配偶者控除は全廃すべきだと思います。これはフェミニズムというより本来労働運動の問題でしょうが。これがあるためにパート労働者の労働単価が低く抑えられ労働賃金全体に悪影響を及ぼしているのは自明です。この問題についてはどのように思われますか?(ちなみに私は男性です。)(野原燐)
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議論は継続する
# hal44 『長くなったので、Swan_Slabさんへの返事此方に書きました。
http://d.hatena.ne.jp/hal44/20050322』 (2005/03/22 19:59)
# index_home 『swan_slabさんの「邪悪な愛国心と正しい愛国心は観念しうるか」について、私のお答えを申せば「観念しえない」と思います。「愛国心」そのものへの疑問を持つべきかと。hal44さんの文章も読ませていただきましたが、同じようなことを書いていらっしゃると解釈しました(違っていたら申し訳ありません)
昔からよくいわれることに「愛国心」にナショナリズムとパトリオティシズムの混同されるといわれますが、「愛国心」を大衆に求める方々は依然聞く耳を持っていないようにも思えますし、逆にそうしなければ「愛国心」を植えつけられない事情がおありなのだと思っています。』 (2005/03/22 21:15)
# swan_slab 『え~と、hal44さんのところに返信を書きながら思ったんですが、公共の福祉という概念は、戦後憲法においては、明治憲法下の外在的制約的ニュアンスを取り除こう、さらには別の言葉で解釈しよう、という動きが憲法学では強かったと思いますが、こと愛国心については、案外使える概念かもしれないと感じました。
つまり、
>「愛国心」を大衆に求める>index_homeさん
というのは、つまるところ、公共の福祉に完全に合致した生き方の強制と言い換えることができるのではないかと。そう考えたとたん、最近私の+駝鳥+ http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20050316についたjuluxさんのコメントの意味が氷解していきました。【合意済みの移転を放置し続けた沖縄県は猛省すべきです。また民主的手続きによって決定された移転に反対・妨害活動を行う運動家は民主主義の敵】と述べた彼/ 彼女の背後にある思想がわかるような気がするのです。』 (2005/03/22 23:33)
# N・B 『 お久しぶりです、野原さん、以前の書き込みではひねくれてかつマイナーな書き込みをしてすいません、いくつか感想を書きます、「愛国心」の位置は国によって違うようですね、イギリスとフランスの違いは決して理論だけには還元できないようですし。ロックやバークのような多元主義はイギリスの社会の安定の実質的確保を保証する装置の存在(ロックの場合はむしろそれを作り上げる過程に関与しましたが)という前提があるのではないかと思います、バークにとってアメリカとインドははっきり違うのではないでしょうか。
私が思ったのはこの「実質的確保」という問題が現在の「日本」の不安と結びついているのではないかということです。hal44さんはそれにはやや否定的なようですが、私はむしろ、野原さんが3/20に書かれていたように、左翼ですら日本の「自立」を前提にしていた時代と、むしろ従属(ということは私たちには「主体性」が無い)だと考える時代の落差は大きいと思います、つまりバブルの崩壊以降ですが(私は「自立」の感覚はまるでないのです)。
とするとまず、私たちが共有していることといないことを分けることが必要ではないかと思います。spanglmakerさんが「論点そらし」だと最後に書き込みましたが、ブログを見る限りでは彼はネイションの一員としての教育を施すことは自明の前提だと認識しているようです。彼の発言は正直ななものだと思います。ナシオとパトリを区別することは確かに必要ですが、彼のように「自明の前提」の機能をなにがおっているかに注意しないとこの区別は意味を成さないのではないでしょうか。スワンさんが、juluxさんのコメントの意味を理解できなかった(むしろそのことに私は驚きました)のもネイションの一体性が絶対に確保されるべきという前提を強くjuluxさんが持っていることを読み取れなかったのではないでしょうか。
