勝てない場合は意識を失う上官

さらに言えば、物量差と見せつけられ、士気の低下する軍や住民を叱咤激励するために「生きて俘虜の辱めを受けず」と、前線の司令官が言ったことは十分考えられるでしょう。軍隊とは、兵器の信奉者です。相手との兵器能力差が圧倒的であることに気が付けば、士気は間違いなく低下します。しかし、軍隊は敵と戦って勝つのが仕事です。負けるのは仕事じゃない。上官としては、何とかして勝ち戦にしなければならないわけです。それが軍隊の存在価値ですから。

http://d.hatena.ne.jp/sanhao_82/20050701#p1

「生きて俘虜の辱めを受けず」は単なる一将校の発言などではなく、日本軍全体の根本原則でした。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050709#p2 に書いたとおり、であるからこそ、食糧も武器もなくなり瀕死の状態でも1年以上もジャングルに潜み「建前として」(降伏し無い)戦争状態を持続しつづけなければならなかったのですね。

また捕虜になって生還した人も大部分が、(形だけのこともある)玉砕攻撃をしてその途中でよろよろ倒れて捕まったとか、ケガで意識を失っていた時に捕まったとか、意志としての「降伏」をしていないわけです。逆に言えばそうした僥倖の場合を除き、すべて無意味に死んでいったわけです。

「軍隊は敵と戦って勝つのが仕事です。」どんなに頑張っても相手の戦力を傷つけられない場合は、仕事の範疇ではない。それでも降伏してはならない、などとファナティックなことを考えたのは大日本帝国だけです。

憎悪せよ。

自棄を起こして

(gkmondさん 突然の引用失礼します。gkmondさんはネット右翼とは思っていません。)

つまりは「鬼畜米英」に対するイメージが固まっていた沖縄住人たちが、自棄を起こして集団自殺に及び、

http://d.hatena.ne.jp/gkmond/20050725/p1

そういうものの言い方はないんじゃないかな。当時の日本軍は「生きて俘虜の辱めを受けず」という命令を住民に強制しようとしていた。自決した住民たち(女性子ども老人が多い)は被害者であり、皇軍は加害者である。

軍人は「命令を出さなかった」と主張しているようだが、仮にそうであるとして彼らの存在が被害者を作ったという因果関係は明らかにある。

参考:林博史氏の論文「「集団自決」の再検討」 http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper11.htm 

語り継がれなければならなかったのは、戦争の悲惨さだけじゃなくて、間違った情報の生む悲劇までも含まれたはずだろう。戦意高揚のための情報操作が助かる道を考えられなくした結果が、集団自殺なのだとしたら、それを隠せばまた同じ事が繰り返されるかもしれない。

(略)

 戦後、日本は一貫して平和教育というものを行ってきた。戦争はいけない、戦争は悲惨だと叫んできた。だが間違ったデータで築かれた主義は結局破綻する。

「戦争はいけない、戦争は悲惨だと叫ぶこと」によって、ヒロヒトや東条以下沢山の人々の具体的戦争責任を追及せず免罪することをわたしたちは行ってきたのではないですか。

「間違ったデータ」とは結局のところ何でしょうか。ぶっちゃけたところ、「軍隊は国民を守るためにあるというがそれは嘘だ」、と多くの人が感じたことが、戦後平和主義の基礎だった。「戦後という呪縛からの解放めいたあれこれ」のどこに解放感を感じるのでしょうか。

 gkmondさんの「言論統制」という本の感想は偏見のない良い文章だと思いました。 

大東亜共栄圏という理想と、大陸へ進出していった日本人の横暴の両方が記録されているところは、実は読み落としてはいけない部分だろう。難しいことにウソの反対は本当ではない。

http://d.hatena.ne.jp/gkmond/20050720/p2

言説というものはどうしても目の前にあるウソを否定しようとする傾向から、完全に自由になることはできない。だからといって、右の反対は左、左の反対は右と裏返ってばかりではしかたない。

