月: 1970年1月
中道右派 『5回も投稿して書き込めなかったので、3月15日のエントリに投稿しました。
アクセス禁止は一時的だったのかな?
それとも、書き込み字数制限があるのかな?
何もそういう類の表示がされずに書き込めなかったので、単純なアクセス禁止だと思うけど。』
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157 世界とは卵(らん)である 野原 燐 2003/02/01 14:42
檜垣立哉さんの『ドゥルーズ』NHK出版の薄い哲学シリーズの一冊、
図書館にあったので借りてみた。
読みやすく面白い。
世界とは卵(らん)である。という断言から始まる。おおっ!
「表面的には均質的にもみえる卵の内部は、さまざまな分化に向かう
力の線に溢れている。」しかも「それが何になるのかが、あらかじめ
すっかり決定されているわけではない。」
「多様なかたちをとるために、それ自身はかたちをなしていない力の
かたまり、それが卵である。」p28
生きるとは、未決定性それもどろどろぬたぬたした粘液のなかで育まれる
生成(安住すべき拠点も定められた目的もない)そのもののことだ。
これってかなり神道的な気がする。
「神とは常の神にあらず。天地に先だてる神をいふ。道とは常の道にあらず。
乾坤に越えたる道をいふ。」『神道大意』(15世紀)より。(註)
世界が名づけ得る諸現象に分化する以前の、始まる前の<混沌>。それが
吉田神道での神である。
根拠、基盤、絶対的基準そういったものすべてを拒否して、なお多様性の
生成に賭けたドルゥーズ。その営みからは学ぶべき多くのものがあるはずだ。
だが、一方混沌というものも、正反対の筈の天皇絶対主義のような同一性の
思考(制度)の支柱になってしまうこともある。それも同一性の思考の罠
というものなのだろうか。
どろどろぬたぬたした粘液即ち卵といった奇妙な未開のイメージが、
実は最新の哲学の基礎概念となっているということ。そのことが、
わたしにはとても面白く思えた。(そして、神道も一部だけ取り出すなら
捨てたもんじゃないのだとも思えた。ふっふ。)
野原燐
註:菅野覚明『神道の逆襲』p122(講談社現代新書) より
真実や静止状態それ自体が解放的である訳ではない。
アントニオ・ネグリとマイケル・ハートの『帝国』5600円がベストセラーに、
なりつつあるらしい。うちの近くの三つの大きな本屋では売り切れのようで、より大きな都市に行ったらあったので思わず買ってしまった。
やっと200頁ほど読んだが、もちろん資本論に比肩するほどの本ではない。
だけど、20年前のベストセラー『構造と力』に比べると5倍ぐらい役に立つ、
かどうかは分からないが、思わずそう言いたくなるような図太い力がある。
『構造と力』は結局のところオタクのための本でしかなく、『存在論的、郵便的』なんか
恥ずかしいほどそうなのに比べて。
分かりやすい。例えば、貧者、貧乏人といったことばは誰にでも分かる。
「横断的で遍在的でさまざまな差異をもった移動する主体」なのである、貧者は。
とこの本は語る。p205
つまり、「横断的で遍在的でさまざまな差異をもった移動する主体」というフレーズは
、一部のインテリ、ポストモダン業界のジャルゴンにすぎない。だけど、
貧者、貧乏人という言葉はそうじゃない。もう一つ「プロレタリアート」という言葉がある。
これは庶民の言葉と特殊インテリの言葉のあいだ、普通の(イデオロギー)用語
である。このように、この本は言葉の生きるいくつかの地層を勇敢に横断し、
言葉と思想を開いていこうとしている。
次の例。 ポストモダニズムって「支配的な語りへの攻撃と、真実に対する批判」
でないこともないらしい。でもそれってどういうことだろう。
「たとえば、エルサルバドル内戦の終結時に結成された真実究明委員会の使命や、
あるいはラテンアメリカや南アフリカで一独裁以後や全体主義体制以後に確立された
同様の制度の使命を考えてみよう。国家によるテロルや瞞着の文脈においては、
