353 Re:宅間氏の死刑のコメントです。

F さん

昨日はごくろうさまでした。せっかく発言してくれたのに発見が遅れちゃってすみません。「邪魔」なんてとんでもありませんのでどんどん発言してください。

さて、今日は(昨日飲み過ぎたせいで)元気がなく、書こうと思っても頭があまりまわりません。*1

 「もしも、愛する人が誰かに殺されたら、その殺した相手に死んで欲しいと望むだろう」と人は言う。そうかもしれない。その時の胸の痛みを想像してみようと思う。ではそこから死刑制度を肯定するところにいけるかというと、そうはならない。

そのとおりだとわたしも思います。

処刑されたのは、宅間守だけじゃなくてもう一人いたみたいですね。アムネスティによれば、大阪拘置所の宅間守さんと福岡拘置所の嶋崎末男さんに対して9/14に死刑執行されたようですね。

http://homepage2.nifty.com/shihai/kougi.html

http://homepage2.nifty.com/shihai/message/message_hirata.html

上記に平田オリザさんのメッセージというのがあって、下記の部分が印象的でした。

「逆に言うと、加害者と被害者がいて、殺していいですよと判決を下して、ナイフが置いてあったとき、被害者が加害者を殺すかといったら――殺す人もいるかも知れませんが――まず殺さないのではないでしょうか。

死刑という制度があるから、「殺したい」という気持ちが、「殺す」という行為に直結してしまうのではないかと思うのです。」

死刑廃止を正面から論じるより、(想像上だが)殺しても良いよとナイフを投げてやる。わたしたちが殺しても飽き足りないほどそいつを憎んでいるとして、また殺してもいいよと許可が出たとして、そのときすぐ殺すだろうか。鶏一匹殺せないわたしが本当に人を殺せるのか。理屈で考えた上で殺すというのは普通の人間にはなかなかできないことだろうと思われます。「悪である」ことも結局のところ否定しがたいし。

 人はみな「自分は人を殺さないし、死刑のような極刑を受けるような悪いことはしない」と思っている。だが、国家が人を殺す制度をもっているということは、必ずしも客観的・妥当的な「悪いこと」をした者にだけその刑を適用するためではない。かろうじてまだ「民主的国家」の看板を掲げている日本でもそれが外れるや否やその持っている権力をどのように濫用し始めるのか。それを想像するのは恐ろしいことであるが、もし少し歴史を振り返ってみるなら事実として容易に認められるはずだ。

 自己保存のために、権力に刀を預け、お上に守ってもらおうと思う人々によって死刑制度は支えられている。

そのとおりですね。テレビなどで見ている限り、殺人者は絶対的悪であり、わたしは善の側にいるという図式から離れることはできません。でもそれはわたしの想像力の問題に過ぎない。死刑までいったら困るが、現実に色々な形で国家と出会い軋轢し問いただしていくなかでしか、「民主的国家」の内実を守っていくことはできないでしょう。

                野原燐

http://replay.waybackmachine.org/20050127175829/http://otd9.jbbs.livedoor.jp/908725/bbs_reply?reply=353

*1:発言日不明

見えないがそこにある民力

 え。場違いな感じもするが、『漢文入門』岩波全書 という1957年刊行で今でも刊行中の本から引用しよう。

 楚の荘王という人がいて、陳という国を伐(う)とうとして、スパイを派遣し調べさせた。帰ってきて曰く、「城郭高く、掘りは深く、蓄積がとても多い」だから勝てそうもないですよ、と。だが、荘王は「陳伐(う)つべし」と意見を変えない。「陳は小国である。だのにそれだけの備え、蓄積を用意したのは、民をどんどん収奪したからだ。もはや陳には民力はないはずだ」と。(『説苑』BC1Cより)

