世捨て人(削除予定)

入金したので「波状言論05号」、とか言うのをメールしてきた。1/4ぐらい斜め読みしたが、北田氏と東氏若いのに昔語りなんかして うーん みっともないんじゃないの。要は自分の思想の核がないんだろう、だったら学問だけしとけ。

まあ野原の如き世捨て人がこんな雑誌読むのが間違いだが。

誰が人質解放を遅らせているのか

を、考えてみると、すんなり人質解放が実現すれば、手柄は被害者の親たちと、アルジャジーラ、それに「いわゆるテロリスト」の三者である。これはアメリカから見ると<反米トリオ>である。しかも、現場はファルージャであり、惨状に世界中の注目が集まるとヒューマニストたちが大騒ぎする可能性が大きい。三人が英雄として帰還すれば、連日テレビに出ることになり、キャラ立ちした高遠さん、今井君などは古くさい左翼とは違う新しいスターとして日本の世論に大きく影響を与える可能性がある。したがってテロリストのヘゲモニーによる「すんなり」とは違うストーリーでの、「解放」が行われる必要がある。幸運にも現場には米軍が展開している。米軍はファルージャ攻撃を中断してまで、このことに熱中している。陰謀説みたいなことは言いたくないが、ありうることかもしれない。

おそらく現在も

我々アメリカはアパッチ戦闘ヘリとF16戦闘機、そして様々なミサイルを使って家々や女性、子ども、学校、病院を破壊している。それにもかかわらず、自分たちの家や家族、文化を破壊から守ろうと我々を止めるために立ち上がる人々のことを「テロリスト」と呼ぶ。ここでもまた、我らが米軍や米国政府の者たちは言語を逆さまにしている。

(「逆さまのファルージャ」サム・ハモッド Information Claring House原文) 益岡賢氏のページより  http://www.jca.apc.org/~kmasuoka/  

写真…

写真…

それはおそろしいものだった。それらを見たとき、いろんな感情がよぎった。その最も突出したものはもちろん憤怒だった。何かものを破壊したいという抑えがたい欲求に衝き動かされた。事態を何とかマシにするため、あるいは怒りや屈辱を静めるために。これまでバグダッドのアブ・グレイブ刑務所についてはひどい話を聞いていたけれど、どの言葉も表すことができない様子をそれらの写真は呈していた。

http://www.geocities.jp/riverbendblog/index.html 

リバーベンドさんのブログの4/30から引用します。例の写真についてです。日本人にとってイラク情勢は知識の対象でしかない。そうした関係を覆すだけのパワーをあの不幸なポルノ紛いの写真たちは持っている。その薄呆けた写真をいくら注視してもイラク人はそこにはいない。あらかじめ<存在>に目を閉ざしたものたちには。リバーベンドさんの文章の続きを読んでください。

わったん基金

わったん基金にわずかですがカンパしました。

「渡辺修孝さんの支払い拒否と提訴を支持し、裁判を支援する意思を表明しておきます。」という意志においてです。実はそれほど内発するものはなかったのだが、今井さんたちに対しちょっと前に下記のようなメールを出したので、その都合上「支払い拒否」支援はせざるをえないか、と思ったのでした。(訴訟の趣旨は変わったのか?)

 わたしの第一の問題意識は、外務省が金払えと言ったとしても、内容証明が来るまで払う必要はない、という実用的見地に立ったものです。下記サイトのように、反対なのに内容証明が来る前に自発的に払うのは馬鹿げたこととも思われますが、当事者の周辺には別の事情もあったのかもしれない。

ちょっと前の話になるが、(5/1)http://ac-net.org/honor/  というサイトに対し、次のようなメールを出した。

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高遠さんほかに対するバッシングに大きな怒りを持つものです。

ところで(無責任な質問)といわれるかもしれませんが、次のような意見をもったので参考までに送付します。特に回答を求めるものではありません。

              野原燐

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外務省からの請求について

払わない方が面白い、のではないか?

少なくとも(2週間程度の期限を定めた)法的な請求書を出させることは誰からも文句を言われる筋合いのないことであり、ぜひ実行して欲しい。(法的請求書であれば不服申立の権利についての記述があるはず。)おそらく役人としてはその書類を作るだけの根性はないのではないか。(つまりはいはいといって払ってしまえばその瞬間問題は消滅するので、外務省に充分な合法性がなくとも検証できない。)

最後まで払わず裁判するのが面白いと思うが、3人及び家族が日本中からのバッシングに耐え、裁判闘争を続けるという意志を獲得した場合、しか実際にはできないでしょう。(払ってもバッシングは続くとすれば同じかも知れない。)

外務省の金の使い方についてどの程度まで公開できるのか?という問題に、従来から国民の広い関心が集まっているので、それとも関連して、外務省の言い分を検証するのも面白いと思う。

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外務省の事なかれ外交

 今回とにかく野口氏は無事に帰って来れて良かった良かったというわけですが、そもそもの原因である、中国当局が脱北者の難民としての権利認めず発見すれば北朝鮮へ送還するという姿勢をとっていることについては全く変わっていません。そしてこれは難民問題ではなく、中国の国内法を犯した犯罪であるという中国当局の把握に対し、異議をとなえない日本の外務省がいます。

