私の文章は読者に何かを訴えるだけのものですから、そしてわたしがわたしに何か訴えてもしかたないのですから、「わたしたち」から「わたし」を引いた「きみたち」に対して訴えてもなんら意味は変わらない、とも言える。
「国民の一人」として発言するという立場は、発言者に発言の権利と義務を与える。自分の意見を人に受け容れて貰おうとするとき、この「義務」は有効に働く。イラク派兵についてわたしはこう思うが君の意見はどうなんだ、まさか意見がないとは言うまいねといったふうに。しかしこうした日記とかで発信する場合はどのような立場、文体をとろうが勝手だ。ただ読者に対し説得力を(あるいは魅力を)持たなければ見放されるだけだ。
わたしは日本語しか話せなず日本に生活圏を持つが、だからといって日本という運命共同体に属しているとは思っていない。「北朝鮮が攻めてきたらどうする」と言われたときに、それはやっぱり困るなという反応が、現在の国民の保守的空気(軍事的なものの許容)を作ってきた。しかし北朝鮮がかりに日本に上陸したらそれは金正日政権の崩壊にしか繋がらないのは自明だと私には思われる。国難とか言いたい人が危機をあおり立て日本という共同幻想が立ち上っている。しかしもちろんそれだけではなく日本は悠久の昔からあり、国家を越える原理かもしれなかった仏教や儒教は衰退した。そして軍国主義に反対し普遍への信仰であった戦後民主主義も敗北している。日本人は宗教を持たないから「日本」を大事にするしかないのだ。哀れな!(ほんとうは日本には神道があるのにそれが近代国家に反するものであることをきみたちはしらない。)
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040201 の私の文章の「きみたちの国だ。」に対して、次のようなコメントがあった。『「きみたちの国」じゃなくて、「わたしたちの国」です。あなたが日本人ならば。』わたしは日本語しか話せなず日本に生活圏を持つが、だからといって日本という運命共同体に属しているとは思っていない。このコメントは現在有る日本政府とか日本人の集合とかいった存在ではなく、日本という共同幻想への内属を野原に強要している。そうではなく、書くことは共同幻想の外側から書くことであるべきだ、むしろわたしはそう思う。
野原燐は戸籍名(仮名)YGのハンドルネームなのですが、YGは日本人だったりそうでなかったりするが、野原もそれと同じものなのかという問題があります。野原は勤労してないし現実の世界に生きているわけでもない。わたしがコギトとして宇宙のなかの一点として存在しているのに気付いたとき、そこから書くときのとりあえずの署名として「野原」はある。だから野原にとってYGが日本語しか使えないのは偶然にすぎない。わたしというものは世間の関係性や文化的影響や欲望によって制限された存在だが、なおかつ余剰がある。その余剰の方へ比重を掛けたいというベクトルが野原という名前にはこもっている(かもしれない)。
現在自衛隊イラク派兵という<戦後の終わり>といういうべき時代の転換点であるにも関わらず、去年のブッシュの戦争反対に比べても数分の一しか反対運動は盛り上がっていない(らしい)。派兵反対率はアンケートでは下がり続けている。それに対し「それは困る」と思った。でももちろんどこへ文句を持っていくこともできない。言論の自由も集会の自由も保障されている。「民主主義だからしょうがない」。
ところで民主主義とは何か。国の進路の大変換期に数割の反対があるのに、主要都市で目立ったデモがない、といったものが民主主義だろうか。きみたちは「日本は民主主義国だ」と教えられそう信じているが、それは違うだろう。デモ一つ出来なくては時流に押し流されて行くだけだ。
わたしたちの生活は軍(自衛隊や米軍)によって守られている、というのは錯誤だ。
投票さえしてたら民主主義だというのは、錯誤だ。
きみたちの国が何処へ行こうが私の知ったことかとは言わない。きみたちの国なんだからきみたちがよく考えろよ、と言っていも、結局の所、考えないものきみたちの勝手だが。
ここで、何故「きみたちの国」であり私の国ではないのか、という問いは答えられないままだ。だが国などどうでもよいではないか。わたしたちの社会は、世界=天下として成立している。世界は単一の原理では概観できない。そうであるからこそ問題は世界である、ことは強調されなければいけない。天下をすぐに論じられないからとりあえず、より狭い範囲を考えるが、国家をすこしでも特権化する思考はお断りだ。それと、この間明らかになったのは、「世界」もまた、帝国主義的に歪められたイメージでわたしたちに与えられているということだ。イスラエルは北朝鮮と同じように歪みきった弱小国家にすぎない(がそれが是正されるのは北朝鮮と違って数十年かかるだろう)。ここでもイスラエルや北朝鮮について発言する権利が野原にあるのか、という問いがある。その問いも開かれたままだ。