移民制限論の是非

https://wan.or.jp/article/show/7070 上野千鶴子
https://wan.or.jp/article/show/7074 清水晶子 
読みました。

「「移民一千万人時代」の推進に賛成されるかどうか、お聞きしたいものです」という問いに清水は答えない。
フェミたちや自民党がどう動こうが、移民は少し増え、しかし人口不足をおぎなえる程は増えないのではないか?
上野は「移民制限論」を唱える。その場合、国家はより強力な再分配政策を取る必要があることになるはずだ。
清水が「移民増加論」を取るかどうかを上野は問うている。その場合、社会のあらゆる領域における反レイシズム、移民統合化を成し遂げる必要があるが、フランス・ドイツの例から見てそれは無理だろう。
上野の議論は、国家として責任を取れるのか?、というレベルで問われている。

移民制限論/移民増加論、どちらかをとらねばならない。どちらを取るにしても、国家も市民も手を汚す覚悟は必要だ。
上野が言っているのはこのような図式だ。

それに対して、「共生の責任は誰にあるのか」という文を書いた清水は、何を語っているのか?

「「社会の女性嫌悪の悪化を避けるために女性の〈社会進出〉を制限する政策」を男性が主張し採用する」という例において、「男性」という主体はしばしば普遍を名乗るが普遍であってはならないものとして否定される。
清水が提出するのは、日本社会は誰のものかという問いだ。

それは日本社会に生きている、とりわけ日本社会で日本国籍を保持して生きている人々の問題です。 「わたしたちは移民や外国籍住人の権利を守れないし、その結果社会不安が起きたりしたら困るから、移民や外国籍住人が増えないように彼らの移住の権利を制限しましょう」と言うのは、「わたしたち」の問題を「彼ら」に転嫁することに他なりません。

日本人のマジョリティ(投票に行くような人)に対してマイノリティもいる。マジョリティの利害でマイノリティの利害を制限するのは許されないと。

どうだろうね。男性だけが国民を名乗ることはもはや誰も許さないだろう。しかし「国民」が国民の利害において行動すべきでないというのは、なかなか納得させるのに難しい理屈になる。

『愛の労働 あるいは 依存とケアの正義論』について

エヴァ・フェダー・キテイの『愛の労働 あるいは 依存とケアの正義論』を読んだ。
これは大事な本だと思うので、紹介したい。丁度、その訳者である岡野八代、牟田和恵さんがキテイを日本に呼んでそのとき作られた本がある(下記J 同じ図書館にあったので借りてきた)。こちらを読みながら、抜き書きしてみたい。

この本は、「重度の障碍を抱える娘セーシャと共に歩んできたキテイの人生と、そのなかで哲学者としてのキテイが経験した葛藤から紡ぎだされた思想の書だ」、と岡野氏はこの本を語りだす。(p14 J) 

キテイは障碍者を育てる親であり一方、倫理や哲学を学ぶ学者だった。「人間の本性とは何か、善き生とは何かについて長きにわたって論じてきた哲学の伝統のなかで、セーシャのような存在は(略)社会的な存在として認められてもいない、という事実」に気がつく。人間の平等を深く考察しながら、障碍者のことは思考の対象にすらしていない、と。(p14 J)
自己にとっての二つの真実が矛盾していること、それを解消するために、キテイは、ロールズに至る西欧思想史の根幹である人権思想を組み替えるという作業を必要とした。

キテイは自らの論を、「依存批判」と名づけている。これを江原由美子氏の紹介の引用によって簡単に紹介する。

「キテイ氏は、フェミニスト理論において議論されてきたジェンダー平等のための批判の論理を、差異批判・支配批判・多様性批判・「依存批判」という四つの批判の仕方によって、把握する。差異批判とは、男女の差異を批判の焦点とし、差異と平等との関連性を問う論じ方を、支配批判とは差異ではなくヒエラルヒーと権力を批判の焦点とし、支配が差異に先行しているがゆえにジェンダー平等実現のためには支配と従属の関係の廃棄こそが求められるべきだ等の批判の仕方をいう。また多様性批判とは、女性同士や男性同士の差異を批判の焦点とし、ジェンダー平等の実現にはすべての多様性についての配慮が必要であるという批判をいう。」(p124 J)