私は「実質的確保」の確認の機能をなにが担っているからみると、古今のナショナリズムには一定の存在の必然があるし、パトリオティズムは実はそのような「機能」の一側面ではないかと思います。そのような「機能」は私たちにもある程度必要ですから、逆に自らがそのような「機能」を何処に置いているかその危険に対してどうやって自覚するかということが必要だと思います。おそらく「実質的正義」
という視点がここで必要になるのでないかと思います。そうなると、「実質的正義」の内実の検討が必要になります。
私達の認識や判断を左右する「実質的正義」とそれに結びついた「モラル」のあり方や性質については、ジョージ・レイコフ「比喩によるモラルと政治」が参考になると思います、この本はアメリカを例に大きく二つに分かれる「モラル」(この本では「保守」と「リベラル」)が人々認識や判断を左右し、互いに無理解か論じています。もちろんどちらかのモラルが正しいとは決して断言できないと私は思います。(ちなみにネットにあふれる「ジャイアニズム」の問題はこのような前提の違いが大きいと思います、自らの二重基準に気づかない、もしくはそれを当然と思うのはある程度これでわかるのではと思います、特に不安に圧倒されていればそうだと思います)
以上延々と述べましたが、現在の私たちと歴史をつなぐあり方としての振舞い方としてと(あえて使いますが)「自虐的」ナショナリストというあり方も可能なのではないでしょうか?「日本」という前提を与えられてしまったものとして自らを見直すことが、唯一の「正しい方法」が存在しない以上必要だと思います、野原さんの立場はそこに近いと思うのはですがいかがでしょう。なお、「自虐的」という位置づけの根拠は先ほど述べた「実質的正義」=「モラル」にあります、この違いが「自虐的」とそうでないものを分けると思います。
また長々と書き込み失礼しました。』 (2005/03/23 06:38)
3/22から23日にも、議論は継続しています。
N・Bさんも書き込みありがとう。
私の方は月曜日から(頭が)不調で論点整理もうまくできません。
君が代の強制は教職員及び子どもの思想良心の自由を侵害する
この論点についての反対派の代表的意見として東京弁護士会のものを掲載する。いまさらですが。
東京弁護士会は、東京都教育委員会の2003年10月23日付「通達」による学校行事等における「国旗・国歌実施指針」に基づき教職員の処分ないし厳重注意などの不利益扱いを行うことは、教職員及び子どもの思想良心の自由を侵害し、子どもの教育を受ける権利を侵害する事態を招くため、かかる処分等を行わないよう強く要望する。http://www003.upp.so-net.ne.jp/eduosk/toukyou-benngosikai-ikenn.htm「国旗・国歌実施指針」に基づく教職員処分等に関する意見
3 教育の場における「国旗・国歌」の取り扱いと、思想良心の自由への配慮の必要性
(1) 「君が代」・「日の丸」には、戦前の軍国主義国家における歴史的な経緯があり、国民主権という憲法の基本原則にはふさわしくないとの信条を持つ国民は少なくない。かかる意味で、「君が代」の斉唱を行なうか否か、「日の丸」を掲揚するか否かはまさに個人の思想良心の自由にかかわることである。
日本弁護士連合会も、1999年の「国旗・国歌法」の国会上程に対して、会長声明で、「『日の丸』『君が代』は・・過去の忌まわしい戦争を想起させ、被害を受けた諸国民に対する配慮の面からも国際協調を基本とする現行憲法に相応しくないと指摘する声も少なくない。」、「『君が代』の歌詞は国民主権という憲法の基本原則に相応しくないとする意見があることも事実である。」、「政府は、法案は『日の丸』の掲揚、『君が代』の斉唱を強制するものではないと説明している。しかし国旗・国歌が尊重されるのは、国民的心情によるものであるべきで、法制によって強制の傾向が強まることは問題である。」、「今回の法案上程は、国民の間における混乱を持ち込みかねないものであり、あまりに性急と言わねばならない」として、国旗国歌法の制定に伴い、その掲揚・斉唱の強制の傾向が強まって、思想良心の自由を侵害する事態を懸念していた(1999年7月14日)。
