善意にもとずく運動

http://www.ac-net.org/honor/ という頁が最近出来たようだ。「イラクで人質になった方々の活動に敬意を表し、これらの方々への非難・中傷を直ちに止めるよう訴え」ている。人質5人に対するバッシングには反撃すべきだと私も思う。  でもね・・・ 一応書いておくと、下記のような表現は、私には違和感がある。善意のひとによって善意の人に呼び掛けられている。政治的発言とは「敵/友」の分割線を引き直すことではないのか。いくら善意だけで発そうが「自衛隊撤退要求」は政治的主張である。どんな動機で行こうがいまどきイラクへ行くことに対しては、自らの思いからは一方的と思える政治的な評価をさまざまな陣営から受けてしまうことになるのはしかたのないことだろう。(もちろん今回のように日本中に情報が浴びるように注ぎ込まれる状態は予想外であり彼らにとっては被害以外の何物でもないでしょうが。)善意ではなく、常識と知性に訴えかけていけばそれでよいと思う。

 しかし、5人の方々は戦禍のイラクの悲惨な事態に心を痛め、ジャーナリストとして、また草の根のボランティアとして、イラクの人々に人道支援の手をさしのべようとした若者です。

本名とは何か

地村夫妻という人たちがどういう方なのかさしたる興味はない。なら書かなきゃいいのだが。今日新聞の一面に載っていた。22歳から16歳のわが子に対し日本名を付けたという。いままでの名前は偽りのものだったのか。その子への愛情といままでの名前への愛情は切り離せるものなのか。親子を取り巻く政治的社会的関係が(今にして思うと)不本意なものであったとして、20年の歳月はリセットなどできない。今までの名前を変える必要などない。家庭内のことだから勝手にすればいいのだが、私が書いているのは、おそらく逆の作用(日本名に改名するのが自然だとする意見)が家族に働いた可能性があるに違いない、と思ったからだ。日本は北朝鮮に負けないぐらい不自由な国である必要はない。

根源的なものにたいして受動的

高島氏の本からのノート。丸山真男は山崎闇斎のことを「あまりに敬虔な朱子学者」と呼んだそうですが、高島氏によれば、朱子学と闇斎学は全然違う、ということになります。*1

例えば「天地の間は唯理と気のみ。しこうして神なる者は、理の気に乗りて出入りする者なり。」という文は朱子の文であり、闇斎の文でもある。しかし、同じタームを使って述べていても発想の根拠が違うのだ。違いを簡単にまとめると、以下の如し。

朱子学:

人は聖人となり、太極という天地の動きの根源そのものになると考えられている

主体性の極限へ向けての能動的な上昇の方向を持つ

闇斎学:

教えによって、この太極から流出する働きにひたすら随順することが思われている 

根源的なものにたいして受動的

天理はすでに人に与えられて内在するものであり、それを自覚にもたらすものが教えであり学問にほかならない

       で、ここから話は急に飛ぶが、

昨日NHKの広島をテーマにした番組「復興」というのを見て、市の中心部がすべて焼け跡になりわずかなビルの残骸以外文字通り何もないリアルな画像を見て、ショックを受けました。それがわずか数年で力強く復興していくのはやはり人類史に残る「復興の物語」として普遍的な力を持つものです。そしてアメリカの犯罪をあくまで追求するという方向をとらなかったことについても、追求することは正義を求めることであるがやはり憎しみを保存し場合によっては強化することであるので、少なくとも半ばは良かったと評価すべきでしょう。何もない荒野のイメージからの衝撃を持たずにヒロシマに言及してはいけないと、自戒しなければいけないと思った。

そして広島では今年も例の如く「平和の誓い」なるものが宣言された。いまグーグルで探したら適当なものがなかったので、だいぶ古いものを引用する。「広島平和宣言(昭和57年)

 燈燈無盡‐ヒロシマの平和の心は、すべての人々に受け継がれ、語り継がれなければならない。」http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/heiwa/hiroshima-j/etc/20040305org00m040995000c.html