 それでつらつら思ったのだが、今日北朝鮮の脅威を言う人がいるが、むしろ金正日を挑発し日本に上陸させればどうか。もしそうできれば、北朝鮮はそれに耐えるだけの国力は持っていないから自然に崩壊するだろう。まあこんなことを言っても誰も賛成しないでしょうけどね。でも国境というものがあるということは破られる可能性があるということで、それがあっても別におかしくないという前提で物事を考えないとおかしい。国というものがあればそれが滅びることもあるという2000年前の感覚の方がかえって健全である。排外主義をあおったり武力に頼ったりしている場合ではないのである。

ナショナリズムを超えられない

メルマガ『カルチャー・レビュー35号』の村田 豪氏「困惑する福田和也」について、著者ほかにメールしたのでこちらにもあげておきます。

http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re35.html#35-3 で全文読める。(上記の上部にある岩田氏の文章にもすこしだけ言及)

  *  *  *

今回の村田さんと岩田さんの文章をとても興味深く読ませてもらいました。

まず岩田さんの文章が、「伝統」という言葉をどう定義しているか見てみよう。

 「福沢諭吉が異常に目立っているのですが、このような人物を輩出したのも、も

ともと中津に知的伝統が根付いていたからだと思います。」突出して有名になっている(良くも悪くも)福沢個人ではなく、その背後にあった「知的伝統」に眼を向けようとしています。 伝統の実体は(例に挙げられるのは)漢文的教養です。しかし、過去に存在し現在まで残っているものというように伝統を実体的にとらえるのではない。「まったく異なる知的世界を自らの世界に取り入れるためには、自らの知的能力を最大限に問い返す必要があります。その時に日本人にとって助けとなったのは漢籍の知識ですが、おそらくこの知的伝統がなければ私たちは日本語で西洋の文化を取り入れることは出来なかったでしょう。」西欧文化との出会いという危機において他文化を取り入れるのは格闘にも似た必死の営為でした。このような知的格闘を可能にする物を指して、岩田氏は伝統と呼んでいるようです。

(えー枕で、伝統について考えたのは、村田氏の文章が「右翼:進歩派」という図式から始まっていたのでそれを相対化する軸になれば、と思ってのことですが、上手くいきませんでした。)

 で、福田和也は伝統については、「自分が「日本」や「伝統」という言葉を通じて唱えているのは、言ってみればカント的な「趣味の共通感覚」の再建なのだという議論」をしているようです。わたしは福田を読んでないので、村田氏の文章を読んだ印象だけで言うことになります。でも<趣味の共通感覚としての伝統>とはいったい日本に即して言うと、一体どんなものなのだろうか?(セリーヌやバタイユの背後にいたファシズム作家を扱ったのが彼のデビュー作のはず。フランスのような先進国住民においてすら、なだらかに現象するかに思いきややはり伝統という名に於いてファシズムが呼び込まれてしまう、というのに。)

福田は一貫して、左派や市民主義に巣くう無自覚なナショナリズムが、欺瞞的な自己正義しかもたらさないことを批判してきました。しかしその一方で、小林よしのりや「新しい教科書を作る会」に見られるナショナリズムが、戦争の実体を正視できず、責任を欠いたものであり、弱者のルサンチマンにすぎないと指弾することも忘れませんでした。左右の対立は、所詮見かけ上のものにすぎず、「弱者のナショナリズム」「似非ナショナリスト」としてどちらも厳しく斥けなければならない。(村田)

わたしはこの福田氏の主張に賛成です。村田さんは理解を示しつつ搦め手から無化しようとしているようです。

 翻って、福田の擁護する「日本」や「文芸」というものへの批判も、この「ナイーブ」から始まるようにも思います。なぜなら福田の「ナショナリズム」や「伝統」に対して、「ナイーブ」さが実質を持たないとは言えないからです。福田は、この手の「ナイーブ」こそが「国を危うく」するのだと危惧するのでしょうけれど、しかし一体何が悪いのか。かつてスガ秀実は、歴史論争での左翼には「亡国ナショナリズム」が足りないと言い放ちましたが、ここはもっと縮めて単に「亡国」を意識するのみでしょう。「ナイーブ」が「亡国」をもたらそうと、それでも結構ではないか、と。それに対して福田がせいぜい「フィクション」としての「伝統」に依拠し続けるしかないのなら、それは例えば三島由紀夫の反復を超えるものではありえません。そして、その三島であってさえ、いわば戦後的「ナイーブ」に敗れたのではなかったのでしょうか。(村田)

