強制移住の補償

(1)今朝(8/21)の朝日新聞では、「ドイツ・ポーランドの強制移住者問題」が取り上げられている。第二次大戦の戦後処理でポーランド国境は大きく西に移動した。ドイツ人約1500万人がドイツやオーストリアに強制移住させられた。ドイツでは戦後、強制移住者に保証や年金として計約10兆円が支払われた。

(2)これに対し、規模はずっと小さいが八重山には「戦争マラリア補償問題」というのがある。

戦争マラリア問題とは、①「沖縄戦末期(一九四五年)、石垣島や西表島のマラリア有病地である山中に、軍によって「疎開」させられた非戦闘員である住民がマラリアに罹患(りかん)し、三千六百名以上の犠牲者を出した悲劇を「戦争マラリア」と呼ぶ。八十年代後半、当特の琉球大学教授・篠原武夫氏が「マラリア有病地への疎開は軍命による強制疎開だったとして、国に国家賠仁を要求する論陣を地元新聞などに発表した。一九八九(平成元)年五月、犠牲者の遺族、関係者らが国家補償を求めて「沖縄戦強制疎開マラリア犠牲者援護会」を結成した。このことにより、「戦争マラリア」は社会的関心事となり、新たな証言や報告が数多く寄せられるようになった。

②八重山(主に石垣島・西表島)における住民のマラリア有病地への避難は、敗戦間際の四五(昭和二十)年二月から六月にかけてであり、敗戦によって軍の解体、避難地から戻ることができたのが九月である。その間、三~六カ月の短期間で罹息者数が一万六八八四人、死亡者が三六四七人(死亡率二一・六%)の犠牲者を出した。*1

という事件のことである。当時の八重山の人口3万6千人のうち丁度1割が失われた。

沖縄強制疎開マラリア犠牲者遺族補償援護会が結成され(提訴はされなかった)7年後の1995年12月、一応政治決着した。(1)国は個人補償はしない(2)遺族の慰しゃ事業は県が措置する(慰霊碑祈念館建設に2億円、他1億円)という内容だった。

日本国は国の責任を認めなかった。「軍命による強制退去」の事実は公文書的証拠は残っていないものの、すでに各証言で明らかになっている。また「軍命」が発せられた状況証拠は存在するのである。*2

(3)後に大きな話題となる従軍慰安婦が最初に声を挙げたのが、1995年ではなかったか。その結果、<<告発する朝鮮人(あるいは中国人)被害者対日本国家>>という構図がより強く(大衆的に)浸透することとなった。(2)が明らかにすることは、被害者=非日本人というカテゴライズは正しくないことだ。(1)の例においては、ドイツ国家はドイツ人(ドイツ系住民)に補償した。また、国境を越えた補償請求を求める動きも、進んでいる。

 戦争は国家が行うものであり、人民は被害を受けるだけだ。被害は民事的感覚で補償してもらうべきだ。もちろん相手は巨額すぎる云々といって値切ってくるだろうし、平時の常識による額は取れないだろう。問題は責任を取らせると言うことである。この問題に(変な)ナショナリズムを絡ませることは、国家の免責につながるだけだ。

*1:p285『八重山歴史読本』

*2:p183同書

NANA論

下記の二人の方の興味深い『NANA』論を読ませていただきました。感謝。

http://d.hatena.ne.jp/TRiCKFiSH/20031114#p1

9巻対象。「ナナは自立を目指しているのだが、実はさほどレンへの想いは強くない。」などの指摘がある。

http://d.hatena.ne.jp/TRiCKFiSH/20040129#p1

「そもそも少女マンガの発展は、大島弓子に代表されるように、社会的・文化的な男女の非対称性のなかで、いかにして自らの「主体の首尾一貫性」を諦めるかという過程を描き続けてきたものだといえる。」という、大島弓子ファンである私には興味深い指摘がある。

http://d.hatena.ne.jp/lepantoh/20031214

「NANA」嫌い派。ナナはパンクじゃなくファッションとしてのパンクでしかないと論じる。24年組の異端性をストレートに継承しようとしている志に惹かれる。24年組のラディカリズムは当然ぴったり同世代の全共闘のそれに通じるものであり、わたしもそれを継承しているのだといつかは書きたいものだ。

首相官邸ホームページ

で彼宛にメールを出しました、いま。

http://www.kantei.go.jp/

前回、わたしたちはコリン・コバヤシ氏を信じてじっと待っていた。幸い、それでよかった。今回は殺される可能性が極めて高い。自衛隊イラク派遣の現在に正義があると信じる人以外、全員首相にメールを出そう!

