナショナリズム」や「伝統」に対して、「ナイーブ」さが実質を持たないとは言えないからです。福田は、この手の「ナイーブ」こそが「国を危うく」するのだと危惧するのでしょうけれど、しかし一体何が悪いのか。かつてスガ秀実は、歴史論争での左翼には「亡国ナショナリズム」が足りないと言い放ちましたが、ここはもっと縮めて単に「亡国」を意識するのみでしょう。「ナイーブ」が「亡国」をもたらそうと、それでも結構ではないか、と。それに対して福田がせいぜい「フィクション」としての「伝統」に依拠し続けるしかないのなら、それは例えば三島由紀夫の反復を超えるものではありえません。そして、その三島であってさえ、いわば戦後的「ナイーブ」に敗れたのではなかったのでしょうか。(村田)

 最後に村田氏は自己の立脚点として「ナイーブ」を持ってくる。三島の敗れた戦後的「ナイーブ」とは、欲望自然主義による国家の無化であったでしょう。

しかしそれが、国家の無化ではなく不可視化にすぎなかったことはいまや明らかです。いまや「自衛隊が日本を守る」という近代的「軍-国家」観がおおぴらに復帰している。村田氏はそれに向き合い対抗するのに、自己身体の肯定だけでもって足りると考えているようです。それはこの文章では展開されていないので、今後の課題ということになりますね。

 ナショナリズムに対しどういう立場を取ればいいのかわたしにも矛盾があります。

「わたしという抽象的普遍的消費主体が国家の外に存在してる」と考えるのは不当だ、と保守派は言う。野原が思うにこれは認めざるを得ない。「自己/国家」という2極で考えるとアポリアから抜け出られない。「自己/天あるいは理」という2極でまず考えるべきだろう。とりあえず、大事なことは日本と韓国/朝鮮、台湾/中国との国境を下げることだろう。

まとまらない文章で恐縮ですが、感想… まで。

  *  *  *

サラーヤ・アル=ムジャヒディーンのみなさんへ

昨日「日本人を誘拐したサラーヤ・アル=ムジャヒディーンのみなさんへ」という手紙の文案が回ってきたので、ちょっと文章を書いたけど、ここ「はてな」が引っ越し中で書き込めなかったので、下記にUPしました。http://bbs9.otd.co.jp/908725/bbs_plain?base=287&range=1

今朝のニュースでは解放されるらしいとのこと、良かったです。

自衛隊撤退については、当局側に挙証責任がある。果たせなければ撤退すべきだと要求していきたい。

現在のイラクの最大の問題は、下記のような「米軍の無差別攻撃」をどう評価するか、という点ですね。これを批判しなければイラクに安定はやってこない。テロリストを増やしているのは誰か。前にも書いたがすでにシャロン首相が遂行し結果がでている行為をなぜ模倣するのか!!

毎日インタラクティブより2004/04/10

米軍、ファルージャ攻撃を再開 英民間人、バグダッドで射殺される

 【バグダッド小倉孝保】イラク駐留米軍は9日夜、一時停戦を表明し武装勢力と対話の可能性を探っていた中部ファルージャで攻撃を再開した。AP通信によると、米軍は都市部を包囲する一方で、AC130などによる攻撃を繰り広げ、混乱は拡大している。AFP通信によると、イラク統治評議会は9日、ファルージャ中心部における米軍との武力衝突で、同日までの6日間で400人以上のイラク人が死亡、1000人が負傷したと発表した。

「 すくなくとも日本の民衆のうちの一人がイラクの民衆とともにイラクの民衆のためのボランティア活動を行ってきてそれを継続したいと(命がけで)やってきたという行為は強調されるべきだ。イラク/アメリカ・日本という国家あるいは戦争のカテゴライズに対し、市民連帯のかぼそいビジョンが叫ばれなければならない。」

犯人であるイスラム勢力は、「戦争のカテゴライズ」を一時中断する勇気を見せた。小泉首相も見習ってほしい。

3人が殺されなくて残念

 誘拐者が「日本国家に訴えれば身代金*1をくれる」と思った。この場合「誰もがそう思う」と誘拐者が思っている場合、それが制度として成立していることになる。誘拐とは何か?、と問えば日本でもイラクでもその意味を知らない人はいないということは、宮台のいう意味で制度*2として成立しているということだ。したがって、「国家に訴えても助けてくれない場合、「『(1)すぐに社会的反応を動員でき、(2)国家もそれを弁える』と当てに出来るようになる」はずである。

