〈共同体〉とは何か?

ふじのにできて、あなた〜わたしにできないこと、とは現在何だろうか?

わたしたちは一つの幻想あまりにも強く存在を拘束されているため、もはや自由とは何かが分からなくなっている。〈働かなければならない・稼がなければならない〉がそれだ。一見それから免れているかに見える専業主婦なども、毎晩の晩飯を作らなければならないという形でそれに縛られている。

しかし、すこし世界を見渡すとそうした思い込みは特殊なものに過ぎないことがわかる。例えば古代ローマのストア主義者の場合は、いかに良く死ぬかだけを考えて生きるべきだとされていた。
わたしたちはわたしたちの自由を自分で定義することができる、生活と語り方のスタイルを共有することによって。非暴力の自らの生活基盤や身体性の根底からの再検討をめざす表現過程において。

自己/あなた/第三者の3つの位相において、常に〈開放〉を志向すること、つまり、

自己が自己であり続けようとする固執を常に解除し続けること。

存在論的対等という要求をあいてに示し、自己もまたそれに開かれているようにすること。

形成されつつある関係性が疎外し忘れている人物、また無関係な外から飛び込んでくる人物を
最重要視し、一旦は考えてみること。

このように考えるなら、いまここから、再度〈共同体〉を作っていくことは可能なのではないか?

                     2016.7.8   野原燐
 

Sくんへの手紙

Sさま

昨日は、わざわざ走って帽子を届けてくれてありがとう。
と昨日手紙を書き始めましたが、書き続けられず、2日後になってしまいました。

いま現在窮状にあるあなたがたにとって、問題解決していけるように、という問題意識をもって、Tさんの6/20付け「声明」「経過報告」「要求」を読んでみます。
(K.Eさんが送ってくれたものです。苦労してfacebook偽名でアカウント作成しましたが、この「声明」にまで辿り着かず。)

といっても、私の基本的視線は「批判的」なものかもしれないです。わたしたちが自分の常識と信じているものは絶対的なものではなく、別の形でもありうるはずだと私は信じています。
わたしたちを縛っている常識の最大のものは、いうまでもなく「仕事をし賃金を得なければならない」というものです。そのような常識を拒否しようとする試みとして、〈弁当屋〉の活動がありました。

弁当屋の人的構成を、次のようにまとめることができます。
α.運動をリードしてきた、F(H氏を含めるかどうか議論がある)の思想
β.弁当作り、店員の作業をになってきた、6人(くらい)(お祖母様、Aちゃんを含む)の熱意
γ.周辺の若者の手伝い+K.E、近隣住民某ほかの大きな興味 (オーナー、や地域住民の好意、客がついたこと)

「紛争」のきっかけは、H氏が書いた「HとFがゆかいななかまと作りかけているちいさな食堂のプロジェクト」というフレーズでした。
「HとFとゆかいななかまたち」とは「言い換えればF・Hがいなければ何もできないような構造のコミュニティへと前進してしまう事になる。」と言って、F氏は自己批判しました。しかしそれは無理やり書かされたものだとして、また彼は撤回することになります。
しかし一旦は彼は「今後、共同体の自由と豊かさの発展のためには、上記のような認識に基づき、これまで個人の名前や力をよりどころにしている、自分たちの考え方を反省し、行動を改めなくてはならない。」と書いたわけです。これはひるがえって考えるならば、「今後、共同体の自由と豊かさの発展のためには,自分の使用者としての甘えを反省し行動を改めなくてはならない。」とも読み替えることができるはずの文章ではないのでしょうか?

共同体の対等な構成メンバーの一員として共同体を支える、という権利と義務と誇りがそこにあったはずです。それに反する事態が起こった時、その理想の高さに立って倫理的に他のメンバーを糾弾するといった姿勢を支える根拠は、そのような理想の高さから来る以外に考えられないからです。

この「理想の高さに立って倫理的に他のメンバーを糾弾する」というスタイルが、連合赤軍的なものだという指摘が、K.Eさんからあったわけです。(私も基本的には同意します。)
しかし、私のあなたがたへの批判は、むしろこの「理想の高さ」といったものをあなたがたが維持し続けなかったことにあります。

最初の段階で、早くも「技術的な人々がより豊かに生きるために共有や贈与、社会関係を基盤とする組織、(もう少し広い意味で捉えるならば)関係のネットワークを含めた集団を指す」と言いながら、「観念や理想のレベルで存在しうるものではなく、あくまで」という分かりにくい保留を付けている。「彼らは、無償労働によるコミューン形成という理想に、疑問や留保があったとしてもやはり自分の決断として賭けたのだという事実を、無いものにしようとしている」と私は批判しました。

6月10日付けの要求では、
A「事業は「共同体」という宣伝で人を集めながらも運営実態は、藤野氏の指揮監督の下、メンバーに住み込みで労働に従事させるものであった。実質的に労使関係にありながら、名目的には共同体のメンバーということで無給で労働搾取が行われた。」と事実認定が行われている。
「共同体」というのは宣伝でしかなく、じぶんたちは使用者である藤野に搾取された哀れな労働者だった、というわけです。ここには、私が確認しようとした〈権利と義務と誇り〉が一切ありません。

B「20万以上の余剰が派生するとして、相当な使途不明金があると思われる。どのような用途で共同体資金を使ったのかも含め、全容を明らかにすることを求める。」
Aでは、自己を使用者によって搾取された労働者と位置づけながら、ここでは利益は共同体資金だったとされる。じぶんたちが、Fによって使用されていたのか?共同体の為に働いていたのか?を、まずはっきりさせるべきでしょう。

どうして、こんなことになってしまったのでしょうか?
それは、わたしたち(というより西欧社会)が二百年かかって洗練させてきた交渉などのスタイル「労使交渉」の枠組みに、あなたがたが乗ってしまった点にあると思います。

出発点は共同体の対等な一員を目指したものであったはず、つまり自他の交換可能性であったはずなのに、それが、自他の非和解性、敵対性の持続拡大によって解決を求めるというスタイルに変わってしまったのです。
これは、敵=資本家は強大ではあるが、社会的名誉も企業活動継続による日々の利益もまた大きく、ストライキによって後者が損なわれることを嫌がるという理由で、解決がもたらされるものです。しかしながら、今回の敵=ふじのについては、強大でもなく金もなく、社会的名誉さほどなく、企業活動継続による日々の利益もまた小さい、といったのが実情でした。したがって解決がもたらされる可能性はないわけです。

以上が、とりあえず私が言いたいことです。

具体的には、あなたがたが何かを得ようとするなら、次のように考えた方が良いのではないか?
「F氏には当事者の納得のない限り引き続き中津での全活動の停止を求めていく」といった恫喝的語法を止めた方が良い。
逆に、「「一定の合意」さえ獲得すれば、H・Fが中津で安心して活動継続することを(いやいやでも)承認していきます」、と宣言した上で、「一定の合意」を勝ち取るべきだと思う。

2016.6.25 野原燐
noharra あっとまーく 666999.info に返信もらえれば嬉しいです。

参考:
とても残念なこと