神~測り

私たちは、そうではなくて、ある他の測りを持っています。すなわち、神の子、まことの人間という測りです。彼こそが、ほんもののヒューマニズムの測りです。あるときまるで流行の波ようにやって来る信仰は「大人」ではありません。大人であり、熟した信仰は、キリストとともにある友情のなかに深く根ざしているのです。この友情が、すべての良いものに向けて私たちに開かれ、正しいか間違いかを、また欺瞞か真理かを識別するための基準を与えてくれるのです。

(コンクラーヴェ開始のラッチンガー枢機卿によるミサ説教より引用。)

http://d.hatena.ne.jp/karpos/20050420#p1

 ラッチンガーさんが新教皇になられたそうです。わたし、キリスト教にもカトリックにも全然知識も関心もありません。自分に遠い領域にも出会えるのがネットのおもしろさですね。*1

 ただ上記の文章を読んでなんとなく引用してみたくなりました。「真理が存在する」という命題をポスト構造主義は批判したわけです。*2一方、「真理あるいは正義は存在しない」=なんでもあり! という風潮に対し激しくあらがっていかなければいけない。(ここでわたしが、あらがわなければいけないと考えているのは、宣長から小泉首相に受け継がれた“言挙げを馬鹿にし、結局ナルシスティクな国家主義に帰着する”思想です。)*3

*1:karposさんにはご寛恕を請うしかないが。

*2:ほんとか?

*3:わたしが上の文章をまったく誤読している可能性も高いのですがそれはいつものことだから言い訳はしない。

天地の始は今日を始めとする理なり。

北畠親房『神皇正統紀』p83(岩波日本古典文学大系)

バトンの続き(6/18記)

2.Song playing right now (今聞いている曲)

なし。

3.The last CD I bought (最後に買った CD)

マーケットで315円だったので、ベートーベンヴァイオリンソナタ「春・クロイツェル」ロイヤルフィルハーモニー管弦楽団というのを買った。

去年はダイソーで百円の浪花節のCDを沢山買った。女流浪花節(其の六)三門柳はなんと「乃木将軍」で靖国神社が出てくる。息子を戦争で亡くした田舎の老婆がひとを戦争に駆り立てる将軍なる者への恨み辛みを(目の前にいるのが乃木だと気付かず)述べ立てると乃木将軍は自分が糾弾されているのに一言も弁解せずかえってお祖母さんに同情する、という話。現在の靖国の方がずっと偉そうにしてるのはいったいどういうわけだろう。

5.Five people to whom I’m passing the baton (バトンを渡す 5 名)

id:dempax さん

id:index_home さん

(なんだかルールもよく分かっていないのにすみません、無視してもらってもいいですよ)

あとはまた考えよう。

すいませんでした、ButterflyNamidaさん

 前回のコメントは感情的になりすぎていました。上記と差し替えました。

すいませんでした。

なお、(訂正前は以下の通りでした)

信じられません。そんなことを言うくらいなら「大東亜の大義」について真面目に考えたらどうだ。「イラク占領」に加担することは大東亜の大義に反すると思うぞ。あなたの現在はアメリカに魂を売り渡しているわけではないのですね。

「実際、その通りだっただろう。」は全くの事実誤認。

小さな世界の反転

 今日は便秘に苦しんだ。金曜日に呑んだバリウムが腸の中で堅く固まって出てこないのではないかという悪夢に。診療所に電話すると、下剤*1を飲み、1リットルの水を飲めと指示された。指示どうりしても尿が出るだけで便はでない。3時間後くらいにいきむと、やっところんと小さな固まりが出た。ふ~ 良かった。

 便秘の原因は、バリウムを呑んだ翌日、息子のキャンプについていって泊まったこと。教訓:バリウムを飲んだ翌日は旅行に行かない。どうしても行く場合は2リットルほど水を飲む。*2

*1:下剤はバリウムを飲んだとき、念のため4錠渡されており、2錠はその日飲んだので2錠余っていた。

*2:15分に1リットルを2回。

「受忍しない」

手元に1枚の新聞の切り抜きがある。大江健三郎の、2005年8月16日付けの朝日新聞・朝刊の連載エッセー「伝える言葉」である。

「一九四五年三月、米軍が沖縄列島ではじめて上陸した慶良間諸島で、住民たちが集団で自殺したということが起こりました。渡嘉敷島で、三百人以上、座間味島で百数十人が死に(あるいは殺され)ました。」というのが冒頭の文章である。