「沖縄戦の悲惨」という事実をできるだけ過小評価したいという勢力に少しでも大義があるのかね。

日本は独立国として自衛の気概と国軍建設への自覚を持つべきだ、という意見は良いだろう(わたしは賛成じゃないが)。そのために必要なことは沖縄戦の事実を歪めることではないはずだ。再び同じようなシチュエーションに置かれたとしても数万人の住民を死に追いやることのないようにするにはどうしたらよいかという痛切な反省が必要だろう。「生きて俘虜の辱めを受けず!」という戦陣訓をまず否定しない人は、どうかしているとしか思えない。

二元論者め

http://d.hatena.ne.jp/gkmond/20050807 への応答です。

gkmondさん

応答が遅れ失礼しました。数日間パソコンから離れていたもので。

さて、

 小泉氏が何を罪とし、何を反省としているのかは知りませんが、個人的な見解としては、「反省する」材料以外はすべて隠す(略)という歴史認識は否定されるべきだと思います。

一般論としては異論ありません。

ただ、具体的には(ここでいう隠された材料とはnoharraさんが「ネット右翼」と呼ぶ人たちが熱心に発掘しているエピソードや事実)というものがどの程度のネタか、という評価の問題になりますね。

私の理解するところによれば、情報量の少ない「辺境の寒村の住民」(どこのことでしょう?)は、情報の相対化ができなかったのだから、自由はなかったと言いたいのだということになります。

 であるならば、「軍が悪かった」以外の情報に、あるいは「軍は英雄なんだ」という主張以外の情報に、いちいち目くじら立てるのは、悲劇を回避するために必要であるはずの情報の相対化を阻むことにはならないのですか?

(ところで、寒村を辞書で引くと人けのないさびれた村、とある。ちょっと誤用のようなので、「村」に訂正してください。沖縄の寒村って温度も合わないし)

 これは詭弁ではないですか。村人は情報の相対化ができなかった(黒に近い灰色)という主張を、「自由はなかった(黒)」と読み替えているのはgkmondさんですよ。

 戦時中の国民は情報統制されていた=被害者だ

といった一般論で議論しても水掛け論になるから、わざわざ寒村(差別用語)を訪ねてそこのAさんBさんがどうふるまったのか? という議論をしているのでしょう。

あなたは建前では二元論を否定する。だが、実際には寒村の現実を見ようとする方向には向かわない。

「白か黒かで語る」方向に話をねじ曲げているのは誰ですか?

裁判を提起する=犠牲者を馬鹿にしているから許せないというロジックは、「靖国の死者を否定するのは許せない」というロジックと裏表の関係でしかありません。「理屈は分かるが心情的に許せない、だから駄目」が最終結論であるなら、

わたしのロジックは、裁判を提起する=犠牲者を馬鹿にしているから許せない、というものとは違います。

 犠牲者は存在した。犯人は誰だ? 皇国皇軍の責を問えるかそれとも、住民の自発的行為か、がまず第一の論点です。その論点を問わず、ある特定の部隊長が「命令」を発したかどうか、かどうかという法的論点に焦点を当てるべきだと考えるのは、最初から論点のすり替えだ、だと言っているのです。

 良い悪いは置いておいて、この六十年間、支配的だった歴史に対する見方、つまり全部黒という見方は、もはや有効性を失いつつあります。仕方ないと思います。

議論をしているのに、「良い悪いは置いておいて」というフレーズはおかしい。

「この六十年間、支配的だった歴史に対する見方、つまり全部黒という見方」この60年間、日本は共産主義政権下にあったのですかね?ヒロヒトは生きのび、自民党政権は続いた。戦争犯罪者は復権した。国民に対する戦争責任は一切問われず、国民はそれで良しとした。*1「全部黒という見方」があったとしたらそれは、戦前のことは「黒」ということにしておいてこれ以上追及するな、という処理方法にすぎなかったと思います。ラベルだけ貼っておいて中味は追及しないという。

