岡真理さんのヒロシマ

今年のヒロシマにはファルージャからも男性が参加していると聞いたが、岡さんが通訳として付き添っていたらしい。今日「少女ヘジャル」*1というトルコのクルド映画の上映会がありそれに協賛する形で岡 真理氏と松浦範子氏の対談があった。その時に言っていた。

ファルージャでもミサイルが落とされボールペン一本でさえ粉々になっていたという被爆が多発している。ところが日本のマスコミはせっかくイラクから来た彼に、ヒロシマのことを国に帰ってどう伝えますかという紋切り型の質問ばかり繰り返したといって、岡さんは怒っていた。根源的悲惨と祈りはヒロシマのブランドであり、世界にそれが啓蒙されなければならないという(善意の)流出論。一方少なくないクルド人はわたしたちは世界で始めて毒ガスの被害者になった、第二のヒロシマナガサキだ、と日本人へのシンパシーと尊敬を込めて言うという。尊敬とは、汚染された荒野を数十年でまた大都会に変えた<祈り>に支えられた努力に対するものだろう。世界が矛盾に満ちているかぎりわたしたちは闘わなければならない。つまり平和とは闘いでなければならないのだ。

*1http://www.annieplanet.co.jp/hejar/index.html ハンダン・イペクチ監督。 ・8/7~8/20 テアトル梅田 http://www.cinemabox.com/ 連日モーニングショー 10:00~ ・8/21~ 第七藝術劇場 http://www.nanagei.com/ 連日12:20/14:35/16:50/19:00

ゴキブリ

暗い部屋に入ったら何かが素足をはい上がってきて悲鳴をあげたらゴキブリだった。1mほど離れた床の上で逃げないので、叩きつぶした。合掌。

「対話概念を変換し…」

 松下昇は、概念集5のp7「批評概念を変換し…」で次のようなことを言っています。

批評、とかいっても文学というものがあり批評というジャンルがどこかに存在するわけではない。

批評とは「任意の位置ないし関係相互の間における発想や存在の様式の矛盾を止揚する原則を模索する」そうした行為の総体を指す概念 である。

「一瞬ごとの呼吸や排泄のように身体化されるレベルで、また料理のように自分のやりうる範囲で批評の根拠ないし原初形態は常に出現している」その動きや方向の無意識性を対象化していくということが大事な課題である。*1

日常でも掲示板などでの対話でも、自分があたりまえだと思っていたことが相手にとってはそうでなかったと気付くことはよくあることです。発想の差異は、論壇においてはいくつかの座標軸によってきれいに分布しているかのように表象されます。しかしわたしたちが日常で出会う他者はそうした場(テーブル)に存在しているわけではありません。たとえば相手が小学生であればいくら正しいことを言ってもそれが「意見である」と検討されることすらふつうはありません。AとBとの自由で理性的対話によって民主主義の基礎が形成される、それは肯定すべきでしょう。しかし私たち日常の対話は性別とか役割、年齢など、位置~関係~存在様式の差異によって大きく左右される。インターネットは一般論として、誰でも参加できまた、各参加者間の形式的平等が保証されているというおどろくべき長所を持っているように見える。それは嘘ではないし長所は活用していくべきだ。ただここで指摘された「存在様式の差異」といった問題は残っている。忘れられているとすればいっそう何かを抑圧していることになる。

さて各主体間に存在様式の差異が存在したとして、それが矛盾であり止揚されるべきものだ、とアプリオリに決めつけるのはおかしいのではないか、と読者の大半は(読者がいたら)思っただろう。(差異という言葉こそポスト・モダン情況の指標の一つであり、それは矛盾、止揚や闘争というタームの忌避を伴っていた。)だがわたしたちの存在様式が分断されており、そのせいで対話ができないなら、その矛盾が解決されなければ対話は開始できない。

意見を言うとはどういう事態なのか?それは知識を持つ者だけに許された特権的な価値のある行為なのか。そういう側面があることは否定できない。例えば自分がある意見を持っているとしてそれを1枚のビラにして見ろと言われればかなりの勉強と労働が必要になる。だがそうしたあるレベルを越える勉強というハードルを越えないと意見を言ってはいけないのか。断固としてNOと応えたのが全共闘だろう。

言説を精緻化することは敵の土俵に乗ることであることが多いし、そのことに無自覚であると敵の論理に巻き込まれていってしまう。そうではなく、他者からは幼くナイーブに見えたとしても「わたしの怒りの原点」といった初発性を忘れずに耕していくことの方が、困難で貴重な営為である。<69年性>といったものをそのようにパラフレーズしても良いのだろうか。