 ここで、相手をテロリストと呼べば、彼らはテロリストとしてのつまり人質を殺すという結論を選ぶ可能性が高かっただろう。ここでは同じ事態に対し「誘拐」というパラダイムと「テロとの戦い」というパラダイムの二つが争っていて、小泉は後者を選択したということだ。相手がテロリストとして実体化されると、3人の犠牲は小さいものとなる。3人が殺されることにより、相手に殺人者の汚名を着せなおかつ殺人者を憎むことによる国内の愛国化を小泉は得ることが出来たはずだ。したがって「テロとの戦い」パラダイムが正しければ、3人が殺されることを(口にせずに)望むことが小泉にとって合理的な希望であったことになる。これは嫌みで言っているのではない。論理的に言っているのだ。

*1:自衛隊撤退という身代金は高すぎたか?

*2:参照 http://www.miyadai.com/index.php?itemid=90

藤田幽谷・東湖・小四郎

 さて、後期水戸学というものは非常にマイナーだと思ったのだが、よりメジャーなはずの仁斎や徂徠にしてもわたしの友人は全然知らないし、わたし自身もそれに近い。つまり藤田某を語るとしてアカデミズム以外のどういう立場から語れるのか、無知なら書かなければ良いのだが・・・

 とにかく、村上一郎の『幕末-非命の維新者』の角川文庫1974年刊(とっくに絶版)をわたしは持っているので取り出して少し読んでみた。

明治維新の勝者は薩長つまり西国である。「西国人の利口さ」と村上は自身東国人としての皮肉も込めてそう言ったりする。藤田三代に対する戦後最大の弁護者は村上であろうか。村上の文から二ヶ所引用する。

「では、なんで東湖の半生涯の三つの危機を叙述した「回天詩史」がそれほどに人を動かしたのか。また、なんでそれほど危険視されたのか。わたしはこの文章を少年の日から読み続けてきて、要は「自ら任ずる」という一語にあるように思う。東湖ならびにその同志が、誰に頼まれずとも、また身命が危うかろうと、自らこれを任と決すれば進んで挺身するという、危機感の深さと、内発性のつよさが人を動かし、世の姑息な人びとをしてこれを危険視させたのである。「自任」という二字はその文章にいくつか出てくる。」*1

「しかし、松陰が死ぬ直前になってから、もはや天朝もいらぬ、幕府もいらぬ、わが藩もいらぬ、草奔くっ起は五尺の微躯あらばよしと断言するに至った精神の過程に、彼が水戸の気風に触れた若き日の感動が、尾を曳いていなかったはずはない、とおもうのである。」*2

 でこれを読んで、思い出したのは、今日たまたま見た古本屋のサイトにあった六月行動委員会についての埴谷雄高の規定。(村上一郎もその周辺だったはず。)百年を隔てて類似性があるのは、村上という語り手のせいでもあるが。以下ペースト。

http://miyuru.com/kosyo/new.html

埴谷「各人が勝手に自由でありながら、連合する。」

松本健一/六月行動委員会などはどちらかというとそういう発想でしたね。

埴谷雄高/ええ。だから、革命の意識を持った一人一人が党だと言っているんですよ。党員がたくさんいるのではなく、独立した党がずうっと並んでいる。一人一人が全部党だ。ぼくはそういう考え方ですから、ずっとアナキズムだ。

*1:同書p130

*2:角川文庫『幕末』後書 p238

重慶~~~ヒロシマ

今日は59年目の原爆記念日である。

朝日新聞の社説は、ヒロシマに並べて、ドレスデン、重慶などへの空爆を取り上げている。

「こうした無差別爆撃は、20世紀の戦争の非人道性のもっとも分かりやすい象徴となった。先例となったのは、スペイン内戦中の37年に独軍機が行ったゲルニカ攻撃であり、日本軍機が38年から中国の重慶に対して繰り返した大空爆だった。それらがドレスデンへ、東京大空襲へとつながり、結局、広島と長崎への原爆投下へ行き着く。」朝日新聞8/6

東京広島長崎という日本人の被害に対しその前史として、ゲルニカ、重慶、ドレスデンを取り上げたのは世界史の広がりに対しより適切な表現だと一応は評価できる。しかしカート・ヴォネガットのファンなら、彼が口にするのを何とか避けようとする身振りによってしか語れなかった<ドレスデン>を知っている。ドレスデンが「分かりやすい」という形容詞とともに叙述されることに異和感をいだくだろう。さらにこの文章はドレスデンの聖母教会の金の十字架の輝きの記述から始まり、20行ほどドレスデンについて書かれている。それに対し、重慶への言及は26字だけだ。重慶はヒロシマのように日本人に広く知られているわけではない。ここでのドレスデンと重慶の比率のアンバランスは何を意味しているか?そこには、例えばユダヤ人少女アンネの悲劇は日本人に広く知られているが、それに比すべき中国人や朝鮮人の物語は皆無であるといった言説分布と同じエピステーメが存在している。日本のインテリは基本的には欧米インテリの口まねをしているだけなのだ。アンネなど日本人には関係ない、とあえて放言しておこう。