ここでは、「ヒロシマの平和の心」というのがアプリオリに置かれている。ここには「天理はすでに人に与えられて内在するものであ」るのだという前提と、したっがって私たちがしなければいけないことは「それを自覚にもたらす」ことつまり平和教育、「教えであり学問にほかならない」という方法論がある。これって闇斎主義そのものではないか。とちょっと思った訳であります。

 わたしはこれまで戦後平和絶対主義を、宣長の思想や京都学派など色々なものと似ていると強弁してきました。わたしの主張は飛躍と矛盾ばかりだといわれるでしょうがもうちょっとがんばって材料を集め、数年がかりでなんとか話をまとめたいと思っています。

ところで、「ヒロシマの平和の心」とは何だろう。我が家を中心に都会がすべて荒野になったときひとは何を思うのだろう。一つは「戦争遂行は間違いだった」という思いだろう。NHKの番組に出てきた広島市の課長さんなどは当然国家の戦争遂行を下部で職務として支えていたわけだ。彼は私のしてきたことは間違いだったと娘に懺悔する。儒教的には政治は民の生きることを支えるためにあるのだから、彼の懺悔は当然だ。だが平和とは何か。国家は戦争する権利はないのか。そうだ国家は戦争する権利はないのだ、と彼は考えただろう。日本国家は戦争する権利がない。アメリカも中国も、そして日本人の少なくない部分もそう考えた。だが三者の考えたことは(もちろん?)三者とも全く違ったことであった。そして59年後、ヒロシマの中学生は何を「平和」といっているのだろう。わたしにとって平和とは何か?それは自衛隊と米軍に守られた欲望資本主義の現状のことではないのか。それとは違う何かがある、と私は言えない。だからわたしは「平和」という言葉を肯定的に使っていくつもりはない。

戦争の不在を求めることが、国家による国家に至らないエスニックグループや個人に対する抑圧を放置することを伴ってはいけない。対北朝鮮融和主義には反対しなければいけない。

*1:isbn4-8315-5043-9 同書p39-40

小さな神たち

 記紀で興味深いのは、理解できないような異様な音のつながりをもつ言葉(神の名前など)たちである。神話体系としては主神が誰でそれに次ぐものが誰なのかというヒエラルキーが不分明だ、と指摘できる。

古事記の最初の神々を木村紀子氏の整理により記してみよう。*1

1.天之御中主、天之常立神(とこたちのかみ)、国之常立神、

  ここだけにしか名がみえない抽象観念的な独神、三神。

2.高御産巣日神(たかみむすひのかみ)神産巣日神(かみむすひのかみ)

  別天神で「隠身」といわれながら、後に天照大神と並び高天原の神としての存在が語られる二神。

イザナギ(伊邪那岐)、イザナミ(伊邪那美)

3.ウマシアシカビヒコジ神

 ウヒジニ(宇比地邇)、イモスイジニ(妹須比智邇)

 ツノグイ(角杙)、イモイクグイ(妹活杙)

 オオトノヂ(意富斗能地)、イモオオトノベ(妹大斗之辨)

 オモダル(於母陀流)、イモアヤカシコネ(妹阿夜訶志古泥)*2

全く地上的で卑小な具象形容をもつ神名のグループ。

3のグループは名前が出るだけで何の活躍もしないのですが、高貴そうでない奇妙な名前は興味深い。

1.のグループは、3.の感覚とは全く違った高い抽象性を操る能力(中国由来のものだろうが)をうかがわせるもので、3.よりかなり後代に追加されたものだろう。富永仲基の「加上説」の好例だと思うが、そう主張したひとはいたのだろうか。

*1:p58『古層日本語の融合構造』平凡社 isbn:458240328X

*2:豊雲野神は例外とする

命の問題だとは私は思っていない

http://d.hatena.ne.jp/jinjinjin5/20041030 はてなダイアリー – フラグ、大地に起つ!

