『孝経』というのは儒教の教典(十三経の一つ)ですが、四書五経には入っていないので知らない人が多いでしょう。漢の時代の初めには既にあったのは確かという古典です。
敢へて問ふ。父の令に從ふのみは、孝と謂ふべけんや、と。子曰く、是れ何の言ぞや。是れ何の言ぞや。言の通ぜざるか。昔者天子爭臣七人有れば。亡(む)道(どう)と雖ども天下を失はず。諸侯爭臣五人有れば。亡道と雖ども其の國を失はず。大夫爭臣三人有れば。亡道と雖も其の家を失はず。士爭友有れば。則ち身令名を離れず。父に爭子あれば。則ち身不誼に陷らず。故に不誼に當っては。則ち子以て父と爭はざるべからず。臣以て君に爭はざるべからず。故に不誼に當っては。則ち之を爭う。父の命に從ふ又安んぞ孝と爲すを得んや。
http://www.keitenaijin.com/keikyo.htm(孝980901)から引用させていただきました。(一部変更しています。)
http://kanbun.info/keibu/kokyo.html
孝経というのは、孔子が弟子の曾子と問答する形で<孝>について論じています。<孝>は親孝行の孝には違いないのですがかなり意味が広くなっています。ここでは曾子が質問しています。子供が父の命に從うべきか?当然だ、と肯定するかと思いきや孔子は、「これ何の言ぞ与(や)、これ何の言ぞ与(や)、言(げん)の通ぜず。」と、絶句するほど不本意な様子。
中江藤樹の註釈にしたがって読んでみると、「父の命に従うとは、もっぱら父の命に従順して、不義といえども敢えて諫止しないことをいう。」「可謂孝乎」の「乎」とは疑いの辞である。つまり曾子はすでに父を不義に陥れるの不孝を知っている(のである)。だけども、諫争すると愛敬の和をやぶることがある。確かに、従順は孝子の本来であるとは言えるとしても、この場合は本当の孝には成っていないのではないか。藤樹先生、かなり曾子にはきびしい、深読みをされます。
次孔子の発言。「「何言与」とは、なお、なんの心をもってかくのごときの言(コト)をなすやと云うがごとし。けだし「言」というのは心の声なり。」孔子は曾子の心を知っているつもりだった。だから、まさかこんなふうな発言はしないはずだと思っていた。だのにそういう発言があった。「ゆえに、何の心をもってしこうしてこの言をなすやと謂う。そしてこれを戒める。「何言与、何言与。」と重ね言うものは、もって深くこれを警戒する(いましめる)ところなり。」
次は実例。社長の回りがイエスマンばかりだとその会社は潰れる。つまり君を諫める者がなければならない、ということを、天子、諸侯、大夫、士、父とその規模にしたがって五回繰り返して強調しております。
結論。「父の令に従うのみなるは、また焉(いずくん)ぞ孝となすを得んや。」形式的な従順は、(大義に反する場合)不孝となるわけです。
ところで一方、儒教には以上に書いたことに反するフレーズもあります。「君君たらずとも臣は臣たらざるべからず。父父たらずとも子は子たらざるべからず。」(6世紀ごろ作られた偽書らしいですが、孔安国の「孝経」序にある言葉です。日本では敗戦まで大いにもてはやされた。君主が絶対であるのは天の秩序の象徴であるからであり(天という言葉を使わないとしても)、生身の天皇自体には誤りもあるのが当然です。国家の命令を一切疑うことなくそれに「従う」ことだけを価値とした文化が敗北したのは当然のことだったわけです。そして戦後、絶対的権威の場に天皇に代わり「民主主義(アメリカ)」が居座ることとなり、その構造は解体されずに継続し続けている。ということなのでしょうか。最近、日の丸、君が代、愛国心といったものへの服従を強調する動きがあるようです。二千年以上前に「孔子」が絶句して嫌がった思想と共通点があるとわたしは思います。
追記:父がその社会で犯罪者として指弾される存在であっても、社会的能力のない飲んだくれであっても、子は父を見放さず孝を尽くさなければいけない、これは儒教の原則であり、その意味では「父父たらずとも子は子たらざるべからず。」というのは全く正しいわけです。問題は既成の権力関係における上位の者が、居直りの論理としてこれを持ち出すときですね。それは儒教の原則に全く反しているわけです。