言ってはいけない「女が好き」

デリダが女の形象を発見したのは固有化(略)の批判によってである。このようにしてデリダは、非決定性の「記号」、真正ならざることを固有財産とするものの「記号」である(理想化された)女を盾としつつ、男根中心主義の伝統から自らを差異化した。*1

(スピヴァク『文化としての他者』紀伊国屋書店p96

現代思想12月デリダ特集p216 新田啓子氏の文章から孫引き)

新田氏の解説によれば、スピヴァクはここでデリダを批判しているらしい。こんなふうにデリダは「女」という記号に特権的普遍性を与えてしまった、と。「ゆえにスピヴァクは一見フェミニスト的な正義に溢れる「世界」ではない、どこか「他の世界」を選び、決定不可能な意味の受け手として、他者の到来を待つことを選ぶ。*2」でも他者であるなら到来しない可能性もあるからあまり良い考えにも思えない。

イスラエル政府の残虐性はいうまでもなく甚だしい。しかし、この暴力の連鎖は確実に、「敵」と「味方」を峻別する政治を永続化し、殺伐としたものとなるだろう。*3

新田は間違っている。50年以上前に遡る「イスラエル政府の残虐性」を正確には認識してこなかったヨーロッパ-アメリカの知の布置が倒錯であると知らずに「言うまでもない」など言ってみても、仲間内のエクスキュズにしかならない。イスラエル政府を正確に憎悪することこそが、「「敵」と「味方」を峻別する政治」から抜け出す道である。

 であるからして、わたしたちは誰に遠慮することもなく「女」という言葉を使っても良いのだ。

*1:女性を女と書き変えた

*2:同上、現代思想

*3:新田・同上p218

テーマ別会議室・衆議院

 今朝なんとなくグーグルしていたら衆議院議事録というのに出会った。

http://kokkai.ndl.go.jp/ 国会会議録検索システム

「現在利用可能な会議録は1回国会(1947年5月開会)以降の本会議、全ての委員会等です。」

「会議終了後どれくらいで利用できますか。--データ作成のため、2、3週間ほど期間を要します。」とのことである。

検索語を複数指定して検索できるので面白い。

例えば「ライブドア アダルト」で一件検索できる。

「2ちゃんねる ひろゆき」ではゼロなので、「2ちゃんねる 名誉毀損」でやると1件。検索速度も速く快適。

○国務大臣(麻生太郎君) 指名権はあちらにあって、あなたにはありませんので。言われて。

 今、インターネット上について誹謗中傷が書かれている。2ちゃんねるの話ですか、これは。2ちゃんねるの話ですか。

○森ゆうこ君 ログを検索してみたら、まさか内閣官房に突き当たったなんということはないと思いますが、よくこういう書き込みは、ある一定の考えを持った人たちが意図して世論を誘導するために多く組織的に書き込んでいくというような話もあります。

衆議院、参議院がちょっと高級な掲示板・会議室感覚で楽しめる。政治好きの方はもちろんだが、それ以外の人も広く楽しめるサイトだと思う!!

ほんとうに勢いのある精子なのか?

 上記検索システムより、 衆議院 – 文部科学委員会 – 13号(平成14年06月05日)から引用してみたい。社民党の北川れん子氏の発言。

 今、どうしても、前回もなんですけれども、社会的な議論というのが成熟していない中で、研究者の、研究をやりたい、おもしろい、新しい分野だということでの意欲と、多くの人たちが余り多くの、言葉遣い自身を知らない中でとり行われていくということへのそごをどう埋めるかという議論を前回させていただいたと思うんです。

 例えば、不妊治療の現場ではこういう言葉が使われていますね。精子進入検査、ハムスターなんかの卵に男性の精子がうまく入るかどうか、そういう勢いがある精子なのかどうかということで、受精卵をつくることができる精子かどうかを調べるという検査らしいんですけれども、不妊治療の現場というのは、本当に人数が少ないカップルの中でとり行われる、そこでしか卵とか胚とか受精卵とか、そういうものを入手することができないということで、ここに偏って現場が盛り込まれていくので、今言ったわけです。

 もう一つは、最近報道がありました、卵子を若返らせ受精成功ということで、核を取り除いて若い女性の卵だけ、その核を取り除いて四十五歳前後の方の核、だから遺伝子はその四十五歳の方の遺伝子だからその人の子供だという意味だろうと思いますが、そういうことで、二十代の女性が提供して、幾ばくかの、二十例の中の一つが、子宮に戻すことはまだしていないんですが受精をした、受精卵になったという報道もありました。