わたしたちは誕生から死滅の瞬間まで言葉と言説にまみれて生きている。「一瞬ごとの呼吸や排泄のように身体化されるレベル」において批評の根拠ないし原初形態が常に出現している、という把握はさすがだと言わなければいけない。「また料理のように自分のやりうる範囲で」というフレーズは分かりにくいが、料理が苦手な人がそれでも料理をした場合なんだか変で美味しいとはとうていいえないものができあがるがそれでも食べられないことはないのだ、みたいな感じか。

言説といったものを考える場合、フーコーのエピステーメーみたいに全体的に考えるか、それとも個々の差異に注目するかのどちらかになりがちだ。この隘路を抜け出すためにエージェンシー(行為体)への注目(バトラー)などがなされた。松下も“批評の根拠ないし原初形態”を原点として持ち上げるのではなく、その近傍を含んで把握しさらにそれ自体ではなく〈その動きや変容〉(とそれが無意識のうちに起こっていること)にこそ注目すべきだ、と考える。

わたしたちは、まいにち他者に出会いながらそれをなんとかやりすごして日々をおくっている。まあ生きるとはそうしたことなのだろうが、対話(に似たこと)をしている以上はわたしたちはいつでもそれをもっと深めることはできるのだ。

参考 http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/hihyo.html#hihyo

*1:以下、『概念集・5』より原文を引用しておく。「私にとっては批評という概念は基本的に、概念集3の〈批評と反批評〉の項目が引き寄せる領域で揺れ動いており、より厳密にいいなおすと、任意の位置ないし関係相互の間における発想や存在の様式の矛盾を止揚する原則を模索する時に対象とする概念として論じようとした。どこかに批評というジャンルがあるのではなく、一瞬ごとの呼吸や排泄のように身体化されるレベルで、また料理のように自分でやりうる範囲で批評の根拠ないし原初形態は常に出現しているのであり、その動きや方向の無意識性の対象化こそが各主体にとって不可避の課題であるということは、六九年情況を潜った私にとって自明であった。私が一連の資料の刊行を私が書いた批評集ではなく、私について書かれた国家(α)やマスコミ(β)や文筆業者(γ)による批評の集成から開始した契機は、このような把握からの必然であったし、この試みは段階や度合の差異はあるにしても、任意の人によって、いや、まずプロの批評家によってやってみる価値のある作業であると確信している。」

天ではなく神

高島元洋『山崎闇斎 日本朱子学と垂加神道』isbn:4831505439 は七百頁近い大著だ。図書館から借りてざっと斜めに読んだ。

要点をまとめることもできないが、少しだけノートしておこう。

え、この本は、第一部闇斎学と朱子学  第二部修養論  第三部垂加神道 となっている。第一部では、朱子学の基本概念である「天人合一」「太極」「心」「体用論」が闇斎学では同じ言葉を使っていても違う意味になってしまっていると論じられる。第二部も同じく「居敬」「窮理」を中心にする朱子学に対し、闇斎学では「窮理」が無視されると指摘する。朱子学の根本概念に神道的な発想が入ってきていると言う。

朱子学において、「敬」とは「絶対主体」たる「心」の「主宰」する機能を充然に発揮せしめるための修養概念である。*1

 朱子学の場合、「敬内義外」の意昧が、「居敬」「窮理」の概念の枠内で理解されていることはすでに見た。すなわち分殊の理を対象とする「省察」も理一の理を対象とする「存養」も、いずれもつねに「理」に対応してある。「敬内義外」は、要するに「太極」(理)を具体化する「絶対主体」(心)の確立に向けられている。これに対して闇斎学の「敬内義外」は、「敬」にあって「神」(理)を自覚し、「義」においてこの

働きが具体的に現われるということであり、つまり「神」(理)の働きの具体化する過程を示している。ここで「理」とは「神」である。「神」の働きは人の意識の機能を吸収同化すべき方向をもつ。この限りで意識が「理」(神)を対象として捉えるという「窮理」の観念は成立しにくい。つまり、朱子学の「心」(絶対主体)の機能は「理」を対象化するが、聞斎学の「心」(神明之舎)の機能は「理」(神)と同化する。かくて朱子学の「敬内義外」は「窮理」の観念と必然的に結びつくが、闇斎学の「敬内義外」には「窮理」の考え方は入ってこない。(略)

  (闇斎の)「窮理」という言葉で考えられていることは、ここでは聖人の教えを知り、これに随順するということである。言いかえると「神」(理)の働きのさまざまな具体を知って、これに同化することである。つまり「窮理」といっても、「心」の「主宰」する機能を独立して捉えるのではなく、この機能を最終的には「神」(理)の働きに委譲することが思われている。(略)

