わたしたちとイラク戦争問題との関わり

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わたしたちとイラク戦争問題との関わりといえば、もちろん自衛隊派兵である。自衛隊駐留期限は目前に迫っており、駐留延期は決まっていない。派兵は「イラク復興のため」に行われた。ところがアメリカと日本のもくろみに反し、1年間でイラク国内は無茶苦茶になった。

第一条 この法律は、イラク特別事態(国際連合安全保障理事会決議第六百七十八号、第六百八十七号及び第千四百四十一号並びにこれらに関連する同理事会決議に基づき国際連合加盟国によりイラクに対して行われた武力行使並びにこれに引き続く事態をいう。以下同じ。)を受けて、国家の速やかな再建を図るためにイラクにおいて行われている国民生活の安定と向上、民主的な手段による統治組織の設立等に向けたイラクの国民による自主的な努力を支援し、及び促進しようとする国際社会の取組に関し、我が国がこれに主体的かつ積極的に寄与するため、国際連合安全保障理事会決議第千四百八十三号を踏まえ、人道復興支援活動及び安全確保支援活動を行うこととし、もってイラクの国家の再建を通じて我が国を含む国際社会の平和及び安全の確保に資することを目的とする。

http://www.kantei.go.jp/jp/houan/2003/iraq/030613iraq.html

イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法

<イラク国民の生活の安定と向上、民主的な手段による統治組織の設立等>という二つの目的のために、自衛隊はそこにいる。そのために自衛隊はどうしたらいいのか。id:noharra:20041031#p1 で引いたイラク人ライードさんの判断によれば、答えは簡単だ。撤退がベストだという。

事態の解決は,ブッシュ政権(あるいはケリー政権)とイラク人に任せてください。これは彼らの為すべきことなのです。ブッシュ政権に,イラクに対する彼らの戦争を正当化するための「国際的」という隠れ蓑を与えないでください。イラクにあなたがたの国の武装集団(your military groups)がいることは,ただ単に,政治的なものなのです。米国政権の誤った対外政策を支持するためだけなのです。人種差別的な「アメリカ帝国のための戦争」を支持することは,あなたがた平和的な国民のしたいことではないでしょう。

小泉は少なくとも自衛隊員が何人か死ぬまで自衛隊を撤退させる気はない。だが(おそらく近い将来に大きな確率で予測できる)彼らは一体何の為に死ぬのか?イラク人に感謝されないのであれば。

わたしたちは民主主義国家に住んでいる。わたしたちが民主主義国家を形成しているのだ。*1イラクに現在自衛隊員が滞在しているのは「わたしたちの意志」である。国民の一人ひとりは、自衛隊員が命の危険を掛けてそこにいる以上、自分の意志を今再確認し公表すべきであると思う。

つまり、「自衛隊のイラク駐留」と<わたし>の間には二重の関係があります。民主主義の国家意志を形成した(する)国民としての関係と、「無意味かも知れない」死に(わたしたちの依頼により)追いやる(可能性)という情緒的関係。二重の関係において今、自分の意志を確認し表示することは<わたし>(あなた)の権利であり、義務である。

 これはすでに、http://d.hatena.ne.jp/noharra/20041030#p1 である方にお聞きした設問に近い。そのときの答えは「平和主義は非現実的且つ国際的孤立の道に他ならない」だったが、答えは、わたしの問題設定にとっては第一義的にはどうでも良いのである。国民の51%が「そうしろ」という断固たる意志を持っているのなら自衛隊員の死は(国内的論理では)やむを得なかろう。

 (わたしは悼まない。*2高額の年金などを払う事にも反対だ。)

*1:この「わたしたち」には「在日」も入るのか?在日も国家形成に参加している。だが国家意思形成には参加していない。・・・

*2:非国民と呼ばれて叩かれまわってもよい。そのためのハンドルネームですから。

勝ち組を戦場に

ずいぶん前の文章ですが、

http://d.hatena.ne.jp/demian/20040707#p4  経由で

http://d.hatena.ne.jp/amegriff/20040701#1088641482

を知りました。

戦争は国益の為にやるもので、実際その損益をかぶる階層すなわち「勝ち組」が戦場に行くべきですね。

ところで、西村真悟衆議院議員は次のように言っている。(とのこと)

国のために命を投げ出しても構わない日本人を産みだす。お国のために命をささげた人があって、今ここに祖国があるということを子どもたちに教える。これに尽きる。

お前みたいな奴が日本を破滅に導き、日本中が焦土になった原因を作ったんじゃないか。これが分からないのなら、日本人は逝って良し!

「切断操作」(2)

 香田証生さんについてはうまく書けない気がする。最初の3人の人質(なかでも高遠さん)についてはこの日記でもけっこう書いたのだが。自己引用。

 自己責任についてはもっともだ。というか、“アンマンのクリフホテルからのタクシーでバグダッドに向か”うと決めたとき、バグダッドに着くことなく拘束される可能性や死の可能性を彼らは充分考えた上で行為したに違いない。死んでしまえば何処に怨みを残そうが詮方ないのであって、どのような気持ちをもって、あるいは惰性で決断したにしてもそこにはやはり、死を覚悟した決断があったとはいえるだろう。(略)

「ほとんどの書き込みが単なるルサンチマンの表出としてしか読めません。」という2ちゃんねらーまがいの発言が多かったらしいが、そこ(決断)に<至高性>の臭いをすばやく嗅ぎつけ、それにヒステリックに反応する、野原ふうに言えば“奴隷”の心性を持った人が大量発生しているということだろう。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040414#p5

 自己責任については、香田さんの場合も同じだろう。彼は馬鹿なこと(かもしれないこと)をした。そして殺されてしまった。彼が後悔しながら死んでいった、かどうかは分からない。どちらにしても彼は殺された。*1一瞬、そこに静かに立ち止まるべきだろう。

日本中だけでも無惨に(「抑圧された」という情況においてそれを原因の一部として)死んでいく人々は少なくないはずだ。それでもマスコミで大きく報道される人は少なく、他の人は悼まれない。