2年前から重慶の被害者たちとヒロシマとの交流は始まっているようだ。下記urlに3人の方の証言が載っている。

http://www.anti731saikinsen.net/kanren/jukei/index.html

長いが「  王孝詢氏のメッセージ  」をそのままコピ&ペーストします。

日本軍の爆撃機が重慶を爆撃することに関するいくつかの問題

            王孝詢

   一 日本軍による重慶爆撃の情況

 1938年2月18日から1943年8月23日にかけて、日本侵略軍は9000機余りの爆撃機を出撃させ、重慶に対して5年間にわたり爆撃を続けた。歴史上これは「重慶大爆撃」と呼ばれている。

当時の中国国民政府の記録によると、日本軍の爆撃により、11,889人の重慶市民が殺され、14,100人の重慶市民が負傷し、壊された家屋は3万軒余りである。他の財産の損失は数えきれない。

 「重慶大爆撃」の中でも、1939年5月3日、5月4日の爆撃及び1941年の六・五隧道虐殺事件は全世界を驚かせた。 1939年5月3日の昼、日本海軍航空隊の第一空襲部隊に属する36機の中型の爆撃機は、重慶中心部の人家が密集した商業地域に対し、冷酷な無差別爆撃を加えた。爆弾98発と焼夷弾68発を投下し、下半城の19街路の町並みは廃墟になり、主城の41街路の町並みは火の海となってしまった。爆撃は1時間かけて行われ、673人が死亡し、350人が負傷し、爆撃や火事で壊された家屋は1,068軒である。

 1939年5月4日の午後6時、日本海軍航空隊の爆撃機27機は再度重慶市の中心部を1時間以上かけて爆撃した。爆弾78発と焼夷弾48発を投下し、上半城の38街路の町並みが爆撃され、最もにぎやかな10街路の町並みが全壊され、3,318人が殺され、1,973人が負傷し、3,803軒の家屋が壊された。この爆撃による死傷者数は、一回の爆撃による死傷者数という点においては、第二次世界大戦中最高記録である。

 1941年6月5日夜の6時18分から11時27分にかけて、日本軍の爆撃機は3陣に分かれて順番に重慶を爆撃した。5時間もかけて行われたこの爆撃によって、重慶市中心部のトンネルに難を逃れようとした市民1,000人が窒息して死亡するという、非常に凄惨な結果がもたらされた。

   二 日本が重慶を爆撃した目的及び戦術の変化

  1937年7月7日、日本軍国主義は盧溝橋事件をきっかけに、全面的に中国を侵略する戦争を発動した。盧溝橋事件から広州を占領した1938年10月25 日までの15か月間、日本軍は中国に100万の兵力を投入し、中国の13省の340都市及び100万平方キロメートルの土地を侵略して占拠した。

ところが1938年の末、日本侵略軍は44.7万人が死傷し、軍事力は大いに弱められた。軍事費の支出が大幅に増えたため、日本人民の生活は日増しに悪化して、日本国内では戦争に反対する声も高まった。

一方、中国の抗日勢力は叩き潰されてなかった。100万余りの中国の正規軍は、武漢の周りの戦区に駐屯し、直接に華北、華中の日本侵略軍に脅威を与えた。国民政府が支配した西南と西北地域には、日本軍と対抗する実力があった。中国共産党が率いる八路軍と新四軍は、抗日根拠地に遊撃戦を行い、正面戦場と合わせて、日本軍を挟撃する状態になった。日本軍は広州を占領した後は、大規模な戦略進攻は困難になり、抗日戦争は対峙する段階に入った。

 1937年11月、国民政府は最後まで抗日戦争をするため、重慶に遷都することを決め、公に発表した。その後、重慶は抗日戦争時期の中国の政治、経済、軍事及び文化の中心となった。中国人民の抗日意欲をたたきつぶし、国民政府を投降に追い込み、中国を滅亡させて「大東亜共栄圏」を打ち立てるため、日本侵略軍は重慶を最も重要な攻撃目標として、1938年から重慶に対して戦略爆撃を開始した。

