沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生

「慶良間列島においておこなわれた、七百人を数える老幼者の集団自決は、上地一史著『沖縄戦史』の端的にかたるところによれば、生き延びようとする本土からの日本人の軍隊の《部隊は、これから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食料を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ》という命令に発するとされている。沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生、という命題は、この血なまぐさい座間味村、渡嘉敷村の酷たらしい現場においてはっきりと形をとり、それが核戦略体制のもとの今日に、そのままつらなり生きつづけているのである。

生き延びて本土にかえりわれわれのあいだに埋没している、この事件の責任者はいまなお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていないが、この個人の行動の全体は、いま本土の日本人が総合的な規模でそのまま反復しているものなのであるから、かれが本土の日本人にむかってなぜおれひとりが自分を咎めなければならないのかね?と開きなおれば、たちまちわれわれは、

かれの内なるわれわれ自身に鼻つきあわせてしまうだろう。 大江健三郎(「沖縄ノート」69、70頁)」

 60年後の今日も沖縄は圧倒的な米軍基地と共に存在しており、本土はそうではない。沖縄の民衆/本土の民衆(日本人)という対比は存在する。

しかしながら、「血なまぐさい座間味村、渡嘉敷村の酷たらしい現場においてはっきりと形をと」ったものが、そうした対比が尖鋭化したものだという大江の理解はデリダの思想とはかなり違う。

 デリダはあからさまな権力関係を難解でアクロバティクなレトリックで誤魔化しているだけなのだろうか。わたしはそうは思わないのだが、さてどう説明したらよいだろう。

 たぶん現在のhatenaでは大江よりデリダの方が人気があると思うが、まあそれはどちらでも良い。『沖縄ノート』とかって「クサイ」みたいな高括りというのはその当時(1970年)ころからあり、わたしなどはそうした風潮のなかにいた。しかし大江のというか沖縄の「罪の巨塊」を無視してデリダの「幽霊」についてだけ語っても無意味だと思う。どなたかコメントくだされば、それを梃子に考え続けて見たいと思う。

(無責任だな。)

「新しき古(いにしえ)」の精神

ではその古代復帰の精神とは何か?(中略)これは今日普通に唱えられている日本精神とか、国民精神とかいうような封鎖的な、排外的なものではなくて、道徳としては「直ぐな心」を第一に建て、理想としては「自然に帰る」ことを憧憬し、実際的には「洋学をもって砥石として更に日本的なもの」を磨き上げる進歩的な方向を求めるものである。これが見逃されてはならない。この道徳と、この理想と、この実際とが、具体的にどう一致するかは、半蔵においても、作者においても問題ではなく、ただそうした素朴な浪漫主義と、単純なヒューマニズムと、観念的な民族主義との混淆した「精神」こそ、彼らにとって「新しき古」の道なのである。

(青野季吉)

これは青野の『夜明け前』評から。上記「半蔵」とは島崎藤村『夜明け前』の主人公青山半蔵を指す。

朱子学がその社会倫理の根源とした仁をはじめとする徳目の実体を国学は否定したわけではない。徳を規範化することと、それを振り回すことが官僚的知識人の権力行為になっていることを批判した。

わたしたちの現在の「右傾化」も、アサヒ*1に対する批判として形成された。平和主義を規範化することと、それを振り回すことが官僚的知識人の権力行為になっていることを批判した。とも言える。

現在、祖国というものにわたしたちは、<素朴な浪漫主義と、単純なヒューマニズムと、観念的な民族主義との混淆した「精神」>を幻視することができるのだろうか。

私としては、ぷろれたりあ・インターナショナリズムやマルチチュードの想いを唱い上げることに異論はないのだが、・・・ 上澄みだけのプチブルの普遍主義、コスモポリタニズムより、「新しき古(いにしえ)」に魅力を感じないでもない。

*1:左翼的な物が権力になっているとする今までは多少とも存在したこと

同じ本を読んで

上記佐々木八郎氏の遺稿の一部は『あゝ同期の桜』という本にもでてくるらしい。*1

http://www6.plala.or.jp/Djehuti/355.htm

海軍飛行予備学生第十四期会編『あゝ同期の桜 かえらざる青春の手記』 /トート号航海日誌(読書録)