香田さんに対してだけ、「危険なところに行ったお前が悪い」という発言行為があるのはなぜか。裏読みするならば、そこにはまず、「香田証生は他者ではない」という前提がある。その上で「切断操作」があるわけだ。

「香田証生は他者ではない」には二つの意味がある。マスコミが大きく報道する「日本人」としての同胞感。それと、多かれ少なかれ日本社会で仕事に熱中することに生きがいを見いだせず、浮遊感をもてあましつつ何らかの意味の自分探しをしている者としての共感*2

 ということで、わたしの問題意識では、(1)同情 がまずあり、それが(2)切断された と思います。

 ところで、前回の人質事件の時の「切断操作」と今回のそれはかなり違いますね。前回は明らかに反動的、政府支持的効果があったが、今回はなかった。ああこれは切断操作ではなく、人質が帰ってきたか駄目だったかの効果か。全然分析になってないな。まあどちらにしても「テトリストを憎め!」という大合唱が起こらずによかったです。(そう言いたがっている人もいますが。)

*1:テロリストを憎むことは、わたしも危険を冒し戦いに行く可能性につながる。

*2:2ちゃんねるやはてなのユーザーは大ざっぱに言うと大方後者のカテゴリーに入るのでは。だが、普通の大衆はそんな浮ついた問いを必要としない、考えもしない場所で生きているはずだ。それとも普通であることは、浮遊感を身体のすぐ裏側に感じながらそれをヒステリックにうち消すことで成立しているのか??

軍事大権の総括者(11/22追加)

スワンさんからコメントいただいた。

# swan_slab 『

わたしたちは民主主義国家に住んでいる。わたしたちが民主主義国家を形成しているのだ。*1イラクに現在自衛隊員が滞在しているのは「わたしたちの意志」である。国民の一人ひとりは、自衛隊員が命の危険を掛けてそこにいる以上、自分の意志を今再確認し公表すべきであると思う。

こないだの憲法13条観(長谷部VS松井)と絡んで、私自身は民主的政治過程によっても奪うことができない【個人の尊厳】という観念を認めます。べつにマイノリティの人権がどうのということ以前に、多数決によっては奪うことができない本源的な生の平等を信じます。立憲主義は民主政を限界付けると考えます。

民主政は究極のポピュリズムに堕する危険を防ぐことができないし、制度的な欠陥や官僚制などに支えられていることなど、いろいろな意味で、民主政にそこまで信頼を置けないというのが正直なところです。

スワンさん、コメントありがとう。

わたしは「国民の51%が「そうしろ」という断固たる意志を持っている」とはとうてい思えないのです。国民の意思がどこにあるか、60年安保のような大騒動でも起これば議論の余地もあるがそうでない限り首相の意思がそれだと推定されます。という法的、政治的常識は覆しようもありません。ただまあネットという自由な言論空間の一部において、あらためてわたしたち一人ひとりの意思を確認することは別にやっても良いことだと思ったのです。

ただ国民という言葉を使ってしまうことには、それだけで一定の土俵(国民国家)の上に載ってしまっているという危惧(懸念)もあるのですが。

つまり上記の文章は、日本を民主主義国家として肯定的に把握しているという主張ではありません。(そうも読めるでしょうが)民主制についての判断はスワンさんに非常に近いと思います。

 ところで、私が最も強く訴えたいことは、下記にも書いたけれど、

・・兵を出した以上撤兵することは(どんな場合でも)非常に困難なことだ。

・・したがって、どのような条件において兵を退くということをあらかじめ厳格に定めておき、その条件を越えたら直ちに退かなければいけない。

・・条件違反の判断をきっちりしなければいけない。

ということです。 http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040414#p1

これは、日本遺族会の会長の古賀誠氏の言っていることとほとんど同じであり、戦後日本が出発した時における「最低限」の反省であるはずです。*1

スワンさんが冬山登山の検討会の例で実感をこめて訴えたいとしておられることも内容的には同じだと思います。

 ところが小泉氏にはそうした問題意識が全くうかがわれず、首相(

軍事大権の総括者)としての最低限の条件を満たしていません。ある思考回路もった人々にとっては愛国テロの対象になるでしょう。

*1:なお、図式的にいっておくとわたしはほぼ極左であり遺族会とは多くの点で対立する。

水俣病は語りうるか

 そン頃はな、チッソの安賃闘争(昭和三十七年の反合理化闘争)が終わってしばらくした頃じゃったで、工場も町も部落もメチャクチャ荒廃しとった。会社行きが第一組合(合化労連)と第二組合(御用組合)に分裂(わかれ)ちゃって、部落づき合いや親戚の間まで「一」と「二」に分裂させられて、そもそも出月の部落自体が狂ってしまったじゃもん。なんもかも薄ら寒い季節やった。生活保護が打ち切られてなぁ。母ちゃんの荒れて荒れて誰も手のつけようがなかったっじゃ。家がつぶれかかって、借金がかりられなくて、それだけ気になってたんやろなあ。母ちやんの何かあったなて思て、フスマ開けたら、ぶわあ~って吐いたもんな、焼酎一升五ン合分のヘドば。六畳いっぺえ吐いたんだよ。

 家ン中は暗くて昼も電燈つけてたから、そン薄暗い部屋いっぺえのヘドの中でのたうってる母ちゃん見てたら、俺もオエーッとこみあげてきた。鬼じや。鬼じや。もうこの世の者とは思えんかったよ、そン時の顔は。ああ、この野郎さえ居なければ……。俺、もう我慢出来んかったもね。ぶち殺そうて思て、首しめたったい。母ちゃんの、飲んで部落歩くどが。それ止めさそうて思たわけたい。その事でどっだけ俺がつらい目みとるか知っとるのかぁ。「お前(め)が母(か)ちゃんな、化物(ガゴ)じゃがね」「ガゴン子じゃがね」ち。みんなから囃されて誰一人寄りつきもせんじゃないかぁ。止めさそうて思たら、転落(ころげ)らったもん。ころげた拍子に頭ば打って、泣いて吠(おめ)くとたい。「親ば殺そてしたあ~Z」(笑)。父ちやんのす~ぐ飛んで出て来(ご)らって、もう足の立たん如(ご)つ殴(う)ちまわされてね、そこに爺ちやんの来らって、今度あ爺ちゃんと父ちゃんがケンカおっ始めて……、メチャクチャ、あの日は。