上記の日記では[雑記]人質事件 ~撤退派の主張に対する違和感~ が述べられている。

それはテロリストの要求によって国策を変更するということの意味を理解している人がどれくらいいるのかということだ。

「テロリストの要求によって」ではない。「テロリストの要求を契機にして」もう一度国策を考え直せ!と言っているのだ。

一部が形骸化する傾向にあるとはいえ仮にも国民の総意であり、それは民主主義国家にとって最も護るべき理念であることに変わりはない。

「イラク派兵は国民の総意に基づく」

という建前を大事にすべきだ、というのは正論ですね。であれば、小泉氏は「憲法9条、大東亜戦戦争*1の総括の問題からくるイラク戦への疑問」の問題、「大量破壊兵器がなかった」問題、「駐留地が非戦闘地域でなくなったら直ちに軍を返すという覚悟」の問題などをきちんと国民に説明する義務があるがそれは果たされていない。

 香田証生氏の死を見過ごしても次には、自衛隊員の死が待っているだけだ。したがってここは民主主義の大義に目覚め、国民投票(首相へのメール)直接行動(街頭宣伝)などで、「基づかなければならない国民の総意」の再審をしようと呼び掛けているのだ。

『大国への点数稼ぎの為に哀れな若者が見捨てられた』という扱いに終始しており、現在の自分たちを支える民主主義という理念に対する言及は一言も無い。『国家制度とは自分達にとって常に他者である』という彼らの主張の傲慢さに私は怒りを覚えざるをえない。

後半の部分は重要であり当たっている部分がある。*2

ただ、野原は香田証生氏=「哀れな若者」の命が大事とは言っていない。命自体についてはイラク人やパレスチナ人の命も大事だろう。問題は命への回路である。

「フラグ、大地に起つ!」さんにもお聞きしたいが、あなたは、自衛隊イラク派遣の現在に正義があると思うのですか? 

*1:「大東亜の大義」(反帝国主義)にはいくぶんかの理があったと考えるべきではないか、であればブッシュ主義とは絶対相容れないはずだ。

*2:上記に書いたとうり戦後60年間の政権の傲慢がむしろ原因だと思う。だが思想はそんな言い訳をせずに答えるべきであろう。

憲法13条

swan_slab 『こんにちは、のはらさん。

憲法13条というはてなキーワード(未完成)は私が著作権法32条などおかまいなしに憲法学者の見解を列挙しているのですが、私のスタンスはばりばりに長谷部説よりです。松井茂記教授の説も掲載する予定です。長谷部氏と松井氏のスタンスはわりと対照的で、自然権ないし切り札としての人権を認めるリベラルデモクラシーとデモクラティックプロセスに絶対的なまでの信頼をおき、すべての自由は民主主義に開かれているとして憲法は実体的な価値について語るべきではないという立場の違いがあります。大雑把に言うと。』

スワンさんからコメントいただいた。どうもありがとう。「キーワード憲法13条」読みました。憲法13条というのはある裁判に関わったとき聞いたことはありました。(ていうか法学部出身のくせにそれまで知らなかったのか。)後者の説についても興味がありますね。補充されるとのことで期待しています。

・・・じつは、今日は朝からスワンさんとの過去のやりとりを振り返り続きを書こうとしていたのでした・・・

虐殺を糾弾するだけでは

虐殺を糾弾するだけだと、レジスタンス側が意外に強かった場合、虐殺じゃあなかったじゃないか、と反撃されてしまう。戦っている当事者に対し1段も2段も高い観客席から、反ヒューマニズムという超越的価値観によって評価している態度、そうであってはいけない。政治的発言は常に、手を汚す覚悟で行われなければならない。

そもそもイラクにおける米軍の存在自体に正当性が薄い。したがってレジスタンスは正当である。(自衛隊は米軍支援のための存在だから、自衛隊も攻撃対象になる。)

自衛隊派遣の根拠はイラク支援特別措置法案である。

本法案第2条3項は、イラクについては、「安保理決議1483その他の政令で定める国連総会または安保理決議に従ってイラクにおいて施政を行う機関の同意によることができる」と定めています。