この点について、中川正春衆議院議員が外務委員会で発言している、6月2日。同感なので少しだけ引用しておきます。

http://www.asahi-net.or.jp/~fe6h-ktu/topics040612.htm

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○中川委員:

 外務省として間違っているのは、中国が、これは国内法に違反した犯罪者だという定義でこの日本のNGOを扱っているわけですが、これに対して、それを前提にした対応しかしてないんですね。

 これは、アメリカについても、あるいは韓国についても、この人たちは─中にはブローカーがいますよ。金銭で動いている。これは捕まえていいでしょう。しかし、そうじゃなくて、NGOで人道的にあそこに入っている。それで、難民として本来は認定されなければならない人たちの救済をしている。外務省自体も、実際は、そういう人たちが領事館なり大使館なりに駆け込んだら、それなりの措置をしながら日本に連れてきているじゃないですか。それは、この人たちが本来は難民と認定されるべきものなんだということが前提にあってそういう対応をしているんだろうというふうに思うんですよね。そういうことであるにもかかわらず、そこのところには何も抗議をせずに、何とかして刑を軽減しながらそっと日本に戻してほしい、そういう外交姿勢でしかないということですね。

 これは日本の外務省の特徴なんですけれども、中国から、物事を荒立てないでほしい、騒がないでほしい、そうしたらうまい事やるからと言うと、そのように乗っていって、内々で事を済ませてしまう。それでいいんだという感覚、これが私は基本的にはまちがっているというふうに思います。

 そういう姿勢でやったら、人権問題は解決できないんです。人権というのは、やはりそれが侵されていることを表面に出して、世論に訴えて闘いとっていかなけりゃ、これは解決していかないんです。そういう切り口に日本の外交を堂々と変えてほしい。それが、私がこの問題にコミットしてきた、日本の外交姿勢そのものに対する疑念です。これではいけないという思いです。そこのところを理解していただきたいというふうに思います。

妊娠から遠いわたし

http://d.hatena.ne.jp/strictk/20040927 strictkさんへの応答が遅れている。今日、漫画「NANA」というのを少しだけ読んだ。続きを読もうと近のリサイクル古書店にいったら、十数冊でているはずのこの漫画だけが一冊もない。少女マンガの棚には慣れていないのでそう確認するまで数分かかった。*1準備ということもないが、「西尾幹二のインターネット日録」というのがあるのを知り読んでみると、大したことは書いてなかった。

http://blog.livedoor.jp/nishio_nitiroku/ 9/9

落合恵子(作家)さんの文を批判している。

(落合)私たちを取り巻く社会において、自分自身であることをずっと求め続けることは時には大きなストレスになることかもしれません。しかし、やはり私たちは個であることから始まり、個であることを続けていかなければなりません。このことは、セクシュアリティを含めて、あらゆる人権について考える時の基本であると思います。

(西尾)落合さんは「個」という観念をいきなりここでもち出す。両親そろっている「普通」の家庭へのルサンチマンもにじませた論が展開される。けれども落合さん自身はここでいう意味の純粋な「個」なのだろうか。この「個」の概念は間違っていないか。

「落合さん自身はここでいう意味の純粋な「個」なのだろうか。」というのは「為にする問いかけ」である。人間存在というのはマルクスを持ち出すまでもなく関係性の束とも考えることができる。存在としてのわたしが「けっして「個」ではない。」というのは正しい。

しかし、<実存としてのわたし>については「やはり私たちは個であることから始まり、個であることを続けていかなければなりません。」という断言が適切であろう。ところが、次の文章「このことは、セクシュアリティを含めて、あらゆる人権について考える時の基本であると思います。」を読むと少し違和感が残る。人権を考えることは普遍的政治的な立場に立つことではないか。セクシュアリティを含む困難に真正面からぶつかったとき、人権概念は役に立つこともあればそうでないこともある、と思える。*2人権という概念を最終審級とすべきではない。概念ないし言葉を大事にするのではなく、困難にあるあなたと(それに関与しなければならないわけではない)わたしという関係が当為ではないが不可避である、ことが大事であると思われる。(しかしながらたぶん)落合さんが立ち止まっている問題もそうした問題であることは間違いないであろう。したがってここでの落合さんへの疑問は、わたしとは多少言葉の使い方が違う、というだけのことになった。

一方、西尾幹二の方はいちゃもん付けをしてるだけだ。「そして、なにかに依存し、包まれていなければ真の「個」は成立しない。」この文章の多義性に、西尾氏のマジックの種が隠されている。「野原9/23」などで丁寧に触れたとおり、母ないしそれに代わる他者に依存する時間の持続がなければ、わたしたちは「ポリス的動物」になりえない。それと「独立した大人でも諸関係や国家に依存している」というのは別の問題だ。はっきり書かないのはそこに思想的弱点があるからだろう。

「彼女は見方によれば特権者の側にいる。「普通」とか「普通でない」とかはすべて相対的概念だ。」この二つの文章は明らかに矛盾してますね。後者はニーチェとも言えるが、芸のないニーチェはニーチェから最も遠いものだ。

追記「トラックバック」というもがよく分かっていなかったので、一度やってみようと、畏れ多くも西尾氏あてに試みたが、2回失敗しあきらめた。無難だったろう。

*1:翌日もう一度行ったらちゃんとありました。人気漫画コーナーという棚で集英社の棚とは別のところにちゃんとあるのだ!