 つまり、gkmondさんは「右か左か」という予め与えられた狭い二元論の範囲内で思考しているだけです。「全部黒という見方」に対する位置づけ方からしておかしい。

というなら、noharraさん仰る「ネット右翼」が掘り起こす情報を隠されていた我々だって、左翼的歴史観の被害者です。権力は政府だけが握っているものじゃありません。「無垢の犠牲者」だった当時の国民だって、戦中史を作るに当たっては権力者だったはずです。なぜなら彼らを是とし軍部だけを非とする物語に対抗できる勢力がなかったのですから。

これは嘘ですね。

http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper20.htm

前も引用した林博史論文から引くと

沖縄戦を直接扱った書物は,今日までに200数十から300冊を越えるとみられる(注)が,大きく言って二つの流れがあるといってよいだろう。

一つは,沖縄の悲劇をこ度とくりかえさない,戦争をこ度とくりかえさな い,という姿勢から書かれた記録であり,

1960年代以降顕著になる一つの流れがある。それは,全体として沖縄戦における日本軍ならびに沖縄県民の戦闘協力を肯定的に評価するもので,その中にも,軍の立場から日本軍の行動(特に第32軍の作戦・指揮)を正当化し評価する傾向と,一方で,ひめゆり隊や鉄血勤皇隊など男女学徒隊をはじめとする沖縄県民の祖国への命を捧げた献身的行為のみを強調する,いわゆる殉国美談の傾向がある。日本軍司令官牛島満をはじめ第32軍の「偉烈」をたたえた黎明の塔をはじめ慰霊塔がたちならぶ摩文仁丘は,この流れの疑集した地であり,戦跡観光におけるガイドもこの立場からのものである

先にみた防衛庁の戦史においても,日本軍による住民殺害などについては, 一言も触れることなく,住民の集団自決についても,「戦闘に寄与できない者は小離島(慶良間列島・・・・筆者注)のため避難する揚所もなく,戦闘員の煩累を絶つため崇高な犠牲的精神により自らの生命を絶つ者も生じた」(『 沖縄方面睦軍作戦』252貢)と逆に美化されているのである(注)。

 こうした流れのひとつで欠かすことのできないものとして,曽野綾子氏の一連の仕事,『生贄の島―沖縄女生徒の記録―』講談社,1970年,『ある神話の背景―沖縄・渡嘉敷島の集団自決―』文芸春秋,1973年,がある。特に後者の『ある神話の背景』は,渡嘉敷における住民の集団自決が部隊長の命令によるものである,とする『鉄の暴風』以来の通説を否定したもので,それまでの記録のあいまいさを見直させた点で重要な仕事である。しかし曽野綾子氏は,日本軍が投降勧告にきた住民(伊江島)を殺害したり, 家族が心配で部隊から離れた防衛隊員を斬殺したりしたことを軍として当然であると肯定しているのが特徴である。

 左翼的歴史観に対する反発は、防衛庁というお役所を含め持続的に強力に展開されてきました。その努力もあって、まあ今日の“右傾化”という時流になってきているわけです。で、「我々だって、左翼的歴史観の被害者」という被害者の方が急増していると。

しかし自己を被害者の立場に置くことにより優位に立つというロジックを批判していたはずの、gkmondさんが、同じことしかできないとはなさけない。

であるなら、戦後60年という時間は何だったのでしょうか?

 ほんとうに!

*1:おめでたい国民だ

およそ政治倫理上の常識が許さない。

 丸山真男に『戦争責任論の盲点』という短い文章がある。(思想の言葉、「思想」昭和三十一年三月号、岩波書店)というから、1956年、50年ほど前に書かれた文章だ。みすず書房「戦中と戦後の間、1936-1957」の596ページから601ページにある。

下記のurlで、ほぼ全文が読めます。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/maruyama.htm 丸山眞男、戦争責任

天皇の戦争責任について述べた処を抜粋して見る。

この二点に注意しながら、我が国の戦争責任とくに政治的な責任問題の考え方をふりかえってみるとき、そこに二つの大きな省略があったことに思い至る筈である。一つは天皇の戦争責任であり、他は共産党のそれである。この日本政治の両極はそれぞれ全くちがった理由によって、大多数の国民的通念として戦争責任から除外されて来た。しかし今日あらためて戦争責任の問題を発展的に提起するためには、どうしてもこの二者を「先験的に」除外するドグマを斥けねばならぬ。