真実という概念を第一に考えしっかりと手離さないことは、強力かつ必然的な抵抗
の形式でありうるのだ。近い過去の真実を確定し公にすることーー特定の行為
について国家の公務員たちに責任を帰し、場合によっては懲罰を課すことーーは、
ここではどんな民主的な未来にとっても不可避の前提となる。〈啓蒙〉の支配的な
語りはここではとくに抑圧的なものとは思えないしー真実の概念は変わりやすく
不安定なものでもないーーその逆なのだ! 真実は、この将軍があの組合指導者
の拷問と暗殺を命じ、この大佐があの村の虐殺を指揮した、ということである。
これらの真実を公にすることは、近代主義の政治の模範的な〈啓蒙〉のプロジェクト
であるが、こうした文脈でそれを批判することは攻撃されている体制の欺瞞的かつ
抑圧的な権力を助けることにしかならないだろう。」p204
日本でも従軍慰安婦を巡って、上野千鶴子と鈴木祐子が論争した。上野が
ポストモダン派で鈴木が真実派。だがこの本は上野の側を一方的に否定してる訳ではない。
「本当はあれかこれかの問題ではないのだ。差異、異種混交性、移動性それ自体
では解放的ではないが、真実、純粋性、静止状態もまた同じことである。
真に革命的な実践は、生産のレヴェルに差し向けられるものである。真実が
私たちを自由にするのではなく、真実の生産のコントロールがそうするのだ。
移動性や異種混交性が解放的なものなのではなく、移動性と静止状態、純粋性と
混合性の生産のコントロールが解放的なものなのである。」p205
「生産」という言葉がまだ分からないので、結局レトリックで誤魔化してる
だけちゃうん?という疑問は残る。でもとにかく、クリアーな対立を取り上げ、
具体的な分かりやすい例を短い文章で説明し、「本当はあれかこれかの問題ではない」
と明確な結論を出している。分かりやすい文章、と言うことはできるだろう。
野原燐
159 天地初発之時、於高天原成神名 野原燐 2003/02/11 23:03
さて、今日は建国記念日だったにちがいありません。
建国記念日とはなんぞや。戦前天皇制的なものであり、これからの時代を
切り開いていけるものではないように思います。
天地初発之時、於高天原成神名、天之御中主神。
古事記の冒頭の一行はこうなっているということだ。
子安宣邦氏の『方法としての江戸』p260の“「やまとことば」の成立”
という章にそうあった。
これはどう見ても漢文である。ただ正調の漢文ではなく極めて和臭の強い
漢文ということだろう。今風に言えば、クレオールな(ピジンな)漢文で
ある。ドルゥーズふうに言えば、ハイブリッドな異種混交性が
わが日本の起源にはある。
ところがそのことは隠蔽される。
「天地初めて発(おこ)りし時、高天の原に成りませる神の名は、」
といった読み下し文があたかも原文であるかのように、思われている
(のではないか)。
最初の天地にしてもこれは天地(てんち)ではない、あめつちだ、
と執拗に主張したのが宣長である。
宣長こそが古事記を日本の聖典にしたのであり、その構築は現在まで
揺らいでいないのだ。
子安氏のその論文の結論は、「民族の言語的自己同一性の理念」というのは
神話でしかない、というものです。
そのとおりですね。
ところで日本の数百万、建国記念日のお好きな方も、
天地初発之時、於高天原成神名、天之御中主神。
なんていう起源は忘れておられるのでは。なにしろすぐに
「独神と成りまして、身を隠」された方だから。
四人目には「うましあしかびひこぢの神」というのがでてくる。
檜垣立哉さんの『ドゥルーズ』p100には「たまほこりかび」
というのがでてくるが、そっくりですね。
「さまざまなかたちをとるタマホコリカビの、あるべき個体などは
どこにもない。変幻自在に姿を変え、自己の単位すら危うく生きる
タマホコリカビは、しかしそれぞれが独自な個体、特異な個体である。
純粋で本物であるタマホコリカビを追求することなど、誤りでしか