 俺ぁバタバタ便所ン中に逃げ込んだけど、父ちやんな一日中便所の出口で番しとらっった。光童園(町の孤児院)さたたき込んでくるる」ち。「親ば殺そうてした。末恐ろしい……」ち。小坊主やみなし子が修業してるだろ、光童園で。恐ろしくて出て行かれんかったよ。便所ン中からカギ閉めて、父ちゃんの寝らってから出て来た。まああの臭え~所によく一日もしゃがんでいられたもんだなあ、俺も(笑)。

 しかし、人間ちなどうゆうもんかね。母ちゃんな饅頭に毒入れてもう一家心中せんばんてブツブツ考えながら、焼酎飲んどらったちがな。それがお前、自分が実際首しめられたら、「助けてくれ~ッ」じやろが(笑)。

 んで、この俺が首しめて母ちゃんの目ば覚まさせんば、俺達一家は全員毒殺されとったかも知れんとたい。ヘン、ざまあ見やがれってんだ。

 とは言うものの、これを手始めに親をぶち殺そてしたのは、二度や三度にゃとどまらねえてんだから、我ながら嫌ンなるぜ。

p36-38『下下戦記』(吉田司・文春文庫・515円+税)

http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4167341026/249-0324697-0483570

国家あるいは、一般社会との関わりにおける、水俣病とは何か?は 下記でスワンさんが見事にまとめている。文章の順番を年代順に変えました。

1)1968年、国が「チッソ水俣工場の排水中の有機水銀が原因」との公式見解発表し、公害病に指定するまで、チッソの工場廃水はたれ流されていた。

2)熊本水俣病の裁判闘争のはじまりは1969年だ。「今日ただいまから、私たちは国家権力に対して、立ちむかうことになったのでございます」と患者らが立ち上がって

3)そして2004年10月の今日、最高裁がようやく国家の責任を肯定した。

59年には行政は企業の排水をやめさせるべきだったと最高裁は判断した。半世紀近くもたってやっとね。

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20040613  はてなダイアリー – +   駝  鳥    +

 それに対し、上の発言は胎児性水俣病患者(である)敏(とし)くんのものである。 『下下戦記』という本の「下下の下下、下下の世界の……」という章にある。ゲゲゲの鬼多郎みたいなタイトルみたいだが、人間でありながら化物(ガゴ)そのものであった我が母と我、を語った文章だ。下下とは貧困である。貧困つまり貧しさとは何か,誰でも知っている、だが本当に知っているのか、少なくとも私は知らない。生まれ落ちた瞬間から愛情に包まれて育ち、人並みの屈折は経験しつつも安定した生活を踏み外さずに生きてきた。バタイユやバロウズや松下昇など趣味で読んでいただけだ。*1

それよりなにより、俺が母(か)ちゃんたい。ありゃもう人間じゃなかったもん。神経(気狂い)と一緒ッ。ひーどかったなあ。もう毎晩のように飲んでてなあ。焼酎でも飲まんば水銀で脳ン中がジリジリジリジリ焼けて来てしょんがなかったっじゃもん。で、飲めば終(し)めえさ。魂のどっかへうっ飛んでしもて。ウォンウォン泣きながら外にさまよい出て、あっち行ったりこっち行ったり、うろうろうろうろ。もぉ夜中の四時頃までも部落中吠(おめ)て歩(され)く。歩くともつか~ず、走るともつか~ずッ。下駄なんかどっかうっちゃらかしてしもて。裸足で。髪なんかバッサバサにふり乱して。そっで誰かの家の戸でも少し開いとろうもんなら、突然そっから押し入るわけたい。飯を食っとろうが、お客が来とろうが関係なしにあがり込む。大声上げてよお~ッ。「昨夜(ゆんべ)、道で俺(お)が悪口ば言いおったろがあ~」ち。「奇病、奇病ち馬鹿(ばけ)えすっとかッ、んなら、お前が責任ばとれ~ッ」ち。「元ン身体にしてもどせえ」ち。(p34-35 同上)

敏の存在様式とわたしのそれは交差しない。わたしは文章を転記したが、そのとき何が出来て何が出来ないのか?

 狂った母がいる。だが父や祖父とてそれより上のレベルに立ち母を牽制することはできない。幼い敏はなおさらのことだ。だが幼いといっても、「俺、俺だって引き止めるよ、人前ちゅうもんがあっだろ、子供心にも。」といった自覚くらいはできたのだ。そうした日々が続き、敏は少しづつは大きくなる。「一家心中」をブツブツ唱える母を呪いながら。学校で「化物(ガゴ)ン子」と囃されながら。そしてある日、母が畳みいっぱいに吐いたとき、今まで溜まっていたものは殺意となって噴出する。「ぶち殺そうて思て、首しめたったい」といっても子どものことである。大人が本気になったら跳ね返せるのではないかと思うが、母は予想外のことに戸惑い転けてしまい頭を打つ。そして父、祖父を巻き込み暴力の水位は容易に下がらない。そのように<へど>にまみれた生の時間があった。

 それに対し、法的言語というものは、現実を、「Aは水俣病として認定しうるが、Bはそのカテゴリーからはずれる」、といった書類上に記載しやすい現実に翻訳することしかできない。極めて限られたことしか出来ないにもか変わらず、それでも成果が得られれば、それは極めて大きい。やはりなんといってもそこでいちおう「正義」というものがどこにあるのかが示されるのだから。法的言語、マスコミ言語、そして科学的言語や支援者の運動言語それぞれ力を持っている。しかし、それらの言語で語りうるものはいずれも氷山の一角であり全てを合わしても極一部でしかない。当事者つまり患者の身体のなかには、それでは語り得ないものが「ヘド」のように悪臭を放ち高温を発し渦巻いている。

