坂口恭平 『現実宿り』 河出書房新社 2016.10.30 2000円
#現実宿り 読了というか、一応最後の頁までめくって読み終わったことにした(いつも同じだが)。
これは始めての体験だ。こんな小説はほかにはない。
実験的な小説は作者が実験しているのだが、この小説は実験していない。意図に因って構成されている現実というものを忌避しているので、実験などもってのほかだ。では一体何があるのだろう。
砂だ。
砂は書く。わたしたち(砂)はあなたと一緒に見ている風景をそのまま書こうとしている。(表紙より)
「人間はなぜか一人一人の感情にこだわっているように見えた。わたしたちはその理由を理解することができない。」p7
それに対して砂は「いつだって、自分の意思なんてものはそう大した問題ではない。」p8
これが人間と砂との差である。
「わたしたちは黙っていたが、みなそれを楽しんでいた。食欲もあった。しかし、おかわりをするものは誰一人としていなかった。みな慎ましく食べ、食べ終わったものから順に、静かにその場を去った。明日は会えなくなるかもしれないのに、別れの挨拶もしなかった。」p23
これは砂についての描写だが、ふつう、つまり人間についての描写と読んでも違和感はない。つまり砂と人間にはあまり差異はない。大きな差異は上に書いたものだけだ。
つまり人は生まれて去っていくものである、そのように記述することは別に、人間の喜怒哀楽を無視したアンチヒューマニズムというわけではない。人間は喜怒哀楽する。しかし人間のうちには、喜怒哀楽を過剰に喜怒哀楽せず、黙って眺めているだけの存在も同時に隠れている。それが砂だ。
まあそんなふうな感じかな。
ドラマとしての構成はなく、きまった主人公や役割もない。ただとりとめなく文章が流れていくだけだ。それがどうした、と激しく叩きつけても何も返ってこない。
まったく新しい小説、というわけではない。そもそもこれは小説ではないのだ。作者はすでに坂口であるより、砂になりかけているのだから。