http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20031103#c
「極東ブログ」というところに、
[歴史]試訳憲法前文、ただし直訳風 というのが載っていた。
おもしろかったので何か書きたいと思ったが書けなかった。うむ。
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20031103#c
「極東ブログ」というところに、
[歴史]試訳憲法前文、ただし直訳風 というのが載っていた。
おもしろかったので何か書きたいと思ったが書けなかった。うむ。
政府は人民による神聖な委託物(信用貸し付け)である。
原文、国民とあったが人民と変えた。the people というありきたりのことばに対し、国民はあくまで国家あっての国民という語感が強くするので嫌だ。大東亜戦争の終結自体、「国体の護持」を護持するという意志において行われたものである。したがってこのpeopleを国民と読んでしまえばすべては元の木阿弥だろう。
the peopleというものはいまだなかったのにそれがあるかのように文章が成立しているのがおかしい。いやそんなことはないか。国民は立派に存在した。いまだ方向性は明確ではないものの訓育程度の高さを誇る日本国民というものはあった。国家は国民の権威によるという思想もあった。
でも人民という言葉はいかにもこなれない。スターリニズムの匂いさえする。そもそも憲法とは国民を成立させるための文章だろう。であれば国民という言葉を使うのは当然だ。問題は敗戦国をどういう論理で否定するか、にある。「独裁制度と奴隷制度、圧政と異説排除」ととらえてそれを否定した。それがおかしいわけでもなかろう。問題は、「このpeopleを国民と読んでしまえばすべては元の木阿弥だ」とするわたしの感じ方にある。
論旨のない文章を書いたのは久しぶり。とりあえずメモしておこう。
いまある戦争の不在を絶対化してはならない。現在の国家バランスの中でも「独裁制度と奴隷制度、圧政と異説排除」はおおいに存在する危険性がありしたがってそれらと闘っていかなければならない。排外主義を排し平和を守り、よりよい平和をつくって行かなければならない。そう読めばよいと思った。
http://d.hatena.ne.jp/finalvent/searchdiary?of=7&word=%2a%5b%ce%f2%bb%cb%5d
同じく極東ブログさんによれば、
「国際紛争を解決する手段としての戦争放棄している国は日本以外に、イタリア、ハンガリー、アゼルバイジャン、エクアドルがある。勉強しろよ」とある。そうなんだ!
野原が最も尊敬し好きなマンガ家は大島弓子である。自分のモチーフ追求を軸にマンガを強引に作り上げる観念的なマンガ家であるという点で、楳図は大島と共通点を持つかもしれない。ただわたしは楳図のよい読者ではない。機会があって(自腹を切らず)『わたしは真吾』と『漂流教室』を読んだくらい、だ。楳図は有名な割にあまり読まれていない(たぶん)。小学校4年の息子が楳図に興味を示したので、(悪趣味だから子供に買ってやるのはどうかと人並みなことも思わないではなかったが)近くのリサイクル古本屋に一冊350円で1~4が並んでいたので買って、息子に与えた。先に息子に与えるのはけっこう危険である。とまあそんなことはどうでも良い。
テキスト主義者ならテキスト(マンガ)に即して語らんかい!はい。(1と2を読んだだけで、これは20冊もあるのでそろえるかどうかも未定だが)(ところでチキンジョージを“ぐぐって”みたらライブハウスばかりだった)えーこの作品はチキン・ジョージというモンスターの誕生から始まる。チキンジョージとは鶏肉自動作成工場の偶然のミスから生まれた生物が(ご都合主義で)高度の知能を持ったモンスター。彼は孤独感を理屈で根拠を捏造することで埋めようとし、現代文明(未来文明)が数千数万種の動物たちを滅亡させたことへの復讐を自分の使命と考える。息子には粗筋ではなく感想を書けと高圧的に命令したくせに自分でも粗筋しか書けない。反省。言うまでもなくわたしたちは牛や豚を食べているが、彼らは近くでゆっくり見ると大きいだけあって威厳と存在感に溢れている、ここには大きな矛盾があるが皆が知らん振りをしている。こうした誰でも知っているタブーを主題にする蛮勇こそが、名作を産みだす条件だ。(続きを読まないと分からない。)
考えてみれば、人間の数だけ、死は存在する。
(養老孟司 11月16日毎日新聞書評欄より)
http://cute.cd/moonly/loli-isyo.html(閉鎖)