  要するに、朱子学の「理」が観念であり、闇斎学のそれが実体としての神であるがために、前者の「心」は「理」を対象としてその「主宰」する機能を発揮するが、後者の「心」はその「理」(神)の働きに、自身の機能を同化せしめる方向にあるということであった。意識のそもそものありようが異なっていた。朱子学は意識を「聖人」にまで高めることを考え、闇斎学は意識が「神」の働きとして顕われることを思った。すなわちこれは「神人一体」の問題である(略)*2

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 以上、メモ。

*1:同書p449

*2:同書p451-452

ヘッダ

この頁のヘッダを変えました。

いままで、次のようでした。

中国政府は、野口孝行氏たちを直ちに釈放せよ!

三月   桧森孝雄を追悼する   わたしたち   (参考)

去年の3月16日、ガザのラファで米国人のレイチェル・コリーさんがイスラエル軍に轢殺されました。

無断転載可

 野口、桧森、コリーと北朝鮮とパレスチナ問題に関する人名が挙げられている。北朝鮮とパレスチナにおける国家による民衆の抑圧は止まらない。野口孝行さんは先日日本に帰ってきましたが、彼が日本へつれ返そうとした脱北者(元在日朝鮮人)二人は北朝鮮に送還されてしまったようです。

野口氏の帰国記者会見は下記で聞くことができます。

http://www.northkoreanrefugees.com/noguchi-recording1.htm

ヘッダの訂正に際し「無断転載可」の5字をなぜ削除したのか説明しなければいけないのだが・・・

外務省の事なかれ外交

 今回とにかく野口氏は無事に帰って来れて良かった良かったというわけですが、そもそもの原因である、中国当局が脱北者の難民としての権利認めず発見すれば北朝鮮へ送還するという姿勢をとっていることについては全く変わっていません。そしてこれは難民問題ではなく、中国の国内法を犯した犯罪であるという中国当局の把握に対し、異議をとなえない日本の外務省がいます。

この点について、中川正春衆議院議員が外務委員会で発言している、6月2日。同感なので少しだけ引用しておきます。

http://www.asahi-net.or.jp/~fe6h-ktu/topics040612.htm

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○中川委員:

 外務省として間違っているのは、中国が、これは国内法に違反した犯罪者だという定義でこの日本のNGOを扱っているわけですが、これに対して、それを前提にした対応しかしてないんですね。

 これは、アメリカについても、あるいは韓国についても、この人たちは─中にはブローカーがいますよ。金銭で動いている。これは捕まえていいでしょう。しかし、そうじゃなくて、NGOで人道的にあそこに入っている。それで、難民として本来は認定されなければならない人たちの救済をしている。外務省自体も、実際は、そういう人たちが領事館なり大使館なりに駆け込んだら、それなりの措置をしながら日本に連れてきているじゃないですか。それは、この人たちが本来は難民と認定されるべきものなんだということが前提にあってそういう対応をしているんだろうというふうに思うんですよね。そういうことであるにもかかわらず、そこのところには何も抗議をせずに、何とかして刑を軽減しながらそっと日本に戻してほしい、そういう外交姿勢でしかないということですね。

 これは日本の外務省の特徴なんですけれども、中国から、物事を荒立てないでほしい、騒がないでほしい、そうしたらうまい事やるからと言うと、そのように乗っていって、内々で事を済ませてしまう。それでいいんだという感覚、これが私は基本的にはまちがっているというふうに思います。

 そういう姿勢でやったら、人権問題は解決できないんです。人権というのは、やはりそれが侵されていることを表面に出して、世論に訴えて闘いとっていかなけりゃ、これは解決していかないんです。そういう切り口に日本の外交を堂々と変えてほしい。それが、私がこの問題にコミットしてきた、日本の外交姿勢そのものに対する疑念です。これではいけないという思いです。そこのところを理解していただきたいというふうに思います。

おもろさうし

中辺綾の天

君ぎや やぐめさす

みとろ金 みおせや

雲辺綾の天

主が やぐめさす

あふ雲の鎧は

積み上げて みおせや

精の精富に

積み直ちへ みおせや*1

美しい中空を歌った歌。

*1:日本思想体系・おもろさうしp196

西表における<石炭の発見>

三木健編著『西表炭坑写真集』(新装版)*1という本を買った。イリオモテと言えば、西表山猫、日本の南東の端にある秘境(沖縄県八重山群島の最大の島)。珊瑚礁で戯れるきれいな魚たちを身近に体験できる場所としても知られています。ですがそうしたイメージから遠い事実もあります。この島には1885年から60年以上の間、炭坑がありました。