 語り得ない領域といいながら実際上に語られている。しかしそれはそうであるかのように見えるだけだ。表現者=敏が物として語る言葉を、読者は暗喩として理解するそうした誤解によって、あたかも表現が受け渡されたかのような幻が生まれるだけだ。言説として成立していない。

 読者の側からは、例えば次のような評価が生まれる。水俣がわたしたちの歴史においていつまでも語り継がれなければならないのは、既成の諸言語とは違った<他者の言語>つまり<患者の言語>をうち立てた、点にある。この点で石牟礼道子と並んで、この本の著者吉田司氏の功績は圧倒的である、と評価していいのではないか。しかしそのような評価はそうも言えるというだけのことである。*2

 わたしとは何か?私のうちにも<悪臭を放ち高温を発し渦巻いている「ヘド」のごときのもの>が存在するのか?と問うことができる。というか、その問いに出会わなければ書き始めるべきではないのだ。

 なお、「へど」とは辞書によれば「反吐・嘔吐」「一度飲みくだしたものをはきもどすこと。またそのはいた汚物。たぐり。たまい。」とある。

*1:松下についてはそう言うことは禁じられているが。

*2:もちろんわたしはこちら側に立っているので『下下戦記』は名著であるので復刊させないといけない、と強調しておきたい。

水俣病への接近

上の文章を書いたきっかけは『下下戦記』を読んだからですが、さらにそのきっかけはスワンさんが下記のような一連の文章にあります。量が多いのできちんと読めていないのですが。あらためて敬意を表します。

ちゃんと読まなくては。

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20041121#p1

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20041020#p2

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20041015#p1

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20041014#p2

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20040613

村野タマノの叫び

67年には、公害対策基本法が制定する。

その翌年、初めて、厚生大臣が水俣を訪問する。

新潟水俣病の発生を背景に、1968年(9月22日)、熊本県天草郡出身の園田直は、厚生大臣として初めて水俣を訪れ患者を見舞った。孤独の中で闘病生活をしていた重症患者・村野タマノは激しいケイレンを起こしながら、「君が代」を唄い、「天皇陛下万歳!」と叫んだ。(パネルより)

なかでも6/13の上記の部分は印象的でした。

1945年から日本は民主主義国家になったと信じている人が多い。(小学校でそう習うから)戦前の日本だって今と同じくらい民主主義だった、ということは必ずしも無茶な意見ではない。いわゆる15年戦争において国内が危機に陥ったのは最後の2年くらいでそれまでは大衆やプチブルは(一定の範囲内で)自由と消費を謳歌していたのだ。今の日本が民主主義なんだというタテマエを皆が疑わないのはその方が楽だからにすぎない。村野氏の行為には何の錯誤もない。*1

*1:いろいろ問題はあるがわたしの文は尻切れトンボで終わる。

非対称の性

松下昇氏の性に関わる文章を掲載します。

  非対称の性

 生理ないし言語の規範における〈性〉が男性、女性、中性などと呼ばれるけれども、それらを一たん全て破棄して考察してみることが、このテーマに踏み込む基本原則である。この原則は、性の比較、交差、交換などは、自明の価値ないし魅惑性をもたず、自明さと対等に無関係さを内包ないし外包しているという仮説を軸としている。この仮説がどこからきているかについて、いくつかの関連ヴィジョンを提出してみる。

 (1)ヨーロッパ系の言語にどうしても身体感覚としてなじめない理由の一つは、名詞に性別があることであった。名詞の指示するイメージから多分この性なのだろうと推定することもできるが、それは一部分であり、推定に反するものがたくさんある。例えば、ドイツ語でいうと、なぜStern(星)やSee(湖)が男性名詞であり、なぜGeschichte(歴史)やFreiheit(自由)が女性名詞であり、なぜWeib(女)やGedanke(思考)が中性名詞であるのか、どうにも納得できなかった。名詞の性別が判らないと格変化の場合に前にくる冠詞や形容詞の変化もできなくなるので、苦行のようにして暗記したり、名詞が動詞などから派生する過程や語尾の特徴を知ることなどによってある程度の区別ができるようにはなったけれども、根本的な異和は深まるばかりであった。言葉と言葉の間の対称軸の欠如ないし一方的な既成事実化に親しめなかったともいえる。念のためにいうと、だからといってヨーロッパ系の言語の中で名詞の性別のない英語とか、非ヨーロッパ系の言語が好きだとか得意だとかいうのでは全くない。どんな言語に対しても(特に日本語に対しては!)異和があるのだが、ここでは、ヨーロッパ系の古い起源をもつ言語の名詞に性別があるのは、言語の発生から血族社会内部での流通過程において、人々があらゆる対象を直接ふれたり評価したりできる〈もの〉として記号化し、かつ〈性〉的に区分する世界観(共同幻想)の中で相当長い期間を過ごしたことを推定させる、という独断をのべておく。

 ついでにのべておくと、血族社会から氏族~部族~民族国家への移行と対応して、対象を〈性〉的に区分する世界観の放棄をしいられたであろう。しかし、幻想的拘束の残像としての名詞の性別は依然として持統した。この事実は、あらゆる対象を〈性〉に区分して認識する段階を越えても、慣性的な逆作用により、あらゆる対象を区分~交接可能な概念としての〈性〉質に区分~体系化しようとするヨーロッパ系言語の基底にある認識方法が強化されたことを意味するのではないか。また、前記の世界観の(無意識的な)放棄の度合は、社会的関係の拡大により直接ふれうる〈もの〉が減少する度合に対応しており、その際に貨幣制度の導入が大きい媒介になったのではないか。ヨーロッパ系の言語における〈性〉区分を離脱した英語圏の民族国家が資本制、さらに帝国主義へ最も早く到達したのは偶然ではない。このような独断は、専門の学者からは一笑に付されるであろうが、かれらが、これと異なる事実と方法を(言語ではなく)生理としての<性>に関心を抱く任意の人が納得しうるように示すのでない限り、私の独断は挑発力をもち続けると考える。