 1938年に日本軍が重慶に対して行った爆撃は、長距離で試験的な攻撃であったが、1939年に入ると爆撃は頻繁に行われるようになり、かつ野蛮な大量虐殺の段階に入った。その特徴は以下の通りである。第一に、日本軍は賑やかな市区を爆撃するだけではなく、近郊ひいては遠い郊外も爆撃の目標にした。第二に、無差別爆撃を実施した。人民の住宅、学校、工場、医院、外国の駐在機関及び大使館も爆撃された。第三に、昼の爆撃に加えてさらに、夜間においても不定時に爆撃する戦術をとって、かき乱す時間と爆撃する時間を伸ばし、重慶を常に不安定な状態においた。

 1940年、第二次世界大戦のヨーロッパ戦争が勃発した。日本は、南に進攻して、東南アジアと太平洋にあるイギリス、アメリカ、フランス、オランダなどの国の植民地を奪う好機が来たと考え、中国に対する侵略戦争を、出来るだけ早く終わらせようと考えた。南へ進攻する兵力をつくるため、日本は「101号作戦」計画を立て、重慶に対して1939年より更に激しい、広範囲にわたる爆撃を開始した。

数で比較してみると、前年の1939年には日本軍は59陣で809機の爆撃機を出撃させ30回の爆撃、2,213発の爆弾投下であったのに対し、1940 年には日本軍は191陣で4727機の爆撃機を出撃させ80回の爆撃、投下された爆弾は9553発のもの数になった。重慶の市区だけではなく、遠い郊外地域も大規模な爆撃を受けた。1939年の爆撃は日本軍の攻撃が無差別に行われていることを露呈したが、日本は外部に対して「重慶の軍事、政治拠点しか爆撃しない」と揚言していた。

1940年には、日本がイギリス、アメリカ、フランス、ドイツなどの国の駐在機関と大使館のため確定した「安全区」以外、日本軍の爆撃機は重慶のすべての地区と施設に対してさらに残虐、野蛮な無差別爆撃をおこなった。しかも破壊力がとても強く、新しい凝固ガソリン弾と数多くの焼夷弾を使った。その爆弾は極めて大きい被害をもたらし、爆撃によって、1939年に4,437人が死亡し、4,979人が重傷し、4,827軒の家屋が壊された。1940年、 4,232人が死亡し、5,411人が重傷し、6,955軒の家屋が壊された。この2年間の死傷の人数及び壊された建物の数の差がそれほど大きくないのは、1940年に重慶市区の防空意識と防空施設が極めて改善されたことに起因する。

 1941年、日本は南に進攻する政策を推進し、太平洋戦争開始の準備をするため、対中国の戦争をなるべく早く終わらせることが日本の当面の急務になった。そのため、1940年の「101号作戦」計画の後には、日本軍はさらに1941年7月の中旬に、「102号作戦」計画を立てた。

この計画によると、5月から7月にかけて、日本海軍の第22航空隊は、重慶に対して20回余りの爆撃を行った。7月中旬に日本海軍の第11航空隊、8月の初めに日本陸軍の航空隊第60戦闘隊は相次いで重慶に対する攻撃に参入した。

この1年間の爆撃には、一つのあからさまな特徴がある。日本軍は疲労爆撃戦術を採用したという点である。大量の兵力で、一回限りの爆撃ではなく、少量の爆撃機を使って一日中連続して何度も空襲、あるいは何日間も持続して空襲した。そのため、重慶の市民は連続の空襲警報の下奔走し、疲れ果ててしまった。正常な生活や仕事ができなくなって、精神的に常に緊迫した状況に置かれた。

6月14日から16日にかけて、28日から30日にかけて、7月4日から8日にかけて、27日から30日にかけて、4回にわたって連続して爆撃があった。

8月8日から14日にかけて、連続して7昼夜の爆撃があり、毎回の爆撃の間に6時間の間隔をとった。

8月10日から13日にかけて、重慶市区では13回にわたり空襲警告が鳴り響き、警告の時間は96時間に達した。

また、日本軍は無差別爆撃の範囲を拡大し、日本軍が確定した「安全区」内のイギリス、アメリカ、フランスなどの国の大使館も何回も爆撃を受けた。全世界を驚かした六・五大隧道虐殺事件は、まさに疲労爆撃という形で引き起こされた。

 1941年12月8日、日本軍は真珠湾を奇襲し、太平洋戦争に突入した。日本は太平洋戦争に参加したこと、中国の空軍と防空力が強められたこと、米国の志願航空隊すなわち陳納徳将軍が率いた「飛虎隊」が対日作戦に投入されたなどの結果、日本は中国戦場の制空権を失った。そのため、1942年、1943年に入ると、日本軍は偵察機を派遣し、重慶及び周辺地区の上空に入って、偵察しかできなくなった。この2年の間には、1943年8月23日に一回の重慶に対する空襲があった。151発の爆弾が投下され、21人が死亡し、18人が重傷し、99軒の建物が壊された。