 石炭が発見されたのは、1872年大浜加那氏によってである。だが、「発見」とは何か?島人は石炭の存在をしらなかったのかというとそうではない。燃える黒い石のことはずっと昔から村人には知られていた。ところで八重山群島は1500年のオヤケアカハチの乱、の平定後首里王国に従属していた。琉球王国も1609年以降薩摩藩に従属していた。即ち、西表<沖縄<薩摩藩<幕府という従属関係があり、その関係は年号が明治に変わってもすぐには変わらなかった。(いうまでもないが、近代化とは中間的な藩などを飛ばして人民が国家に直接従属することだ。)話がそれたが、燃える石のことは村人の間の秘密だったのかというとそうではない。琉球王府も知っていた。1953年以降5回、琉球寄港を繰り返したペルリの艦隊は専門家による地質調査も実施した。彼らは石炭に強い関心を持っていた。一方琉球王府はそれを警戒した。「1854(安政元)年、八重山の在藩(王府の出先機関)や地元の頭職に対し、「石炭のあるところは樹木を植付けて隠すよう」指示している。また石炭の有無やその始末方についても報告するよう指示している。」*2それで結局、ペルリ艦隊のR・G・ジョーンズが石炭を発見したのか否かについては両説有り確定できないようだ。明治になり次の事件が起こる。

 ところが、この国禁*3を破る事件が起きた。石垣島の平民、大浜加那は一八七二(明治五)年、鹿児島の汽船・開運丸の支配人であった林太助に石炭の調査を頼まれ、西表石炭の存在を教えたのである。薩摩藩では林太助の通報に驚き、ただちに伊知地小十郎を派遣してこれの確認にあたらせた。さらに驚いたのは琉球王府のほうであった。王府はこれはきっと御規模帳を改め、税制改革をするための調査に違いないと早合点し、西表の村々には畳を裏返させ、士族の婦女子の下裳(かかん)を袴に着替えさせ、いかにも貧村であるかに装わしめたという。

 しかし、伊知地の派遣は実際のところ石炭の調査が目的であった。幕末の開明的な藩主として知られる薩摩藩の島津斉彬は、西洋の文物を積極的にとり入れ、藩内の工業化を図っていたが、蒸汽船や機械力の原動力となる石炭を領内に確保すべく、その探索を命じていた。そうした藩内の事情がかつての属領・琉球の石炭への関心となったのである。

大浜加那の通報は、こうして琉球外へ石炭の存在を知らせる契機となった。加那は王府の禁令を破った罪により、波照間島に十年の流罪となった。特に明治六年八月、これが後に「石炭加那事件」と呼ばれる事件である。十年の流罪となった大浜加那は、従容自若として刑に服したが、配所の月を眺めること六年にして、明治十二年の廃藩置県の特赦により、帰郷を命じられた。

 大正、昭和の二度にわたり、石炭加那の記念碑建立の話があったが、実現には至らなかった。*4

 開明派島津斉彬のお先走りとして(ともえいるのか)、明治時代の用語で言えば「黒いダイヤ」たる石炭を発見した大浜加那の名誉は顕彰されるべきである。しかしながら大浜加那に限っては記念碑建立は二度に渉って実現できなかった。近代化=善という立場に立てば、考えられないことである。筑豊など北九州の炭坑が膨大な悲惨を孕みつつも九州だけでなく日本全体の近代化の原動力になったと公認されているのに対し、西表でのそれは六〇年続いたわりには、ある臨界を越えることなく、わたしたちに全く知られていない。この臨界を資本論用語で「本源的蓄積」と呼んでみたい。「「継続的本源的蓄積」は直接的な暴力や限度を超えた搾取にもとづいており、その蓄積の主要な源泉は、自然、女性、植民地である。」*5

 三井の採掘は、当初、県内の囚人をもって始められた。明治政府は、一八八二(明治十五)年、太政大臣の布達によって、沖縄県に限り徒刑流刑者を八重山へ送るようになっていたが、明治政府はその囚人を石炭採堀のために使役することを考えたのである。明治政府の重鎮である内務大臣・山県有朋は、一八八六(明治十九)年に九州から奄美、沖掩、官古、八重山と各地を巡視しているが、このときわざわざ西表島まで足をのばし、三井の西表炭坑を視察している。このときの視察は三井物産会社の社長・益田孝の案内によるものであった。沖縄巡視から帰任した山県有朋は、復命書を明治政府に出しているが、そのなかで八重山に集治監を設け、囚人を西表石炭の採堀に当たらせるよう建言している。