キテイは、これまでのフェミニズム理論を3つに分けて押さえる。次に「依存」とは何か?
「ここにおける「依存」とは、「誰かがケアしなければ生命を維持することが難しい状態」にあることをいう。人間は誰もがすべて、その生涯において一定期間は「依存」の状態にある。また長期間あるいは一生にわたってその状態にある人もいる。」
赤ん坊は生まれたての時は24時間保護を必要とするし、その後も20年近く「育て」なければならない。また、高齢になれば介護を要する状態になったり、痴呆(認知症)になったりしやはり自立生活はできない。キテイの娘、セーシャのような場合はずっと保護を必要とする。

社会秩序の基本をなす人々の契約は平等に位置づけられ平等に権利をもつ諸個人の自発的な結びつきに由来する、というのが17,18世紀に確立した社会契約論であった。現在の西欧社会はその思想を継承している。キテイが具体的に批判するのはロールズであるが、ほかの人も同じである。
「不平等な状態が現にある」ことは否定できないが、そうした「不平等な状態は、「平等化施策」によって解消可能であり、それ以外の能力の差異も、社会的条件や偶然的な条件によって生じる「一時的なもの」とみなしうるとされていた。」(江原・p125 J) というのが彼らの論理だった。しかし、そうだろうか。

「それに対し、「依存批判」は、まず「依存」を、基本的な人間の条件としてみなすべきであると主張する。(略)その意味において「依存」とは、「たまたま生じたまれな状態」、「それゆえに無視してもかまわないような状態」なのではなく、私たち人間の基本的条件なのだと、「依存批判」は主張する。「依存」を人間の基本的な条件とみなすことは、「依存者」をケアする活動を行なうことをも、人間の基本的条件とみなすことを意味する。「依存者」は、その生命の維持を他者に依存している。すなわち、「依存者」はその生命維持のために、「被保護者の安寧の責任を負う活動」を行なう「依存労働者」の労働を不可欠とする。ゆえに、「依存」を人間の条件として認めることは、社会を「平等者の集団」とみなすのではなく、「依存者」「依存労働者」をも含む人々の集団としてみなすべきことを意味する。そうだとすれば、「平等」とは、能力において対等な「平等者の集団」の間で構想されればよいことなのではなく、他者のケアなしには生存できない「依存者」や、「依存者の生存の責任を負っている依存労働者」との間において、構想されなければならないことになる。」(江原・p125f J)

このような存在〜関係を、非本来的なものとして理論的考察の根本からは排除してもよい、とするのがいままでの学問だった。国家を「理性的存在」の結合として説明しなければ、国家は至上権を持てない、とする発想。
治者と被治者の同一性というのは確かに、強い魅力を持った形而上学ではある。しかし、社会の諸関係を素直に考えてみると、理性的主体間の契約のような合理的関係はごく少なく、社会はそのつど身近な人どうしの互酬的関係で成り立っている。家族内部の互酬的関係とされるものが抑圧的関係ではないか、と告発したのがフェミニズムである。しかしフェミニズムは、反フェミが攻撃するように互酬的関係を解体し日常を利害の損得計算に還元せよと主張しているわけではない。家族内部というだけで、すべて「互酬的」とされ、結果的に母親・主婦役割の女性に過重な負担が押し付けられている現実を糾弾しているだけである。

伝統的大家族においてはなんとかメンバー内で負担を分担してゆうずうしあっていた。(幼い子がさらに幼い子の子守をするなど)しかし「自立」を看板にする近代的核家族においては、皮肉なことに、これは(建前はともかく実質はすべて)主婦の負担になってしまった。それと同時に女性の社会進出も進み、「主婦」は過重な負担にあえぐことになる。にもかかわらず、それは、選択の自由、あなたには子供を産まない自由もあった、という論理で自己責任とされてきた。フェミニズムの論理の一部が悪用されたといった側面もあったわけだ。理不尽な話だ。しかしこれが現実であり、現在も出口はない。

個々人はそれぞれ別々に生きているわけではなく、つながりのなかで生きている。平等というものもそのなかで考えなければならない。
つまり第一にケアを必要とする者がそれを得ることができなければならない。次にケア提供者は自分の時間と配慮の大きな部分をケアのために使わざるを得ないので、報酬を得る仕事をしたり自分自身をケアすることにおおきな不都合を持つ。したがってそれについては第三の家族メンバーからさらに配慮とケアを受ける必要がある。
「依存者」をケアする必要を中心に(拡大される)家族、さらにはその外側の社会のなかである互酬関係が作られければならない。それによってケア労働者はドゥーリアの権利を得るだろう。