   三 日本軍が重慶を爆撃して犯した罪

 日本軍が重慶を爆撃して犯した罪は三つある。

 1、平和を破壊する罪、すなわち他国を侵略する罪である。

 2、戦争法規と慣例に違反した罪、すなわち重慶を爆撃した時に国際法に反する手段をとった罪、及び平民の生命と財産を害する罪である。

1907年のハーグ陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約付属書陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則の第27条は以下のように定めている:

「包囲攻撃する時に、宗教、技芸、学校及び慈善事業に関する建物、医院及び収容所などは目標にしてはいけない」

日本が加入した1929年の「海軍条約」も同様に定めている。

「平民に恐怖を感じさせ、非軍事的性質の個人財産を害し、あるいは非戦闘員を傷害するなどを目的とする空襲を禁止する」

言うまでもなく、日本軍が重慶で行った無差別爆撃は、国際法と国際慣例に反したものである。ここで指摘しなければならないのは、日本が重慶で行った無差別爆撃は、「過失」ではなく、故意に国際法と国際慣例を踏みにじった爆撃だということである。   1937年11月に制定した日本の「航空部隊使用法」 103条はこのように強調する

「……もっとも重要なのは直接に住民を空襲し、敵に極めて大きい恐怖をもたらし、敵の意志を打ち砕くことである」。

   1939年1月21日に平沼首相は議会でこのように演説した

「中国人が日本の意向を理解してもらいたい。そうでなければ、彼らを消滅する以外ほかの方法はない」。

1939年7月24日、中国侵略派遣軍の参謀長が軍事態勢についてこのように陸相坂垣将軍に提案した。

「恐怖心をつくって敵の軍隊と人民を混乱させるために、空軍は後方の戦略拠点を空襲するべきである」。

3、人道違反罪日本軍が重慶を爆撃した際に、細菌爆弾を使用した事実については、当時の新聞にも掲載された。

2001 年4月、日本軍による細菌戦によって被害を受けた中国人が日本政府に賠償請求をした。これを支援するため、日本弁護団の構成員である一瀬敬一郎氏、731 部隊資料編纂会の奈須重雄氏等が重慶を訪れ、調査を行った。彼らは重慶の梁平県で当時の目撃者と罹災者の遺族を訪ねて調査した。その結果、日本が重慶に細菌爆弾を投下したことが明らかになった。(以上)

天のウズメの胸乳

 むかし、神が天から下ってこようとした時、天のやちまたに一人の異形の地神*1が居た。何ものだと従の神に聞かせようとしたが、皆位負けして問えない。天のうず女に命が下る。「天のうず女*2、すなわちその胸乳を露わにかきいでて、裳帯(もひも)を臍の下に仰(おした)れて、咲(あざ)わらいて向きて立つ。*3」有名な天の岩戸の前のパフォーマンスとほぼ同じである。*4しかし、天の岩戸の時の、神々が観客として大勢いて、天のうず女のパフォーマンスに「八百万の神ともに笑いき。」という、みながショーを楽しんでいるといった配置とは今回は全く違う。どんな敵が潜んでいるかしれない未知の領域に入ったとたん、強そうな異貌のものが立ちふさがっている。どちらかというと闘って力でねじ伏せて進んでいくしかないとシシュエーションにいきなり裸に近い女が登場するのは、21世紀風の趣味にはひょっとしたら合うかもしれないが、古代にふさわしいことなのか、と疑問がふくらむ。

 だが、白川静の『字統』などによれば、濃い化粧をした巫女(ふじょ)の呪祝の力は古代において非常に重視されたもののようだ。*5天のウズメのエロティックなパフォーマンスは、エロティックなものとしてあったのではなく、敵を倒す呪いの力を持つものであったのだ。したがって「胸乳かきいで」云々というフレーズは、後者の闘いのシシュエーションに置かれていたテキストの方が古いのではないか。現代人にも分かりやすいストリップショーの喜びという場面は、古事記の時代の人によって新たに作られたものでそれほど古くないのではないか。

*1:猿田彦大神

*2:天鈿女、あるいは天宇受売

*3:p134岩波文庫『日本書紀』

*4:古事記では、「胸乳をかきいで、裳緒(もひも)をほとに忍(おし)垂(た)れき」。p51新潮日本古典集成

*5:『字統』の媚、蔑などの項目参照。