(2)前述の独断?は、言語(史)を媒介する〈性〉の領域以外でも意味をもちうる。アメリカの実験心理学者H・G・ファースの「言語なき思考」(染山、氏家訳は82年)の調査結果と私の身近な人との体験と総合して考えると、目や耳の不自由な人の場合には、ある概念(A)の反対概念(│A)の具体的な理解は困難であるが、その度合だけA→│Aという単一の至近ベクトルヘのためらい、いいかえると対称概念(Aと│Aを包括する範囲ないし軸)への関心が高まることが確認できる。このことは、意識ないし幻想性の〈不自由〉さの自覚を逆用する場合には、Aが問題とされる時にも、直ちに│Aを認識ないし提示することは不要あるいは有害ではないかという示唆を与えうる。

 六○年代末以降の〈大学〉闘争において、〈大学〉(に象徴される知の体系)を解体せよ、すでに本質的に解体している情況を生きよ、と私たちが主張した時に、たえず出会った反論?は、大学の改革の必要は自分たちも認めるが、改革された大学のイメージを提示してくれないと討論できないではないか、それに君たちは大学はすでに解体しているというが、ちゃんと建物も立っており、授業も続いているではないか、このことは大多数の人にとって君たちが対案を提示するまでは現在の形態の大学が必要であることを示すのだ、というものであった。たしかに私たちは言語による改革案は提示しなかったが、それは、無意識のうちに、現在の目の前にある矛盾Aをたんに転倒しただけの│Aを言語で提示しても、Aの言語レベルにとりこまれ、消滅させられる、と直観していたからである。そして、私たちは矛盾Aが〈目や耳や~の不自由な人〉に確かに感じとれる苦痛の深さへ下降し、その深さをためらいを含む〈身振り〉で、ある場合には道具や言語をも用いつつ地上の管理者~支配者に対して提示することにより、│Aの集合を結果させているAの集合を破壊することを目指してきたのである。この方法は今後さらに、機構としての大学だけではない〈大学〉の根底的解体のために必要であることを強調しておく。

 さて〈性〉へもどろう。いや、ずっとそれについてのべてきてもいるのだが、この項目の冒頭の原則との関連でいいなおすと、男と女を相互に反対概念として把握するのは、当然ないし自然な認識の態度ではなく、与えられ、強いられた態度であること、〈性〉を論じるためには(1)の言語による接近方法の反対概念として直ちに(3)生理・器官からの接近方法を対比させるのではなく、(2)の前記の視点からの媒介的把握が不可欠であることを指摘したいのである。

 人間は、なぜ性の区分を意識したり恥じたりするのかについて記そうとしている時に、突然うかび上がったヴィジョンを先に記すと…、逮捕されて留置場に入る前に身体検査があるがパンツは脱がないでもよい。拘置所~刑務所に入る前にはパンツも脱ぐように指示される。私は制裁と起訴の二重処分を受けて拘置所と警視庁の留置場を何度も往復している間に殆ど脱ぐことを意識しなくなり、何回目かの留置場では、要求されていないのにパンツを脱いだので、立会いの警察官たちはあわてて目をそむけた。(栗本慎一郎は?)

 性別を区分する意識を生物としての人間の歴史の原初に与えた何か(エデンの園でアダムとイプが禁断の木の実を食ぺた後に相互の性の違いに気づかせ、バベルの塔以後、人間の言語を相互理解困難にしたものと同じかもしれない。)の呪縛から私たちは脱していないのではないか。このテーマには(3)と往還しつつ迫りたい。

(3)生命の発生以後に器官としての性が発生した段階と、人間が性に関心をもつ段階の差は、母体の胎内で性別を区分しうる段階と、その子どもが生誕後に自分と他者の性別に関心をもつ段階の差に対応している。そうであるとして、胎内での性別を区分しうるのは医学の技術であって胎児が意識して性別を表示しているのではなく、生誕後の子どもも、自他の性別に関心をもつというよりもたされるのであり、いずれの場合にも性別の存在と性別の意識は不均衡~非対称である。〈性〉についてのこの特性は人間が対称化~転倒していく全てのテーマの象徴ではないか、と私は何かの胎内でもあるバリケードの中でまどろみつつ予感していた。言葉にするのは今はじめてであるが。

 それにしても、遺伝子や染色体が原初に全てを決定しており、生命体はその存続のための乗り物にすぎない、という流行の見解は、世紀末にふさわしいニヒリズムである。これは〈存在が意識を決定する〉というマルクス思想の核心を最低部で補完するものであり、論者自体の破産に釣り合っている。このテーゼの真の復活の契機については、概念集4でいくつか示唆しているが、項目としては改めて論じる。)

 ここで私が公開の場で〈性〉を論じた時の経験を挿入してみる。徳島大学が懲戒免職処分を公表した山本光代さんは、その後、大学構内で清掃用モップを、法廷内で包丁を、路上でポルノグラフィーを手にしたことでニつの公訴事実とたたかうことになり、私は公訴棄却をそれまでの経過から主張するために証言した。そして、〈 〉を手にすることが罪とされていく過程を批判するために必要であるとのべつつ、なぜか困惑している裁判官に許可決定を出させ、おそるおそる運んできた書記官の緊張ぶりを不思議におもいながら、路上の古本業者の「猥褻物所持」の証拠である多数のポルノグラフィーを一枚ずつ眺め、私のその様子を法廷内の人々が息をつめてみつめていた。私は猥褻罪についての証人ではなかったから猥褻の概念や度合については殆ど証言しなかったけれども、かりに証言したとしても、これらのポルノグラフィーはだれの欲望をも刺激しえない、とつぶやく他なかったであろう。