読み進めると、「私はいま、一九七〇年に書いた『沖縄ノート』(岩波新書)での、慶良間諸島の集団自殺をめぐっての記述で、座間味島の当時の日本人守備隊長と、渡嘉敷村の同じ立場だった人の遺族に、名誉毀損のかどで訴訟を起こされています。」とある。まさにこのテーマについての当事者の一方の発言である。だからこれに触れて書いてみようと思ったのだが、なかなか書けない。

 はっきり言ってあまり良い文章だとは思えないのだ。最初の方に、石原昌家という人の文章が引用されている。

「沖縄戦で住民が日本軍に積極的に協力したという基準で適用されるのが「戦傷病者戦没者遺族等援護法。認定基準の一つに、「集団自決」という項目があり、ゼロ歳児でも戦闘参加者として靖国神社に合祀されているという事実を直視すべきだ」

戦傷病者戦没者遺族等援護法というのは、「 恩給法の適用を受けない軍人・軍属及び準軍属が、在職期間内に傷病を受けた場合、その傷病の程度に応じて、本人またはその遺族に対し各種年金が支給する」ことなどを定めた法律らしい。いわゆる「集団自決」などの場合は純然たる民間人だから、上の説明からは貰えないように思える。*1

ところが実際には、「集団自決」などの場合でも貰えることがある。「集団自決」は国家の責任だから当然である。というか本来は別の論理で別の法律で出すべき筋のものである。そのような立法はなされなかった。このような場合に、行政は相手が「頭を下げてくること」を条件に恩恵的に年金を出すことがある。金を出すのだから頭下げてもらうのは当たり前って、それは民主主義国家じゃあないだろう。でこの場合の条件というのが「軍からの命令」の存在である。で曾野綾子以下の何人もの人がこの「軍からの命令」が真実のものかどうかをあげつらいはじめるのだが、これは行政にとっては大きな計算外れだったに違いない。行政にとって、この「軍からの命令」はその真偽を厳密に問うべき物ではないのだ、本来救済すべき遺族に対し救済を別の方法で与えるための便法に過ぎないのだ。

 私は戦傷病者戦没者遺族等援護法の認定基準について勉強したことはない。*2しかし、本来は軍人に対する制度である援護法を適用すること自体がおかしい。というところから考えた場合上のような理屈が成り立つ。その結果仮にAさんの名誉が毀損されたのであれば、責任は「集団自決」に正面から補償する制度を作らなかった国家にあるのではないか。

 このような「恩恵としての行政」の問題は、当然「自決」をどう捉えるか、軍に殺されたのか否かというイデオロギー的問題を当局寄りに解決することを伴う。

だからといって「靖国に合祀する」かどうか、は靖国神社という一神社の判断の問題であり、援護法の適用の問題とは全く無関係のはずだ。大江の(引用を含む)文章はここが全く不明確なので、悪文だと思う。

 そしてさらに文章の後半では、憲法13条幸福追求権がでてくる。「すべて国民は、個人として尊重される。(略)」

戦争放棄の項とあいまって、この項は60年前の夏、戦争が終わった日に日本人が感じた解放感の柱だったものを表現していると思います。その解放感のすぐ裏側には(略)個人に死を強制する国という存在への恐怖が、なおこちらをジッと見ている、という気持ちも残っていたのが思い出されます。

確かに大江にとっての真実はここにあるのだろう。

国家は戦争の時個人に死を強制する。したがって国家を拒否できないなら戦争を拒否すべきだ。そう言われれば納得する。

ただ、大江がもっとも美しいと讃える13条には「公共の福祉に反しない限り」という魔法のフレーズが含まれている。このフレーズにどう向きあうべきなのか、大江は問題点を提示しながらその問いには答えない。

 広島・長崎で、また沖縄で、人間として決して受忍できない苦しみを、人間がこうむったこと。

 例えば中国大陸のある作戦で華々しく戦いながら死んでいった兵士は「受忍できない苦しみをこうむったこと」にはならないのか、と反問してもしかたないだろう。「人間として決して受忍できない苦しみ」という修辞にこだわってもしかたない。それを記憶し、伝えることが本当に可能かどうかも分からない。ただ個人的に考えてどうしたって受けたくない苦しみには違いない。そのような苦しみをなくしていくためにはどうすればよいのか考えなければいけない。