追記:例えば、たまたま見た日記の「博士」さんに聞きたい。 http://d.hatena.ne.jp/ktanku/20041027

あなたは、自衛隊イラク派遣の現在に正義があると思うのですか? それを明らかにせずにこういう文章が成立してしまうのはおかしくないか?

自然権/公共の福祉

「公共の福祉に反しないかぎり自己の幸福を追求していいのだから」と書きましたが、「公共の福祉」とは魔法の言葉でいくらでも悪用が可能なんだ、ということは広く知られている。

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20040430#p1

自分自身(あるいは組織)の安全を確保し、幸福追求のための自然権を保持するということは、自然人の根本的な権利であって、国家というものは、この自然権を保障する目的のために成立する機構(手段)であるというのが近代の建前です。

ということを再度確認しておきたい。

そして自然権のうちでも、わたしたち個々の人間の身体や精神、希望などを破壊することが最も強く否定されなければならないだろう。身近な感覚ですぐに理解できない巨大企業や国家の利益は、例え権利があろうと、<柔らかいもの=ひとりの人>の権利に劣後すると理解していいのだと思う。

ファルージャ情勢の謎

ファルージャについては、「レジスタンスが旧市街を取り戻す」という話もあったがよく分からないと、id:noharra:20041130#p3 に書きました。

 ファルージャでは、地域の部族社会がレジスタンスを闘っているだけ、と当然わたしは思っていたのですが、id:amtさんは、それにしたら強すぎる、と見ておられます。ふーむ・・・??

http://d.hatena.ne.jp/amt/20041207#Fallujah はてなダイアリー – おもてなしの空間

イスラムメモは、外部からのアフガニスタン型の支援を認めつつも、地域の部族社会が祖国防衛戦争型で戦っているようなことをいっているが、これも信用できない。ファルージャで連中は、湾岸戦争で一台しか戦闘による損失がなかったエイブラムズを沢山やっつけている。米軍が戦っているのは、少なくとも湾岸戦争でクウェートに侵攻したイラク共和国軍よりも大部ハイレベルな連中がまじっているに違いない。こんなことが可能なのは、僕には、フセインが米軍侵攻に備えて準備した地下組織以外には考えられない。

見たくないもの

フッサールの<志向性>や「明証性」の概念は、ものごとが<私>にとってつねに意味連関-意味統一として現われることを示すが、ハイデッガーの<気遣い>の概念は、それを一歩すすめて、ものごとはつねに意味=価値の連関、統一として<私>に与えられるということを示した。

p205竹田青嗣『現象学入門』NHKブックス

わたしたちがそういうふうに世界というものを作っているのだとすると、自分の持っている価値観に適合的な物事は事実として受け取るが、そうでないもの(たとえばハイデッガーにとってのアウシュビッツ)は受け取らない、人間とはそうしたありようで存在するものだ、ということになる。内田樹が(ポスト)構造主義はアウシュビッツの反省だとか言ってたがこういうことか。

 今日はデリダ『声と現象』を読んだのですがよく分からずあまり面白くなかった・・・

快不快の話

スワンさんコメントありがとう。

# swan_slab

『こんにちは。この件については、週末にちらっと意識はしたのですが、読む分量が多すぎたのでテキトーに参考にした程度ですが、結局、快不快の話だという前提があるのでつっこみにくいのはたしかです。』

# N・B

『 あ、スワンさん。お久しぶりです、あいまいな形でトラックバックしてすいません。それでも『快不快』『好悪』が基本にあると自覚するのは重要だと思います。

 