 天皇の責任については戦争直後にはかなり内外で論議の的となり、極東軍事裁判のウェッブ裁判長も、天皇が訴追の対象から除かれたのは、法律的根拠からでなく、もっぱら「政治的」な考慮に基づくことを言明したほどである。しかし少くも国内からの責任追求の声は左翼方面から激しく提起された以外は甚だ微弱で、わずかに一、二の学者が天皇の道義的責任を論じて退位を主張したのが世人の目を惹いた程度である。実のところ日本政治秩序の最頂点に位する人物の責任問題を自由主義者やカント流の人格主義者をもって自ら許す人々までが極力論議を回避しようとし、或は最初から感情的に弁護する態度に出たことほど、日本の知性の致命的な脆さを暴露したものはなかった。

 大日本帝国における天皇の地位についての面倒な法理はともかくとして、主権者として「統治権を総攬」し、国務各大臣を自由に任免する権限をもち、統帥権はじめ諸々の大権を直接掌握していた天皇が――現に終戦の決定を自ら下し、幾百万の軍隊の武装解除を殆ど摩擦なく遂行させるほどの強大な権威を国民の間に持ち続けた天皇が、あの十数年の政治過程とその齎した結果に対して無責任であるなどということは、およそ政治倫理上の常識が許さない。事実上ロボットであったことが免責事由になるのなら、メクラ判を押す大臣の責任も疑問になろう。しかも、この最も重要な期間において天皇は必ずしもロボットでなかったことはすでに資料的にも明らかになっている。にも拘らず天皇についてせいぜい道徳的責任論が出た程度で、正面から元首としての責任があまり問題にされなかったのは、国際政治的原因は別として、国民の間に天皇がそれ自体何か非政治的もしくは超政治的存在のごとくに表象されて来たことと関連がある。

 自らの地位を非政治的に粉飾することによって最大の政治的機能を果たすところに日本官僚制の伝統的機密があるとすれば、この秘密を集約的に表現しているのが官僚制の最頂点としての天皇にほかならぬ。したがってさきに注意した第一の点に従って天皇個人の政治的責任を確定し追及し続けることは、今日依然として民主化の最大の癌をなす官僚制支配様式の精神的基礎を覆す上にも緊要な課題であり、それは天皇制自体の問題とは独立に提起さるべき事柄である。(具体的にいえば天皇の責任のとり方は退位以外にはない。)天皇のウヤムヤな居据りこそ戦後の「道義頽廃」の第一号であり、やがて日本帝国の神々の恥知らずな復活の先触れをなしたことをわれわれはもっと真剣に考えてみる必要がある。

 天皇の戦争責任は(残念ながら)(法的には)(政治的には)あるとは言えない。という“無かった”の上にわたしたちの戦後は成立し今に至っている。沖縄住民集団「自決」問題の責任が(彼に)<無かった>という事実が法的に確定していくとすれば、それは天皇において起こった事がその末端においても確認されるということで、当然のことにすぎない。

 丸山は「天皇が、あの十数年の政治過程とその齎した結果に対して無責任であるなどということは、およそ政治倫理上の常識が許さない。」と言った。私もそう思う。朱子学の大義名分論の二種類の過激化として、水戸学と平田派国学があり、明治維新の思想的根拠はそれだった。45年8月まで日本を支配した狂気(一億玉砕)にもそれらは深く流れていた。

政治倫理上の常識、と丸山が言うときそれは儒教的あるいはカントヘーゲル的な常識と考えていいだろう。では、水戸学と平田派国学的な常識から考えれば、天皇は無罪になるのだろうか。断じてそんなことはない。無罪を導こうとすればそれは「奴隷の神学」から、だけだ。

老人介護問題

http://med-legend.com/mt/archives/2005/09/post_665.html 医学都市伝説: 老人介護を楽になる方法

「痴呆老人を介護する家族の苦労というのは並大抵のものではな」い。どう向きあったら良いか?