*1:だいたい階級制度のきびしかった戦前の給料に基づく恩給法をそのまま継続した事自体が、戦争責任問題との絡みで問題なわけだが。

*2:だから厳密には間違いがあるかもしれない。

詳しく言うと(kamayanさんのコメントを読み追加した)

えーと、小選挙区で自民党が30%も増加した。

その根拠となる得票数を見ると643万票増加している。

しかし民主党も自民党には及ばないが、得票数は299万票増えている。

得票率(得票総数に対する割合)をみると

自民党 : 前回43.85%  今回47.77%  3.92%増加

民主党 : 前回36.66%  今回36.43%  0.23%減少

民主党の得票率は減少したといってもわずか0.23%。

したがって「自民党は4%の得票率の増加で、30%の議席数増を得た」と言ってもよいだろう。

比例代表では、自民党は3.23%増、民主党は6.36%減と小選挙区に比べると差は大きい。しかし比例代表では当選者数にはマイルドに結果し、小選挙区では劇的に結果する。

(昨日書いたときは民主党の得票率もっと大きく減ったと誤解していました。)

オバサンの発見

これに対して、「フェミニストの視点」の理論家たちはオバサン*1としての社会的位置をより優れた「知」の基礎にポジティヴに位置づけます。彼女たちは、現実の社会関係は抽象的で「客観的な」位置からではなく、日常世界の具体的な社会的位置から見渡せるものであると主張します。そうすることによって、オバサン*2たちは同時に社会思想における「人=男(Man)」を脱中心化します。

http://d.hatena.ne.jp/toled/20050924#p1

だとしたら、「人=男」を脱中心化するだけでは不十分でしょう。さらにフェミニズムにおける「白人の、経済的に恵まれた、異性愛者の、西洋の*3フェミニストの関心を脱中心化する」ことが必要になります。(同上)

コリンズは白人家庭の使用人としての黒人女性の位置に注目します。彼女たちは白人世界の「内部に」おり、白人の現実を見ることができました。一方で、黒人女性はアウトサイダーでもありました。というのも、「彼女たちは決して白人の『家族』に属してはいなかった」からです。このように、彼女たちはユニークな位置にありました。コリンズはこれを「内側のアウトサイダー」と名付けます。(同上)

オバサンは主婦である場合、その家庭ではインサイダーであり支配者であると言えなくもない。しかし、家族の中に要介護老人などをかかえると、彼女は労働時間と感情労働を限界なく搾取されることになる。

*1:原文:女性

*2:原文:彼女

*3:「若く知的な」が抜けている

語ること/その手前に留まること

悲しみの言語を使うことによって、わたしは当分の間、みずからの悲しみを忘れ去った--言葉の魔力は非常に強いので、われわれを狂わせ、破滅させかねない激情のすべてを、制御可能なものに弱めてくれるのである。

(p300『拷問者の影』ジーン・ウルフisbn:4150106894

語ることは私たちの心をなぐさめる、なぜならそれは[私を]普遍的なものへと「翻訳」してくれるから、とキルケゴールは記している。

 言語の第一の効果ないしは第一の使命、それは私から私の単独性を奪うと同時に、私を私の単独性から解放してくれることである。私の絶対的な単独性を言葉で中断することによって、私は同時に自分の自由と責任を放棄する。語り始めてしまったとたん、私はもはや決して私自身ではなく、一人でも唯一でもなくなってしまう。奇妙で逆説的で、おそろしくさえある契約だ。

(p126 デリダ『死を与える』isbn:4480088822

 ウルフとデリダの言っていることはかなり近い。沈黙に於いて<私>は自身を破滅させかねない激情あるいは単独性といったものに囚われている。しかし語ることによって<私>は単独性を奪われ、ある社会における交換可能な存在者になってしまう。

それでは、上記の「多くの老人たちが、黙り込むか「うーん、忘れたなあ」という決まり文句を返してくる。」における沈黙も、単独性の名において弁護されるべきだろうか。おそらくそうではない。

「言おうとしないことを許してください」の場合は、語り手の内部に「言うべき事がある」あるいはすくなくとも「言うことがあるべき」ことを含意している。言うべき事と沈黙という外面とのあいだのすさまじい圧力差が、単独性という強度を産みだす。「うーん、忘れたなあ」の場合は言うべき事のしっぽはすでにそこにあるのにそれを見ない振りをし忘れたふりをする。そしたそういう「振りをする」ことをきみは非難しうるのかよう非難できはしまい、という居直りがある(のではないか)。彼は一人で居ても単独者ではなく、何か(日本という共同性)に許されて居る。