「人として生きるために私たちがケアを必要としたように、私たちは、他者ーーケアの労働を担うものを含めてーーも生きるために必要なケアを受け取るような条件を提供する必要があるのだ。これがドゥーリアの概念である。(p293 L)

しかし、依存ーケア労働者の関係を、単にケア労働者の負担、労働過重といった面でだけ語るのは一面的に過ぎない。それは存在と存在の最も深い関係である。

キテイの娘であるセーシャは話すことができない。外にも多くのことができない。

「セーシャの愛くるしさは表面的なものではない。なんと表現したらよいのだろうか。喜び。喜びの才能だ。おかしな音楽を聞くときのくすくす笑い。(略)キスをしてお返しに抱擁を受ける喜び。セーシャの喜びの表現はさまざまな種類・程度にわたる。」(P335 L)

ひとが生きることの原初の輝きがそこにはあるのだ。
 
ただ、それほど美しい話ばかりではない。わたしの知人Y氏も重度の障碍者の父親だった。娘さんの名前は天音という。

・・・彼女とて哺乳瓶で食事をとらないと生きていけない。天音が意思を伝える手段は大声で泣きわめく以外にない。こちらの都合など関係ない。呼吸困難で唇が白くなるまで泣き続ける。抱いてやるとぴたりと止むが、欲求が激しいと駄目である。して欲しいことを、泣くことで表現する。欲求といったところで、あとは眠たいから抱いてほしいとか、お腹の調子が悪いからなんとかしてくれとか、そして単に抱っこしてほしいとか程度の、実にささやかなものである。
泣き声に負けて抱いてばかりいると、家事も仕事もなんにも進まない。苛々がつのる。その親の焦りが伝わるのか、天音は抱かれているのに口を大きく開ける不満行動を頻繁に引き起こす。(p42 Y)・・・

Y氏の奥さんのH氏は「天音の知り合いに近況を知らせる手紙のような」ミニコミをずっと出しておられた。(わたしはその読者にもならなかったのだが。)天音ちゃんの介護という限りなく閉ざされた労働(苦役)を、社会の関係性の方に向かって開くこと、それを要求する権利が自分たちにはある、(キテイの文脈に添って言うならそう言えるわけだが)、そのような思いもあっただろうと思う。

L:エヴァ・フェダー・キテイ 『愛の労働 あるいは 依存とケアの正義論』 岡野八代,牟田和恵訳 白澤社(原著 1999年)
J:エヴァ・フェダー・キテイ 『ケアの倫理からはじめる正義論─支えあう平等』 岡野八代、牟田和恵編著・訳 白澤社
Y:山口明 『昼も夜も人の匂いに満ちて』 湯川書房
H氏とY氏のブログ http://amanedo.exblog.jp/19335267/

慰安婦問題は終わった

昨日「慰安婦問題」について下記のようにツイートした。
今回の「決着」は、安倍周辺が言っていた「謝罪の必要なし」に反するものなので、わけの分からないという感想もある。しかし、これに対して安倍批判をしたがる「リベラル」は頭悪いんちゃうか、と思ってしまう。
今回、(何度も言うが)「河野談話の事実認定と謝罪を覆すことができるどんな材料も存在しなかった」ことが明確化したんだ、と理解することはできる。であれば他のことはおいておいて、そのことを強調し、ネトウヨを殲滅することにちからをそそぐべきだろうと思うのだ。
私にとっての「慰安婦問題」の本質はこれが最も大きい。(元慰安婦の方はすでに7割以上なくなっていて、少なくとも彼女たちについてはどんな解決もなかった、ということがすでに確定している。)

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慰安婦問題:「不可逆的に最終決着した」とか言って、何のことか分からない。ともかく、河野談話の「事実認定と謝罪」を覆す何物もネトウヨとその周辺の読売新聞とかがもっていなかった事実が「不可逆的に最終決着した」と理解しうる。この事実をすべてのネトウヨに突きつけ嘲笑おう!

私は皆さんに提案したいが、この一週間この論点でネトウヨをいじめることはできるし、それはぜひすべきことだとおもうのだが、如何だろう? 

