(1)
id:noharra:20041201 に書いたことは、「新田は間違っている。」なんていきなり決めつけて乱暴であり、読者の理解を絶している。もう一度考えてみよう。
911以後にジュディス・バトラーは「Precarious Life」という本を書いたらしい。(Precariousを辞書で引くと、他人の意思次第の、とある。)その本を参照しながら新田は書く。911以後、米国では他者排除の装置が早々と現れた。そこでは全ての人の死が平等に悲しまれることはない。そしてバトラーは“新たな反ユダヤ主義の広がり”を指摘する。しかし新田氏も危惧するように、この指摘にはシオニズムのいかがわしさに合流する危険性はないのだろうか。911事件の分かりやすい影響として、イスラムあるいはアラブ人への差別が広がったのは事実であろう。それをおいておいて、「反ユダヤ主義」だけが言説上に表れるのだとしたら、それはどういうことか。世界の矛盾は西欧的言説の平面性に写像として投影される限りでしか表現できない、そのような言説のあり方というものに対しバトラーは全く無反省なのではないか。
反ユダヤ主義があるから反ユダヤ主義を指摘した。それは良いだろう。しかしそのとき、反イスラム主義は余りに当たり前であるからそれとして認識されることもないという地平に、話者もまた立っているのかどうか?という別の問いにも応えなければならない。
イスラエル政府の残虐性はいうまでもなく甚だしい。しかし、この暴力の連鎖は確実に、「敵」と「味方」を峻別する政治を永続化し、殺伐としたものとなるだろう。
この文章にわたしはケチを付けたわけだが、
パレスチナに公正をもたらそうとする運動の立場から、いつもチェックされるのはこの「暴力の連鎖」という言葉である。たまたまニュースに映されたパレスチナ人のあるいはイスラエル兵士の暴力を見て、それに反応することはしばしば、パレスチナ地域の50年以上にわたる占領、人民抑圧というすぐには見ることも理解することもできないものを見ずにすますことと連動している。「暴力の連鎖」なんてわかりやすい言葉を使ってしまう弱さは、「あからさまな攻撃で封じられる」などという操作なしに、わたしたちの社会がデフォルトとして持っている眼差しの差別性の普遍性と闘うことの困難という課題を自らの物としていないことを証している。フェミニズムから何を学んできたのか。
(と偉そうに書いてしまったが、私に何が出来ているわけでもありません。新田さんごめんなさい。)
(2)
私が主体として発語するときに、わたしは女であるというアイデンティティは必須だ。であるとしても、主張し対話し論争するという「アゴーン」の場への参加がなかなかできない人たちをその限りにおいて軽視しても良いのか。そうではなかろう。
つまりその思想の根幹は、言語を主体的に使用し、意のままに語る能動性ではなく、他者の保証を受けて在る、主体に還元できない人間存在を想定する。するとスピヴァクの言う発話とは常に、自己の意図や固有性とは別のものの潜入を受けることになる筈だ。(新田・同書p217)
もしもわたしが男でも女でもないものであったなら、女のアイデンティティを振りかざす言説にむきあったとき、あたかも国家権力による言説に向きあったときと同じような無力感に突き落とされるかもしれない。
「であるからして、わたしたちは誰に遠慮することもなく「女」という言葉を使っても良いのだ。」は間違っていると言われるだろう。
だがデリダもまた女性という言葉を使っていた。 初期デリダは、男根ロゴス中心主義的な真理を遠くから翻すものを「女性性」と呼んだ。ただしここで女性という記号の使用法には注意が必要である。女性というものがそのまま存在するわけではない。それは、「真正ならざることを固有財産とする」もの(あるいは非もの)のかりそめの「記号」として使用されているだけなのだ。
イスラエルは国家であり存在している。この文章を成立させるために彼らは日々努力してきた。おそらくこの点で、イスラエルにシンパシーを感じるフェミニストは多いだろう。「わたしは女(人間)であり存在している」という自明性を毀損されないようフェミニストは日々闘ってきたのだから。であるとすれば、アイデンティティ・ポリティックスへの違和感の表明は、「イスラエル政府の残虐性は甚だしい。」という言表とパラレルなのものと受け止められるかもしれない。被抑圧という自己規定だけから出発するものは、イスラエルのように(北朝鮮のように)残虐になる(可能性が充分ある)。
(3)
さて、「わたしたちは誰に遠慮することもなく「女」という言葉を使っても良いのだ。」という結論は導き出せないようだ。女という言葉をことさらに禁止するあるポリティックスに従順である必要は全くないのであるが。