 ということで、私たち、やはり不妊治療の現場のことをもっと一般化して、話して、これを言えば、例えば、精子進入検査というのがどういう問題なのか、聞けばわかる。それは自分が不妊治療の状況というものを経なくてもわかる。卵子を若返らせる受精卵とはどういう意味を持つのか、それもわかる。試験管ベビーと言われた衝撃的な言葉遣いが、余りにもわからなかったので衝撃的というふうになるわけですが、そういうものをもっともっと社会に議論を提供しながら、生命倫理の問題と絡め合わせて、日本はどの道を行くのだということをもう少し私は深めていく必要があると思います。

何を言っているのか、分からないのに引用するというのは良くないのだが・・・

「二〇〇〇年に成立しましたヒトに関するクローン技術等の規制に関する法律と、今の再生医療の現場、またES細胞樹立に向けての急速な進展とを絡め合わせまして、不妊治療の問題とも兼ね合って、」という情況が存在するらしいのだが、勉強不足でよく分からない。<若さ>とは何か、ということを考える。歳をとるということは、細胞レベルのバグが増えると言うことなのか。若い女性の卵から、核を取り除き、四十五歳の女性の核を入れる。それは後者の女性の子どもになるのか? 興味深い問題だと思った。

 北川氏は排卵誘発剤の副作用についても質問し、副作用による死亡例として5例あるとの答弁を得ている。それについて彼女は「女性たちにとって、子供を持つことの意味が、女性はどうしても押しつけられて、子供を持たないと一人前に見られないという前近代的な旧弊な考え方、家族制度の中でからめ捕られて、子供を持たざるを得ないというふうに自分を思い込んでいる女性も多い」という情況を指摘し、そのような歪んだ情況は本来正されるべきもの(「ジェンダーの解放や女性の平等施策等々が進む中では意識は変わってくる」)であるのに、そのような情況におけるニーズに答えようとして先進医療技術が進んでいき、その結果死亡例まででていることは「重く見ていただきたい」と強調する。先鋭的医療技術が生命の神秘の領域に食い込んでいること自体を禁止すべきではないだろうが、一方で動機の低俗さが存在すること、このアンバランスさに驚く感覚は大事なものだと思う。(イラクにおいてとても精密な兵器が野蛮に人を殺していることへの驚きと同時に。)

たすけがくるまで待っていた

 ヴァジニア・ハミルトンの『マイ ゴースト アンクル』島式子訳原生林 という本を読んだ。(原題は「Sweet whispers,Brother Rush」)大傑作だ。障害を持った弟と二人で暮らしている貧しい黒人の少女が幽霊を見る話。(お母さんは1、2週間に1度くらいしか帰ってこない)ヤングアダルトものだがジャンルを越えた力を持っている。幽霊はブラザー叔父さん。叔父さんのあまりのかっこよさに主人公(ツリー)の少女は引きつけられる。彼女が幽霊を見るのはもちろん、彼女が生きている現実が苛酷すぎて、別の現実(彼女がかろうじて知っているのは彼女の幼児時代とそのとき格好良かった叔父さんだけだ、彼女は父のことを知らず、遠慮して母にそのことを聞くことさえできない)をどうしても必要としたからだ。すべてのファンタジーはそうした世界を裏返さずにはおかない呪詛を隠しているはずだが、この小説のようにそのベクトルを露わにしつつなお小説としてみごとに成功しているものは希だろう。「黒人特有の致死の遺伝病・ポーフィリア」なんて聞いたらそりゃいくらなんでも露骨すぎる道具立て!と思うかもしれにないが、そんなことないんだな。

 赤木さんもこういっています。「物語としても文学としても、第一級の逸品です。(赤木かん子)」http://www.hico.jp/sakuhinn/7ma/my02.htm

