エチカ レジュメ5

第5部 永遠

強さ: 不愉快なことも恨んだり気に病んだりしない:そういう力を最大に持っているのは障害者!

鈍感力 映画「さとにきたらええやん」 過剰に清潔化された「マイホーム」! 育児に対する期待水準が上がる 良い子でなければならない 空気を読む)に対するただ生きること(コナトゥス)

自由人は、自己以外のなんぴとにも従わず、自分が最も大事で最も欲することのみをよしとし、あれこれ非難する前に、直接よいことに赴く。 167

神への愛 人間のように喜んだり悲しんだりせず、無感動で、われわれを見守るまなざしすら持たない、そんな神をいったいどうやって愛せるというのか? 168

すべての事物が必然的である→感情に振り回されることが減少→受動から能動へ少し移行

5 定理一五 自己ならびに自己の感情を明瞭判然と認識する者は神を愛する。そして彼は自己ならびに自己の感情を認識することがより多いに従ってそれだけ多く神を愛する。 170

定理21〜42 異様な緊張 永遠

「これはそうであって、それ以外ではありえない」という真なる観念:神の永遠なる本性の必然性そのもの 172

1定義八 永遠性とは、存在が永遠なるものの定義のみから必然的に出てくると考えられる限り、存在そのもののことと解する。

説明 なぜなら、このような存在は、ものの本質と同様に永遠の真理と考えられ、そしてそのゆえに持続や時間によっては説明されないからである。「始めも終わりもないもの持続」と、われわれは混同しがちだが注意すべき。

必然的にかく存在することと考えられる限り、事物の現実がいまこんなふうにあるそのことが「永遠」である。 175

のべたらに続く時間軸のうえのある点で、という把握をすべきでない

アインシュタインもそう確信していたであろう。自然法則の存在を確信する理性は、それとは知らず、神の永遠に出会っている。 176

第一種の認識 意見もしくは表象的認識 あやふやな認識

第二種の認識 理性的認識 ratio

共通認識を洗練させた 自然法則の永遠

第三種の認識 直感知   個物の認識

わたしという個物 この私に即して神が唯一であることと別のことではないと直感する 178

未来永劫誰も私に変わることはできない。それは自分がそれであるところのその永遠真理を、いわば内側からじかに生きている。猫Aも同じ。 p179

5定理二二 神の中には、このまたはかの人間身体の本質を永遠の相のもとに表現する観念が必然的に存する。

5定理二三 人間精神は身体とともに完全には破壊されえずに、その中の永遠なるあるものが残存する。  死後の魂の存続と混同してはならない。 180

我々は我々の永遠であることを感じかつ経験する。なぜなら精神は、知性によって理解する事柄を、想起する事柄と同等に感ずるからである。つまり物を視、かつ観察する精神の眼がとりもなおさず我々が永遠であることの証明なのである。:同備考

第三種の認識 自分自身を永遠の相のもとに考える

自己の内なる永遠性と 神の永遠性 の一義性 181

精神はその身体の本質を永遠の相のもとに考える限りにおいてのみ物を永遠の相のもとに考える。したがって精神は(前定理により)永遠である限り神の認識を有する。:定理31証明

 定理三二 我々は第三種の認識において認識するすべてのことを楽しみ、しかもこの楽しみはその原因としての神の観念を伴っている。

定理三八 精神はより多くの物を第二種および第三種の認識において認識するに従ってそれだけ悪しき感情から働きを受けることが少なく、またそれだけ死を恐れることが少ない。

人間の根源的不安が「自分を認めてほしい、いや認めさせてやる」という欲望(名誉心)からやってくることを、スピノザはよく知っていた。しかしそれもおしまい。P190

絶対的な安心を人間が必要とするかぎり、神はそれを与えてくれる。

というのが、スピノザ・エチカの結論であるようだ。ところで安心は必要だろうか。宮沢賢治のように「おろおろ歩く」だけで終える人生もまた素晴らしい(辛いけど)。

どのようにしても与えて貰わなければならないものは、何人かの人間との信頼関係、あるいはそれの基礎と成るべき真理であろう。野原