いまごろ新しい基金とか何のことかまったく分からない。しかしそれの批判に勢力を使うのではなく、河野談話のいう「反省」の日本の教育への反映を回復することに全精力をそそぐべき。前回も基金批判に精力を費やしすぎた。 

この局面で私たちにはできることがあると思う。「河野談話の事実認定と謝罪を覆すことができるどんな材料もあなた方は持っていなかった」ことを、広義のネトウヨに確認させることです。

「歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ(河野談話)」を再確認しているはずなので、教育をさせなければいけないのがもちろん一番大事です。

.@hana__yoshiさんへ 「河野談話の事実認定と謝罪を覆すことができるどんな材料もあなた方は持っていなかった」ことをまだ承認できないみたいですね。自分が負け犬であることをそろそろ自覚してください。

河野談話の事実認定と謝罪を覆すことができるどんな材料をあなた方は持っていのですか? 問題がもつれたのは、「相手は金を要求している」として相手を卑小化しようとして相手の感情的反発をもたらしてしまったあなたがたのせいです。まだわからない?

最初の問題は事実認定です。「軍管理下の慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。」したがって国家に責任があったことは明らかです。これは認めるのですね? いいですか質問は「責任」についてだけですよ。

ここで言っているのは、連れてきた女性を性労働(性奴隷)状態に起き続けた責任です。 「慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。」はいいですね。人身売買はあったとしてその前の話。

河野談話がいかにいい加減か>で今回の「決着」はそれと同等あるいはそれより悪質なものですね?

ネトウヨ侮蔑が大事だと思う。

それが「河野談話の事実認定と謝罪を覆すことができるなんらかの材料」なんですか?「河野談話の事実認定と謝罪を覆すことができるなんらかの材料」が存在するのにそれを利用しないほど日本政府は愚かだったが貴方の理解?.

「吉田某が・・・」「朝日が・・・」とほとんど意味のないことで大騒ぎしたあげく、それがやっぱり無意味な騒ぎだったことが、今回明らかになったということですよね。

東氏曰く「ここはおとなしく歓迎すべき」>事態をどう捉えるか。「河野談話の事実認定と謝罪を覆すことができるどんな材料も、読売新聞を含む膨大なネトウヨの類が持っていなかった」ことが明らかになったわけです。それを大喜びし確定させるべきだ、に賛成!!

安倍氏が日韓関係を現に修復したのか?私は興味がない。「歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶」の確認と実行だけが大事だと思っている。それを確認し実行させようとする人が少なすぎる!

河野談話には不十分点もあった(だろう)。しかしその後の経過から考えるとその談話の事実認定と謝罪と文言を守り切ることが、最大の分岐点であった、ことは明らかだと思う。しかしフェミも左翼も政治的に思考せず、河野談話の気に入らない点をけなすことにだけ精力を集中し、全敗情況に至った。

「河野談話の事実認定と謝罪」を保持し確認し教育していくことが(最低限かもしれないが)最も重要であり(それとネトウヨを叩くことが)、それに利用できるので評価すべき。

弱者の最終解決

http://www.arsvi.com/2000/03073101.doc によれば、

警察庁調べ(検挙件数)で、平成14年度  殺人197(120)傷害1250(1197)暴行219(211)  という件数が挙がっている。( )内は「うち夫から妻」。いわゆるDV*1被害者である。わたしはDVのことをよく知らない。ここでは上記urlを読んで感じたことだけを極めてかたよった角度から語らせてもらう。パレスチナやイラクでは沢山人が死んでいるが、日本人が死んだだけで大騒ぎする。実は国内でもたくさん人は死んでいる(むごたらしく殺されている)であっても大きく報道されない<死>たちは私たちの意識には上がらない。かりに考えようとしてもどのように考えたらいいか分からない。ここで挙げられた120人の女性と77人の男性の死。警察庁の把握する「配偶者からの殺人」とは、いわゆるDV以外のものも含まれているのか、その点はよく分からない。平成10年から189,170,197,191,197と数字はほとんど定常的に並んでいる。より軽度な犯罪である傷害、暴行が4年間で4~6倍というありえない増大を示しているのと対照的である。この増大は“家庭内には国家権力は介入できないとする常識”がDVの啓蒙により崩れてきていることを示しているだろう。統計図表上著しい偏差はもう一つあり、被害者が女性である率が殺人では61%なのに傷害暴行ではいずれも96%と大きな差がある。そもそもhttp://www.arsvi.com/2000/030731kr.htm に書かれていたこの差に注目したのがこの文を書くきっかけになったのだ。そもそも「被害当事者の95~97%は女性」である。ところが殺人においてだけは4割つまりほとんど半数にせまる割合で、(おそらく)それまで長い間加害し続けてきた男性が殺されている。*2

