権益圏の思想

サイードの『オリエンタリズム』を読んで気づくことは、戦前の日本のイデオローグの中国蔑視言説がいかに恥ずかしいものか、ということである。*1

ヨーロッパはオリエントとの長い関わりの中、軍事的経済的勝利を思想的にも展開しオリエンタリズムとなった。日本人の中国蔑視ははっきり言ってその猿真似である。そのちょっと前まで、中国を文化の中心としてむしろ崇拝していたことを忘れた振りをして、(西欧的)文明の名でシナを蔑視する。子安宣邦氏の『「アジア」はどう語られてきたか』は、そのような恥ずかしい日本の思想史を正面から振り返った好著である。*2

復習しよう。1850年頃、欧米先進諸国の軍事力をもってする開港通商の要求によって、東アジアは「資本主義的な世界秩序(システム)」に組み込まれていった。 p25 これはヨーロッパの普遍主義的な「文明」の歴史に自らを編入していくことでもある。p29 1915年、日本による対華21箇条要求は、東アジアの国際秩序の帝国主義的な再編成の要求だった。p31

ところで世界史とは何か? 「世界史」とはまさしく「ヨーロッパ世界史」に他ならない、というのは京都学派による<世界史の哲学>のテーゼである。ヨーロッパに成立する資本主義の発展は、ヨーロッパ外の地域を市場として、資源の供給地として要求し、ヨーロッパ世界の拡張を引き起こす。そして「世界秩序」は国家間の対立を必然的に内包している。この点に関する(京都学派による悪名高い)<世界史の哲学>の認識は、実は、ウォーラーステインの世界システムと世界史の成立についての認識とべつだん変わるものでない。p33

「満州は日本の権益圏である」とはまさにヨーロッパ「世界史の文法」に則った発言である。膨張する日本の権益圏の要求を通じて東アジアは「東亜」という地政学的な概念として再形成される。その後、戦争遂行にとって不可欠な補給基地としての「南方」が権益圏に新たに追加され、「東亜」は自らが盟主とし君臨する領域概念となり、「南方」をも併合して「大東亜」となる。p37

で問題なのは、次の点である。

こうした15年戦争時の認識は、はたして1945年の敗戦によって解体したのだろうか?「軍事大国日本の解体にもかかわらず、帝国日本の世界における、ことにアジアにおける地位をめぐる認識図式を留保させる形で日本は戦後過程を経過したのではないか。日本の戦後処理が対米関係を軸としてなされてきたことは明らかである。そのことはアジアを戦場とした戦争の性格を日本に誤認させ、アジアとの関係の本質的な改善を通して戦後日本を再構築する道を自らに閉ざしてしまった。」p37

 わたしたちは大東亜戦争によってシナ事変を忘れ、大東亜戦争を太平洋戦争と言い換えることにより日中戦争(シナ事変)の総体は国民大衆の記憶から消えていった。「国家におけるこの明確な修正意志の欠如から、日本の権力機構の頂点から靖国神社問題として、また歴史教科書問題としてたえず歴史見直し論的要求がくりかえし発せられることになるのだ。帝国日本との連続性の欲求は戦後過程を通じて一貫して日本国家によって隠微にもち続けられてきたのだといえる。」p38

でまあその戦前化、軍国主義化は現在一挙に花開いているわけですが、でもはっきり言って、復活したそのものは、戦前に比べてもまったく貧乏くさい、なんだか訳の分からないもの、である。大東亜の大義は大義自体として評価した場合、(アメリカからではなくアジアから見た場合)ちょっとは評価しうるものだ、というのが、彼らの立場ではなかったのだろうか。というかそうでしかありえないと思うのだが、そうではないらしい。現在の彼らは、「アメリカの為に死す」ことが日本国民の誇りである、と主張できるようだ。わたしたちの国家は外国に従属するために存在するのかもしれない。

*1:ちょっともっともらしいがでもやっぱり恥ずかしい。内藤湖南とか

*2:藤原書店;ISBN:4894343355 がどうせ日本では学問は輸入物しか人気がないから、広く読まれることもないでしょう?