 たしかに、むき出しの性器の写真ではあるのだが、それらの器官と〈私〉の器官が出会う必然の回路を法廷は決定しえない。その回路をえらぶかどうかについても。普遍的にのベると、〈性〉に関する表現は、結合前の回路に対して一方的に非対称である場合には欲望も刺激しないし、その表現が〈性〉を媒介して〈性〉以外のどのテーマの深化をおしすすめているかを(大衆団交の本質的レベルにおいて…概念集2の項目参照)開示しえない限り、生存の矛盾をおおいかくす役割しか果たしえないであろう。この視点からは、商品の場合は勿論のこと、努力や、逆に惰性による性表現(行為を含む)は何ひとつ〈性〉を生かす表現として成立していない。多くの人々が、これまで行なってきたと自ら思い込んでいる性的行為は、この視点を疎外する位置にある場合には、たとえ生殖の経験を経ている場合でさえも(あるいは、この経験によって一層)、性的本質とは無関係であり、敵対している。

 最後に(むしろ、これまでの論述過程を対等な身体性から私と共に追求しようとする人にとっては最初にというべきであろうが)、(1)、(2)、(3)に共通し、今後の〈作品〉のテーマにもなる〈非対称〉のヴィジョンを、予告的に記しておく。

 これまでの〈性〉に関する多くの論議には、共通の欠損としての共通の前提があるように思われる。それは、〈性〉行為についての考察を、成熱した男と女の自然な行為として開始していることである。〈性〉行為の範囲を、たんなる器官の結合として把握しない場合(とりわけ、交通~交換概念の応用としての追求は必要であるが)にも、前記の前提はそのままである。むしろ、何らかの理由で〈成熟〉概念に達しない、ないし、はみ出している身体相互の関係において、器官の結合を実数軸とする場合の不可能性を虚数軸として設定しつつ、この複素数領域に広がる相互の幻想過程の一致やズレをもたらす要因~止揚条件から考察を始めるべきではないのか。

 このことを例えば宮崎勤は、相手の共同作業を絞殺するという決定的な錯誤を通してではあるが私たちに呼びかけており、この声に耳を傾けるのは、ビデオ文明の中での事件として把握するよりも遙かに重要であると考える。宮崎問題の発生以前から発生している私のこの視点と共通する見解を交差させてみると…

 笠井潔は、「対幻想とエロティシズム」(八八年三月発表後「思考の外部・外部の思考」に収録)において、吉本隆明が「対幻想を一対の男女の自然関係としての性」の観念的疎外として把握してエンゲルスを批判し一定の成果をもたらしつつも、「男女」という概念を先験化する点においてエンゲルスに無限に接近せざるをえない、と指摘し、自然関係ではなく、決断を媒介する非自然軸から性に迫ることの必要を主張している。これは私の知る限り、吉本の対幻想論の最良のレベルを継承しつつなされた最良の批判である。ただし、笠井が、性的な他者を外部からの挑発~戦慄として、自己解体をかけて捉えるべき対象であるという時、情念としては了解しうるとしても、かれはまだ成熟概念の内部でのみ把握することにより、吉本と対照的な、しかし共通の自然関係の枠を越えていないといわざるを得ない。〈成熱〉概念に達しない、ないし、はみ出した存在が、生命~幻想の発生に関わる身体知としての組織論を相手と共有しつつ対幻想とエロティシズムについて考察~実践し、それを現代文明の対象化~転倒の試みと連動させつつ展関する作業にこそ、六九年以来の〈連帯を求めて孤立を怖れず〉のスローガンが非対称的にふさわしい。

註ー笠井の論点は、七二年の運合赤軍事件を契機として全革命思想の再検討へ向かった過程での評論「テロルの現象学」(八四年五月)の、対的領域への応用として読むと示唆に富んでおり、革命論としても読める吸血鬼SF「ヴァンパイヤー戦争」(文庫本は九一年一月に全11冊刊行)で多彩なイメージによって追求されているが、これら二書の非対称領域が今後の私たちに必要となるであろう。

 なお、私が成熟や非対称という時、性的な具象というよりは、〈性〉概念の再検討に際しての概念の転倒を意図している。例を上げると、永遠の女性ベアトリーチェをみつめた「神曲」のダンテは器官の結合としての性の行為を表現してはいないが、対称的な女性の器官に精通してもいたはずである。また、古代インドの性典カーマ・スートラは、交際や抱擁や器官の結合の仕方などを詳細に説明しているが、それが、社会秩序や存在の根拠を揺るがせる質をもちうることは消去しておこなっている。この二例は併合的に把握すれば人類史における性の対象化を片面ずつ驚くべき成熟度で示しているとしても、相互に止揚し合うための双方からの非対称領域への欲望において未成熟だといいたいのである。

松下昇『概念集・4』~1991・1~ p23-26

 松下昇の1991年のテキストである。

性を、一旦破棄して考える

この日記ではなぜか、西尾幹二、山形浩生との激突というエピソードがあったわけですが、最近「ジェンダーフリー」ないしその使用法について広範な議論が巻き起こっているようです。ジェンダーという言葉がフリーという言葉と結びついて、正確な概念から離れつつ流行語になったこと。その背後には、女/男という概念はすでに〈拘束〉でありそこからの離脱を求める漠然とした気持ちが(フェミニストの想定を越えた広範さで)あった、ということは事実でしょう。上の松下の文章はそうした諸テーマを、早い時期にフェミニズムとは無縁の場所で表現したもの、と言えます。

 上記の松下昇の1991年のテキストを読んでみる。

江戸や明治に出された本に比べると遙かに読みやすい。人間が読みやすいだけでなくスキャナーでOCRにかける時も昔の本などはふりがなや返り点などが多すぎてまず駄目だし、漢字も異字体や正字が多く上手くいかないことが多い。*1松下氏の文章は、〈 〉や~が多いとして形式面でも難解とされたが、字体などという点では私たちの時代の標準に近い。ワープロで打ったものだから当然だが*2