小泉首相も、彼らと同じくらいの年齢でこの本を読み、「戦争は二度としちゃいかん」、「戦争をするぐらいなら、どんな我慢もできる」と感じたそうです」。

小泉首相が靖国参拝しましたね。参拝について首相は、「日本の平和と繁栄は、現在生きている方々の努力だけではない。戦争の時代に生きて、心ならずも命を落とさなければならなかった方々(らの)、尊い犠牲の上に、今日の日本が成り立っている。これからも日本が平和のうちに繁栄するよう、様々な祈りを込めて参拝した」と述べたそうです。参拝自体には賛否両論あるようですが、「尊い犠牲の上に、今日の日本が成り立っている」という箇所はまさにその通りだと思います。

ある個人(例えば佐々木)は確かに自らの命を皇国に捧げた。だが、彼らの「尊い犠牲の上に、今日の日本が成り立っている。」と言えるのか。多くの犠牲を出したが外敵を撃退したといった場合とは、犠牲の意味合いがかなり違っているはずだ。

 戦争は有限性のゲームである。しかし第二次大戦は(終わるまではおおむね)ドイツと日本に於いては最終戦争として無限性のゲームというイデオロギーのもとに戦われた。ナチスドイツと違い日本はそのことの(国民に対する支配者の)責任を取ってこなかった。

佐々木が苦悶の末に差し出した彼の命は、当たり前のように気にも止めず受領され、21世紀になっても日本=日本という同一性の神話を太らせるために使われる。

短い命を国家に捧げた彼の悲劇。彼らの「尊い犠牲の上に、今日の日本が成り立っている」ということで彼らは少しでも慰められるのだろうか。例えば、結果的には少しでも早く戦争を止めておけば被害は少なかった、そうできなかった責任追及を果たしていく、そうすることが彼らの苦闘に応えることであろう。

*1:『きけわだつみのこえ』にもでてくるらしい。

mixiというもの

誘ってくれる人がいたので入ってみた。

コミュニケーションに不安のある野原ですが大丈夫か?

<坂本守信・松下昇>という題のコミュニティを作ろうという人が誘ってくれた*1ので入ってみた。

そこで書いた文章を転写する。

*1:mixiに誘ってくれた方とは別人

里親という言葉

http://blogs.yahoo.co.jp/sido_san

里親ブログのsidoさんは、(人間以外に里親・里子という言葉を使わないで)と言っておられます。

 sidoは、里親をしています。もちろん、人間の子どもを育てる里親です。

巷には、ペットの飼い主を「里親」と呼ぶ方もいますが、人間以外には使って欲しくないと思っています。

http://blogs.yahoo.co.jp/sido_san/archive/2005/05/23

もっと里親を増やして、養護施設にいるたくさんのC子ちゃんに、髪飾りを盗まなくても、ずっとそばにいる大人(里親)が与えられるようにしたい。

 大人は所詮いなくなると、人を好きになることをあきらめる子どもたちを無くしたい。人を好きになることで、人は人として輝くのだと思う。施設で暮らす全ての子どもに、自分だけの大人のいる家庭を与えて欲しい。

http://blogs.yahoo.co.jp/sido_san/archive/2005/05/28

 わたしは養護施設にも里親にも関わったことがない。だから初めてブログを数分読んだからと言って何が分かるものでもない。でもsidoさんの上の願いは美しいと思う。 (12/5 7時)

1989年天安門のハンストの書

 この光まばゆい五月、われわれはハンストを行う。このもっとも美しい青春のときに、われわれは一切の生の美しさを後に残していかざるをえない。だが、なんと心残りで、不本意であることか!

 にも拘わらず、物価が高騰し、役人ブローカーが横行し、強権が掲げられ、官僚が汚職している状態に国家がたち至り、多くの志をもつ人々は海外へ流浪し、社会の治安が日増しに悪化している。この民族存亡の瀬戸際にあって、同胞たちよ、すべての良心ある同胞だちよ、どうかわれわれの呼びかけに耳を傾けてほしいI・

 国家はわれわれの国家であり、

 人民はわれわれの人民であり、

 政府はわれわれの政府である。

 われわれが叫ばずに、だれが叫ぶのか?

