Winny

もし47氏が「包丁」を作ったらどうなるのだろうか? 「人を傷つけることができることはわかっていた」と取り調べで答えたら? http://d.hatena.ne.jp/editech/20040511

笑えたので無断引用。

法を法的ルールから外れた感覚で濫用することを許してはならない!

現代思潮社

わたしは、すがさんという人読んだことないし、好きでもない。ですが下記はすがが正しい、と思う。(小熊の『民主と愛国』は最初の所読んで良くない本だと思った。)(現代思潮社が現代思想社と誤記されていた)

http://seijotcp.hp.infoseek.co.jp/text/21c-suga.htm

60年安保の時に、吉本隆明という人が6月行動委員会というところで、当時の中核を「三一書房」にあった、と鶴見が何度も言っているんです。ただ、ちょっと調べれば分かるんですが、当時の知識人界隈の雰囲気を知っていれば、それが間違っていることはすぐに分からなきゃいけない。6月行動委員会の中心は「現代思潮社」なんですが、何故か「三一書房」と言っているんですね。それをチェックできてないんですよね、2人(上野、小熊)とも。

チェチェンでの殺戮

 1995年1月17日いわゆる阪神淡路大震災が起こった。翌日の新聞にはチェチェン紛争についての記事も載っていた。「チェチェンでの戦闘で市民や戦闘員の死傷者が異常に増えている」死者数は双方併せて3万人以上とも読みとれる。いずれにしても当時このことに注目した日本人はほとんどいなかった。*1

 チェチェンではそれ以後も戦乱が続いた。最近も事件があった。常岡さんのサイトから引用する。 http://www2.diary.ne.jp/user/61383/

 5/9 偽チェチェン共和国ロシア傀儡政権のアフマド・カディロフ偽大統領がチェチェン独立派の殉教作戦で爆死したらしい。カディロフはチェチェンの元ムフティ(イスラム法学者)。ロシア諜報機関・連邦保安局(FSB)のエージェント出身で、チェチェン民族と全イスラム教徒に対する裏切り者だ。第一次チェチェン戦争期にはドゥダエフ初代大統領の懐に潜り込み、チェチェン政府のNo.3に登りつめていた。今回は市民を傷つけることなく、市民の無差別殺戮を繰り返してきた侵略者の頭目だけを狙い定めて倒した作戦で、どんな基準から考えてもテロと呼ぶべきではない。

「チェチェン戦争はロシア国家がチェチェン市民を侵略、大量殺戮している戦争だ。」と常岡さんは言う。わたしは勉強不足なのだが彼は(たぶん)正しいのだろうと思う。

*1:松下昇『概念集・12』p23に言及有り

ちりにまじはる神

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20031129#p3  で、

「晴れやらぬ身の浮雲のたなびきてつきの障りとなるぞ悲しき」という和泉式部の和歌を引用した。彼女が熊野に詣でたのに、月経になり参拝させてもらえなかった時によんだ歌だ。よんで寝た夜の夢で神からのお告げがあった。「もとよりもちりにまじはる神なれば月のさはりも何かくるしき」という歌によるお告げである。この歌は風雅集の神祇の部にある*1

 宣長は「これいたく道の意にかなわず」とおこっている。「塵にまじわる」などというのは、中国の『老子』に和光同塵ということがあるのを取って言い出た「みだりごと」だ。和泉式部も法師の言うことばかりいつも聞いていて仏心が心に染みついているからそんな夢をみるのだ、と。

 しかし考えて見ると月経が罪であるとして、親鸞やイエスが教えたように罪人の傍らにこそ立つのが宗教の立場であろう。<和光同塵>というのはイデオロギー的に拡大すると問題もあるだろう。だがとりあえず「神祇」の部の歌については、宣長に反対し断固支持したい。

*1:本居宣長『玉勝間』p56 日本思想体系40

水戸ってどこよ(あるいは お買い得講座)