ボストングローブ・ホーンブック賞1983年など。

ただ現在入手不可かな。わたしは古本屋で百円でゲット。

資料の位置

松下昇氏の『概念集・5』~1991・7~ から、「資料の位置」という2頁の文章を引用する。

資料の位置

 二十年にわたって集積した資料を、炎に変換する直前の視線で一瞬に読み直し、何か魅きつけるものがあれぱ、保存用の場所におくが、大多数は足許のダンボール箱に落とす。古書店で売れそうなものは殆どないし、チリ紙交換に出すよりは、パリケードの掃除の後でよくしたように焚き火の材料にする方がふさわしい気がする。この作業に交差する微かな後ろめたさの底の方に、一種の安心感があり、ああ、これが死者を忘却する感覚にも繋がるのだ、と気付く。それと共に、最後に総体を把握しようとする過程で初めてに近い衝撃で再会ないし発見する資料もある。

 この作業を何年おきかで繰り返してきた契機ないし目的を、現在の位置から考えると、

①そのままコピーして、新しいパンフレットの構成的な素材にする。

②現在の関係性の中で切迫している討論に媒介的に応用する。

③いま気付いていないテーマの感触を排反的に模索する。

というような項目に、とりあえず具体化しうる。

 とはいえ、この具体性は、作業の条件(とくに時間)を自分の意思で自由に設定しうる場合のものであり、この場合を

αとして対象化してみると、

βとして、移転の直前の荷物の整理や、自分の〈死〉後の資料の破棄を想定する場合

γとして、火災で燃え残ったり、家宅捜索で散らかった資料を拾い集める場合

を私は潜ってきており、これらの総体の中で現在の例えばαの手触りが存在している。

 いや、手触りさえ存在しない資料も存在している。何度かの刑事事件で押収されたものや、いくつかの占拠空間への強制執行の際に留置されたもの…。そして、まだ私が出会っていないものや、まだ表現していないもの…。

 このように列挙してくると、後であげたものほど非・具体性を帯びているが、その度合だけ気が楽になるのはどうしたことか。もともと私は、人間が持つことができるものは文字通り自分の手に持つことができるものだけであり、必要なものは必要な時に手にしうるものだ、と心のどこかで思い定めているためであろう。そのためか、初めて入る拘束施設で点検を受けた物品(概念集4でふれた五点セットや国家から貸与されたフトン・毛布が中心)をかかえて、看守に護衛?されつつ指定の独房へ長い何重にも施錠された廊下をよろめきながら歩く時などの感覚は嫌いではない。ある夜ひそかにUFOにn年間の旅に招待されて乗り込む時にはどんな(思考を含む生活過程に役立つ)資料を持っていこうかと今から楽しく想像している。何も持たないかも知れないが…。

 このような気分の中で扱ってきた資料群の変換~応用過程が批評集などの刊行であるといえる。また、このような資料の扱い方はだれにでも可能であり、この作業を自由におこない、それにより幻想的かつ物質的な生存を持続していけるような条件を共同体の水準で準備しうること、それが、まだ実現の遙かな困難の向こうにある共同体が(もちろん質と量の双方において国家を越えて)成立する基本条件の一つである、といいたい。

  1. …宇宙空間の生存に必要な条件-固定した重力場、空気、水、食料などの供給方法を含む-を(1)とし、監獄での対応条件を(2)とし、この落差~振幅を止揚しうる資料が資料の原像であり、その資料を作成する手段の欠如のままに無意識に同位相の資料を生きているのが〈大衆の原像〉(むしろ〈存在の原像〉)の条件であろう。
  2. …早朝の家宅捜索の際に、登校前の幼い娘のランドセルの中に重要な資料を投げ込み警察官の間から悠々と送り出したことがあった。娘に意味を伝える余裕がなかったので、学校で捨てたりしないかと段々と不安になったけれども、タ方ぶじに娘と資料がもどってきた。その資料は数年後の娘の誕生日のプレゼントに応用されている。
  3. …私(たち)が刊行してきたものを例外的に届けている人(相手も自分が本を出すと必ず贈ってくれる例外的な人である。)から、「いつも資料を送っていただき…」という礼状が来た時に、ああ、私(たち)の刊行してきたものは、本でも機関誌でもない、名付け難い資料なのだ、とあらためて感じ、カが湧いてきた。
  4. …前項では資料と表現されたことに異議があったわけではない。私自身も菅谷規矩雄追悼集に関して「60年安保闘争で詩的出発をした菅谷が、その後の大学闘争や三里塚闘争をくぐりつつ、いかにして表現の根拠を追求し続け、苦痛と発見の日々をへたかを、既成文壇・詩壇による形式的追悼を粉砕しつつ明らかにする資料。」と〈百字アピール〉している。(模索舎通信90年11月号、納品者による広告欄参照)また、78年に刊行した〈時の楔〉の副題も、〈 〉語に関する資料集であった。
  5. …菅谷に限らず、ある表現(者)を批評した人が批評の誤りないし不十分さを指摘されて資料が公開されていなかったからだと言い訳するのは誤りないし不十分である。なぜなら、資料が公開されようとされまいと潜在していた誤りないし不十分さが問題なのであり、また、資料は先験的ないし制度的に全ての批評者に等距離に公開されているのではなく、公開への模索の根拠の共有度が問題だからである。
  6. …獄中では房内に持ち込むことを許可される資料の数は制限されるから、制限以上の資料を読みたい場合には、ずでに手許にある資料を領置用の倉庫に戻す願い(!)を出さなけれぱならない。(不要な資料を廃棄する場合にも)         一方、私たちの日常における資料廃棄の衝動の一つは居住ないし活動空間の狭さであり、前記との関連でいえば、無意識のうちに〈獄〉での〈願い〉を出していることになる。本質的に考えれば、〈闘争〉に関する資料の整理~開示~応用は〈闘争〉に関する全空間~関係性の占拠を経てのみ可能であろう。このことへの原初的な言及として、批評集α篇1ぺージ参照。
  7. …しかし、最終的には、資料は、それを媒介して存在の次元を変換し深める場合にこそ意味をもつのであるから、この意味を越えて保存される必要はない。むしろ、二度と目に触れなくなる瞬間の直前に読み返す場合の印象のみが資料の本質を開示するのであり、この瞬間の資科と世界の関係こそが応用に値いするのではないか。

