ゴーダ綱領批判を読んでみた

マルクスのゴーダ綱領批判は、ちょっと意外な文章から始まる。
「労働はすべての富の源泉ではない。」価値は労働力から生まれると資本論には書いてあるのではないのか。(ちょっとよく分からない)
自然もまた労働と同じ程度に、使用価値の源泉である。とマルクスは言う。なるほど。
「そして、労働そのものも一つの自然力すなわち人間労働力の発現にすぎない。」
労働がそれに必要な対象と手段をもって行われる、とするならば「労働は富の源泉だ」は正しい。土地とクワがないときに耕す労働をする人はいないので、たいていの場合それは正しいことになる。
しかし「土地とクワがないとき」どうしたらよいか、つまり失業したらという困惑とすれすれのところに労働者は生きているのであり、その言葉を意味あるものとする条件を、当たり前のこととして語らないブルジョア的言い方を許してはいけない。

人間が自然に対して、それに働きかける権利を有する者として、それに働きかけるとき、富が生まれる。使用価値(価値)が生まれる。p15
労働者は「労働に必要な対象と手段(対象的労働条件)」を普通持っていない。だから、それを持っているブルジョアの奴隷にならないといけない。
「労働はすべての富の源泉だ」とポジティブに言い切ってしまうと、労働者の従属関係とともにしか労働は成立しえない、という事情が見えなくなってしまう。と、なるほどと思う。
「労働はすべての富の源泉だ。労働者がこの社会を作り上げている」というのは元気が出るスローガンだし、まったく間違っているわけでもないが、厳密に考え発言していく方がよいのだ。

「有益な労働は、ただ社会のなかで、また社会をつうじてはじめて可能である」
マルクスが「労働に必要な対象と手段とをもって行われる場合」と明確に語っている」ところを、「社会のなかで、また社会をつうじて」とあいまいに表現している。

でそれによって、「労働の全収益は、平等な権利にしたがって、社会の全員に帰属する。」
現在の社会では格差が問題になっている。社長が労働者の100倍の報酬を貰ったりしている。それに対して、例えば「Twitterの全収益は、平等な権利にしたがって、Twitterの全員に帰属する。」と考えてみることは、思考実験としては行うべきことのように思われる。

全収益を分けるとすれば、まず「社会を維持するために必要なもの」を控除しなければならない。
ただし「社会を維持するために必要なもの」はマスクスによれば、直ちにかぎりなく拡張解釈されてしまうものだ。政府とその付属物の要求、およびブルジョアたちの私有物が円滑に働くことができるための要求、として。
空虚な文句は、口当たり良く見えるけれども、どんなふうにもこじつけられる。つまり支配者(ブルジョア)の解釈がまず適用されるとかんがえておかなければいけない。

「労働はただ社会的労働としてはじめて、富と文化の源泉となる。」この命題は正しいとマルクスは言う。しかし、
「労働が社会的に発展し、またそのことによって富と文化の源泉となるにつれて、働く側の貧困と見捨てられた状態、働かない者の側の富と文化が発展する。」こちらの正しさも忘れてはいけない。
そして、現在の労働者に、このような災禍を打破せざるをえないような物質的その他の諸条件を現在の資本主義社会はつくりだした、論じきるべきだった。

「公正な分配」をゴーダ綱領は求める。
しかし「公正な分配」とはなにか?現在の生産様式の基礎の上では今行われている分配が公正なものだと主張されるだろう。

労働の全収益を社会の全員に配分する!と語ると、皆の人気をえることができるかもしれない。しかし実際に分配できるのは、各種控除すべきものを控除した後の額である。また「社会の全員の平等な権利」をことばのあや以上のものとして確定するのはひどく難しいだろう。

以上のように、マルクスは、ポピュリズム的語り口が労働運動のスローガンに入ってくることを厳しく排除しようとした。資本主義がその冷徹な法則を貫徹させ、合理的であるがゆえに、労働者を苦しめるのだ、ということが、マルクスが資本論で発見したことだった。

以上が、「ゴーダ綱領批判」の(わかり易く歪めた)概要である。

労働というものが、それに必要な手段をもって自然(あるいは人工的な自然)に働きかけすべての富を作っていくのだ、という基本思想は貫かれている。21世紀の現在、労働という言葉はかって持っていた力強い価値を失っているように感じられる。インターネットで伝達される情報や巧みに組み合わされ人を惑わすイメージの乱舞といったものが、大きな価値を生んでいるかに見える。
ただ、現在も一日8時間労働のサラリーマンといった雇用形態は大きな比重を失っていない。むしろそうでない雇用形態が限りない搾取に陥り易いことが問題になっている。
労働というテーマを私たちが処理できていない限り、マルクス・エンゲルス全集の一部を読んで見るということも、意味のあることである。