 最後に村田氏は自己の立脚点として「ナイーブ」を持ってくる。三島の敗れた戦後的「ナイーブ」とは、欲望自然主義による国家の無化であったでしょう。

しかしそれが、国家の無化ではなく不可視化にすぎなかったことはいまや明らかです。いまや「自衛隊が日本を守る」という近代的「軍-国家」観がおおぴらに復帰している。村田氏はそれに向き合い対抗するのに、自己身体の肯定だけでもって足りると考えているようです。それはこの文章では展開されていないので、今後の課題ということになりますね。

 ナショナリズムに対しどういう立場を取ればいいのかわたしにも矛盾があります。

「わたしという抽象的普遍的消費主体が国家の外に存在してる」と考えるのは不当だ、と保守派は言う。野原が思うにこれは認めざるを得ない。「自己/国家」という2極で考えるとアポリアから抜け出られない。「自己/天あるいは理」という2極でまず考えるべきだろう。とりあえず、大事なことは日本と韓国/朝鮮、台湾/中国との国境を下げることだろう。

まとまらない文章で恐縮ですが、感想… まで。

  *  *  *

サラーヤ・アル=ムジャヒディーンのみなさんへ

昨日「日本人を誘拐したサラーヤ・アル=ムジャヒディーンのみなさんへ」という手紙の文案が回ってきたので、ちょっと文章を書いたけど、ここ「はてな」が引っ越し中で書き込めなかったので、下記にUPしました。http://bbs9.otd.co.jp/908725/bbs_plain?base=287&range=1

今朝のニュースでは解放されるらしいとのこと、良かったです。

自衛隊撤退については、当局側に挙証責任がある。果たせなければ撤退すべきだと要求していきたい。

現在のイラクの最大の問題は、下記のような「米軍の無差別攻撃」をどう評価するか、という点ですね。これを批判しなければイラクに安定はやってこない。テロリストを増やしているのは誰か。前にも書いたがすでにシャロン首相が遂行し結果がでている行為をなぜ模倣するのか!!

毎日インタラクティブより2004/04/10

米軍、ファルージャ攻撃を再開 英民間人、バグダッドで射殺される

 【バグダッド小倉孝保】イラク駐留米軍は9日夜、一時停戦を表明し武装勢力と対話の可能性を探っていた中部ファルージャで攻撃を再開した。AP通信によると、米軍は都市部を包囲する一方で、AC130などによる攻撃を繰り広げ、混乱は拡大している。AFP通信によると、イラク統治評議会は9日、ファルージャ中心部における米軍との武力衝突で、同日までの6日間で400人以上のイラク人が死亡、1000人が負傷したと発表した。

「 すくなくとも日本の民衆のうちの一人がイラクの民衆とともにイラクの民衆のためのボランティア活動を行ってきてそれを継続したいと(命がけで)やってきたという行為は強調されるべきだ。イラク/アメリカ・日本という国家あるいは戦争のカテゴライズに対し、市民連帯のかぼそいビジョンが叫ばれなければならない。」

犯人であるイスラム勢力は、「戦争のカテゴライズ」を一時中断する勇気を見せた。小泉首相も見習ってほしい。

3人が殺されなくて残念

 誘拐者が「日本国家に訴えれば身代金*1をくれる」と思った。この場合「誰もがそう思う」と誘拐者が思っている場合、それが制度として成立していることになる。誘拐とは何か?、と問えば日本でもイラクでもその意味を知らない人はいないということは、宮台のいう意味で制度*2として成立しているということだ。したがって、「国家に訴えても助けてくれない場合、「『(1)すぐに社会的反応を動員でき、(2)国家もそれを弁える』と当てに出来るようになる」はずである。

