「自由・平等・博愛」を今いちばん、何かにすがるように繰り返しているのはバンリュウの多少なりとも目覚めた若者たち。
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概念集・4 目 次
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関係としての指数・対数性 |
1 |
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二つの反日処刑 |
8 |
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夢屑 |
10 |
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不条理 |
11 |
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歌集「不条理」を媒介して |
12 |
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歯磨き粉 |
15 |
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当事者 |
17 |
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余事記載 |
19 |
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プロテスト |
20 |
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制圧 |
21 |
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非対称の性 |
23 |
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第n次作品 |
27 |
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註 |
30 |
削除元記事
twitter の下記記事を10月12日19時30分ごろ削除しました。
http://twitter.com/#!/noharra/status/123898355607805952
@Hideo_Ogura ネットを利用した誹謗中傷については、被害者には「裁判制度を通じた救済」を受けさせないということですね。>あなたね、公開された発言をなめてませんか? 私はそんなことを言っていませんよ。議論のルール違反ですね。あなたの信用は下がった。posted at 10月12日 08:10:44
2007年3月15日 コメント欄
3月15日コメント欄
戒律への服従をめぐって
3)では、安息日の規定など当時のユダヤの律法に対してイエスが批判的だったことが語られる。p333
ヘーゲルは強引にも、ユダヤの律法道徳にカントの法則道徳を重ね合わせて批判するのだ。そして(全一な生)に基づく<愛の道徳>としてのイエスの道徳を顕彰する。
一方仏陀は、<慈悲の心を持たねばならぬ>と同時に<自他に対して根本的には無関心の態度を取る心を持て>とも言っており、戒律にはより遠い、ようだ。
労働過程
逆らう
資料
下記を資料として貼ります。
かならずしも野原の意見というわけではありません。
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緊急声明3(転送可)
日本政府へ、そして反戦市民、団体すべてへ
アルジャジャーラにたいする川口外相の声明、外務省報道官の声明は、拉致グ
ループを激怒させるに充分です。
わたしたち、グローバル・ウオッチはバグダッド経由の警告を受け取りまし
た。(パリ時間正午12時15分)
これ以上、日本政府が自衛隊派兵の正当性を主張し、米軍と組んでイラク民衆
を攻撃しようとするなら、人質解放の扉は閉ざされる危険性があるだろう、と
の警告です。
私たちは、日本政府がいっさいの無意味なアジテーションをやめ、今回の人質
解放に繋がる道を開いたのは、政府の努力ではなく市民たちのネットワークで
あることを素直に認めるべきである。拉致グループを含め、イラク民衆が望ん
でいるのは、あらゆる外国の軍隊のプレザンスの退去であり、占領の早期終結
です。
以上のことが尊重されないなら、拉致された日本人の生命に万が一のことが起
こった場合のあらゆる責任は日本政府にあると判断されても仕方がないでしょ
う。
グローバル・ウォッチ/パリ
コリン・コバヤシ
PS:日本政府へ転送できる方は転送をお願いします。
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緊急声明4(転送可)
様々な情報が飛び交っていますが、技術的な問題で解放が遅れているようです。
ただ攻撃的なことをせずに静かに待つことが解放に繋がるという信ずるに足る
情報を得ています。
拉致グループは解放することだけを欲しており(何の交換条件もないこと)、
彼らの意思は声明文に表現された通りです。
アルジャジーラで流された情報に登場したミュズヘール・アル・デライミなる
人物は信用にたる人物ではありません。
静かに待ちましょう。
グローバル・ウォッチ/パリ
コリン・コバヤシ
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闘争
「詩というものが無数の表現方法をとるように、闘争にも無数の方法があると思いますから、*1」わたしたちは「闘争」という言葉につまずく。わたしは闘争主体に成ることができるのか?闘争主体として生きていくとはどういうことだろうか?闘争主体であることと「まともな就職」は背反する。闘争主体であることはこの社会がその上で成立しているルールに敵対することではないのか?わたしたちは資本主義なしに生きられない。わたしたちは国家無しに生きられない。であれば少なくとも、資本主義を否定する論理、国家を否定する論理を口にすることは思想的に潔い態度とは言えない。まず仙人になってから言うべきだ。このような気分は20年ほど前から社会を覆っている。そしてついに、自民党の柏村武昭・参院議員(広島選挙区)が、4/26日「そんな反政府、反日的分子のために血税を用いることは強烈な違和感、不快感を持たざるを得ない」と、反体制的発言をする人自体を非国民としてバッシングする事態に至っています。闘争主体であることは可能なのか?
まあ落ち着いて考えてみよう。最後の柏村発言について言うと、これは間違っている。現在「自衛隊撤退」の方が国益にかなう可能性は充分ある。その可能性に対し、「撤退」派を非国民と呼ぶことで日本は戦争から引き返せなくなって悲惨な目にあった。柏村氏は国会議員として日本の歴史に責任を持つ態度から逸脱している。次ぎに、国家や資本主義を否定する言説はどうか。国益を土台にする言説とは土俵が違う。土俵が違うだけのことで、前者が禁じられなければならないということではない。それに、国家や資本主義への否定といっても、わたしたちは「否定」を提起しえたことは一度もない。わたしたちは大学を占拠した。占拠の根拠に「否定」即ち革命があったわけではない。それは錯誤であり、そう信じた者たちの一部は連合赤軍事件で自滅した。占拠は不法、不当なものとされたが、それは情況の推移に応じてそうなっただけのことで最初からそうきまっていたわけではない。学生は大学に存在する。存在することはSEXすることや出産することでもあるが、通常それは授業の場としての大学の範疇からはずれるものとして指弾される。しかし存在することはつねに逸脱であるのだ。わたしたちはロボットではない。したがって忙しく仕事しながらも仕事以外のことをしょっちゅう考えていたりする。そうであることを禁圧することは、とりあえず雇用者の利益になると考えられる。しかしそれを完全に禁圧することなどできないし、そう考えられるだけのことでそうと決まった訳のものでもない。
つまり、難しく考えなければ「わたしは闘争主体になれるのか?」というのは、「わたしはいつの日かSEXパートナーを獲得できるのか?」というもてない君の嘆きとほとんど同じ物にすぎない。後者の問いだって「わたしは話も上手くないし、収入も少ないし、根性もない」云々と列挙していけば、答えは限りなくゼロに近づく。うーん、ところで「闘争」って何だ?
*1:松下昇「わたしの自主講座運動」より http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040222#p2
金日成の肖像画
水滸伝のような講談で、在日朝鮮人戦後史を語るなら、この大きな金日成の肖像画の登場が丁度真ん中辺に当たる。そして後半はひたすらうっとうしく本国からの指令と組織内の権力闘争だけがチマチマと続いていくことになる。以下はまあわたしの勝手な妄想なのだが、わたしたちは戦後約60年間を間違ったパースペクティブにおいて見ていたのではないか。戦後の最初の十年は飢えと暴力に表象される混乱期だった、と切り捨てられてきた。確かに飢えと暴力の時代だっただろう。しかしその裏面には真実の希望(日本人においては反省)もあった。五十五年体制。反体制派が社会においてそれなりの地位を占め慣性力を得たということは、「金日成の巨大な肖像画」に相当するものを自己のうちに育て始めたということなのだ。九十年代から左翼が退潮し右傾化したと言われているが本当は、五十五年の金日成の肖像画が歴史の転換点でそれ以後その<肖像画>は目に見えず、すり切れながら執拗に存在し続けてきたのだ。(6月11日追加)