安保理決議1483は、米英軍による占領にお墨付きを与えたものなのか、というと違う。

http://www.no-yujihousei.net/siryou_kaisetu/kaisetu/chinjutu.html

本決議は、米英両国に、占領国としての国際法上の権限、責任、義務を全うするよう求めただけで、米英両国による占領統治の合法性を承認するとか、新たに占領統治の権限を付与したというものではないのです。(略)

以上のように、Authorityすなわち「イラクにおいて施政を行う機関」は、国際法上正当な統治権力として認められてはいません。違法な軍事占領と認定されたわけではありませんが、合法な占領統治と認定されたわけでもないのです。政府は、「日本政府としては合法かつ正当な占領統治と解釈している」と主張するかもしれませんが、それだったら、イラク側にも、違法・不当な軍事占領と解釈する同等の権利があると言わなければなりません。

かくしてイラク旧政権の残存勢力には、国際人道法規則を遵守するかぎり、自国領土を占領している米英軍を攻撃する正当な権利があり、イラク国民にはレジスタンス闘争を行う正当な権利があるということになります。軍事占領そのものが違法・不当と見なされ得るのですから、米英軍が治安の維持や民政安定、人道支援など、いかなる活動を行っていようと攻撃対象とすることが可能です。占領国としての国際人道法上の義務を遂行している最中でも攻撃することができます。

(大阪市立大学教授 松田竹男)

米軍は、他国を占領し他国に不幸と混乱をもたらしている。日本の自衛隊は、自衛には関係ない不名誉な軍事行動を起こしたので、日陰者だった60年経ってやっと、ふたたび封印されるべきだろう。

不穏当な発言

えーっと、だいぶ前の話だが、下記で引用してもらった。

http://d.hatena.ne.jp/spanglemaker/20050103#p3

 生きているかどうか分からないめぐみさんなるものに大騒ぎするわりには、半年以上中国に拘留されながら野口さんに対しては何故国民的救出運動が盛り上がらなかったのか。(略)

これもねぇ.日本に住む中学生が帰宅途中に北朝鮮に誘拐されることと,中国に行って向こうの国にとっての反体制運動して拘留されることがどうして同列に語れるのだろう.覚悟しなければならないリスクが全く違うではないか.

http://d.hatena.ne.jp/spanglemaker/20050103#p3

野口氏には自己責任があると。

<略>横田めぐみさん、拉致された日本人を北朝鮮から奪還せよ、というストーリーばかりが叫ばれるが、めぐみさんはまだ帰ってこない。帰ることが大事なのか。そうではなく大事なのは移動の(国境を越える)自由だろう。一人でも多くの脱北者に保護を与えることに積極的に成るよう、わたしたちは日本政府と中国政府に働きかけるべきだろう。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20041212#p2

「帰ることが大事」に決まっている.

北朝鮮人民に移動の自由を与えることや脱北者の保護を主張するのはかまわないが,なぜあえて拉致被害者を奪還することが<大事ではない>というような不穏当な発言を一緒にするのだろう.自説の説得力を下げるだけではないか.

北朝鮮による拉致被害者を奪還することと北朝鮮人民を抑圧から解放することは二者択一の問題ではない.朝鮮人民を救うために拉致被害者の救済を後回しにしなければならない理由があるならぜひそれを聞きたいものだ.

だいたい「不穏当な発言」とは何を意味するのだろう。a=Bという意見に対し反論があるのは当たり前だ。ある意見に対してそれは「不穏当だ」ということが応答になりうると考えるのは、「風通しの悪い会社」のような閉鎖空間でしか生きた(考えた)ことがないという証拠だ。

「北朝鮮による拉致被害者を奪還することと北朝鮮人民を抑圧から解放することは二者択一の問題ではない.」そのとうりですね。わたしのどこが不穏当かあなたは表現できていないが。

具体的な他者の像

 N・Bさん 遅くなりました。

1月23日の『「正義の模索」を「高次の正義の設定」にすりかえるのはやめていただきたい』という意見は全く賛成です、あの日の書き込みはそれについての追加意見のつもりでした。このようなすりかえがただ現状追認だけをもたらすのは明白です。

