不勉強でよく分からないのですが、共謀罪には反対しなければならない!
http://tochoho.jca.apc.org/index.html
共謀罪をもう一度廃案にしよう! 盗聴法に反対する市民連絡会
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「神の死」「ドストエフスキー」についてグーグルしたら下記のような頁を見つけた。Seigoさんと言う方の充実したドストエフスキーサイトの1頁。
この頁では、ドスト氏の小説の中の登場人物に二つの極端な類型を発見できるとする。即ち、
「人神思想」
(人神(じんしん)=神のような人。「神」に対抗して、自ら「神」たらんとする人物。)
ラスコーリニコフ(『罪と罰』)、キリーロフ(『悪霊』)、イヴァン、大審問官(『カラマーゾフの兄弟』)、
「神人思想」
(神人(しんじん)=人のような神。「神」の意志を体現した、「神」への謙虚な信仰や他者への同情と博愛に生きる人物。)
ソーニャ(『罪と罰』)、ムイシュキン公爵(『白痴』)、チーホン僧正(『悪霊』)、マカール老人(『未成年』)、ゾシマ長老、アリョーシャ、マルケル、イエス(以上、『カラマーゾフの兄弟』)
http://www.coara.or.jp/~dost/26-4.htm ドスト氏の小説における「人神思想、神人思想」の系譜
キリストにも神にも興味がなかった十代の私が何故「神の死」というテーマに囚われたかといえば、まさにここでいう、人神思想、人は神になれるという思想に惹かれたのであろう。修行もしないで神になれる!のだからこんなスゴイ事はない!
過去を振り返るとき「~に過ぎなかった」と言い切ってしまうのは簡単なことだが錯誤である。過去の錯誤を指摘する現在が過去より上位にある保証などどこにもないのにその疑問なく指弾は発せられる。全共闘運動への総括などに特徴的に見られる傾向だ。
人は神になれない、というのは錯誤だ、と言ってみる。例えば、死刑執行人。人は人を殺せない。人を殺すためにはひとは獣になるか神になるしかないわけだが、戦場と違い死刑執行人は獣であることはできない。したがって、死刑執行人はすでに幾分か神でなければならない。
特攻隊員は自己に死を与える。国家は既に敗北しており、自己の死は無駄になるだけだ。彼らは自己の死を全きゼロと交換することを強いられた。彼らは自ら神になることによってしか自らに死を与えることはできなかった。
他人のことはよい。わたしは神ではない。ただ私というものがどのように規定されようがわたしにはその規定をアプリオリにはみ出す何かがあることは私には自明だと思われる。
ポツダム戦争受諾によって長い戦争が終り、廃墟と困窮のなかで戦後生活の第一歩を踏み出そうとしたとき、復員*1)戦士も銃後の庶民も、男も女も老いも若きも、戦争にかかわる一切のもの、自分自身を戦争協力にかり立てた根源にある一切のものを抹殺したいと願った。そう願うのが当然と思われるほど、戦時下の経験は、いまわしい記憶に満ちていた。
(吉田満「戦後日本に欠落したもの」*2
「東条有罪。」というタイトルは適当ではないかもしれない。
男も女も老いも若きもが、戦争中の自分の根源にある一切のものを抹消したいと願った、と上の吉田の文章は言っている。
その願いは性急なものであった(ように書かれている)。自己/他者の戦争責任を追求するという困難な課題に取り組もうとする姿勢につながるものではない。
ただ、「戦時下の経験は、いまわしい記憶に満ちていた。」という巨大な共通体験だけが存在した。したがって「戦争はいけない」という文言は単なる美しい言葉ではなく、巨大な共通体験に裏打ちされたものであった。
しかし即自的な体験はいくら巨大なものであっても、60年経ったらすみやかに崩壊する(ことも多い)。
「戦争協力にかり立てた根源にある一切のものを抹殺したい」という切迫あったのなら、「東条有罪。」が求められたことになる。
自己の戦争責任から逃れるために東条を犠牲にした、と語りうる場合もあるかもしれない。自己の戦争責任にあらためて真摯に向きあうのだという決意を持つ場合は。
「戦時下の経験は、いまわしい記憶に満ちていた。」という体験自体を歪曲しようとする勢力が大きくなっているのが現在である。わたしは途方に暮れる。
しかし、戦争にかかわる一切のものを抹消しようと焦るあまり、終戦の日を境に、抹殺されてはならないものまで、断ち切られることになったことも、事実である。断ち切られたのは、戦前から戦中、さらには戦後へと持続する、自分という人間の主体性、日本および日本人が、一貫して負うべき責任への自覚であった。
