からだうた

「からだうた」という歌がある。ある養護学校で作詞作曲されたものだ。

「あたま あたま あたまのしたにくびがあって かたがある かたからうで ひじ またうで てくびがあって てがあるよ むねにおっぱい おなかにおへそ おなかのしたにワギナ/ペニスだよ せなかはみえない せなかはひろい こしがあって おしりだよ ふともも ひざ すね あしくび かかと あしのうら つまさき おしまい♪ 」という歌だ。わたしは新聞で歌詞を見ただけだが、「背中はみえない背中は広い」なんて面白いと思う。

 東京都の横山教育長という人は、都議会でこの歌について「とても人前で読むことがはばかられるもの」と言ったらしい。このひとはどういう感覚の持ち主なのか。わたしにとって一番大事なものは身体であって、その名前を知るのは大事なことだ。教育者が苦労してそれを教えているのに、なんだかわけの分からない自分の偏見でもって非難するとは何事か。こういう馬鹿な奴には是非一矢報いなければいけない。

(参考)http://www.ne.jp/asahi/law/suwanomori/sei.html

削除します

昨日「波状言論」への悪口を書いたがイマイチなので削除しようと思った。なにげないワルクチというものは感心しない、批判するなら20年経っても忘れないほどの思いでやれ、と思うので。ただ今見ると「波状言論」からのリンクが28もあるので一応残しておきます。似たようなことはできたらまた書きます。

ファルージャの内側

世界とは、世界とアウシュヴィッツの内側から成る。

アウシュヴィッツの内側をわれわれは覗けない。

そこがあると語る者は詐欺師だけだ。

それがないと言う者たちを信じてはいけない。

シンポジウムは続く

 概念集の1項目としての「連続シンポジウム」について、4/21に前半だけ「紹介」しましたが、今日4/27に後半を追加しました、4/21の欄に。

下記4/21の「連続シンポジウム」と題された文章では、〈連続シンポジウム〉について、“バリケードが言葉としてさえ流通しない段階の祭”という簡単な規定がなされている。わたしというものが自己がそう信じている私を大きくはみ出す存在である、ということに基礎を置く集合的心性を楽しむことが、祭りであるだろう。言い換えれば、そこに集まった人々の身体的高揚感の相互交流である。坂本氏の掲げた「新しい共同性を目指す流れをもつ大学祭を創り出す」というスローガンは、まさにその<祭り>の本質を知的に言い換えたものと考えることができる。したがってうさんくさいと思いながらも全面的に拒否できない理屈として、存在し続けた。

 で、松下氏の文章の後半は意外にも「連続シンポジウム」に対して批判的である。「任意の活動ないし討論の場面に、予備知識のない人が参加したとして、この人は目前の場面が〈祭〉に関わるものとは思わないであろうという事実に危機が象徴されている。」この批判はかなりクリティカルな(臨界的)もので、野原がこの「後半」の掲載をためらった原因にも成っている。*1祭りの準備というのは、楽しい場合もあるが必ずしもそうである必要はなく、祭り自体が楽しければそれでいいのである。だが重苦しいばかりで全然楽しくないとしたら問題である。(仕事でも一緒ですね。)目的に対し建前(当為)の比重が高く、自分の身体がついていっていないばあいなどがこれに当たるだろう。

 テーマとして掲げられた<単位制、天皇制、家族制の批判的検討>。野原自身かって討論会に何度も参加したので他人事として言うことはできないのだが。例えば「天皇制」という言葉について、連続シンポ的用法は生産的でないと、現在の私は思う。自己変革において世界を転倒させるという可能性において言葉は発せられていたのであって、そのことを抜きに議論は成立しないのであるが・・・

(つづく)

*1:岡山の討論会だけでなく他の松下を中心にした討論会にも当てはまるのではないか?という問いを引き起こす点で。

ラファの動物園の破壊

Summer in the city

Summer in the city(ザフーかと思って確認したらラヴィンスプ-ンフルだった)をラテンのけだるい女声でやっていて面白かったので、昼間から安い赤ワインを少し飲んでしまった。さっき二百円で買った北野勇作 『かめくん』というのを一章だけ読んだが良かった。リストラになったフォークリフト労働者が辛うじて場末の木造アパートに入居できるというプロレタリア文学風の地味な書き出し。文体に余剰がないので疲れずにどんどん読める。p34、「これがキール」という男の子のセリフでわたしはあっけなく感動した。*1