 ここで、相手をテロリストと呼べば、彼らはテロリストとしてのつまり人質を殺すという結論を選ぶ可能性が高かっただろう。ここでは同じ事態に対し「誘拐」というパラダイムと「テロとの戦い」というパラダイムの二つが争っていて、小泉は後者を選択したということだ。相手がテロリストとして実体化されると、3人の犠牲は小さいものとなる。3人が殺されることにより、相手に殺人者の汚名を着せなおかつ殺人者を憎むことによる国内の愛国化を小泉は得ることが出来たはずだ。したがって「テロとの戦い」パラダイムが正しければ、3人が殺されることを(口にせずに)望むことが小泉にとって合理的な希望であったことになる。これは嫌みで言っているのではない。論理的に言っているのだ。

*1:自衛隊撤退という身代金は高すぎたか?

*2:参照 http://www.miyadai.com/index.php?itemid=90

藤田幽谷・東湖・小四郎

 さて、後期水戸学というものは非常にマイナーだと思ったのだが、よりメジャーなはずの仁斎や徂徠にしてもわたしの友人は全然知らないし、わたし自身もそれに近い。つまり藤田某を語るとしてアカデミズム以外のどういう立場から語れるのか、無知なら書かなければ良いのだが・・・

 とにかく、村上一郎の『幕末-非命の維新者』の角川文庫1974年刊(とっくに絶版)をわたしは持っているので取り出して少し読んでみた。

明治維新の勝者は薩長つまり西国である。「西国人の利口さ」と村上は自身東国人としての皮肉も込めてそう言ったりする。藤田三代に対する戦後最大の弁護者は村上であろうか。村上の文から二ヶ所引用する。

「では、なんで東湖の半生涯の三つの危機を叙述した「回天詩史」がそれほどに人を動かしたのか。また、なんでそれほど危険視されたのか。わたしはこの文章を少年の日から読み続けてきて、要は「自ら任ずる」という一語にあるように思う。東湖ならびにその同志が、誰に頼まれずとも、また身命が危うかろうと、自らこれを任と決すれば進んで挺身するという、危機感の深さと、内発性のつよさが人を動かし、世の姑息な人びとをしてこれを危険視させたのである。「自任」という二字はその文章にいくつか出てくる。」*1

「しかし、松陰が死ぬ直前になってから、もはや天朝もいらぬ、幕府もいらぬ、わが藩もいらぬ、草奔くっ起は五尺の微躯あらばよしと断言するに至った精神の過程に、彼が水戸の気風に触れた若き日の感動が、尾を曳いていなかったはずはない、とおもうのである。」*2

 でこれを読んで、思い出したのは、今日たまたま見た古本屋のサイトにあった六月行動委員会についての埴谷雄高の規定。(村上一郎もその周辺だったはず。)百年を隔てて類似性があるのは、村上という語り手のせいでもあるが。以下ペースト。

http://miyuru.com/kosyo/new.html

埴谷「各人が勝手に自由でありながら、連合する。」

松本健一/六月行動委員会などはどちらかというとそういう発想でしたね。

埴谷雄高/ええ。だから、革命の意識を持った一人一人が党だと言っているんですよ。党員がたくさんいるのではなく、独立した党がずうっと並んでいる。一人一人が全部党だ。ぼくはそういう考え方ですから、ずっとアナキズムだ。

*1:同書p130

*2:角川文庫『幕末』後書 p238

パレスチナ人は死ぬ

この7月4日あるところで、29歳の男性が亡くなった。リファアット・アブ・アムラ。

「この7月上旬だけでパレスチナでは30名が殺されました。」と大きなニュースにもならないその30人のうちの一人になります。人は死について語ることができるのか。寺畑由美さんが彼の死について書いています。

http://www.onweb.to/palestine/siryo/terahata10jul04.html

イスラエルの存在の許容

 イスラエルのシャロン首相がプーチン大統領に電話した、というニュースは興味深い。結局のところ21世紀初め世界*1が血なまぐさくなった原因を作ったのはこの二人とそれに対し宥和した私たち自身にある、というのが真実だ、と将来の歴史家は判断するでしょう。