遠くの金正日

 えーちょっと、北朝鮮問題とかを考えないといけないのだが、気分が乗らず、まだ考えていない。雑誌『RENK』が送られてきてからだいぶ経つのにまだほとんど読んでない。表紙はなんと1997年に「万景峯’92」号に海上、小舟で接近し、「北朝鮮民主化支援連帯・金正日政権打倒」のアピールを行ったときの写真。6年たち猫も杓子も「反金正日」で盛り上がってるがおまえら6年前はなんかしてたの? という強烈な自負をさりげなくアピールしている。

彼の情熱に共感した在日韓国・朝鮮人と日本人が結集し、1993年6月3日、大阪で結成集会を開き、大阪市内をデモ行進をして、「北朝鮮政府はいますぐ強制収容所をなくし、すべての“政治囚”を釈放せよ!」「帰国者(在日朝鮮人/日本人家族)の自由往来を認めよ!」「国際人権規約を遵守し、言論・出版の自由、集会・結社の自由を保障せよ!」という声を挙げて、RENKの運動がスタートしました。

これはRENKの話で野原が北朝鮮に関心をもったのは、去年5月からです。

「最も深い惨劇は目に見えない」というタイトルで発言しています。

http://bbs9.otd.co.jp/908725/bbs_plain?base=84&range=1

「瀋陽総領事館駆け込み事件」で領事館の塀のところでウロウロしていた幼児は、キム・ハンミというらしい。彼女は国境ではないが、国境に類するものつまり領事館の塀(境界線)を越えること(侵すこと)によってはじめてわたしたちにとって見えないものであることを止めた。

サバルタンはどのようにして可視化するか、の例としてその少女をとらえたのでした。

http://www.bekkoame.ne.jp/ro/renk/  RENK

苦しんでいる子供たちのために金正日を助ける

わたしの参加している“受け継ぐ会”MLで、『「戦争につながる経済制裁をせず、拉致問題を平和的に解決すること、そして日本が植民地支配の責任を果たして日朝の国交正常化を実現することを政府に求める共同声明」賛同のお願い』という長い題のお願いが流れた。下記にあるのと同じものだ。

http://www1.jca.apc.org/aml/200311/36622.html ( 15 Nov 2003 )沢田ひで子氏の表現のようだ。

このような趣旨の発言は以前もあったように思う。いまごろの「左翼」のなかではこれに反対するのは少数派なのかなあ、と疲労感を予め感じてしまい、そのときは反応しませんでした。別の事情もあったので今回短い応答をしてみました。下記に貼ります。

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YYさま はじめまして。 野原燐といいます。

「北朝鮮への経済制裁に反対する声明」についてのメール読ませていただきました。 経済制裁については申し訳ないけれど是非についてはっきり意見を言えません。また学んでいきたいと思います。ただ以下の点について、意見、質問を持ちましたので僭越ですがメールさせていただきます。わたしは「救う会」周辺の一部が偏狭なナショナリズムをあおり立てていることを大変不快に感じています。しかしこの声明は「彼ら」(あるいは)「(好戦的な)アメリカ」「(反省をしない)日本」といった大文字の敵がまず措定されていて、それに対抗するためにはどうするか、という二項対立図式が全てを支配しています。この図式の中では「金正日政権の悪」というものは、たとえ在ったとしても、どこにも位置づけようがなく結局無視されてしまいます。大なり小なり苦しんでいる北朝鮮人民の立場に想像力を及ぼすこと、から最も遠い営為になってしまっているのです。

1.「拉致問題を平和的に解決すること」がまず考えられなければならない大事なことなのでしょうか。拉致問題が大事な問題であることは確かですが、それと同じように大きな問題は日本-北朝鮮間にたくさんあります。一つは、1959年からの帰国事業で北朝鮮に帰っていった約9万3千人の人々です。もちろん現在も北朝鮮国内で元気に活躍されていることが確認できる方も多いのですが、一方連絡がつかなくなった方も多いのです。その中には強制収容所に入れられている方や飢えから逃れるため国境を越え中国に潜んでいる方など緊急な援助を必要とする方もいます。後者の問題に目をつぶり拉致問題から発想するのはバランスを欠いていると思います。

2.>>>>今、「北朝鮮」には、食糧不足のため、栄養失調に苦しむ子どもたち、その果てに死んでいく人々が多くいます。その「北朝鮮」に物やお金が入らないようにする、封じ込める経済制裁をおこなったら、いったい、どのような事態になるのでしょうか。<<<<

アマルティア・セン氏の研究によれば、大量の餓死者の発生の原因は、その国家全体の食糧不足によるというよりも、分配の不公平性(を是正できない権力の遍在)による、ということです。伝えられているように1995年以降、約200万人(以上?)もの餓死者が出たとするなら、その原因を「食糧不足」という一見ニュートラルな言葉に求めるのはかえって誠実さを欠く態度ではないでしょうか。その責任が金正日政権にあると考えるのが妥当でしょう。「いったいどのような事態になるのでしょうか」と書かれていますが、「経済制裁無しで大量餓死者が出たのかそうでないのか?」事実認識をまず確認しておかないと、議論がはじまりませんね。

3.金正日政権打倒を唱えるのはいけないことなのでしょうか?