 いま資料を媒介してのべていることは、勿論なににおきかえて受け取ってもよい。その位置があなたと世界の関係を資料として開示するであろう。

p18-19 松下昇 『概念集・5』~1991・7~

不平等社会日本

 人々は、堅気の男と悪党とのあいだの道徳的な違いをあまりにも大きく考えすぎている。泥棒や殺人者に対する法律は、教養がある者たちや富んでいる者たちに有利なようにつくられている。

ニーチェ(p439『生成の無垢・上』ちくま学芸文庫)

それともわたしたちはそれが正義から遠い、何人かの殺人を含んだものであることを十分承知の上で、そちらの方が儲かる可能性が10%ほど高いというだけの理由でイラク戦争を支持している。

なぜイラク人を虐めるのか?

8月5日に広島で開催された、ハナ・イブラヒムさんとムザッファル・アハマド・モハメドさんの報告から、引用したい。(id:noharra:20040807#p2 で言及した集会)

http://iraq-pgp.jugem.jp/?eid=3(イラクから伝えたいこと-イラク市民を囲んで)

将校はテントを回ったのですけれども、その時私は、「一体なんで我々をこんなところに収容しているんだ」と聞きましたところ、将校は「あらゆるイラク人はアブグレイブに収容されなければいけない。理由があろうとなかろうとだ。」と答えました。つまり、彼らはイラク人を刑務所に集めて、そうすることによって抵抗組織が占領に対して実効的な抵抗しないようにしようとしているわけです。私たちが抵抗運動に関わっているかどうかではなくて、です。

つまり逮捕によって国民をあるいはイラク市民をおびえさせることによって、抵抗に対する意思を削ごうとしているわけです。あるときアブグレイブ刑務所で私が目撃したことですけれども、あるとき1人の老人が2人の息子とともに連れて来られました。老人はその時下痢をしておりまして、頻繁にトイレに行かなければいけない状況にありました。ところが彼らは老人がトイレに行くのを禁じたのです。こんな話をするのをお許しいただきたいんですけれども、下痢を患っている老人がトイレに行きたいのに禁じられたらどうなるか、彼は多くの被収容者たち、しかもそこには自分の2人の息子もいるわけです。その人たちの、公衆の面前で我慢できずに便を漏らしてしまう、そしてそのショックで、恥ずかしさで精神に異常をきたして亡くなってしまいました。

このように彼らは私たちを辱めているわけです。

 抵抗すればとことんまで辱められる、自分だけならともかく自分の一番大事な家族がそうした目に会うのだと思い知らせることは、確かに効果的かもしれない。経済破綻も、国民を意気阻喪させるためにわざとやっているのか。(だとすればイラク復興のために金を出している日本はただの馬鹿、と言うことになる)だが2000万人(?)が奴隷意識を自身で内面化する状態を作り出すことが本当にできるのか。イスラエル人のブレーンはすべてのイラク人を意気阻喪させるヴィジョンを持っておりそれを実行しようとしているだろうことは、そうであっても何らおかしくないことだと思われます。イラクの復興が遅れるだけでもイスラエルにはメリットだと考えられるでしょうから。