http://www.asahi.com/special/040904/TKY20040

 「イスラエルの平和を考える会」機関紙のミスターフvol8が今日は郵送されてきた。パレスチナ人政治学者アッザーム・タミーミーさんへのインタビューから引用。

ハマースがイスラエルに言うのは、「まず何よりも前に、あなたが泥棒であることを認めなさい」ということです。パレスチナ人に「あなたの土地を取ってごめんなさい。とても悪いことをしました。新しい生活を始めましょう。私たちはあなたたちと一緒に住めますか?」と。

もし彼らがそうすれば、南アフリカのアパルトヘイトが解決したように、私たちは「一緒に住めます。解決しましょう。」と言うでしょう。

 野原のブログは読者を向いていないが、ここだけは、どうしても読んで欲しいので引用した。だがわたしの真意は伝わらないだろう。「1917年のバルフォア宣言云々かんぬんそのことをいつまでも言い続けにないといけないのか。そうしたら北海道はアイヌに返さないといけないのでないか」、とわたしも数ヶ月前まで反応していたと思う。つまりここはリラックスしてゆっくり考えないといけない。土地を返せ、とここで「ハマース」は言っていないのだ。にもかかわらず、「土地を返せ」と言われたかのように反応してしまう。わたしの生活がその土地の上の数十年であるとき、そこはわたしにとって「私の土地」である。そのことの真実を他者は奪うべきでない。だが(わたしは第三者だから言えるわけだが)パレスチナ人が私の土地だ、と主張するとき、その主張は否定されるべきということになるだろうか?

 満州や朝鮮に生まれ数十年そこに育ってしまった日本人にとってそこがわたしの「故郷」であるのは事実であり、彼自身にとっての真実である。だが個人のレベルの実感と、国家間の調停の結果は違う。そしてこの問題は立場によって答えが違うといっても、わたしはわずかな勉強の成果として一応の答えを持っている。20世紀は帝国主義の時代だった。だが帝国主義を否定する価値観もあった。後者の価値観に立つかぎり「イスラエルは泥棒である」という表現は不当でないとわたしは思う。「満州国は泥棒国家だった」とわたしたちは認めたではないか。

*1:アフガニスタンやスーダンなど広い地域においてはそれ以前もそれ以後と同様血みどろだった!?

人質非難はどうかと思う(11/5)

http://book3.2ch.net/test/read.cgi/books/1094319459/375 『結局、スピンをまともに検証して本に出したのは小林だけなんだよな。

バッシャー(情報操作に引っかかった人も確信犯も含めて)達がテレビ番組や雑誌記事、記者会見、ホームページ、新聞で、あれほど人質とその家族を攻撃したのに、未だに人質を非難する内容の本を出版した人は皆無。』

「それもあるだろうけれど、前回と違って、今回は官邸からの情報操作(スピン)が無かったからね。

結局、スピンをまともに検証して本に出したのは小林だけなんだよな。」

スピンって何のことと思ったら上記のようなことらしい。で小林って誰よ。スピンとは、フレーバーなんかと同じ原子核物理学用語で、それを小林秀雄が検証したのかと思ったよ(??)高齢者にも分かりやすい文章を書きましょう。

誰が国家にアイデンティティを求めているのか

id:noharra:20041030に二人の方からコメントをいただた、もう一人の方への応答。

(この表現は不正確。10/30に野原が突然引用したのが、お二人との関係の始まり。・・・)