 難解でとっつきにくいという感じを持ってしまった。タイトルにある「非対象」という概念が分かりにくい。とにかく読んでみよう。

 最初、言語における性(ドイツ語やフランス語など)が出てくる。性をジェンダーと言ったときにまず出てくるのがこの「性」であるのは承知の通り。*3「なんで女が中性なんだ!」といった理不尽を呪ったことは誰しもあるだろう。*4わたしたちはすでに言葉ができあがった世界に住んでいて言葉でしか考えられないのだから問えない。だがこの〈理不尽〉の向こう側に、物と言葉が初めて出会った情景の影があると想定してもよいだろう。言葉とは抽象であるわけだが、わたしたちの知っている抽象とは全く別の軸における抽象のあり方がかって存在した。

言葉というものは、人類の(あるいは全自然の)悠久の歴史をその背後に隠し持っている、わたしたちはそれを直接知ることは出来ないが直感によって感じとることは出来なくはない、そういった思想がある。*5松下の文章の背景にもそのような思想があるようだ。

a「言語の発生から血族社会内部での流通過程において、人々があらゆる対象を直接ふれたり評価したりできる〈もの〉として記号化し、かつ〈性〉的に区分する世界観(共同幻想)の中で相当長い期間を過ごした」という長い時間が想定される。しかしそうした時期は原初のユートピアではない。〈もの〉としての直接性であるかのように言葉が意識されていた、ということだ。

b「あらゆる対象を〈性〉に区分して認識する段階を越えても、慣性的な逆作用により、あらゆる対象を区分~交接可能な概念としての〈性〉質に区分~体系化しようとするヨーロッパ系言語の基底にある」志向は残った。社会的諸関係の拡大によりaという段階は終わるが、そのときの〈幻想的拘束〉は〈残像〉を残す。それが名詞における〈性〉である。

cさらに貨幣制度が導入され、社会的関係の拡大により〈もの〉に直接ふれうる度合はどんどん減少し、言語における〈性〉は消える。これは英語の場合にだけ観察しうるが、方向性としてa→b→cというベクトルを想定することは可能だろう、と言っているようだ。このベクトルに対し松下はそれを進歩とも堕落とも価値付けない。(11/20 7時追加)

*1:というか漢字というのはもともと多様性に富んだものだったのを日本の戦後の政策でむりやり簡略化したものである。だから現在の基準に合わせて昔の字を異字体だと評価するのはその評価自体が不当である。

*2:手書きのものは1行がよく2行に分かれて流れていく

*3:この15年間で誰もが知るようになった言葉がこのジェンダーだが、その経過は「失敗」だったとも言う。これについてはまた書こう。例:http://tummygirl.exblog.jp/857963/

*4:私はフランス語教室に何年も通ったが勉強しなかったので知らないが。

*5:吉本隆明『言葉からの触手』ISBN:4309407064 など。

性を、一旦破棄して考える(続き)

えーと。(11/27訂正版UP)

「男性/女性/中性など、生理の規範としての性を、一旦すべて破棄して考える こと」について考えてきたのでした。

松下の文章は4頁(4部分)からなる。要約すると以下の通り。

1.わたしたちの知っている抽象とは全く別の軸における抽象のあり方がかって存在した。

2.「性別を区分する意識を生物としての人間の歴史の原初に与えた何かの呪縛から私たちは脱していない」

「男と女を相互に反対概念として把握するのは、当然ないし自然な認識の態度ではなく、与えられ、強いられた態度である」

3.胎児の段階でヒトは男女に分化するが、性というものを自意識において捉え返すことは、幼児~思春期までなされない。

「性別の存在と性別の意識は不均衡~非対称である。」

4.性行為を複素数空間において考察すること。

(2)

 反対概念というのは奇妙なもので、<明るい/暗い><高い/低い>など、反対概念の和は全体であるかのようにイメージされてしまう。目の見えない人は<明るい部屋/暗い部屋>の差異が理解できない。明るさを直接把握することはできないのだ。しかしながらすべての文章のうちから<明るい又は暗い>が付くフレーズを集めれば、それがどんな時につかわれる言葉なのか、どういう雰囲気をもった言葉かが分かるだろう。それと同時に、<明かるさ>をあらかじめ知っている人たち(わたしたち)には普通理解できないあることにも気付くのだ。つまり(Aと│Aを包括する範囲ないし軸)がどこにあるのかが分かる。

 「それに君たちは大学はすでに解体しているというが、ちゃんと建物も立っており、」というセリフはとても滑稽な印象を与える。大学に対し反大学というものしか頭のなかに描くことができず、つまり広い意味での大学(知的世界)だけが世界であると思っている自分を知らず知らずに白状してしまっているからだ。

 さて、「大学はすでに本質的に解体している」とはどういうことだろうか。知の体系が存在するためには、〈(考察し研究する)主体-対象〉という構図が必要である。〈大衆団交〉が実現可能だったことは、その構図が崩れたことを意味する。〈死者の声は聞き取ることができる〉〈サバルタンは語ることができる〉というアプリオリから出発するのが、松下のスタイルである。サバルタンの声を想定することはサバルタンでないものがサバルタン性を表象代行する事であり犯罪的である、という批判の可能性がある。しかしその批判が成立するかどうかは、わたしがどこに立っているかによる。大学の中のインテリとして発言することと、それと対極的な場で発想することは違うのだ。〈現場ないし法廷でいつでも国家の秩序や法と闘う準備のあるレベルでid:noharra:20040721〉語る場合とは。

(3)

 たしかに、むき出しの性器の写真ではあるのだが、それらの器官と〈私〉の器官が出会う必然の回路を法廷は決定しえない。その回路をえらぶかどうかについても。

松下は何を言っているのだろう。ポルノ写真の性器とわたしの器官が出会う回路とは?毎日送られてくるスパムメールには美女の写真付きの物もたぶんあり、その場合その女性に出会うべき回路も指示(または暗示)されているのだろうが、そういう場合を除けば、ポルノは出会えない可能性においてポルノであると思われるのに松下は違うという。その写真をどのような眼差しで見るのか、スケベオヤジの視線でか、商品としての視線でか、少年の無垢な好奇心か、失われた横田めぐみさんを見るようにか、そのような視線のあり方を言ってるだけだろう。読者の性器写真への眼差し(回路)の在りようは多様であり、それを一概に「猥褻」「オヤジの眼差し」と決めつける根拠は裁判所にはない、と松下は主張する。