不安定で ボロボロで すぐに崩れてしまいそうな
脆くて 駄目で 情けない グラグラのあたしだから
と詩は始まる。実際に(追いつめられて)遺書を書くことと「遺書を書こう」という文章を書くこととの間には対極的とも言うべき距離感がある。投身自殺で叩きつけられた無惨な死体とそれを無表情に観察し記録する者との距離にも等しい距離が。ということはつまり、「脆くて 駄目で 情けない」あたしの存在とそう書いている<あたし>の間にも無限に近い距離があるということだ。だがしかし、「脆くて 駄目で 情けない」と日記に書きつけるわたしはいつも書く私ではなく、書かれる私にだけ同一化している。桃寿さんの詩がありきたりのナルシズムを免れている理由は、この勘違いを決してしない点にある。ただ、しないのではなく<できなかった>のだ、と思う、彼女の場合。
まず 財産はないので その辺はどうでもいいです
それから 写真や日記なんかは 気持ち悪いので焼いてください
彼女は冷静に的確に列挙する。
恋人には ありがとう、って言って 他の人には さようなら、って
面倒だけど 伝えて下さい
「面倒だけど」というのは最後の言葉を媒介してくれる伝達者に向けられている。自殺者としたら異様な平常心だ。
一通り書き終えて 署名して 封をする
公務員にしたいぐらいしっかりしている。
書けば書くほど、書かれたものは<脆くて 駄目で 情けないあたし>からは乖離していくのだ。だから彼女は遺書を破る。そして、
あたしは窓から飛び降りた
「―――――。」
彼女は閉塞を拒否し行為を選ぶ。
だが、そこにも錯誤しかなかった(とたぶん彼女は書いている)。
グラグラのあたしを書く、主体の不在=不安を表現にどう憑依させるか。
まずわたしがいるのだがすぐ崩れてしまいそうだ。言葉を重ねることで不安定さを表現することができる。方法の獲得。方法が消え去らないうちに、書かなければいけない。
財産/日記/服/友だち
ここでも「どうでもいいです」という始まり近くにある行が効果的に働いている。
ごめんね/ありがとう/さようなら
と丁寧だが丁寧さは「こころがここにない」ことの表現になりうる。
思い残す事は何もない/私は幸せに逝きました。主体は不在なので、思い残すことなど最初からありようがない。
これで何時でも死ねる/と思うと/安心した
主体が不在とは、安心の否定である。一歩一歩丁寧に辿ってきたのに矛盾に到達した。
あたしは窓から飛び降りた
振り出しに戻り別の選択支を選ぶ。画面が消え何も映らない。
彼女には表現をことさらクリシェの側に押しやって否定してしまうといった傾向がある。<主体の不在=不安>を書くためにはそれに成功してはいけない。成功しそうになったら否定しなければいけない。
以上、彼女は方法を確立した詩人だったということで、であればわたしは彼女の何に引っ掛かっているのか。(12月7日追加)
光栄のベストセラーシミュレーションゲーム三国志には、「民忠(タミチュウ)」というパラメータがある。民の忠誠度のことである。これが低く成りすぎると民衆は反乱を起こして領主が殺される場合もある。したがって低くならないよう民に食糧を与えたりしておかないといけない。ここで定義されている民という概念はけっこう正解であり、中国思想史の最初期に遡りうるものだ。
周の青銅器銘文に為政者の統治対象として登場する。『尚書』では、民は保(やす)んじおさめられるべきもの。この段階では民は自然の存在であり、統治の客体にすぎない。為政のバロメーターである。p44(光栄の場合と一致している。)
人を発見したのは孟子である。天から付与された自然物である身体は、「思う」ことによりまた「身に返る」こと「心を尽くす」ことにより、身体が潜在的に有する新たな意義を見出していく。p48
戦国後期の儒者において、「人」尊重の思想を継承した、「王による民の教化」という観念が確立する。人倫社会の成立は「王による教化」によって保証される。p64まあ考えてみると現在の教育基本法改正の論理はこうした伝統に起源している、ということはできる。しかし彼らの最高範疇は愛国心であり、アプリオリに天下に届かない。哀れなものである。
(以上ページ数は『儒学のかたち』関口順 東京大学出版会 参照)
で、11/15に「でも人民という言葉はいかにもこなれない。スターリニズムの匂いさえする。」と書いたがこれは撤回することにする。孟子曰く「諸侯の宝は三。土地、人民、政事なり」(尽心下)
突然ですが算数の問題です。
ある整数で、61,89,161をそれぞれ割ったときの
余りの和は38になりました。ある整数を求めなさい。
分かった方はコメント欄に。