(2) 学習指導要領においては、1989年以来、「日の丸」を「国旗」として掲揚し、「君が代」を「国歌」として斉唱「するよう指導するものとする」とされている。しかし、学習指導要領は、「児童・生徒に対する教育をつかさどる」教師が教育を行うに当たっての大綱的基準を定めたものであり、「子どもの教育が、教師と子どもとの間の直接の人格接触を通じ、子どもの個性に応じて弾力的に行われなければならず、そこに教師の自由な創意と工夫の余地が要請される」ものであることに照らし、学習指導要領の内容が「教師に対し一方的な一定の理論ないし観念を生徒に教え込むことを強制するような」ものであってはならないとされている(1976年5月21日旭川学力テスト事件最高裁大法廷判決(以下「旭川学テ判決」という))。ましてや、子ども達が学習するに際して、学習指導要領により学習内容を強制されることなどあり得ないことである。そのため、これまでは、成長発達の途上にあり、思想良心の形成途上にある子どもに対し、「日の丸」を「国旗」として掲揚し、「君が代」を「国歌」として斉唱することを強制することが許容されるものとは考えられてこなかった。
(3) このような事情から、1999年の「国旗・国歌法」の制定に際しても、これを審議した国会において、当時の小渕内閣総理大臣は、「国民に対して強制することはない」旨答弁し、さらに、児童生徒に対する「国旗・国歌」の指導について「児童生徒の内心にまで立ち至って強制しようとする趣旨のものでなく、あくまでも教育指導上の課題として指導を進めていくことを意味するものでございます。この考え方は、1994年に政府の統一見解として示しておるところでございまして、『国旗・国歌』が法制化された後も、この考え方は変わるところはないと考えます。(1997年7月21日衆議院内閣委員会内閣総理大臣・小渕恵三)」と述べていた。
また、起立をしなかった児童生徒がいた場合の指導のあり方に関し、国会審議の中で「何らかの不利益をこうむるようなことが学校内で行われたり、あるいは児童生徒に心理的な強制力が働くような方法でその後の指導等が行われるということはあってはならない (1999年7月21日衆議院内閣委員会文教委員会連合審査会政府委員)」と答弁されていた。
「国旗・国歌法」制定の際には、「学校における『国旗・国歌』の指導は内心にわたって強制するものではない」し、「学習指導要領は、直接、児童生徒に対して拘束力を持つものではない」旨が、政府によって繰り返し確認されていたのである。
(4) そもそも、学校は、子どもにとって人格の完成をめざして学習し、成長発達する権利を充足する主要な場なのであり、「個人の基本的自由を認め、その人格の独立を国政上尊重すべきものとしている憲法の下においては、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家介入、例えば誤った知識や一方的な観念を子どもに植えつけるような内容の教育を施すことを強制するようなことは、憲法26条、13条の規定上からも許されない」(旭川学テ判決)のであるから、学校において学習指導要領に基づいてなされる、「国旗」の掲揚・「国歌」の斉唱に関する指導に当たっては、それが、思想良心の形成途上にある子ども達への強制にわたらないような条件を確保する必要がある。
そのためには、学校において日常的に思想良心の自由が確保されている実態を経験できることが必要であるとともに、児童生徒にたいし、事前に思想良心の自由を説明し、「国歌」斉唱時に「国旗」に向かって起立しない自由があることを説明し、起立しない自由を選択しても不利益を受けないことを説明し、そのような不利益を被ることがない状況を確保するなどの教育指導上の配慮が不可欠であると考えられる。
現在、わが国でも多民族・多文化共生が求められる社会になっており、様々な国籍や文化・宗教の子ども達が、ともに学んでいるという学校の現状がある。「国旗・国歌」の指導に際しては、こうした外国の子ども達が自己の文化を享有し自己の宗教を信仰する権利への配慮の観点からも、上記の説明は重要である。
さらに、教育は、教員と児童生徒の信頼関係において行われる。教員が児童生徒にたいして「国旗・国歌」への起立斉唱を強要することは、起立斉唱したくない児童生徒との信頼関係を損なわせることとなり、児童生徒の信頼できる教員から教育を受ける権利をも侵害することになる。
神さまがいっぱい