 大阪で新しい市民向け思想史講座が開講されました。5回で三千円ですが、前半が子安先生の本居宣長講座、後半が色々な研究者による研究発表となっています。こういう言い方は不謹慎かと思いますが十で割ると一回三百円だからお買い得ですね。しかも入会金なし。ただ会場との関係においては「市民向け講座」ではなく「研究会」であるとのこと。この点問題であれば即刻削除しますのでメールしてください。VYN03317@nifty.com

http://homepage1.nifty.com/koyasu/lecture.html

「懐徳堂研究会 思想史講座」河合塾セルスタの5階会議室。阪急梅田北へ徒歩六分

子安宣邦「本居宣長を読む」

5/15研究報告1:桂島宣弘(立命館大学):後期水戸学の諸問題。研究報告2:福島栄寿(大谷大学):思想史としての「精神主義」(仮題)。

 さて内容ですが、研究会の方も難しすぎもせず退屈もせず面白かったです。教育勅語などの「天皇を中心にした日本」のグランドデザインは後期水戸学によって為された、このことは常識なのかもしれない。でも研究者の常識であるだけで、普通の人は後期水戸学って何?状態だと思う。藤田東湖とかに言及している本を見たのは、野原にしても、村上一郎の『幕末-非命の維新者』だけだ。ここで村上一郎の文庫本1974年刊(とっくに絶版)を取り出して読んでみた。がそれについては次の項目とする。桂島宣弘氏の報告は予告とは違い「水戸学の諸問題--大日本史から見える問題を中心に」であった。論点は--と書きかけたのだが、だいたい「大日本史」のなんたるかを知らずに論点もへちまもない。わたしはまったく無知なのになんだか文章を書いてしまい読者に迷惑を掛けている。まとにかく、大日本史のどこが「大」なのかは、下記とかを参照のこと。というか下記を読んではじめてわかったことが多かった。戦前戦中期にむりやりたたき込まれた反動で戦後はずっと忌避されていた情報であるわけです。

http://komonsan.on.arena.ne.jp/htm/hensan.htm

で要は、黄門さんこと水戸光圀公の理想は「後世の史臣に深い思索と発明を促し、没後100年、藤田幽谷の出現によって尊王攘夷の運動を興させ、」明治維新へと歴史を方向づけたということなわけです。光圀が1645年に史記伯夷伝(伯夷と叔斉の話)を読んで史書編纂を決意して以来250年、明治三十九年にようやく出来た、ということです。日本人に社会のあり方と人の道の基準を教えるために史書を作るという意志が確立され250年も貫き通され成就したという話ですが、これはもちろんフィクションにすぎません。前期水戸学と後期水戸学(1786年から)との間にも大きな落差がある。後期水戸学が確立した国体論と尊王攘夷論が遡って、前期の時代からあった、とされてしまっていたのだ。実際には前期水戸学は同時代の林家、新井白石とほぼ同じ問題意識にたっていた。天武天皇や北朝の正統性を疑う点も三者共通であるし、問題を三国時代の魏・呉・蜀の正統性の議論の重ねて論じており、万世一系の問題としては捉えていなかった。云々ということで一言だけ書くことができないので長くなってしまった。

藤田幽谷・東湖・小四郎

 さて、後期水戸学というものは非常にマイナーだと思ったのだが、よりメジャーなはずの仁斎や徂徠にしてもわたしの友人は全然知らないし、わたし自身もそれに近い。つまり藤田某を語るとしてアカデミズム以外のどういう立場から語れるのか、無知なら書かなければ良いのだが・・・

 とにかく、村上一郎の『幕末-非命の維新者』の角川文庫1974年刊(とっくに絶版)をわたしは持っているので取り出して少し読んでみた。

明治維新の勝者は薩長つまり西国である。「西国人の利口さ」と村上は自身東国人としての皮肉も込めてそう言ったりする。藤田三代に対する戦後最大の弁護者は村上であろうか。村上の文から二ヶ所引用する。

「では、なんで東湖の半生涯の三つの危機を叙述した「回天詩史」がそれほどに人を動かしたのか。また、なんでそれほど危険視されたのか。わたしはこの文章を少年の日から読み続けてきて、要は「自ら任ずる」という一語にあるように思う。東湖ならびにその同志が、誰に頼まれずとも、また身命が危うかろうと、自らこれを任と決すれば進んで挺身するという、危機感の深さと、内発性のつよさが人を動かし、世の姑息な人びとをしてこれを危険視させたのである。「自任」という二字はその文章にいくつか出てくる。」*1