ありえない。それは、潜在的に多様なタマホコリカビの、生の力を
肯定しない転倒である。」
ところで天之御中主神とは、闇斎によれば儒教の基礎概念である「中」に
ほかならなかったのでした。中もあり黴もあり古事記もなかなか面白い。
だけど、建国記念日なんて面白くなかろう。
野原燐
(今日は知人の絵を見に行った。最近アフリカ音楽にインスパイアされた
とのことで、画風が変わっていた。)
160 資料:建国記念日の祝い方 野原燐 2003/02/11 23:33
建国記念日というのがどういうものなのかよく分からないまま文章を
書いたので、後からnet検索してみると次のような文章が見つかりました。
2年前に熊本の女子高校生が書いたものらしいが良く書けている。
引用させてもらいます。
http://www.senyu-ren.jp/SEN-YU/01032.HTM
皆さんご存知のように、我が国は今年で建国二千六百六十一年を迎えました。そ
して、今日この日は、我が国最初の天皇、神武天皇が御位(みくらい)につかれた
日であります。この日本国建国にあたっての神武天皇のお気持ちは、『日本書紀』
にこう記されています。
「今、私はこの橿原(かしはら)の山林を開いて慎んで天皇の位につく。これから、こ
の国の民が心安らかに住める平和な世の中にしたいと思う。この国が神の住まい
にふさわしい清らかな所となり、他の国もそうなったならば、世界は一軒の家のよ
うに仲むつまじく、平和な世界となるだろう。それは、なんと素晴らしいことではない
か。」
このことから分かるように、日本民族国家の建国精神というものは、決して、自国
のみを愛し他国の衰亡を願うというような侵略精神ではなく、この日本国は「世界
総国家の大調和」の理想をもって建国されました。つまりこのご宣言は、世界の各
国すべてが家族として、家庭の一員として、仲良く繁栄する国家群となるための礎
として、この日本国を建てるという意味を持っているのです。私は、日本の長い歴
史の中でこの建国の理想が途絶えることなく、第百二十五代にあたる今上陛下に
も受け継がれていると思うと、感銘を受けずにはいられません。
神武天皇の和名はかむやまといはれびこの命。
彼はあるひめと寝たとき歌を詠んだ。
葦原のしけしき(汚い)小屋に 菅畳 いやさや敷きて わが二人寝し
高校の運動部のエースが汚い小屋で彼女と寝てそれでもすごく嬉しいみたいな良い歌だ。
ところで、世界が「仲良く繁栄する国家群となるための礎」には日本国が必要だと。要は世界の中心は日本=天皇なわけで、それが普遍的である為には
もういっかい世界戦争するしかないことになりますね。
野原燐
202 返信 万世一系は捏造だ。 野原燐 2003/06/08 17:35
倉西祐子著 『日本書紀の真実--紀年論を解く』という本が、
講談社選書メチエで5月に出ました。図書館にあったので何気なく借りて
みました。わりと面白く一晩で読めました。
戦前の小学校では、「じんむすいぜいあんねいいとく・・・」と歴代天皇
の名を暗唱させられたそうですが、今ではそんなことすら知っている人は
少なくなりました。日本書紀には、第一代神武天皇から第四〇代持統天皇
まで、それぞれの在位年数がちゃんと書いてあります。それによれば、神武
元年が持統の時代の何年前であり、西暦換算すると紀元前六六〇年である
ということも分かるわけです。ただそれは歴史的事実ではないようです。
(推古9年の辛酉の年から、1260年遡った年が神武元年とされた。)
日本書紀に書いてある年数の数え方と実際の歴史との矛盾という学問は、
江戸時代に始まり、明治時代に盛んだったそうですが、戦後は日本書紀を
軽視する傾向が強まり廃れていました。この本は久しぶりの収穫という
ことなんでしょう。
仁徳元年は313年となっていたが本当は397年だ!なんて言ってみても、
そもそも仁徳に興味がない人には無意味なので書きません。
この本は謎解き風に記述されているので、以下ネタバラシになります。
(1)倭の五王について