上記ブログでは、「言語的コミュニケーションを重要視するな」と提唱している。

したがって、その対応は非言語的なレベルでの受容というものが中心になるべきで、もっと簡単にいえば、「説教せずに、相手のいうことはハイハイと受け入れ、主にボディコンタクトなどを介して行動を導く」という単純な手順だけで、痴呆老人の問題行動のかなりの部分は軽減する。もちろん、しつこい非現実的要求が続くことはあるが、それを言語的説得しても意味はない。あえていえば、「とにかくその場はゆったりとごまかす」という対応で十分だ。何しろ相手はぼけているのである。このアドバンテージさえ自覚すれば、いくらでもごまかせる。

その意味では、痴呆老人への対応のエキスパートはそこらの医療福祉関係者ではなく、リフォーム詐欺などを生業にしている連中であろう。非言語的レベルで相手の不安をうまく和らげれば、言語合理性のレベルでは無理とも思える消費行動に引き込むことも出来るのだ。医療福祉関係者はこのテクニックを、何としても学ぶべきであると思われる。

老人介護のことは何も分からない。ただ「非言語的レベルで相手の不安をうまく和らげ」るというのは、どんな場合でも大事なことなのだろう。わたしにはできないが*1・・・

*1:居直らない!

22日20時

事件発生後、4日以上経ってようやく「Warning!!」の怖い壁紙を消すことができました。もちろん主に友人の力によってですが。

さて、Firefoxにでも乗り替えるかな。

(ところで、怖い壁紙に脅かされながら、デリダとか致死性とかゴタクを並べるってちょっと変ですね。今回ウイルスにやられたのはうちの奥さんので、私のは大丈夫だったのです。だからデリダとかの文章はその壁紙とは離れた場所で書いたのです。)

教育勅語

教育ニ関スル勅語

朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國軆ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン

斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ挙挙服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

明治二十三年十月三十日

   御名御璽

昭和23(1948)年 国会で排除・失効確認を決議

最悪の「天皇制支持者」たち

http://blog.livedoor.jp/yuichi_fkd/archives/50126247.html

なにものかのひとりごと:紀宮結婚を騒ぎ立てる日本列島の薄気味悪い空気を感じて

最悪なのはもちろん、上記記事の筆者フクダユウイチ氏ではなく、下記のようなコメントを付ける奴ら。

なさけない。

フクダユウイチくん

ついに超えてはいけない一線を越えてしまったね。

Posted by あ~あ at 2005年11月16日 18:56

日本の禁忌に触れないほうがよろしいかと。

Posted by 天皇家は日本の禁忌の一つです。 at 2005年11月16日 19:04

あーあやっちゃったね・・。

荷物まとめてどこかに逃げた方がいいよ。

しかし本当に頭悪いんだね。

Posted by ここの閉鎖も時間の問題 at 2005年11月16日 19:11

ところで、裕仁氏は「皇祖皇宗に対し、又国民に対し、責任をおとり被遊、御退位被遊が至当なり」であったのに退位しなかった。もはや憲法1条を廃棄するしかわたしたちの倫理の根源を救うことはできないのではないか、と思わないでもない。参考 http://d.hatena.ne.jp/noharra/20051109

(11/22追加)

4/9 日本軍人に強姦された真実の被害者であったとしたら、

ebizoh ebizoh 『サリノグさんが日本軍人に強姦された真実の被害者であったとしたら、日本人として哀悼の意を表します。

しかし、彼女に国民基金(亜細亜女性基金のこと?)の受け取り拒否を唆した者は、おそらく自己の政治的主張の道具としてしか彼女を見ていなかったのでしょう。日本がフィリピンと請求権処理の条約を結んだ当時は、今後戦争に関わる被害が新たに明らかになっても、フィリピン政府が日本から得た賠償金を原資として対処するという合意内容を含んでいたのですから、国際法の少数説のロジックに依拠して日本政府の国家賠償を求めるべきという無理筋の要求が通るかのような甘言を弄して、フィリピン人にとっては大金のはずの基金の受け取りを拒否させるとは、そう唆した者は無慈悲で非道な政治的動物ですね。』 (2007/04/09 06:35)

noharra noharra 『ebizohさん 数週間に渡る応答の遅れすみません。

>>>サリノグさんが日本軍人に強姦された真実の被害者であったとしたら、日本人として哀悼の意を表します。

この文章は実際にその人の遺族の前で発言することができないおかしな文章ですね。

あなたはサリノグさんについて発言しない権利を十分持っています。にもかかわらずあなたは「哀悼の意」を表明した。これはサリノグさんとの1対1の関係に立ったということです。