(略)
日本人はごく一部の例外を除き、苦しみながらも自覚し納得して戦争に協力したことは事実であるのに、戦争協力の義務にしばられていた自分は、アイデンティティの枠を外された戦後の自分とは、縁のない別の人間とされ、戦中から戦後に受けつがれるべき責任は、不問にふされた。戦争責任は正しく究明されることなく、馴れ合いの寛容さのなかに埋没した。
(同上の続き)
*1:福音。野原註
*2:p9『鎮魂 吉田満とその時代』isbn:4166604368
何故に人類は、真に人間的な状態に踏み入っていく代りに、一種の新しい野蛮状態へ落ち込んでいくのか?*1
21世紀に入ったいま、おそらく世界中の人々の多くがこの問いを、(再度)強く問いかけざるを得ない時代になっている。
カントによれば、啓蒙とは「他人の指導を受けなければ自分の悟性を使用できないような状態」から抜け出すことである。*2
(悟性は、感性に与えられる素材を自己の形式(範疇)にしたがって整理し、認識を成立させる。
理性は、悟性作用を統一し体系に纏め上げる。)
つまり、理性というものは体系の正しさ無しには成立しえない。カントにとっては自然科学(ニュートンなど)の勝利が体系の正しさを保証したと考えられた。しかし自然科学以外の領域では万人の認める体系は、いまだすんなりとは成立していない。
カントの概念は二重の意味を持っている。超越論的・超個人的自我として、理性は人間どうしの自由な共同生活という理念を含んでいる。その共同生活のうちで、人間は普遍的な主体として自己を組織し、純粋理性と経験的理性の間の矛盾を、全体の意識的連帯のうちに止揚する。そういう共同生活は真の普遍性の理念、つまりユートピアを表明している。
しかしそれと同時に理性は、計算的思考の法廷を形づくる。計算的思考は、自己保存という目的に合せて世界を調整し、対象をたんなる感覚の素材から隷従の素材へとしつらえる以外にいかなる機能をも知らない。一般的なものと特殊的なもの、概念と個別的事例とを外側から相互に一致させる図式論の本性は、つまるところ現行の科学のうちでは産業社会の利害に他ならないことが証明される。存在は、加工と管理という相の下で眺められる。一切は反復と代替の可能なプロセスに、体系の概念的モデルのためのたんなる事例になる。動物はいうまでもなく、個々の人間もまたその例外ではない。管理を旨とし物象化を事とする科学と個々人の経験の間の葛藤、公共精神と個々人の経験の問の葛藤は、環境によって予防されている。もろもろの感覚は、知覚が生じるよりも前に、いつもすでに概念装置によって規定されている。
p130-131*3
理性は素材を体系に纏め上げる能力であるから、体系という視点から見て見えにくい部分は無視し勝ちになる。
一般的なものと特殊的なものとの同一性は「純粋悟性の図式」によって保証されている、とカントは考えた。しかしながら保証が必要だったからそうなっているにすぎなかろう。わたしたちの社会では「存在は、加工と管理という相の下で眺められる。一切は反復と代替の可能なプロセスに、体系の概念的モデルのためのたんなる事例になる。」学校や工場や事務所は加工と管理のシステムである。生きることを点数や金額という数bitの数字に変えてくれる。
「その共同生活のうちで、人間は普遍的な主体として自己を組織し、純粋理性と経験的理性の間の矛盾を、全体の意識的連帯のうちに止揚する。そういう共同生活は真の普遍性の理念、つまりユートピアを表明している。」
「理念」や「ユートピア」という言葉はいまは流行らないのですが、それはそれをある既知を延長した平面に存在しうるものと矮小化して考えてしまったからではないか。そうではなく既知の平面を離れた垂直性のベクトルとしてなら〈ユートピア〉は非在の輝きをかいま見せるのではないかと思われた。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/edit?date=20070318
3/18のコメント欄より
×石原官房副長官説
○石原官房副長官発言
×経験則合理的です。
○経験則上合理的です。
>「とすれば日本が政府にはしないが個人に対しては賠償したいと言い出したというのは非常に考えにくい。」というのは「本気で」という意味です。
たとえそうだったとしても、完済した以上、その後の分配は韓国政府の責任です。』
ノーモア 『>そんなこと言っちゃうと、性奴隷派(広義ないし狭義の強制説)が売春婦派(よい関与説など)に完敗しちゃいますよ?