*1:キール、背甲の縦に隆起した部分

女童べの言葉

本居宣長『石上私淑言(いそのかみのささめごと)』を新潮古典文学集成isbn:410620360XC0310 で読んだ。この全集は文章の半分くらいに現代語訳でふりがながふってあり、現代語訳を読みながら原文を読んだ気持ちだけは味わえるという私にとってはありがたい本です。

和歌についての問答形式で書いているので論点が明快で読みやすい。

「歌はひたすらに物はかなくあだあだしう聞えて、ただ女童べ(をんなわらはべ)のもてあそびにこそしつべけれ、まことしういみじきものと見えぬにや。」*1

女や子供のもてあそびものでたいしたもんじゃないだろう?ととても失礼な問いかけからある節は始まる。宣長答えていわく「まことにさることなり(そのとうりである)」(漫才ならコケルところ)でも結局は彼は次のように力強く言う。

「詩はもと人の性情を吟唱するわざなれば、ただ物はかなく女童べの言めきて(言葉みたいで)あるべきなり。」その背後には「大方人は、どんなに賢しきも、心の奥を尋ぬれば、女童べなどにもことに(特別には)異ならず」という人間観がある。その通りだと思う。今からおよそ250年ほど前の発言として非常にラディカルなものだ。唐の人の書いたものなど、「誰でもみな己賢こからんとのみするゆえに、かの実の情の物はかなく女女しきをば恥ぢかくして言にもあらわさず」「まして作り出る書などは、うるわしく道々しきことをのみ書きすくめて、かりにもはかなだちたる心は見えずなんある。」*2全然書いていないものを読みながら、あなたの心の奥には女童べと同じものがあるのだと断言する。なかなかすごい。

*1:p406同書

*2:p409同書

パレスチナと南京(その2)

http://d.hatena.ne.jp/milkbottle/20041018 はてなダイアリー – NEWS GARAGE【カバ式会社おばか通信】のブログでは、イスラエルによる虐殺に触れた後、「南京」にも触れている。

「 それによると、監視所からの銃撃があった後、倒れた少女に司令官の大尉が近づき、頭と腹に1発ずつ、さらに至近距離からライフルの弾倉が空になるまで銃撃を続けた。複数の兵士が同様の証言をし、少女の体からは約20発の銃弾が見つかった。」

イスラエルは決して大虐殺はしていない。ちょっとずつ注意深く殺している。日本の「なかった派」みたいに無邪気じゃない。

イスラエルの核告発者 バヌヌさん逮捕される!

http://www.onweb.to/palestine/siryo/vanunu-11nov04.html

ナブルス通信編集部 

2004年11月11日

イスラエルが秘密裏に製造していた核兵器の存在を世界に明かし、そのことで18年間イスラエルの獄中に囚われていたモルデハイ・バヌヌさんが、わずか7ヶ月あまりの「獄外生活」の後、今日(11日)再び逮捕されてしまった。

容疑は釈放条件である外国のプレスとの接触禁止に反したためだという。「国家反逆罪」で18年の刑に服した後も、バヌヌさんに対しては海外渡航禁止のほか、様々な禁止事項が超法規的につけられていた。しかし、バヌヌさんはBBCの他、様々なメディア──日本の朝日新聞も含め──に登場し、イスラエルの核政策と、それだけを野放しにしている世界を批判し続けてきた。

イスラエルのディモナ核施設で働いていたバヌヌさんが、1988年に英国「サンデータイムズ」紙に明かした情報によって、イスラエルが世界で6番目の量となる核兵器を所有していることが裏付けられたが、バヌヌさんは諜報機関に拉致され、秘密裁判にかけられて、18年間(うち11年半は独房)の獄中生活を送っていた。釈放されたのはこの4月のことだった。

イスラエルは世界中が知っている自国の核兵器の存在を「否定も肯定もしない」という政策をとり続け、核拡散防止条約に批准せず、リビアやイラン、北朝鮮とは異なり、一切の追及から免れている。「大量破壊兵器保有」を理由に侵攻されることもない。

AP通信(11日付)によると、バヌヌさんを支援し続けてきた元・サンデータイムズ記者、ピーター・ホーナム氏はAPのインタビューに応え、バヌヌさんの逮捕を「身の毛がよだつ」と言っている。

「イスラエル政府はアラファト氏の死去を(バヌヌ逮捕のタイミングとして)故意に利用している」とホーナム氏。

「合州国は核兵器プログラムに関してイランに圧力を加えている。同じことがイスラエルにもなされる必要がある。イスラエルを忘れてイランに焦点を合わせることはできない」と彼は述べた。(同上)