「しかし、松陰が死ぬ直前になってから、もはや天朝もいらぬ、幕府もいらぬ、わが藩もいらぬ、草奔くっ起は五尺の微躯あらばよしと断言するに至った精神の過程に、彼が水戸の気風に触れた若き日の感動が、尾を曳いていなかったはずはない、とおもうのである。」*2

 でこれを読んで、思い出したのは、今日たまたま見た古本屋のサイトにあった六月行動委員会についての埴谷雄高の規定。(村上一郎もその周辺だったはず。)百年を隔てて類似性があるのは、村上という語り手のせいでもあるが。以下ペースト。

http://miyuru.com/kosyo/new.html

埴谷「各人が勝手に自由でありながら、連合する。」

松本健一/六月行動委員会などはどちらかというとそういう発想でしたね。

埴谷雄高/ええ。だから、革命の意識を持った一人一人が党だと言っているんですよ。党員がたくさんいるのではなく、独立した党がずうっと並んでいる。一人一人が全部党だ。ぼくはそういう考え方ですから、ずっとアナキズムだ。

*1:同書p130

*2:角川文庫『幕末』後書 p238

ラファ・ラファ

http://nekokabu.blogtribe.org/

15日までのラファでの家屋破壊は、UNRWAの調べによると88軒の民家が破壊され、1064人(!)が家を失ったということだ。他に商店やモスクも壊されている。が、これで終わったわけではない。イスラエル軍はまだ数百軒規模で破壊をすると言っている。(5/17)

今、入ってきたガザからの緊急報告を。「今朝(17 日)、イスラエル軍の戦車がガザ南部のソファ検問所から入ってきて、南北の幹線道路サラハッディーンのラファとハンユニスの中間時点に道路閉鎖をもうける準備作業をしている」とのこと。ラファの孤立化を図ろうとしているわけで、予告されていた「大規模破壊」が始まるかもしれない。 . . . .(5/17)

ラファでの学童保育(中学生)

 学校では勉強しか教えない、と彼女は言う。(小柄だが内発するもののつよさに溢れた女性) 例えばお絵かきにしても、わたしはどうせ上手く書けないから止めておくとその子供たちは言う。遠慮しているのではない。日本人ならたぶん誰でも下手だとか上手だとかそんなことはどうでもいいのよ、とにかく書いてみましょうよ、と強く誘われた少年時代があるはずだ。でもこの国にはそうした文化がない。絵を描くことを楽しみ、演劇のまねごとをすることを楽しみ、スポーツを楽しむこと。彼らだって楽しむ時間を持つことが許されて良いはずだし、日々恐怖に怯えているかれらこそそうした時間を強く必要としているはずだ。そんなふうに思い、彼女寺畑由美さんはそこに出かけていった。世界でもっとも危険な町、ラファへ。

http://www4.dewa.or.jp/stageone/MP0521daiarytop.html

このサイトを見ると彼女のラファでの1年間の活動の概要が少し分かる。彼女に何が出来たのか。何もできなかったわけではない。彼女と二人のパレスチナ人スタッフは、子供たちと友だちになり彼らに楽しむ時間を与えることができた。

 彼女の講演会に行くことができた。普通の大なり小なり政治的な集会とはかなり違いがあったと感じた。微妙な差なのだが。つまり政治的集会はある方向性に聴衆を導こうとするベクトルにおいて成立している。そのベクトルに賛成するから行くわけだが、仮に同意できない点があってもそれについては反対すればいいだけで、困惑させられることはない。寺畑さんの場合、ラファで子供たちを相手にするときと同じようにできるだけ聴衆を巻き込んで快調に語りを進めていく。語らないと理解して貰えないことは膨大にあり話は溢れるように進む。だがこどもたちはどう生きて行けばよいのか。確かに(日本でいえば東大なみに)ガリ勉すれば彼だけは海外脱出できるかもしれない。でもそれ以外のこどもたちはどう生きていけばよい。大人になっても失業率は6割だ。住んでいる家は明日にでも壊されるかもしれない。*1一つの選択肢は、シャヒード、自爆攻撃者になることだ。その選択支はもちろん不可避ではないが、日本で考えるほど簡単に非難できるわけではないのだ。子供たちには夢が必要だ。彼女たちはわざわざ出かけていってもそれを与えることができない。どうしたらいいのか。わたしたちは困惑に放り出されたままだ。

*1:5月18日現在もそこでは家屋破壊が進んでいるらしい。