 われわれがやらずに、だれがやるのか?

 たとえわれわれの肩はまだ柔らかく、死はわれわれにとってはまだ重すぎるとしても、それでも、われわれは行く。行かざるをえないのだ。歴史がわれわれにそう求めている!

 われわれのもっとも純潔な愛国の情が、われわれのもっとも優秀な無垢の魂が、「動乱」だと言われ、「下心がある」と言われ、「一部の人間に利用されている」と決めつけられた。

 われわれはすべての誠実な中国公民に請い願いたい。ひとりひとりの労働者、農民、兵士、市民、知識人、社会の著名人、政府の役人、警察官とわれわれに罪名を与えた人に請い願う。

 あなたがたの手を胸に当てて、良心に問いかけてみてほしい。われわれになんの罪があるのか? われわれは動乱なのか? われわれが授業をボイコットし、デモを行い、ハンストし、身を捧げるのは、いったいなんのためなのか? だが、われわれの感情は再三にわたって弄ばれた。われわれが飢えを忍んで真理を求めても軍警察に打ちのめされ、学生の代表がひざまずいて民主を求めても無視され、平等の対話を要求しても再三延期され、学生リーダーは身を危

険にさらしている……。

 われわれはどうしたらよいのだ?・

 民主は人生でもっとも崇高な生きる感情であり、自由は人が生まれながらにさずけられた権利だ。しかしこれらはわれわれ若い命と引き換えにしなければならないとは、これが中華民族の誇りなのか?

 ハンストはやむをえず行い、行わざるをえないのだ。

★ 生と死の間で、われわれは政府の顔つきを見てみたい。

★ 生と死の間で、われわれは人民の表情を探ってみたい。

★ 生と死の間で、われわれは民族の良心をはたいてみたい。

 われわれは死の覚悟をもって、生きるために闘う!

 しかし、われわれはまだ子供だ。まだ子供なのだ! 母なる中国よ、あなたの子供たちをしっかりと見つめてほしい! 飢えが無情にも彼らの青春をむしばみ、死がまさに近づくとき、あなたはまだ手をこまねいていられるのか?

 われわれは死にたくない。われわれはしっかりと生き抜きたい。

 なぜならわれわれはまさに人生でもっとも素晴らしい年齢なのだ。われわれは死にたくない。しっかり勉強したいのだ。祖国がいまだこのように貧困であるとき、われわれは祖国をおいて死ぬ理由はない。死は決してわれわれの求めるものではない!

 だが、ひとりの死か一部の人間の死で、さらに多くの人々がよりよく生きられ、祖国が繁栄するならば、われわれには生き長らえる権利がない。

 われわれが飢えるとき、父母よ、どうか悲しまないでほしい。われわれが命と決別するとき、おじさん、おばさん方、どうか心を痛めないでほしい。われわれの望みはただひとつ。それはあなたがたにより良く生きてほしいのだ。われわれの願いはただひとつ。どうか忘れないでほしい。われわれが求めるのは決して死ではないのだということを!民主は数人のことではなく、民主的事業も一世代で完成するものではないのだから。

 死が、もっとも広く永遠のこだまとなることを期待する!

 人将去矣 其言也善

 鳥将去矣 其鳴也哀

 (人のまさに去らんとするや、その言や善し。鳥のまさに去らんとするや、その鳴や哀し)

 さらば、仲間たち、お身体をお大切に! 死者と生者は等しく誠実である。

 さらば、愛しい人、お身体をお大切に! 心残りだけれども、別れを告げなければならない。

 さらば、父母よ! どうぞ許してください。子供は忠と孝を両立させることはできない。

 さらば、人民よ! このようなやむをえない方法で忠に報いることを許してほしい。

 われわれが命をかけて書いた誓いの言葉は、かならずや共和国の空を晴れ上がらすであろ

                              北京大学ハンスト団全学生

 *1

*1:p214-217 譚璐美『「天安門」十年の夢』isbn:4105297031 より