>応答が遅れていて

 普通の人が私よりずっと忙しいのはさすがに承知してます、「今は忙しい忙しい」と書くのと同時に、やたらと長く書かれるより、一言断っていただいたほうがずっと『好き』ですよ。では失礼します。』

# N・B 『前の書き込み、「返事を長く書かれるより」、です、「返事」を抜くと意味が全く変わることに今気づきました。個人的なことそのほかで余計に書きすぎましたすいません。』

ビラをまく自由

 投票に行くことより、デモをしたりビラをまいたりする方が有効な政治的行為だと思っている、わたしは。

 去年くらいに駅構内でビラをまいてはいけないという通知がJRの各駅長宛出たという噂をきいた。

 2月24日、東京のある高校前で、ある大学生がビラを配っていたという理由で、その高校長が警察に通報した、という事例があるようだ。

 また次のような噂もある。

  また、式典会場及びその周辺においてビラまきなどがなされた場合には、「住居侵入罪」「道路交通法違反」を活用して警察力を導入せよとの校長宛指導がなされているとの情報もあり、

 道路でビラをまくことについて、警官に嫌がらせをする権利があるかどうか、前から気になっていたので、道路交通法を見てみた。

第76条 

4 何人も、次の各号に掲げる行為は、してはならない。

1.道路において、酒に酔つて交通の妨害となるような程度にふらつくこと。

2.道路において、交通の妨害となるような方法で寝そべり、すわり、しやがみ、又は立ちどまつていること。

3.交通のひんぱんな道路において、球戯をし、ローラー・スケートをし、又はこれらに類する行為をすること。

4.石、ガラスびん、金属片その他道路上の人若しくは車両等を損傷するおそれのある物件を投げ、又は発射すること。

5.前号に掲げるもののほか、道路において進行中の車両等から物件を投げること。

6.道路において進行中の自動車、トロリーバス又は路面電車に飛び乗り、若しくはこれらから飛び降り、又はこれらに外からつかまること。

7.前各号に掲げるもののほか、道路又は交通の状況により、公安委員会が、道路における交通の危険を生じさせ、又は著しく交通の妨害となるおそれがあると認めて定めた行為

 これを見る限り、「道路交通法」ではビラ撒きは禁止されていない。公務員が法的根拠なく市民の政治的自由を制限してはいけない。

もう一つの固有名

だが、ここで突然出現した「心臓」という語。わたしはそれが気になって仕方がない。南条あやの心臓、それはいったいどんなものなのだろう。南条あやの心臓を想起すること、それは許されることなのだろうか。許されるとして、それはどのように想起すべきことなのだろうか。

http://d.hatena.ne.jp/irogami/20050310 materia:materia

おとなり日記4%から唐突に引用。(引用させていただきます)

南条あやとはネットにおけるメンヘラーの中でもアイドル的存在だったが、すでに自殺しているひとらしい。政治的被抑圧者、(の代わりに死んだ)アクティヴィスト、を考える際に必須のサバルタン、といったテーマ系とは無縁の場所で死んでいった女性。わたしにはうまく考えられないのだから引用もすべきではないのだが、わたしに無縁とは言い切れないので引用しておきたい。

 ところで引用先には次のような文もあった。

ついでに言うなら、自分はアドルノやレヴィナスに与して、真に問われるべき問いは、存在の意味への問いではなく、存在者の側に、存在者という他者への問いを否応なく終わりなく呼びかけるものの側にこそあるという考えである。

 レイチェル・コリー、桧森孝雄という二つの固有名は虐殺されたもの、あるいは死を賭けたその代理人である。死んだという衝撃を政治的効果に換算するために、政治的メッセージとしてヘッダに掲げられている(はずだ)。ひとは政治的に死ぬことはできない。全体的存在の果たされていない約束でありながら死ぬことしか可能ではない。最終的に死は臓器の死であるが、臓器を想起する方法もまたわたしたちは持っていない。政治的言説は豊かな現実の錯綜する関係性を平板化するものとして昨今評判が悪い。現実の帝国主義や国家の側がひとを死に追いやっている事実は重視しないのが洗練された生き方のようだ。だが、一つの死は単に政治的ではないより大きな死であったが為に、政治的メッセージにもなる。