その上であなたは「サリノグさんが日本軍人に強姦された真実の被害者であったとしたら」、と書き、サリノグ証言には疑問の余地があると(死んだ)彼女の前で述べています。

「サリノグ証言に疑問の余地がある」とあなたが判断する根拠は何ですか?

あなたはサリノグさんについて発言しない権利を十分持ってたのにかかわらず、なぜ死んでまで彼女の名誉毀損を行為するのですか?』 (2007/04/09 07:33)

ebizoh ebizoh 『>野原さん

>数週間に渡る応答の遅れすみません。

いいえ。気にしておりません。

野原さんも他事や病気があったようですし、私もノーモア氏や永井和教授ご本人?との議論以外に余暇に使える時間はほとんど残っていませんでした。

また、今日の10時から始業ですので、私の方も、今後の応答はかなり後になってからになるかもしれません。

ただ、野原さんやノーモアさんと喧嘩したおかげで、永井和教授ご本人?との知的に高いレベルでの対話の機会をもてたことには、お二人に感謝せねばならないとも思っております。

>この文章は実際にその人の遺族の前で発言することができないおかしな文章ですね。

もちろん、遺族の前で哀悼の意を表するとしたら、何も限定を付けずに単なる死に対しての哀悼のみを表するか、サリノグさんが真実の犠牲者との確信を持っていた場合にその旨を表するかどちらかでしょう。上記文章は、単に事実を確定し得ない一人の日本人が一人のフィリピン人に対して表した意見にすぎません。

>あなたはサリノグさんについて発言しない権利を十分持っています。にもかかわらずあなたは「哀悼の意」を表明した。これはサリノグさんとの1対1の関係に立ったということです。

あくまで、サリノグさんと私の1対1の関係だからこそ言える言葉です。

>その上であなたは「サリノグさんが日本軍人に強姦された真実の被害者であったとしたら」、と書き、サリノグ証言には疑問の余地があると(死んだ)彼女の前で述べています。

「サリノグ証言に疑問の余地がある」とあなたが判断する根拠は何ですか?

疑問の余地があると述べているのではなく、事実を確定しえずその権限も持たない一個人としての立場の表明ですね。

>あなたはサリノグさんについて発言しない権利を十分持ってたのにかかわらず、なぜ死んでまで彼女の名誉毀損を行為するのですか?

事実を確定し得ない以上、彼女に対する名誉毀損ではありません。

真実の被害者であった場合には、真実の被害者として哀悼するし、あえて明示はしませんでしたが、真実の被害者でなくとも、一人の個人の死に対して哀悼する気持ちはあります。

むしろ、真実を確定し得ないのに真実と断定して哀悼の意を表してしまうことは、仮に日本軍人が真の加害者ではなかったた場合には、その冤罪を負わされた日本軍人及びその遺族に対する名誉毀損になりますから、あえて断定していないのです。それが法律家としての良心です。

私としては、その後のコメントに対する野原さんの意見こそ聞きたいことでした。』 (2007/04/09 08:47)

十里益代 十里益代 『こちらにもnatamaru氏が現れているのでしょうか?』 (2007/04/09 14:18)

節翁 節翁 『

トマサ・サリノグさん、ご逝去の報せに接し、心から哀悼の誠を捧げます。

死を前にして訴えられた安倍首相宛てのお手紙、胸詰まり涙拭いながら読みました。

「日本政府が事実を承認すること」「人権と正義を回復すること」

その願い、生前に実現すること叶わず、ご無念はいかばかりだったことか。

ご遺志を引き継いで私たちはたたかいつづけます。

ロラ・マシン、あなたのことを決して忘れません!