ファルージャ情勢の謎

ファルージャについては、「レジスタンスが旧市街を取り戻す」という話もあったがよく分からないと、id:noharra:20041130#p3 に書きました。

 ファルージャでは、地域の部族社会がレジスタンスを闘っているだけ、と当然わたしは思っていたのですが、id:amtさんは、それにしたら強すぎる、と見ておられます。ふーむ・・・??

http://d.hatena.ne.jp/amt/20041207#Fallujah はてなダイアリー – おもてなしの空間

イスラムメモは、外部からのアフガニスタン型の支援を認めつつも、地域の部族社会が祖国防衛戦争型で戦っているようなことをいっているが、これも信用できない。ファルージャで連中は、湾岸戦争で一台しか戦闘による損失がなかったエイブラムズを沢山やっつけている。米軍が戦っているのは、少なくとも湾岸戦争でクウェートに侵攻したイラク共和国軍よりも大部ハイレベルな連中がまじっているに違いない。こんなことが可能なのは、僕には、フセインが米軍侵攻に備えて準備した地下組織以外には考えられない。

虐殺を糾弾するだけでは

虐殺を糾弾するだけだと、レジスタンス側が意外に強かった場合、虐殺じゃあなかったじゃないか、と反撃されてしまう。戦っている当事者に対し1段も2段も高い観客席から、反ヒューマニズムという超越的価値観によって評価している態度、そうであってはいけない。政治的発言は常に、手を汚す覚悟で行われなければならない。

そもそもイラクにおける米軍の存在自体に正当性が薄い。したがってレジスタンスは正当である。(自衛隊は米軍支援のための存在だから、自衛隊も攻撃対象になる。)

自衛隊派遣の根拠はイラク支援特別措置法案である。

本法案第2条3項は、イラクについては、「安保理決議1483その他の政令で定める国連総会または安保理決議に従ってイラクにおいて施政を行う機関の同意によることができる」と定めています。

安保理決議1483は、米英軍による占領にお墨付きを与えたものなのか、というと違う。

http://www.no-yujihousei.net/siryou_kaisetu/kaisetu/chinjutu.html

本決議は、米英両国に、占領国としての国際法上の権限、責任、義務を全うするよう求めただけで、米英両国による占領統治の合法性を承認するとか、新たに占領統治の権限を付与したというものではないのです。(略)

以上のように、Authorityすなわち「イラクにおいて施政を行う機関」は、国際法上正当な統治権力として認められてはいません。違法な軍事占領と認定されたわけではありませんが、合法な占領統治と認定されたわけでもないのです。政府は、「日本政府としては合法かつ正当な占領統治と解釈している」と主張するかもしれませんが、それだったら、イラク側にも、違法・不当な軍事占領と解釈する同等の権利があると言わなければなりません。

かくしてイラク旧政権の残存勢力には、国際人道法規則を遵守するかぎり、自国領土を占領している米英軍を攻撃する正当な権利があり、イラク国民にはレジスタンス闘争を行う正当な権利があるということになります。軍事占領そのものが違法・不当と見なされ得るのですから、米英軍が治安の維持や民政安定、人道支援など、いかなる活動を行っていようと攻撃対象とすることが可能です。占領国としての国際人道法上の義務を遂行している最中でも攻撃することができます。

(大阪市立大学教授 松田竹男)

米軍は、他国を占領し他国に不幸と混乱をもたらしている。日本の自衛隊は、自衛には関係ない不名誉な軍事行動を起こしたので、日陰者だった60年経ってやっと、ふたたび封印されるべきだろう。

女という記号

(1)

id:noharra:20041201 に書いたことは、「新田は間違っている。」なんていきなり決めつけて乱暴であり、読者の理解を絶している。もう一度考えてみよう。*1