というところでやっと共通点がはっきり分かって書きやすくなりました。

 ただまあ、おおやさんと梶さんの言説をきちんと検討するという課題(および「現実主義にどう対抗すべきか」論)はわたしには荷が重すぎます。中途半端に言及しているので応答が(怒りを含めて)返ってきたら対応しないといけないわけですが。(おおやさんにTB送ってないなー)

 「弱い責任理論」「強い責任理論」の説明ありがとうございました。

ただ、慰安婦「法廷」問題はまず第一義的には、「「自立した個人」の意図した行為の責任だけを問う」問題です。おおやさんの言うとおりです。

しかしそれは救済を与える法が存在しないのではなく、救済を与えることを否定する法が存在するからである(時効、除斥期間、個人補償請求権の日韓基本条約等による消滅)。もちろんこの点を争う議論は法的に可能だが(eg. 除斥期間は著しく正義に反する場合には適用されない)、それは「法が不在である」という主張ではない。

http://alicia.zive.net/weblog/t-ohya/000150.html  おおやにき: 法廷と手続的正義・続々

で、日本の法廷と戦犯法廷の二種類あるわけで、被告(天皇など)が有罪かどうかという言説ゲームで一番重要なのはおそらく上記のような「著しく正義に反する場合」とは何か、になってくるでしょう。<<天皇有罪>>は戦後日本にとってパレルゴンとして存在し、したがってそれに関係する争点は、自動的に「著しく正義に反する場合」に含まれることになる、というのがわたしの主張です。

 日本の法律理論においても、「著しく正義に反する場合」云々という法理があると、これは「強い責任理論」になるのでしょうかね。法廷という場面では、もちろんそう言い直すことは無意味になります。

 N・Bさんの発言はどういう立場からのものかといえば、「現実主義にどう対抗すべきか」論みたいなところから、ということですね。

 それよりもたぶん野原燐というものがどこに立っているのか?、N・Bさんにも読者のみなさんにも分かり難いという問題がある!

 デリダの他者論(よく分かっているわけではないが)も参照しつつわたしは。

  1. わたしはまず具体的な他者を引き寄せたい、と思う。(id:noharra:20050115#p3,id:noharra:20050125#p1
  2. 彼女たちに言及する権利や視角を予めわたしが持っているわけではない。(悪く言えば)興味本位である。
  3. 「哀れ」という日本的抒情と関係がある、と言ったりするが(いまのところ)でまかせである。

 というようなところで戸惑いながら畏れ多くも文章を書いているのだった。

返信にならない乱文でごめんなさい。

黄色人種の戦い(2)

foursueさんから、2/9に3つのコメントがあった。

# foursue 『「太平洋戦争は歴史的に見れば白人に対する黄色人種の戦いであったとも見れる。」の意味を教えましょう。

太平洋戦争後、アジア各国(中国、朝鮮も含む)が独立したという事実があるので太平洋戦争が白人社会へ対する戦いであったと結論されます。

もしあなたがポツダム宣言を受け入れた時点で戦争のすべてが終わったと思っているのならこのような解釈にはならないかもしれませんが、被植民地であった国々はそのあとも独立のために戦っています。いわば、太平洋戦争はそれら独立戦争の出発点であったといえるのです。

少なくともアジア各地に残った日本人たちの中にはその国々の独立に力を貸した人たちがたくさん居ます。この事実からも黄色人種の白色人種への戦いであったということが言えます。違いますか?中国がどうしたとかそういったレベルの話をしているのではないのです。歴史の流れの中で太平洋戦争がそういった位置付けであると言っているのです。何か間違いはありますか?』

# foursue 『ログインしてませんでした。↑は間違いなく私の文章です。』

# foursue 『後付け加えますけど、私の文章がなぜ恥ずかしいのか理由の説明を求め、あなたが反論し私がそれを否定する意見を述べました。その後の反論はもう無いのかと聞いたのですが?なぜ論じる気がないのか教えてください?私の文章が恥ずかしいというその論点の前にあなたの言う論点があったというなら、私はそれを全面否定してますので、その反論をあなたがするのが筋です。』