えー最近では古事記伝というと別の本のことだとかいう話を聞いたがまあそれはどうでも良いとして、岩波文庫の本居のそれは、1940年に(戦争中ですね)作った版をそのまま使っているので活字がかすれているし読みにくいことこのうえない。でもまあわたしは、無意味に近い言葉に惹かれるたちなので、苦労しながらなんとか読んでいます。やっとp298まで来ました。火の神カグツチを生むところです。天地初発之時からここまで岩波文庫古事記の原文(漢字ばかり)ではわずか3頁。それが『古事記伝』では約160頁です。
ところで新潮日本古典集成の『古事記』(西宮一民校注)の付録には神の名前がずらずらと1番から321番まで番号付きで丁寧な解説付きで載っている。とりあえず最初の部分を載せたいと思ったが古事記の神名は使われていない漢字などもあり書くのが難しい。ちょっと下記の古事記研究所というところからコピペして神の名のところだけ使わして貰います。記して感謝します。(一部勝手になおしたりしています)
- 天之御中主神。(あめのみなかぬしのかみ)
- 高御産巣日神。(たかみむすびのかみ)
- 神産巣日神。(かむむすびのかみ)
- 宇摩志阿斯訶備比古遲神。(うましあしかびひこぢのかみ)
- 天之常立之神。(あめのとこたちのかみ)*1
- 国之常立神。(くにのとこたちのかみ)
- 豊雲野神。(とよくもぬのかみ)*2
- 宇比地邇神。(うひぢにのかみ)
- 妹須比智邇神。(いもすいぢにのかみ)
- 角杙神。(つのぐいのかみ)
- 妹活杙神。(いもいくぐいのかみ)
- 意富斗能地神。(おおとのぢのかみ)
- 妹大斗之辨神(いもおおとのべのかみ)
- 於母陀流神。(おもだるのかみ)
- 妹阿夜訶志古泥神。(いもあやかしこねのかみ)
- 伊邪那岐神。(いざなぎのかみ)
- 妹伊邪那美神。(いもいざなみのかみ)*3
これでイザナミが17番になるだろうか?
10人の場合
を考えてみよう。
数字は1~10。すると、1巡目で偶数が消える。奇数は二進法では最小の桁が0。つまり答えは最小桁が1。1巡目の個数をF(1)=10とする。個数10を2で割る。10÷2=5余り0 g(1)=0 F(2)=0+5
2巡目は1,3,5,7,9のうち3,7が消える。つまり g(1)=0だが、1巡目と逆に*1、二進法では10の桁が1のものが消える。つまり答えは10の桁がゼロ。5÷2=2余り1 g(2)=1 F(3)=1+(5-2)=4
一拍置いているので3巡目は1,5,9のうち1,9が消える。つまり g(2)=1なので、2巡目と反対に二進法では100の桁が0のものが消える。つまり答えは100の桁が1。4÷2=2余り0 g(3)=0 F(4)=3-1=1 終わり。
つまり答えは2進法で101。10進法で5。
これであっているのかな。与えられたxについての式がわからないのでまだ不安。
エクセルでフォームを作った。1000を入れると17になる。本当か?
*1:数が0001から始まるから
夢の浮き橋
バンザイクリフの死者は誰に殺されたのか?
間違いは訂正すればよい!
モヒカン族とやらが流行っているという。世捨て人が流行りものに手を出すのも恥ずかしい。だけどまあ面白いかもしれないので引用して見よう。
http://mohican.g.hatena.ne.jp/keyword/%e3%83%a2%e3%83%92%e3%82%ab%e3%83%b3%e5%ae%a3%e8%a8%80
モヒカン族 – モヒカン宣言
■ 宣言
1. 発言者の社会的地位を気にせず、言説だけに注目する
2. 事実のやりとりに、余計な装飾語はいらない
3. 間違いは、きちんと認めて修正すればいい
だいたい賛成です。特に3. 「余計な装飾語はいらない」というのが理想ですが、私は意味なく相手の気分を害していることが多いのではとも思う。
■ モヒカン族5つの価値
校正
間違いを訂正してくれる人を我々は尊敬して評価します。よけいな裏読みをして「人格攻撃している」とは思いません。
共有
アイディアに校正の機会を与えることが生みの親の義務です。「理由が無いけど、これはこれでいいんだ」というエレガントではない開き直りはくだらない。
ツッコミビリティ
校正、反論しやすいエレガントな言説が価値ある言説です。その為には、冗長にならない範囲で、ソースと推論過程を明確化し他へ示します。
(1項目略)
差異
お互いの違いを確認することで、我々はつながります。「自分らにとって良いから他の人にも良いはずだ」とは思いません。(同上)