 911以後にジュディス・バトラーは「Precarious Life」という本を書いたらしい。(Precariousを辞書で引くと、他人の意思次第の、とある。)その本を参照しながら新田は書く。911以後、米国では他者排除の装置が早々と現れた。そこでは全ての人の死が平等に悲しまれることはない。そしてバトラーは“新たな反ユダヤ主義の広がり”を指摘する。しかし新田氏も危惧するように、この指摘にはシオニズムのいかがわしさに合流する危険性はないのだろうか。911事件の分かりやすい影響として、イスラムあるいはアラブ人への差別が広がったのは事実であろう。それをおいておいて、「反ユダヤ主義」だけが言説上に表れるのだとしたら、それはどういうことか。世界の矛盾は西欧的言説の平面性に写像として投影される限りでしか表現できない、そのような言説のあり方というものに対しバトラーは全く無反省なのではないか。*2

 反ユダヤ主義があるから反ユダヤ主義を指摘した。それは良いだろう。しかしそのとき、反イスラム主義は余りに当たり前であるからそれとして認識されることもないという地平に、話者もまた立っているのかどうか?という別の問いにも応えなければならない。

イスラエル政府の残虐性はいうまでもなく甚だしい。しかし、この暴力の連鎖は確実に、「敵」と「味方」を峻別する政治を永続化し、殺伐としたものとなるだろう。*3

この文章にわたしはケチを付けたわけだが、

パレスチナに公正をもたらそうとする運動の立場から、いつもチェックされるのはこの「暴力の連鎖」という言葉である。たまたまニュースに映されたパレスチナ人のあるいはイスラエル兵士の暴力を見て、それに反応することはしばしば、パレスチナ地域の50年以上にわたる占領、人民抑圧というすぐには見ることも理解することもできないものを見ずにすますことと連動している。「暴力の連鎖」なんてわかりやすい言葉を使ってしまう弱さは、「あからさまな攻撃で封じられる」などという操作なしに、わたしたちの社会がデフォルトとして持っている眼差しの差別性の普遍性と闘うことの困難という課題を自らの物としていないことを証している。フェミニズムから何を学んできたのか。

(と偉そうに書いてしまったが、私に何が出来ているわけでもありません。新田さんごめんなさい。)

(2)

 私が主体として発語するときに、わたしは女であるというアイデンティティは必須だ。*4であるとしても、主張し対話し論争するという「アゴーン」の場への参加がなかなかできない人たちをその限りにおいて軽視しても良いのか。そうではなかろう。

つまりその思想*5の根幹は、言語を主体的に使用し、意のままに語る能動性ではなく、他者の保証を受けて在る、主体に還元できない人間存在を想定する。するとスピヴァクの言う発話とは常に、自己の意図や固有性とは別のものの潜入を受けることになる筈だ。(新田・同書p217)

 もしもわたしが男でも女でもないものであったなら、女のアイデンティティを振りかざす言説にむきあったとき、あたかも国家権力による言説に向きあったときと同じような無力感に突き落とされるかもしれない。

「であるからして、わたしたちは誰に遠慮することもなく「女」という言葉を使っても良いのだ。」は間違っていると言われるだろう。

 だがデリダもまた女性という言葉を使っていた。 初期デリダは、男根ロゴス中心主義的な真理を遠くから翻すものを「女性性」と呼んだ。ただしここで女性という記号の使用法には注意が必要である。女性というものがそのまま存在するわけではない。それは、「真正ならざることを固有財産とする」もの(あるいは非もの)のかりそめの「記号」として使用されているだけなのだ。

イスラエルは国家であり存在している。この文章を成立させるために彼らは日々努力してきた。おそらくこの点で、イスラエルにシンパシーを感じるフェミニストは多いだろう。「わたしは女(人間)であり存在している」という自明性を毀損されないようフェミニストは日々闘ってきたのだから。であるとすれば、アイデンティティ・ポリティックスへの違和感の表明は、「イスラエル政府の残虐性は甚だしい。」という言表とパラレルなのものと受け止められるかもしれない。被抑圧という自己規定だけから出発するものは、イスラエルのように(北朝鮮のように)残虐になる(可能性が充分ある)。

(3)

さて、「わたしたちは誰に遠慮することもなく「女」という言葉を使っても良いのだ。」という結論は導き出せないようだ。女という言葉をことさらに禁止するあるポリティックスに従順である必要は全くないのであるが。

*1:現代思想12月デリダ特集p216 新田啓子氏「亡霊を待ちながら」を読みながら

*2:バトラーの文章を読まずに批判できないが、そう思った。

*3:新田・同上p218

*4:野原は男だが

*5:デリダからスピヴァクに受け継がれた思想