倭の五王とは、『宋書』や『梁書』という中国の歴史書に書いてある
一字名前の日本王のこと。この本の結論では、
賛 仁徳
讃 去来穂別皇子
珍 反正
禰 うじのわきいらつこ
済 允恭
興 雄略
武 清寧
となっています。天皇ではなく「太子」が入っているのは、
この時代(五世紀前後)、天皇が祭司権、<太子>が政治的権限を持つ
両頭的体制であった可能性が高いと筆者が見ているからです。
(この時代はまだ天皇という言葉もないし制度も明確ではなかった、
それを後世が無理矢理「天皇」という制度に合わせて捏造したわけです。)
つまり<太子>が自分の名前で文書を中国に送ったのをそのまま記述
している場合、あとで天皇位の万世一系というつじつま合わせをした
日本書紀と合わなくなって来るわけです。
年数的には、応神元年から雄略5年まで紀年上192年だが、実際は
それから120年を引いた72年間である。
(3)それに対して、
神功皇后(天皇ではないのに紀年がある)の期間は、
書記にある69年ではなく、それに120を足した
西暦201年から389年までの189年間である。ということが
結論されます。卑弥呼ないし神功皇后の名による、大なり小なり
母権性的傾向があった時代がそれだけ長く続いたということになります。
それを隠蔽するためにも年数を減らしたのか。
著者の説がすべて正しいわけでもないかもしれない。でもここに書いた
2点については正しいとすることによって興味深い理解が得られると思う。
(なおこの本はわたしの文章と違いイデオロギー臭はまったくありません。)
213 今日も混沌未分なり 野原燐 2003/07/26 18:05
日本書紀冒頭にはこうある。
「 古(いにしへ)に天地(あめつち)未(いま)だ剖(わか)れず、陰陽(めを)
分(わか)れざりしとき、
渾沌(まろか)れたること鶏子(とりのこ)の如(ごと)くして、溟(ほのか)にして
牙(め)を含(ふふ)めり。」
http://www.meijigakuin.ac.jp/~pmjs/resources/bungo/02_nihonshoki.html
林羅山はこう書いている。『神道伝授』という本で。
「混沌は一気のまろきを云うなり。天地開けず陰陽未だ分かれざる時、コントンと
マンマロにして鶏子のごとし。その中に神霊の理 自ずから在りて未だ現れず。
その分かれ開くるに及んで天地の間に万物生ず。」
「また人の心にたとゆれば、まどかなる理の中に、動と静とを合わせて
念りょ未だ芽(きざさ)ざるは、コントンなり。既に動発して種々の思うこと
多く出来るは、天地開け万物生ずるに似たり。神は未分の内より備て、開闢の後に
あらわる故に、始まりもなく終わりもなし。人心も同理なり。
静にして虚なれば、今日も混沌未分なり。」
(p26 『近世神道論・前期国学』日本思想体系)
<太極にして無極>を宇宙の根源とする朱子の思想の焼き直しともいえるが、
混沌を直接肯定するのは儒教からは外れている(のではないか)。
今ここに在るわたしでも、<静にして虚なれば>、宇宙を開く混沌未分
という原理がそのうちにあるのだ、というのはちょっと良いと思った。
<静><敬><未発の中>などというのは宋学においていわば士大夫が
聖人になろうとする方法にすぎないともいえる。(そこにおいて、宇宙原理たる
理と一体化していかなければいけないのだが。)それをむりやり、
日本神話の原初の混沌に結びつけたのは大変な力技だと思える。
「マンマロニシテ」なんていう純日本語が出てくるところもおかしい。
「民は神の主なり。民とは人間のことなり。人有りてこそ神をあがむれ、
もし人なくば誰か神をあがむる。然からば民を治むるは神をうやまう本なり。
神徳によれば人も運命を増すべし。」p14
もう一つ引用してみた。儒者にとってはうまく民を治めるのが目標なのは当然
なのだが、神が出てくるのでなかなかおかしい。
というわけで、名前だけは高校教科書にしっかりでてくるが仁斎などと違い