八重山(西表)への資本主義の導入が囚人労働によって為されたということは重要である。大物山県のバックアップを受けてつまり国家的事業として開始された三井の採炭業は1889年突然中止される。最大の理由はマラリアの猖獗によるとされる。先進資本三井が引き上げた後も、採炭業は中小の業者によって少しづつ遂行される。(マラリア対策をしたら利潤が得られない事業もしなければ得られるということだろうか。)

 戦後、米軍直営事業が三年で中止され、結局1960年ごろ民間の採炭事業も採算がとれず、最後の火を消す。近代の西表において最大の産業だっただろうにもかかわらず、採炭業は地域住民から強い支持を受けることもなく思い出からも消えて行こうとしている。西表は現在観光業においてすら近代化されていない。それが魅力だという人も多い。私もそう思う。*6「近代とは何か?」という問いは、西表にとっても私にとっても開かれたままだ。

*1:三木健編著 ニライ社 isbn:4931314589 西表島上原カンピラ荘前のスーパーで購入。

*2:同書p13

*3:同書p13「異国人に対して石炭のありかを教えてはならぬ」

*4:同書p15

*5:p113崎山政毅『資本』よりミース、ヴェルーホフの本の紹介部分より

*6:たった一泊の宿泊では発言権がないが。

強制移住の補償

(1)今朝(8/21)の朝日新聞では、「ドイツ・ポーランドの強制移住者問題」が取り上げられている。第二次大戦の戦後処理でポーランド国境は大きく西に移動した。ドイツ人約1500万人がドイツやオーストリアに強制移住させられた。ドイツでは戦後、強制移住者に保証や年金として計約10兆円が支払われた。

(2)これに対し、規模はずっと小さいが八重山には「戦争マラリア補償問題」というのがある。

戦争マラリア問題とは、①「沖縄戦末期(一九四五年)、石垣島や西表島のマラリア有病地である山中に、軍によって「疎開」させられた非戦闘員である住民がマラリアに罹患(りかん)し、三千六百名以上の犠牲者を出した悲劇を「戦争マラリア」と呼ぶ。八十年代後半、当特の琉球大学教授・篠原武夫氏が「マラリア有病地への疎開は軍命による強制疎開だったとして、国に国家賠仁を要求する論陣を地元新聞などに発表した。一九八九(平成元)年五月、犠牲者の遺族、関係者らが国家補償を求めて「沖縄戦強制疎開マラリア犠牲者援護会」を結成した。このことにより、「戦争マラリア」は社会的関心事となり、新たな証言や報告が数多く寄せられるようになった。

②八重山(主に石垣島・西表島)における住民のマラリア有病地への避難は、敗戦間際の四五(昭和二十)年二月から六月にかけてであり、敗戦によって軍の解体、避難地から戻ることができたのが九月である。その間、三~六カ月の短期間で罹息者数が一万六八八四人、死亡者が三六四七人(死亡率二一・六%)の犠牲者を出した。*1

という事件のことである。当時の八重山の人口3万6千人のうち丁度1割が失われた。

沖縄強制疎開マラリア犠牲者遺族補償援護会が結成され(提訴はされなかった)7年後の1995年12月、一応政治決着した。(1)国は個人補償はしない(2)遺族の慰しゃ事業は県が措置する(慰霊碑祈念館建設に2億円、他1億円)という内容だった。

日本国は国の責任を認めなかった。「軍命による強制退去」の事実は公文書的証拠は残っていないものの、すでに各証言で明らかになっている。また「軍命」が発せられた状況証拠は存在するのである。*2

(3)後に大きな話題となる従軍慰安婦が最初に声を挙げたのが、1995年ではなかったか。その結果、<<告発する朝鮮人(あるいは中国人)被害者対日本国家>>という構図がより強く(大衆的に)浸透することとなった。(2)が明らかにすることは、被害者=非日本人というカテゴライズは正しくないことだ。(1)の例においては、ドイツ国家はドイツ人(ドイツ系住民)に補償した。また、国境を越えた補償請求を求める動きも、進んでいる。

 戦争は国家が行うものであり、人民は被害を受けるだけだ。被害は民事的感覚で補償してもらうべきだ。もちろん相手は巨額すぎる云々といって値切ってくるだろうし、平時の常識による額は取れないだろう。問題は責任を取らせると言うことである。この問題に(変な)ナショナリズムを絡ませることは、国家の免責につながるだけだ。

*1:p285『八重山歴史読本』

*2:p183同書