天皇は天神の御子なり。

 明治4年に死んだ鈴木雅之という国学者がいる(らしい)(1837-1871)。「気一元論とも言うべき性格を有した壮大な宇宙論をベースにした」思想家だそうだ。*1

辱(かたじけ)なくも天神の高天原に坐まして布行せたまう生成の道

というものが万物を生む。そしてその「生成の道」を行うことが「万物」・人間の行き方である、とする。ところで雅之において、天神とは、アメノミナカヌシ、タカミムスビ、カミムスビ、アマテラスの4神のことだが、アメノミナカヌシが創造主宰神として中心化、絶対化されている。

人道とは、いはゆる天神の生成の道、即ち君臣親子夫婦兄弟朋友等の理をいふなり。

君は(略)天神の大任をうけたまわりて、善を賞め悪を刑ふ職位に居たまへば、実に軽々しく容易ことにあらず。さらば何事も天神の大御心を心として執はからいたまい、かりにも私を用ゐず。

従って、「臣」や「子」の側でも、もし「生成」に反する所業が「君」「親」に見られた場合は、「命をもすてて諫(いさ)むべき」であり、*2

天皇は天神の御子なり。

天皇は形而上学的存在である。それは一方では「生成」を完遂する(しなければならない)という存在であり、倫理的責任から自由でない、ことになる。

明治憲法

1条 大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す。

3条 天皇は神聖にして侵すべからず。

 神学的には明治憲法の方がウルトラ化している。天皇は国家(くに)と等値されることにより絶対者となる。生身の天皇より上位のもの、<天神の大御心>つまり普遍は存在しない。(短絡的に言うと、現在中国韓国と和解できないのも他者理解のためのベースが存在しないからだ。)

 憲法上記だけから見るとそう言えるが、<神聖>即ちすべての価値の源泉とも読める。その場合普遍は存在し、(かならず)天皇と同一化しているだけ、ということになる。

 その時の権力者が強力な批判をはね返すことができずに居直るとき、に前者の論理が必要となる。

 即ち、226事件御聖断と815敗戦である。

天皇は神であるのだから、人民が何万人死のうが気にしないのかもしれない(東アジアの伝統からははずれるが)。仮にそうだとしても、日本を焦土にしてしまったこと、そのことを<天神>に対して詫びる絶対的な責任がヒロヒトにはあったはずだ。

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*1:p109『幕末民衆思想の研究』桂島宣弘isbn:4892591858

*2:桂島 同書p115