「太平洋戦争は歴史的に見れば白人に対する黄色人種の戦いであったとも見れる。」という文には、「歴史的に見れば」と「とも見れる」という二つの譲歩句(というのかな)がついており、わざと意味をぼやかしている。

「太平洋戦争後、アジア各国(中国、朝鮮も含む)が独立したという事実があるので太平洋戦争が白人社会へ対する戦いであったと結論されます。」こちらの文章のごまかしは容易に指摘できる。「太平洋戦争」の主体は(朝鮮などを従えた)大日本帝国であるのに、「アジア各国(中国、朝鮮も含む)が独立した」の主体は(日本を含まない)アジア各国である。

黄色人種って変な言葉であまり使いたくないが。黄色人種は、3つに分かれる。

α:日本、

β:日本に従属していたあるいは「大東亜の大義」に呼応した黄色人種の諸グループ、

γ:日本と戦った黄色人種の諸グループ 

大日本帝国は戦争に負けた。勝ったのはアメリカと中国その他(γグループ)です。ここで「太平洋戦争」という言葉を使うことは、日本はアメリカ(+オーストラリア、英国など)に対してだけ負けて、中国に負けたのではない、と思いたい、という気持ちが反映しているのだろう。

あるフィリピン人の証言を聞こう。

日本軍、つまり日本政府は、植民地国を日本の手で解放しようとしてアジアの国々を攻撃したといいます。もしアジアの国々を占領してから本当に善政を行っていたら、日本は太平洋戦争に勝ったことでしょう。けれども日本は占領した国々で決して良いことをしませんでした。あまりにもひどい虐待を行ったのです。植民地支配からの解放は私たち自身が私たち自身のために闘いとらねばなりません。

p57マリア・ロサ・L・ヘンソン『ある日本軍「慰安婦」の回想』isbn:4000000691

乱暴な検証方法だが実際に戦争をしてみて、γの勢力がβに移行するということが起こったらそれは、解放戦争という意味付けもできる戦争だったと評価できる。しかし例えばフィリピンでは確かに米軍を追い払い、γの勢力がβに移行するという現象が起こった。しかし「決して良いことをしませんでした」という事実によりフクバラハップ団という抗日勢力が起こった。βが再度γに移行した。日本軍が一時的に占領した広大な地域のアジア人大衆は「まだ主体になっておらず」反日に染まっていたわけではない。「決して良いことをしませんでした」ことにより反日に追いやったのは、日本軍の責任である。

「少なくともアジア各地に残った日本人たちの中にはその国々の独立に力を貸した人たちがたくさん居ます。」一部の日本人たちはそういう選択をした。しかし、日本国家を(一定)代表する軍の首脳部は前線から自分だけ最後の飛行機で脱出するといった行動を取るものがほとんどだった。「その国々の独立に力を貸した人たち」のことを戦後日本国家は忘れ、何の顕彰もしていないのではないのか?

日本軍は良いこともした、という弁護がある。弁護はしたら良かろう。多少良いことがあったからと言って全体の性格に影響を及ぼすわけではない。

 フィリピン人の視点からはアメリカ軍と闘いこれを追い払ったことは別に悪ではない、むしろ良いことだ、と言っている。これは、東京裁判における「平和に対する罪」をメインにした日本に対する断罪を、再検討する上で大事な視点になるだろう。

 foursueさんがおかしいところは、「白人に対する戦争」といいながら、開戦時点では、全く逆の世界観を表明しているところ。「ある日突然「お前には食べ物を売ってやらん」と世界中から言われたらどうなるだろうか?」とは、日本を除く諸列強だけを「世界中」とみなすということである。彼が後で強調することになる(日本を除く)黄色人種たちは単なる資源であり主体ではないとみなされている。

 以上、とりあえず。