いや別に石原氏の証言を鵜呑みにする人がなぜ元慰安婦といわれる人たちの証言には完全否定の態度をとるのかが興味深いと思っただけです。さて石原氏は三年前の国際法の大沼保昭東大教授のゼミに招かれてこんなことを言っていたようです。「強制性を裏づける資料は出てこなかった。証言を基に内閣の総意として判断したが、彼女たちが作り話をしているとは思えない」。また聞き取りは「韓国政府の協力を得て元慰安婦が圧力を受けない環境で非公開を条件に実施されたという。政策決定の決め手になった資料がオープンにならないのは残念だが、儒教の影響が強い社会で過去をひた隠しにして生きる被害者が特定される危険は冒せない。」というように行われたみたいです。
>これは、あなたの考え方からはそうですが、私の考えからは違いますね。
ではですね。政治家の中でノムヒョン氏の演説を「外交信義違反」としてそれのみを理由に河野発言の撤回を主張している(し始めた)人を挙げてみてくださいませんかね?
>請求権協定当時に考慮していないから慰安婦については賠償義務が残っているという解釈は成り立ちえますが…
そしてまた日本が個人による請求権は消滅させていないことも繰り返させて頂きます。』
http://homepage2.nifty.com/mino-sigaku/page263.html
上記サイトによると、
韓神 「からのかみ」に同じ。 神楽歌、韓神「われ-韓招せむや」 からのかみ (朝鮮から渡来した神の意か) 守護神として宮内省に祀られていた神。大己貴(おおむなち)・少彦名(すくなぴこな)二神をさすという。(広辞苑)
とのことである。
オオナムチ(大国主)とスクナビコナが天下を経営し(日本の開き)、それを天孫族に譲った、記紀によれば、ですねよ。(天孫族が朝鮮から来たかどうかはともかく)その前代は朝鮮からきたのかなー??
ところで、新羅明神というのもある。こちらは、9世紀の僧円珍が入唐求法を終えて帰朝するとき、船中に示現し、のち圓城寺へ鎮座したという神。北極星の供養法、尊星王法(そんじょうおうほう)という秘法の守護者となった。朝鮮の山神と関係があったのかもしれない。ホミカシという謎めいた名も伝えられている。*1
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20031123#c
極東ブログさんのところで、彼が「朝鮮半島に関しては、そこにこそ日本の皇室の起源もあるというのに、日本人は蔑視するんだね。」という田中康夫発言を彼がバカにしてたので、質問してみた。ただ、わたしは実は「日本の皇室の起源」がどこにあるのかについて明確な見解を持っているわけではない。(直接関係ないが本居の古事記伝は読みたいと思っている。)皇室のDNAがどこから来たか保留したとしても、「皇室の文化は朝鮮半島から来た」とは言えるだろうと思う。
*1:p93~『異神』上isbn:4480087680
去年8月に踵に小さな魚の目ができた。魚の目って今まで体験してなかったので我慢していたら、大きくなりいつまで経っても痛む。体重が掛かるから歩くときけっこう痛む。市販の薬を貼ってみたりしたが直らない。仕方ないので医者に行った。3回行ったがまだそれは完全には取れずまた復活してきた。市販の貼り薬と自分でその部分をこそぎ取ることにより、最近やっと魚の目から解放されたようだ。嬉しい。
わたしたちは自分の身体が支障無く動いている時、それを当たり前に思う。障害や欠損は、それがないのだから、考えようがない。直ったすぐ後は覚えているがすぐ忘れてしまう。次ぎにどこが悪く成るのかは決定不可能だ。(若く運が良ければ何十年も出会わないこともある。)わたしたちにとって何が一番大事か、わたしたちは意識することができない。
mkimbaraさんに教えて貰った古田博司氏の本が図書館にあったので借りてみた。『東アジアの思想風景』isbn4-00-001917-1。面白かった。
「とにかくバラバラであり、バラバラであるにもかかわらず運命共同体とみなされる東アジアに我々は今住んでいる。そして、その宿命から逃れることは決してできないのである。安易に「儒教文化圏」を謳い、各々独りよがりの「中華」に耽溺していた時代は明らかに終わった。
これからは、各々が謙虚に他者について考える時代である。近代化という山を登りつづけてきた我々は、実はそれが無理な西洋化であり、「苦難の行軍」であったという事実に思いをいたすべきなのではないか。これからは一途に進むだけではなく、退く視点も重要であろう。」
小さな本とはいえ一冊、すでに消え去った東アジアの情緒をさまざまに経巡った後、これを読むと感慨がある。中国/朝鮮(韓国)/日本を併せて語る語り口をわれわれはまだ持っていない。(儒教文化圏言説というものは安易なものだ、という古田氏の判断を受け入れておく。)日本人は中国のことも朝鮮のことも何も知らない。まず知ることから始めるべきだという古田氏に同意する。現在、相互排外主義が増加している、これに敵対し抑圧していかなければならない。