4.>>>>しかし、それは、日本が、その植民地支配責任を果たすものとしてある日朝国交正常化を実現していく中でこそ、解決に向けた道が再び開かれてくるものだと思います。拉致の事実を一切認めてこなかった朝鮮民主主義人民共和国政府が、初めてこれを認め、謝罪し、解決の方向に大きく動き出したのも、日朝の国交を正常化することを前提とした交渉と会談の中においてのことでした。<<<<

「日朝国交正常化」は金正日政権にとってその政権の延命のために行われます。したがって、「日本が植民地支配責任を果たす」といってもそれは建前だけで良く、要は政権に膨大な援助が入ればそれでいいのです。そんなことでは、北朝鮮人民への責任を果たした事にもならないし、日本人が加害責任に向き合うことにも繋がりません。5.>>>> 日本が、それら植民地支配によって朝鮮の人々に与えた被害に対する責任を果たすことによって、日朝間の正式な国交関係を結び、国交正常化を実現することは、植民地支配をした日本の側の責務です。<<<<

 繰り返しますが、「日朝間の国交正常化を実現する」という手段によっては、「日本が、それら植民地支配によって朝鮮の人々に与えた被害に対する責任を果たす」ことはできません。国家と国家の間のボス交によって巨額の金銭が行き来するだけです。               野原燐

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声明と声明批判

下記に声明「イラク戦争と日朝関係」がある。署名は和田春樹(歴史家)ほか著名人103人。 (2003年4月9日)

http://www.wadaharuki.com/seimei20030409.html

それに対する批判、(2003年4月22日)日本脱北者同志会

http://www.jnkd.com/declaration.htm#wada

(2003年4月20日)北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会

http://renk-tokyo.org/modules/news/article.php?storyid=50

沢田ひで子氏に対する野原の批判は、上記の「声明と声明批判」にわりとパラレルなものかもしれない。読み返して考えてみよう、今日は時間がないので明日にでも。

南京・いつまでも

『南京・閉ざされた記憶』という小さな展示を見てきた。えーと1937年七七事変(廬溝橋事件)以後日本軍は華北と上海に軍を展開し、やがて11月上海陥落、12月南京を包囲し、12月13日南京占領となります。このとき、<南京大虐殺>が行われました。“揚子江の河岸に何千という人のかたまり、そこへ向けて、誰彼なしに九二式重機関銃を撃ち込んだんです”というある兵士の証言。“日本兵は私を押し倒し乱暴にズボンを剥ぎ取った。ふとももを両手で開き、指を性器に押し込んでえぐった”という中国人女性の証言。眼を背けるしかない虐殺の証拠がきちんとパネルにされ、58枚整然と並んでいる。

「虐殺は確かに悪かったしかし66年前の出来事をなぜ執拗に反復し続けないといけないのか、日本はもう充分謝った謝り続けてきた・・・」というようなことを言う人がいる。しかしそこには嘘がある。南京大虐殺と名前は有名だが、そこで実際何があったか、きちんとした展示を見るのはわたしははじめてだ。インテリたちは南京ではなくアウシュビッツについて高尚な思索を巡らすことを好んできた、といってもまちがいではなかろう。日本は敗戦国だ、つまり戦争を遂行した価値観というものを根底から覆すべくイデオロギー攻撃が成されたはずだ。子宮に竹槍を突っ込んだものはその事実を頭蓋に突っ込まれるまで宣伝を受けるはずだ。実際にはそうした宣伝はなかった。

欧米の帝国主義秩序への反逆という高い理想を掲げながら、中国娘を強姦し回っていたとはそれだけで圧倒的な自己矛盾である。日本が日本であり続けるためにはその矛盾を直視し乗り越える必要があった。だがそれはなされなかった。日本を占領したのはアメリカ軍だった。ヒロヒトの戦争責任を追及せず占領統治に利用した米軍は、対米敗戦意識を植えつけることには熱心だったが、対アジア敗戦意識を強調しなかった。