*2:ろくな体験~闘いもしてないくせに、えらそうに言っても良いのか?(陰の声)

糾弾は関係を切断する?

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20041020#p2 はてなダイアリー – +   駝  鳥    + については上に触れたが、スワンさんからコメントがあったのでもう一度考えてみた。

歴史的判決というべき04年10月15日に、水俣病を語るブログや2chの言論が閑散としていた状況は、そうしたジレンマから私たちの意識が完全に自由であったことを意味するだろう。郵貯が何に使われているかなんて猪瀬直樹が日本国の研究を書く以前は誰も関心をもたなかった。最近はずいぶん情報の風通しがよくなったが、それでもチッソの賠償金倒産を食い止めるために国や県が財投を通じて金融支援をしており、その原資が私たちの預金や郵貯であることを知る人は少ない。

そのことは全く知りませんでした。70年代に大きく報道され三里塚とならぶ社会運動の拠点ともなっていた<水俣>がその後どのように継続していたのかについても全く知らず*1、今回の判決もわたしにとって突然だったので受け止めかねました。

ただ、難癖を付けるような読み方をすると、ジレンマから自由であることはむしろ「チッソが悪い」と言う(書く)事につながるはずでネットが閑散としてたことには繋がらないように思う。

チッソは68年まで排水をやめなかったし、国もやめさせなかった。チッソが悪い、国が悪いというのは簡単だ。

「イスラエルの残虐」については日本のテレビでも一定は報道されている。ところが(スワンさんは例外として)「イスラエルが悪い」という素直な感想はhatenaでは(一定はあるが)それほどない。*2

「イスラエルが悪い」と思うのは簡単でも、言うのは簡単ではない、ということのようだ。それと同じように「チッソが悪い」、というのは実は簡単ではないのではないか。

「私たちもまた、加害性を抱えながら果実を手にしてきた。」黙っている人たちは発言すればジレンマに向きあわなければならないことを(どこかで瞬時に)察知したからこそ黙っているのではないか。

 チッソにせよ戦争責任にせよ私たちを困惑させてしまうジレンマと向き合い続けることでそれを乗り越えていくしかないと、スワンさんはおっしゃっているのだと思います。(違いますか?)わたしもそう思います。

 差異は糾弾というスタイルに対する好悪にあります。

ある日本人がステロタイプな殺人鬼だったこと、それは日本人には見たくない、(ともすれば)見ることができない事実である以上、殺人鬼という画像を突きつけるという行為はまず何度でも行わなければならない、とわたしは考える。しかしスワンさんは糾弾することは、世代間の連続性を切断することになると捉える。「加害者とのコミュニケーションが切断されているだけで、殺人鬼のイメージをふくらますことは非常に簡単なことは私たちは日常的に経験していることだ。」

これは難しい問題だが大事なことなので、上手く書くことはできなかったがもう一度書いてみた。

*1:石牟礼道子さんに対する美学的敬意だけはかろうじて継続しつつ

*2:スワンさんは、http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20041019#p2 でも書かれています。

たすけがくるまで待っていた

 ヴァジニア・ハミルトンの『マイ ゴースト アンクル』島式子訳原生林 という本を読んだ。(原題は「Sweet whispers,Brother Rush」)大傑作だ。障害を持った弟と二人で暮らしている貧しい黒人の少女が幽霊を見る話。(お母さんは1、2週間に1度くらいしか帰ってこない)ヤングアダルトものだがジャンルを越えた力を持っている。幽霊はブラザー叔父さん。叔父さんのあまりのかっこよさに主人公(ツリー)の少女は引きつけられる。彼女が幽霊を見るのはもちろん、彼女が生きている現実が苛酷すぎて、別の現実(彼女がかろうじて知っているのは彼女の幼児時代とそのとき格好良かった叔父さんだけだ、彼女は父のことを知らず、遠慮して母にそのことを聞くことさえできない)をどうしても必要としたからだ。すべてのファンタジーはそうした世界を裏返さずにはおかない呪詛を隠しているはずだが、この小説のようにそのベクトルを露わにしつつなお小説としてみごとに成功しているものは希だろう。「黒人特有の致死の遺伝病・ポーフィリア」なんて聞いたらそりゃいくらなんでも露骨すぎる道具立て!と思うかもしれにないが、そんなことないんだな。

 赤木さんもこういっています。「物語としても文学としても、第一級の逸品です。(赤木かん子)」http://www.hico.jp/sakuhinn/7ma/my02.htm

ボストングローブ・ホーンブック賞1983年など。

ただ現在入手不可かな。わたしは古本屋で百円でゲット。