オリエンタル・ミンドロ在住 鈴木節夫 ジュリ』 (2007/04/10 11:17)

noharra noharra 『鈴木節夫 ジュリ さま

はじめまして コメントありがとうございます。

六十数年前日本軍との出会いによって、多くの多くのフィリピン人が被害を受けました。ところがわたしたち内地に居た(あるいは後から生まれた)日本人はその実態を知らず、知らされてもできるだけ関与しないようにして生きていこうとし、またそのことは可能だったようです。数少ない例外を除き。

わたしは関係を拒否しようとせず、サリノグさんの正義への祈り(叫び)をむしろわたし自身への祝福として聞き取りたいと思っています。

>> ご遺志を引き継いで私たちはたたかいつづけます。

>> ロラ・マシン、あなたのことを決して忘れません!

              野原燐』 (2007/04/10 19:42)

noharra noharra 『海老蔵さんへ 

サリノグさんが国民基金を受取拒否した根拠は、彼女自身の意志ではなく、誰かからのそそのかしによる、とあなたが判断した理由は何ですか?

それを示せなければあなたは、根拠無く彼女を貶(おとし)めたことになります。』 (2007/04/10 21:12)

ebizoh ebizoh 『>野原さん

上記京都のブログより引用

>2000年12月、わたしは東京で「女性国際戦犯法廷」に参加し、正義が達成されたという感覚を、やっと感じることができました。これまでは決して感じることのなかった気持ちでした。わたしはまた、アジア女性基金が提供してくださるという償い金では、わたしが女性として受けた権利の侵害、わたしに対して犯された重大な諸犯罪は、決して埋め合わせにはなり得ないことにも気づきました。

『気づきました』とは、それまではそう思ってはいなかったという意味です。

女性国際戦犯法廷の政治運動家が、目の前で法廷を僭称する茶番劇(秦氏によるとカンガルー裁判)を行ったために、サリノグさんにそう確信させたという点で、彼らの罪は重いでしょうね。

私の上記コメントは単に合理的推認を述べただけであるのに、彼女を貶めたと感じたのは、野原さんが女性国際戦犯法廷の運動を支持しているが故の主観的判断にすぎません。』 (2007/04/11 10:55)

mojimoji mojimoji 『>ebizohさん

あきれ果てた人ですね。「気づいた」と自己認識している人を「そそのかされた」と言うのは「貶める」ことそのものでしょう。/←この言明は、女性国際戦犯法廷が茶番であろうとなかろうと成立します(茶番ではない、と僕は主張しますが)。対して、あなたの発言は「茶番である」を前提しなければ成り立たない言明ですね。「主観的」(というよりも独断的)判断に陥っているのはebizohさんの方であることは明白ですね。』 (2007/04/11 23:32)

ebizoh ebizoh 『>mojimojiくん

>あきれ果てた人ですね。

>「気づいた」と自己認識している人を「そそのかされた」と言うのは「貶める」ことそのものでしょう。

私も、キミ達のそういう情に訴える被害者ファッショにはあきれ果てています。全文を良く読もう。「気づきました」という以上、それまではそんなこと考えてもいなかったはずである。また、それまで基金の受領を持ちかけてきていた人に対して、サリノグさんは女性戦犯法廷を見たおかげで断りの返事をする決意をしたことも書いてある。つまり、サリノグさんはそれまでは断るか否か未定だったのに、彼女にそう決心させたのが女性国際戦犯法廷ショーなのだ。これは、彼女を貶めてはおらず、女性国際戦犯法廷のメンバーを批判しているだけ。弱者を盾にする彼らの邪悪さは隠しようが無い。

