F さん
昨日はごくろうさまでした。せっかく発言してくれたのに発見が遅れちゃってすみません。「邪魔」なんてとんでもありませんのでどんどん発言してください。
さて、今日は(昨日飲み過ぎたせいで)元気がなく、書こうと思っても頭があまりまわりません。*1
「もしも、愛する人が誰かに殺されたら、その殺した相手に死んで欲しいと望むだろう」と人は言う。そうかもしれない。その時の胸の痛みを想像してみようと思う。ではそこから死刑制度を肯定するところにいけるかというと、そうはならない。
そのとおりだとわたしも思います。
処刑されたのは、宅間守だけじゃなくてもう一人いたみたいですね。アムネスティによれば、大阪拘置所の宅間守さんと福岡拘置所の嶋崎末男さんに対して9/14に死刑執行されたようですね。
http://homepage2.nifty.com/shihai/kougi.html
http://homepage2.nifty.com/shihai/message/message_hirata.html
上記に平田オリザさんのメッセージというのがあって、下記の部分が印象的でした。
「逆に言うと、加害者と被害者がいて、殺していいですよと判決を下して、ナイフが置いてあったとき、被害者が加害者を殺すかといったら――殺す人もいるかも知れませんが――まず殺さないのではないでしょうか。
死刑という制度があるから、「殺したい」という気持ちが、「殺す」という行為に直結してしまうのではないかと思うのです。」
死刑廃止を正面から論じるより、(想像上だが)殺しても良いよとナイフを投げてやる。わたしたちが殺しても飽き足りないほどそいつを憎んでいるとして、また殺してもいいよと許可が出たとして、そのときすぐ殺すだろうか。鶏一匹殺せないわたしが本当に人を殺せるのか。理屈で考えた上で殺すというのは普通の人間にはなかなかできないことだろうと思われます。「悪である」ことも結局のところ否定しがたいし。
人はみな「自分は人を殺さないし、死刑のような極刑を受けるような悪いことはしない」と思っている。だが、国家が人を殺す制度をもっているということは、必ずしも客観的・妥当的な「悪いこと」をした者にだけその刑を適用するためではない。かろうじてまだ「民主的国家」の看板を掲げている日本でもそれが外れるや否やその持っている権力をどのように濫用し始めるのか。それを想像するのは恐ろしいことであるが、もし少し歴史を振り返ってみるなら事実として容易に認められるはずだ。
自己保存のために、権力に刀を預け、お上に守ってもらおうと思う人々によって死刑制度は支えられている。
そのとおりですね。テレビなどで見ている限り、殺人者は絶対的悪であり、わたしは善の側にいるという図式から離れることはできません。でもそれはわたしの想像力の問題に過ぎない。死刑までいったら困るが、現実に色々な形で国家と出会い軋轢し問いただしていくなかでしか、「民主的国家」の内実を守っていくことはできないでしょう。
野原燐
*1:発言日不明