兵庫県職員のみなさん

11/17の選挙によって斎藤氏が、再度知事になりました。
彼は「これまで説明しているとおり、県としての対応は適切かつ法的にも問題なかったというのが私の見解」と言いました。
https://news.ntv.co.jp/n/ytv/category/society/yt3bf8cc29c7494b6aaddbea3e43da6fcf
しかし、W氏文書に対する県の対応は公益通報者保護法に反したものというのが、事実であり、それを覆すことはできなはずです。それだけでなく、斎藤氏の言動についてはすでに百条委で膨大な質疑が繰り返されており、彼の主張は否定されています。

しかし彼は「民意を得たので、職員の皆さんは知事部局として一緒にやっていくのが地方公務員の責務」と話した、というのことのようです。
一緒にやっていくのは当然である。しかし、知事のパワハラは存在したのだし、それと同じことを今後もされても困る。
どうすればよいだろうか?

臥薪嘗胆である。この7ヶ月の間、斎藤氏は周囲の皆から何を言われようとも「県としての対応は適切かつ法的にも問題なかったというのが私の見解だ」という姿勢を守り抜きました。W氏はすべて正しかったが(不倫があったかどうかなど彼の告発の成否とは何の関係もない)、死を選んだのはマチガイだと思う。わたしたちは斎藤氏の厚顔無恥さに学ばなければいけない。
彼は何度も謝罪の言葉は口にしている。しかしそれは口先だけの謝罪だった。彼にはどんなことをしても守らなければならない「真実」があり、それ以外のことではすべて譲歩・謝罪しても良いと考えたのです。弁護士と相談しどこまでは謝罪しそれ以上は1mmもはみ出さないように慎重に言動をコントロールしました。


あなたは、何を守るか?
「県としての対応は適切でなく公益通報個人情報保護法違反だ」については守り切れはずだ。そして、それ以外の点についてはへらへらしておればよい。
四年間の臥薪嘗胆である。斎藤氏にできたことはあなたにもできるのだ。くじける必要はまったくないので、元気に出勤してほしい。
あなたは仕事をする。仕事とは県民(市民)のための仕事だ。法律に目的が書いてある、その目的に資するものだ。それ以外の県庁内部的な仕事と称するものはできるだけサボっても、まあなんとかなる。(無責任で申し訳ないが)
へらへらして、4年間をやり過ごすこと。斎藤氏の厚顔無恥さに学ぶこと。
生き延びるためではない。斎藤氏を心の底から馬鹿にしている「私」がそこに存在することは、すでに勝利だ。
元気でにこにこ、生きていってください!
(1975年入庁 野原)

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吉田松蔭に価値はあるか

吉田松陰は尊敬されるべきである。と言いたいが、勉強不足で説明するのは難しい。野口武彦の『王道と革命の間』の松蔭の章を読みながら、理解できたところを簡単に紹介したい。

「わが国体の外国と異なる所以の大義を明らかにし、かふ(闔)国の人はかふ国の為に死し、かふ藩の人はかふ藩の為に死し、臣は君の為に死し、子は父の為に死するの志確固たらば、何ぞ諸蕃を畏れんや」p256(闔国とは全国という意味らしい。某国という意味かと思っていた。)ここで「大義」があくまで普遍性に向けて開かれたものであったと、考えていくことができるのではないか。

「この「国体」概念は、明治維新以後の時代から逆投影されて極度に理念化されたそれとは、かならずしも同日には論じられない性格を持っていたように思われる。」と野口は書く。p256 昭和十年代の劣悪な国体概念を砂糖水に垂らしたような現在のネトウヨ的「国体」理解と混同することは、なおさらできないだろう。

吉田松蔭(1830年〜1859年)。彼が維新の8年も前に死んでいる点を私たちは勘定に入れなければならない。忠誠・政治の中心点を藩・幕府から天皇に転換するだけでなく、それが民生の全てを支えうる価値の総括者でもあるという「国体論」を、彼は創出した。松蔭が「狂者」たる己の実存を掛けて果たした転換によって、時代は変わり多少軽薄な変革者たち(?)により維新は果たされる。
さて、その国体論は、大逆事件を経て昭和10年代に完成する全体主義「国体論」と、表面上酷似するが故に、混同させられてしまうこともある。
しかし、忠誠対象を天皇に転換するためだけにも、おおきな思想的力量が必要であったことを全体主義的感じをあたえる理解しなければならない。
また、民を愛するという仁政の徹底においてしか、国のために死すことはできない、と考えた点は重要であろう。

松蔭の思想は「事実上の教え」としての孟子に基づく。
孟子の思想は、「善く戦う」などより「仁政」を重んじるところにある。「親を親しみ、賢を賢とし、民を愛し士を養うの政」を行なうことである。
「古今兵を論じる者、皆利を本とし、仁義如何を顧みず。今時に至りその弊極まれり。その実は、仁義ほど利なるものはなく、また利ほど不仁不義にして不利なるものはなし。」p273
すなわち、民に対して仁政を施すことが強国化につながるという孟子の論は、孟子が生きていた戦乱の時代のリアリズムにおいてなされたものだというのが、松蔭の「王道論」である。だから、それはすなわち幕末の危機にも直接適用できるとする。
(おそらく松蔭が今生きていれば、新自由主義による労働分配率の減少を鋭く捉えて
渾身で糾弾したに違いない。)

「「天朝を憂ふる」という一語に要約される、皇統への全身的な忠誠心情と決断主義的論理との複合」と、野口は松蔭の思想を要約する。この限りで、戦後において危険思想とされるしかないことになろう。しかし、天皇も国家主義も平和(戦争)も何一つわたしたちは処理しきれていない、そのことの危機が顕在化している以上、わたしたちは松蔭をゴミ箱に入れる権利はないのだ。