ところで女性にとってなぜポルノか?<具体的に股開いて金稼いでない人は、自分の変わりに誰かが股開いて生きている、という一瞬(へ?)というしかないような構造で世界が成り立っているということを肝に銘じておこう*1>といった発想がおそらく山本氏にはあったのだろう。ポルノ写真を一枚一枚見ながら松下はその裏側に<世界を転倒せずには生きられないが、同時にそうした文に決してたどり着くことのない>性器たちの静かな叫びを聞き続けたのだろう。

ただ、そのような理解ではまだ不足だろう。叫んでいない性器たちから無音の叫びを聞くとは、性器を〈サバルタン〉と位置づけていることだ。あるひとがサバルタンであるとはその人との回路が非対称的である、つまりわたしが主体でありサバルタンは客体であるという関係がどのようにしても動かしえないことを意味する。しかしながら松下は断言する。非対称性は欲望も刺激しないし、性的本質と敵対すると。*2

「多くの人々が、これまで行なってきたと自ら思い込んでいる性的行為は、たとえ生殖の経験を経ている場合でさえも、性的本質とは無関係であり、敵対している。この視点を疎外する位置にある場合には。*3

ポルノを見てオナニーしたりあるいは娼婦を抱くといった行為は本物にたどりつけない人のための不完全な偽物だと一般に思われているが、いわゆる本物の性行為に対し松下は、性的本質に敵対するものだ、と断言する。それでは性的本質とは何なのだ?

(4)

成熱した男と女の自然な行為として〈性〉行為を考えることを松下は批判する。「むしろ、何らかの理由で〈成熟〉概念に達しない、ないし、はみ出している身体相互の関係において、器官の結合を実数軸とする場合の不可能性を虚数軸として設定しつつ、この複素数領域に広がる相互の幻想過程の一致やズレをもたらす要因~止揚条件から考察を始めるべきではないのか。」というのが松下の主張である。正常な器官の結合を基準とする直線的価値観を廃棄し、未成熟~はみ出した身体同士の接触の多様性平面を想定しそれにさらに幻想過程という次元が追加されたn次元において、ズレだけでなく一致も存在しうることの驚きを展開していく、といったイメージだろうか。

「〈成熱〉概念に達しない、ないし、はみ出した存在が、生命~幻想の発生に関わる身体知としての組織論を相手と共有しつつ対幻想とエロティシズムについて考察~実践し、それを現代文明の対象化~転倒の試みと連動させつつ展関する作業」こそが求められている。

ダンテはベアトリーチェを誉めたたえることにより性愛の幻想が「社会秩序や存在の根拠を揺るがせる質をもちうること」を描いた(予感した)。*4性愛の器官的実践を含む多様な幻想的~器官的実践と考察が、あくまで現代文明(既成概念)の対象化~転倒の試みを基軸として試みられなければならない。と書いたが「……しなければならない」とは松下は書いていない。そうではなくて現代文明につきまとう当為というモードこそ、解体されなければならないものに含まれる。←この文章もまたパラドックスになった。「これまでの〈性〉に関する多くの論議には、共通の欠損としての共通の前提」として、目標に向かって進む(目標が実践的なものであれ否定神学的なものであれ)というモードがあった。とも言って良い。松下の思想が、現在の文法では語り得ない目標に向かっていることを、彼の文体の分かりにくさが示している。何重にも留保し、結論を繰り延べ、かと思うと急に過剰に断言するといったスタイル。

*1http://d.hatena.ne.jp/chimadc/20041111のコメント欄 のchimadc発言

*2:〈男〉はいつもサバルタンを抱いてきた。        非対称性とは何か?「股開いて金稼いでない人」とは?それはつまり典型的には、USAならWASP、日本では有名大学卒業有名企業就職男子という存在様式を持ちながら、なまじインテリで左翼で善意を持ち、セックスワーカーなんかに手をさしのべる存在。と彼らの知の対象であるサバルタン存在。(詩人たちはいつでもサバルタンを必要とした。学問がこのレベルに到達したのがポスト構造主義ないしポスコロの時代だったと考えることができる。)インテリ/サバルタンという構造を、ブルジョア/プロレタリアにならって社会全体に押しひろげることができる。と稚拙に描かれた構図がふつうに具体化している現実があったとき、ひとは「一瞬(へ?)というしかない」! (だが、「一瞬(へ?)というしかない」その一瞬に「へ?」と言えるのはサバルタンの側であろう。反サバルタンは鈍感であることによって定義される。) 即ち、善意の左翼インテリである野原燐(男性)は、「鈍感である」という自覚において辛うじて左翼たりうる。ここには越えられない溝があり、その深さに無自覚であれば“一生幸せに生きていく(他者を殺しながら)”ことしかできない。

*3:野原が文章を少し縮めています

*4:ダンテのことは分かりません。

ファルージャの惨状

今日、「イラク占領監視センター」元所長エマン・ハーマスさんというイラク人女性の講演を聞きに行った。残虐な事実を詳細にメモも見ずにしゃべり続けるすごい方だった。本当は文学研究者。

ファルージャは30万人都市だが、その8~9割はすでに市外にでている。残った者たちを全員テロリスト(に準ずる者)と決めつけ、4方から取り囲んだ上で「皆殺し」にしようとする作戦。現在も市内に数万の市民が残っているとみられるが、家の外に出ると撃たれるので餓死さえ迫っている状態だという。

また米軍は赤新月社をはじめとする医療物資、医療スタッフが市内にはいることを拒んでいる。

もらったビラのうち1枚は次のとおり。

http://noharra.at.infoseek.co.jp/iraq1.jpg

http://noharra.at.infoseek.co.jp/iraq2.jpg

アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署名運動 のサイトはここ。

http://www.jca.apc.org/stopUSwar/