一般にミクロな権力関係は「服従せよ、さもないと(鞭で)打つぞ」という脅かしにより、成立する。それは、(かならずしも不可能ではない)反抗をしないという選択を服従者がなすことによって成立している。DVの場合、反抗に対してはより大きな暴力が加えられる。反抗は不可能に見える。ところが服従していても暴力は加えられる。これでは服従の意味がない。したがって加害者を殺すという究極の選択がクローズアップされ、それはしばしば実行される。

ナチ、シオニスト右派やネオコンは最終解決という思想に引きつけられている。しかし「最終解決」は弱者の思想であり、権力側がそれを行使するとき世界は破滅する。

*1: ドメスティックバイオレンス(DV)を直訳すると「家庭内暴力」となるが、日本ではこれまで子どもが親に振るう暴力を「家庭内暴力」と呼んできたことから、それと区別し「配偶者・恋人など親密な関係にあるパートナーからの暴力」と解することになっている。 http://www.arsvi.com/2000/030731kr.htm

*2http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/tokyo4.html#natasha ちなみに、松下昇氏のこの文章では、タイ人女性が売春強要したボスのタイ人女性を殺した事件を扱っている。被害と加害の逆転という点で同じである。

弱者の反抗可能性

前日(12/23)に書いた「弱者の最終解決」は訂正していきたい。趣旨は以下のとおりです。

「弱者の最終解決」について、ある方から論旨不明と言われた。(感想ありがとうございます) おっしゃるとおりである。短い文章に異質の多くのことを詰め込みすぎて意味不明になっている。書き直した方がよいだろうが、とりあえず、モチーフをどんどん列挙しておこう。

  1. DVで殺される日本人は毎年200人いる。
  2. 日本人が殺されてもそのほとんどは社会的にニュース価値がないとされ、わたしたちの問題意識に上がらない。
  3. DV犯罪の表をながめると一つの特異性に気づく。DV被害者=女性であるのに(例外は4%)、殺人の場合被殺害者の4割が男性になっている。
  4. これを理解するためには、ある種のゲーム理論が有効である。(B=弱者、A=強者とする)
  5. 一般にBがAに服従するとはどういうことか。(この場合服従という関係性が悪であるとも善であるとも見なさない。上司への服従はむしろ善であるが。)服従しない場合、AはBに罰を与えうる。普通は「与えうる」という理論的可能性だけで服従は継続される。二人の間における関係をゲーム理論的に考えてみましょう。
  6. http://member.nifty.ne.jp/ysakurai/ にある、桜井芳生氏の「フーコー的権力論を語りたくなる状況に関する、 非フーコー的権力モデル -続・ナッシュ(ハーサニ)交渉解援用による、権力と意味の一モデル-」という長い題の文を前日読んでいたのでこういったことを考えたのでした。
  7. (モデル1)Bは常に反抗可能性を持っている。であるが実際には反抗せず暴力は顕在化しない。Bは(長い間)服従状態にいる。だが次の瞬間、Bが反抗する可能性は存在する。
  8. この(モデル1)は、DVには当てはまりそうもない。DVにおいては最初から暴力は顕在化しているからだ。
  9. (モデル2)Bもひょっとしたら反抗可能性を持っている。であるが実際には反抗できるとも思っていない。Aの暴力は最初から激しくBを無気力化するという効果を生んでいるから。Bは(長い間)服従状態にいる。だが次の瞬間、Bが反抗する可能性は存在する。
  10. この場合Bの反抗はAの暴行をエスカレートさせるという効果を生む。したがってBの反抗は理性的ではない。しかし反抗しないでも、暴行のエスカレートが生まれることがある。この場合反抗しないことに理性的根拠は無くなる。理不尽な暴力はBを無気力化し関係は長期化する。不思議なことに、関係から逃げることをBは望まない(らしい)。
  11. BによるAの殺害は何を意味するのか。離婚別居といった水平的な逃亡ではなく、関係自体の抹消、垂直的な道が選ばれる。(このことの意味はよく分からない)いずれにしても確かなことは、(モデル1)に比べてもはるかに希少だと思われた反抗可能性が存在したことが強力に判断できる、ということである。
  12. 前回の文章の分かりにくい原因の一つは「最終解決」という言葉に引きつけられてしまい論旨が乱れた点にある。この言葉は一旦削除する。
  13. いままで書いたことは、二人の間の人間関係の話である。したがってイスラエル/パレスチナといった固有の歴史と数千万の人々の存在が関わる話とはレベルが違う。安易な適用は慎むべきである。しかしながら、「暴行のエスカレート」といった事柄を考えようとするとやはり、イスラエルを思い出してしまう。(モデル3)を記述してみてから、ミクロとマクロはやはりレベルが違うのかどうか考えてみよう。
  14. (モデル3)Bは反抗可能性を持つ。Aの暴力は最初から激しいがBを無気力化するという効果は生まなかった。むしろ効果的だったのは「言葉の上での和平や合意」、Bの総体ではなくボスたち(アラファトたち)だけへの懐柔だった。「和平という言葉」によりAは有利な立場を得る。だがAの思いこみの中ではBはそもそも存在すべきものではない。この場所は神によってわれわれに与えられた荒れ地でなければならない。したがって、Bが存在するならそれはテロリストという呪われたカテゴリーにおいてでなければならない。AはBを挑発し、Bは反抗する。
  15. モデル1と2では、長い服従が続いた後、それでもBの反抗(可能性)が存在するのだ、というのが論点でした。(モデル3をDVに対比的に考えると、イスラエル建国からの50数年はDVであれば最初の2,3日に当たるのかもしれない。)わたしのモチーフは反抗可能性の存在を言挙げすることにあるので、その意味からは、モデル3は最も強力な傍証となる。