>←この言明は、女性国際戦犯法廷が茶番であろうとなかろうと成立します(茶番ではない、と僕は主張しますが)。

成立しませんよ。上記コメントで説明済み。

>対して、あなたの発言は「茶番である」を前提しなければ成り立たない言明ですね。

茶番でなく、きちんとした正統的な法廷ショーだったとしても、サリノグさんの決定を唆したことには変わりは無いので、成り立つ言明です。

>「主観的」(というよりも独断的)判断に陥っているのはebizohさんの方であることは明白ですね。

いいえ。私と同様の判断は、秦氏のような学者もしているので、必ずしも主観的とは断じ得ません。

mojimojiくんの判断こそ、独断的に被害者を食い物にしているでしょう。』 (2007/04/13 01:35)

jujo jujo 『>>>受け取り拒否を唆した

>>「気づいた」と自己認識している人を「そそのかされた」と言うのは「貶める」ことそのものでしょう

>それまでは断るか否か未定だったのに、彼女にそう決心させたのが女性国際戦犯法廷ショーなのだ

「受け取り拒否」をサリノグさんに「唆した」と断定するに足る合理的な根拠が示されていませんね。

サリノグさんの発言には、彼女が民衆法廷に参加し、参加を契機に「償い金が決して埋め合わせにはなり得ないことにも気づいた」ことが言及されています。ここには同法廷への参加を契機として、サリノグさん自身の主体的判断として「埋め合わせにはなりえないと気づいた」ということしか述べられていません。

なお、同法廷は「基金を受け取るか否か」が主論点としたものではありません。

「唆し」と断定するからには「基金が埋め合わせになりえるか否か」ではなくて「基金を受け取るか拒否するか」に関する「唆し」の事実を提示してくださいますでしょうか。同法廷で「受け取り拒否」に関する議論が行われたという事実があるのですか?』 (2007/04/13 13:36)

noharra noharra 『ebizohさん

(応答が遅くなりました。)

ebizohさんへのmojimojiさんの批判、jujoさんの反問に、わたしも同意します。答えてください。

 

海老蔵さんから最近発言がない。しばらく沈黙することに決めたのかもしれにない。前に書いた文章なのでUPしておきます。

>>>これは、彼女を貶めてはおらず、女性国際戦犯法廷のメンバーを批判しているだけ。

何が「彼女を貶める」ことか。

これにOKすればお金と正義を両方得ることが出来ますよという基金からの誘いを彼女はなぜ断ったのでしょうか?

理由を尋ねる前に、尋ねる根拠が私の側に在るのかがまず問題になります。

私はサリノグさんの友人でも指導者でもなく彼女の決断に意見を言う立場にない。であるから彼女の決断の理由を聞く根拠もないのです。

ebizohさんもサリノグさん及び彼女を取り巻く情況についてほんの少ししか知らないでしょう。であるにもかかわらず、あなたは「サリノグさんが国民基金を受取拒否した根拠は、彼女自身の意志ではなく、誰かからのそそのかしによる、と」あなたは決めつけた。

同じフィリピン人女性であっても例えば彼女が大学教授であったらあなたはそうした決めつけをしたでしょうか?彼女が無学で貧しい一生を送った女性である、したがって金の力でどうにでもなるべき存在であるのに、「一寸の虫にも五分の魂」を見せた。それが気に入らない。サバルタンはサバルタンらしくしておれ。

表明された一つの意志を彼女自身のものでないと言って、抗議されても反省しないとは、以上のような物事の捉え方であるとしか考えられない。

>>>全文を良く読もう。「気づきました」という以上、それまではそんなこと考えてもいなかったはずである。

そう断言できる根拠はありません。彼女は基金というよく分からないがそれでも大きな力を持つもの(オーソリティ)の誘いを断るために、世の中には別の権威もある(あった)ということを引き合いに出す必要があっただけ、かもしれない。

ところで、ebizohさんは「野原がコミンテルンに洗脳されている」と判断しているのでしょうか。

「Q1-3:コミンテルンの対日テーゼには洗脳されましたか?」と書かれましたね。

ここではぜひ「Yes」と答えて欲しいですね。Yesなら、ebizohさんは関係妄想に囚われただたのトンデモだ、と決定するからです。あなたがサリノグさんを貶めたという事実は消えないものの、その社会的価値はほぼ無くなります。

(一方ただのトンデモでは今後の対話意欲に影響を与えてしまうが)』 (2007/04/22 10:07)

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20070409#c1177203232