# homoinsipiens 『こんにちは、トラックバック頂いたhomoinsipiensです。

いきなりですが、noharraさんとはちょっと事実認識がずれている気がします。

>前回の人質の親族は、その[「米軍の力を借りた人質救出」路線]を拒否しようと、必死で、しました。それが叩かれた。

今では数多く起こっている人質事件ですが、4月の人質事件はそのハシリだっただけに、米軍による救助という話が出てくるまでに結構な時間が経過した気がします。むしろ、叩きの原因、というか騒動の発端は、人質家族が事件発覚の実に翌日、自衛隊撤退デモに参加したことではなかったでしょうか。とりあえず私の記憶では、米軍による救助はだいぶ後まで現実的なオプションとして提示されることはなく、それほど中心的な論点ではなかったように思います。

あと、いやな指摘ですが、これまでザルカウィ派が捕らえてきた人質は11名、そのうち生還者は4人です。さらに、非イスラム圏出身者の生還者は0人です。軍隊による救出作戦の成功率をパーセンテージではかるなら、必ずしもこれより低いとは言い切れないのではないでしょうか。私自身、パーセンテージの問題ではないとは思いますが、ご参考までに。

>だってそれ悲惨でしょ。

国家を批判する余裕のない人、あるいは国家の庇護なくしては生きていけない人、ステレオタイプに「国家以外にアイデンティティを持ち得ない人」。私も確かに悲惨だと思います。そして批判者を気取る私たちが現体制の下、なんだかんだよろしくヌクヌクやっているのはこの悲惨の上に乗っかってでもあります。このことへの無自覚さがjinjin5さん云うところの「『国家制度とは自分達にとって常に他者である』という[…]傲慢」と繋がっているのではないか、と私は考えます。批判を名乗るなら、その批判は自らにも向けられるべきではないでしょうか。私はある意味で反・(暴走的)自己責任論者としての自分への戒めのつもりでかのエントリを書いたつもりです。』

homoinsipiensさん

レスが遅れました。というか以下もたぶんちゃんとしたレスにならないと思います。

「政府は人質の救出に全力を尽くすべきだ」とする意見をわたしは取りません。前回の人質の場合、救出については[「米軍の力を借りた人質救出」路線]とイラク国内の穏健派などへ働きかける路線、少なくとも二つがありました。人質の家族は国家方針である自衛隊派兵の撤回を訴えたことで世論の反発を呼びました。わたしが強調したいのは、[「米軍の力を借りた人質救出」路線]を拒否してくれと主張する権利を家族は持つはずだという点です。前回家族に拒否の意志はありました。この点について当局と軋轢があったことも確かだと思います。今回面倒なので過去資料は探しませんが。

「政府なんてなくてもいい、あるいはないほうがいいなんて考え方は、彼ら市民運動家たちが実は経済的に恵まれている…からこそじゃないのか。」に対し、私は肯定したのですが、これはいま一度考え直した方が良いようです。

「国家を批判する余裕のない人、あるいは国家の庇護なくしては生きていけない人、ステレオタイプに「国家以外にアイデンティティを持ち得ない人」。」という想定の仕方は不正確です。

人質批判をした人でも(B)2チャンネルなどに自分で人質批判を書き込んだ人、と(C)テレビで大量に垂れ流される人質批判言説が自分の心のどこかに触れたため取り入れた庶民 は区別すべきです。さらに(D)新聞の1面に載るような言説一般に全然興味を示さない人々も存在するはずです。

それに対して(A)「僕の周りの連中の間では今も昔も反・自己責任論の大合唱。」を対照して見ましょう。知的にはA>B>C>Dというような階層差が存在するような気もします。

だとしても「批判者を気取る私たちが現体制の下、なんだかんだよろしくヌクヌクやっているのはこの悲惨の上に乗っかってでもあります。」というのは意味が明確ではない。

 イラクの10万人(?)の死者に対し、日本人として野原はその「悲惨の上に乗っかって」いると指摘されたらそうかもしれない。その悲惨を直視しどう関われるのか考えるべきでしょう。日本国内においても野原は階級的知的に劣位なものの上に乗っかっているかもしれない。だが階級的知的劣位であること即ち、「国家以外にアイデンティティを持ち得ない人」たちではない。

http://d.hatena.ne.jp/homoinsipiens/20041029#1099030289(これを書いとけばトラックバックになるかな)