(問題点)ゲーム理論的発想とは何かについてわたしはよく分かっていない。ゲーム理論的なものは思想的に正しくないのではないか? という疑問に答えられない。

弱者とはだれか?

12/25の「弱者の反抗可能性」に対して、またAJさんが「疑問」を届けてくれた。了解を得たので下記にコピーペーストします。*1

ところで、訂正文を読んで以下の疑問が又、湧いて来たので記してみます。

1)弱者とはだれか?   権力関係で、支配、服従、隷属・・を強いられる存在はたしかに、強者に対して弱い位置にいる。しかし、夫婦関係それに準ずる関係ではいくら封建社会においてでもふたりを権力関係とは呼ばないでしょう。つまり、弱そうにみえる位置をとりながら<弱い>ことを武器にして支配的になることも可能なので女性の関係技術のひとつでしょう。強い夫の方が結局は従属していることもあり、強弱は判定し難い。

2)Dvの場合、夫の暴力ははじめから、といううわけでなく、必ず蜜月があるようです。そして、それがサイクルになつていて激しい暴力の後必ずまた、蜜月が来る。ここら辺りが被害者に見える妻が逃げたりしないメカニズムとなっているのではありませんか?

3)しかし最期に妻の側から逆襲が起こる。これは「反抗」と呼ぶよりは妻からの「宣言」ではないでしょうか?と言うのは、そもそもDv的夫は関係意識の底の方で他者性に欠けており、自分と妻の区別がなくてふたりの一体化を思い込んでいて妻は自分の一部だと感じているのでは?従って妻が他者として現れてくることに耐えられずメッタ打ちをやって否定しようとする。やられる側は、場合によってはそれが気持ちいいこともある。しかし度を越せば「宣言」へ。なにのマニフェストかと言うと妻にとつて夫は不可分のもの。つまり、殺すことで自分化-永遠化させる働きを持たせるのでは?結局ふたりは共に他者性に問題がある、といえる。

4)3のスキームはイスラエルがパレスチナの地を自分のものと思い込んで先住民を差別支配するのに擬似しているが、DVと決定的にちがうのは性的関係では反発と見えて引き合っている複雑さが必ずあります。<愛憎>といえる両義性が個的な関係では必ずあります。国家レベルでは少ない。

5)従って、「弱者の反抗」というべきメカニズムはDV関係ではあり得ないのでは?

6)本来的な「弱者の反抗」はどこに存在しているか?・・はまたの機会に。(以上AJさんからのメールより)

*1:「了解を得たので」と書くと、了解を得なければコピペしないという原則を持っているようだがそうでもない。私信はともかく、ホームページや公刊された本などについての著作権侵害は緩やかに考えて良いと思う。一般人(って変なことばだが)同士の場合、この程度のサイトでも相手がサイトを持ってなければ、私の方が情報強者である場合もありうる。そういった問題への配慮は必要になるだろう。