正しい、というか反論しにくい。あえて言えば、読みとりにくい文体で書かれた文章をどう評価するか、という問題が考察されていない。
文学的には、文章とは伝達可能性と不可能性のバランスにおいて成立する。文章を書くとき、ツッコミビリティを高めるという意識を持って書くべきだというのは賛成だ。だが一方では他者には“全然分からない”といわれるそうした文章を書く権利も人は持つ。それは「詩」であり、文章(論説文)は自ずから別だろう、と言われるかも知れないが私はそうは思わない。例えば磯部浅一のように反逆罪で訴えられたらそれに対する反論は、論理=合法性を離れ詩に近づくだろう。だからといってそれを揶揄することしかできないものは、自らえらんだわけではない東条英機を許しながらあと千年生きることになる。
「その為には、冗長にならない範囲で、ソースと推論過程を明確化し他へ示します。」わたしの文章にはソースの提示はあるが推論過程の提示がないな…
ちなみに、<野原燐 気付 自主ゼミ実行委員会>の原則は下記の通り。
1.公開。
2.参加者の自由な討論ですべてを決定する。
3.このゼミで討論され考察の対象となった事柄は、参加者が各人の責任において、以後あらゆる場で展開していく。
考えてみればわたしたちの社会も、すべての市民の「自由な討論ですべてを決定する」というラディカルな原則を“原則としてだけは”とっくの昔に採用していたのだった。その場合、モヒカン宣言に類する心構えは当然必須ということになるべきだったろう。モヒカン宣言なるものがけっこう新しく見えるのは、「自由な討論ですべてを決定する」を真面目に押し進めようとする勢力がごく少なかったことを意味しよう。したがって、上記のような留保は付けつつも、モヒカン宣言に賛成し発展を祈りたい。
価値の根拠はある
しかしマルクス主義に続いて、丸山的な市民社会主義も捨ててしまうとすれば、日本に生きる批判的知識人が、最後に拠って立てるような「批判」のための理論的基盤がなくなる。西欧産の「国民国家」イデオロギーに汚染されていない日本に固有のアイデンティティを探求し始めれば、自由主義史観と変わらなくなる。
(P237仲正昌樹『日本とドイツ 二つの戦後思想』)
日本に固有のアイデンティティなんて、探求したって他国人には通用しないのだから一文の価値もないよね。ただ、それほど厳密に考えなければ、日本の伝統の中に理論的基盤の<根源>を求めることはできる。例えば「終戦の詔勅」の「皇祖皇宗の遺範」でもよい。天皇中心主義は本来、儒教*1や朱子学*2と基本的に違ったものではない。北畠親房や儒家神道だけではない。*3したがって、「皇祖皇宗の遺範」というのも朱子学で言う「理」に近いものと受け取って良いのだ。
ただ可笑しかったのは、天皇裕仁が退位しなかったこと。そのせいで日本は価値の根源が不明になった。最近のプチウヨはサイパンの崖の上から何回でも飛び降りますと、永劫回帰主義者になりかっこいいが、大衆は誰も付いてこないと思うぞ。
約二百万人の日本人死者への責任は?
おとなり日記から
本来平和主義者で戦争回避論者だったが、東條英機をはじめとする強硬派の主張に引きずられ、あくまで立憲君主としての中立的立場に固執するあまり、戦争への流れを止められなかった、基本的には軍部の被害者であった昭和天皇。
そういう一般的な昭和天皇のイメージは、近年の公開史料に基づいて書かれたハーバート・ビックスの『昭和天皇』が提示する驚くほど好戦的な昭和天皇像によって根本的な修正を迫られている。
逆に言えば、昭和天皇の判断が誤っていたから、約200万人の死者が余計に失われたのである。
この事を普通の日本人が当たり前の歴史的事実として受け入れるまでに、果たしてあと何年かかるだろうか。はっきり言えるのは、たとえ何年かかろうとも、この問題を解決しない限り、日本人にとって「戦後」は終わらないということだ。
敵が中国や韓国や東京裁判なら戦いは容易である。左翼やリベラルが敵でも同じこと。
臆病で優柔不断で好戦的で保身的で日和見的でずる賢い自国の天皇が本当の敵だったと分かったとき、私たち日本人は一体どのように戦うのか。決戦の日は刻々と迫っているように思われる。
(同上)
日本人ははたして自己決定を望んでいるのか。自己決定せずに何かに引きずられていき、ひどい目にあっても「やむを得なかった」といって納得して死んでいくのが好きなのではないか?