 さらに、バヌヌは、アメリカがありもしないサダム・フセインの大量破壊兵器を求めてイラクに侵攻したというのに、大量破壊兵器を極秘にごっそりと溜め込んでいる国に対しては政治的、道義的、経済的な援助を与え続けてきていることも世界に思い出させるだろう *2。

  *2……米国からはイスラエル支援に年間約30億ドルが拠出されている。米国の対外援助では第1位。また、対イスラエル批判を盛り込んだ数々の国連決議が米国の拒否権発動によって成立してこなかった。

http://www.onweb.to/palestine/siryo/vanunu421.html

「バヌヌさんの釈放前に」──中東でヒロシマを繰り返さないために

ほんとうに勢いのある精子なのか?

 上記検索システムより、 衆議院 – 文部科学委員会 – 13号(平成14年06月05日)から引用してみたい。社民党の北川れん子氏の発言。

 今、どうしても、前回もなんですけれども、社会的な議論というのが成熟していない中で、研究者の、研究をやりたい、おもしろい、新しい分野だということでの意欲と、多くの人たちが余り多くの、言葉遣い自身を知らない中でとり行われていくということへのそごをどう埋めるかという議論を前回させていただいたと思うんです。

 例えば、不妊治療の現場ではこういう言葉が使われていますね。精子進入検査、ハムスターなんかの卵に男性の精子がうまく入るかどうか、そういう勢いがある精子なのかどうかということで、受精卵をつくることができる精子かどうかを調べるという検査らしいんですけれども、不妊治療の現場というのは、本当に人数が少ないカップルの中でとり行われる、そこでしか卵とか胚とか受精卵とか、そういうものを入手することができないということで、ここに偏って現場が盛り込まれていくので、今言ったわけです。

 もう一つは、最近報道がありました、卵子を若返らせ受精成功ということで、核を取り除いて若い女性の卵だけ、その核を取り除いて四十五歳前後の方の核、だから遺伝子はその四十五歳の方の遺伝子だからその人の子供だという意味だろうと思いますが、そういうことで、二十代の女性が提供して、幾ばくかの、二十例の中の一つが、子宮に戻すことはまだしていないんですが受精をした、受精卵になったという報道もありました。

 ということで、私たち、やはり不妊治療の現場のことをもっと一般化して、話して、これを言えば、例えば、精子進入検査というのがどういう問題なのか、聞けばわかる。それは自分が不妊治療の状況というものを経なくてもわかる。卵子を若返らせる受精卵とはどういう意味を持つのか、それもわかる。試験管ベビーと言われた衝撃的な言葉遣いが、余りにもわからなかったので衝撃的というふうになるわけですが、そういうものをもっともっと社会に議論を提供しながら、生命倫理の問題と絡め合わせて、日本はどの道を行くのだということをもう少し私は深めていく必要があると思います。

何を言っているのか、分からないのに引用するというのは良くないのだが・・・

「二〇〇〇年に成立しましたヒトに関するクローン技術等の規制に関する法律と、今の再生医療の現場、またES細胞樹立に向けての急速な進展とを絡め合わせまして、不妊治療の問題とも兼ね合って、」という情況が存在するらしいのだが、勉強不足でよく分からない。<若さ>とは何か、ということを考える。歳をとるということは、細胞レベルのバグが増えると言うことなのか。若い女性の卵から、核を取り除き、四十五歳の女性の核を入れる。それは後者の女性の子どもになるのか? 興味深い問題だと思った。

 北川氏は排卵誘発剤の副作用についても質問し、副作用による死亡例として5例あるとの答弁を得ている。それについて彼女は「女性たちにとって、子供を持つことの意味が、女性はどうしても押しつけられて、子供を持たないと一人前に見られないという前近代的な旧弊な考え方、家族制度の中でからめ捕られて、子供を持たざるを得ないというふうに自分を思い込んでいる女性も多い」という情況を指摘し、そのような歪んだ情況は本来正されるべきもの(「ジェンダーの解放や女性の平等施策等々が進む中では意識は変わってくる」)であるのに、そのような情況におけるニーズに答えようとして先進医療技術が進んでいき、その結果死亡例まででていることは「重く見ていただきたい」と強調する。先鋭的医療技術が生命の神秘の領域に食い込んでいること自体を禁止すべきではないだろうが、一方で動機の低俗さが存在すること、このアンバランスさに驚く感覚は大事なものだと思う。(イラクにおいてとても精密な兵器が野蛮に人を殺していることへの驚きと同時に。)