著作は一冊も見たことがない林羅山先生の文章を引用してみました。
野原燐
岩波の日本思想体系は註は充実しているが現代語訳がついてないので、
わたしには難しいです。前から探していた『山崎闇斎学派』というのを見つけた
、翌日十冊ほどのこのシリーズを1,200円で店頭セールしていた。
『キリシタン書・排耶書』というのを選び、あともう一冊ぐらい買っとこうか
とこの本を選びました。スピヴァックやアレントであればマイナーとはいっても
興味を持つ人はいるわけですが、日本儒教になど誰も関心を示しさないでしょうね。
わたしも積読だけになってしまっては困る、そこでここで一人でむりやり書いて
みているわけです。
さて、羅山の文には「摩多羅神」なんてのもでてきた。なんだかいやらしそうな
神だなとグーグル検索してみたらいくつか記事が出てきた。
摩多羅堂という専門のサイトがあり正体不明のこの神について丁寧に紹介していた。
345 八月の短歌
353 Re:宅間氏の死刑のコメントです。
F さん
昨日はごくろうさまでした。せっかく発言してくれたのに発見が遅れちゃってすみません。「邪魔」なんてとんでもありませんのでどんどん発言してください。
さて、今日は(昨日飲み過ぎたせいで)元気がなく、書こうと思っても頭があまりまわりません。*1
「もしも、愛する人が誰かに殺されたら、その殺した相手に死んで欲しいと望むだろう」と人は言う。そうかもしれない。その時の胸の痛みを想像してみようと思う。ではそこから死刑制度を肯定するところにいけるかというと、そうはならない。
そのとおりだとわたしも思います。
処刑されたのは、宅間守だけじゃなくてもう一人いたみたいですね。アムネスティによれば、大阪拘置所の宅間守さんと福岡拘置所の嶋崎末男さんに対して9/14に死刑執行されたようですね。
http://homepage2.nifty.com/shihai/kougi.html
http://homepage2.nifty.com/shihai/message/message_hirata.html
上記に平田オリザさんのメッセージというのがあって、下記の部分が印象的でした。
「逆に言うと、加害者と被害者がいて、殺していいですよと判決を下して、ナイフが置いてあったとき、被害者が加害者を殺すかといったら――殺す人もいるかも知れませんが――まず殺さないのではないでしょうか。
死刑という制度があるから、「殺したい」という気持ちが、「殺す」という行為に直結してしまうのではないかと思うのです。」
死刑廃止を正面から論じるより、(想像上だが)殺しても良いよとナイフを投げてやる。わたしたちが殺しても飽き足りないほどそいつを憎んでいるとして、また殺してもいいよと許可が出たとして、そのときすぐ殺すだろうか。鶏一匹殺せないわたしが本当に人を殺せるのか。理屈で考えた上で殺すというのは普通の人間にはなかなかできないことだろうと思われます。「悪である」ことも結局のところ否定しがたいし。
人はみな「自分は人を殺さないし、死刑のような極刑を受けるような悪いことはしない」と思っている。だが、国家が人を殺す制度をもっているということは、必ずしも客観的・妥当的な「悪いこと」をした者にだけその刑を適用するためではない。かろうじてまだ「民主的国家」の看板を掲げている日本でもそれが外れるや否やその持っている権力をどのように濫用し始めるのか。それを想像するのは恐ろしいことであるが、もし少し歴史を振り返ってみるなら事実として容易に認められるはずだ。
自己保存のために、権力に刀を預け、お上に守ってもらおうと思う人々によって死刑制度は支えられている。
そのとおりですね。テレビなどで見ている限り、殺人者は絶対的悪であり、わたしは善の側にいるという図式から離れることはできません。でもそれはわたしの想像力の問題に過ぎない。死刑までいったら困るが、現実に色々な形で国家と出会い軋轢し問いただしていくなかでしか、「民主的国家」の内実を守っていくことはできないでしょう。
野原燐
*1:発言日不明