誰が国家にアイデンティティを求めているのか

id:noharra:20041030に二人の方からコメントをいただた、もう一人の方への応答。

(この表現は不正確。10/30に野原が突然引用したのが、お二人との関係の始まり。・・・)

# homoinsipiens 『こんにちは、トラックバック頂いたhomoinsipiensです。

いきなりですが、noharraさんとはちょっと事実認識がずれている気がします。

>前回の人質の親族は、その[「米軍の力を借りた人質救出」路線]を拒否しようと、必死で、しました。それが叩かれた。

今では数多く起こっている人質事件ですが、4月の人質事件はそのハシリだっただけに、米軍による救助という話が出てくるまでに結構な時間が経過した気がします。むしろ、叩きの原因、というか騒動の発端は、人質家族が事件発覚の実に翌日、自衛隊撤退デモに参加したことではなかったでしょうか。とりあえず私の記憶では、米軍による救助はだいぶ後まで現実的なオプションとして提示されることはなく、それほど中心的な論点ではなかったように思います。

あと、いやな指摘ですが、これまでザルカウィ派が捕らえてきた人質は11名、そのうち生還者は4人です。さらに、非イスラム圏出身者の生還者は0人です。軍隊による救出作戦の成功率をパーセンテージではかるなら、必ずしもこれより低いとは言い切れないのではないでしょうか。私自身、パーセンテージの問題ではないとは思いますが、ご参考までに。

>だってそれ悲惨でしょ。

国家を批判する余裕のない人、あるいは国家の庇護なくしては生きていけない人、ステレオタイプに「国家以外にアイデンティティを持ち得ない人」。私も確かに悲惨だと思います。そして批判者を気取る私たちが現体制の下、なんだかんだよろしくヌクヌクやっているのはこの悲惨の上に乗っかってでもあります。このことへの無自覚さがjinjin5さん云うところの「『国家制度とは自分達にとって常に他者である』という[…]傲慢」と繋がっているのではないか、と私は考えます。批判を名乗るなら、その批判は自らにも向けられるべきではないでしょうか。私はある意味で反・(暴走的)自己責任論者としての自分への戒めのつもりでかのエントリを書いたつもりです。』

homoinsipiensさん

レスが遅れました。というか以下もたぶんちゃんとしたレスにならないと思います。

「政府は人質の救出に全力を尽くすべきだ」とする意見をわたしは取りません。前回の人質の場合、救出については[「米軍の力を借りた人質救出」路線]とイラク国内の穏健派などへ働きかける路線、少なくとも二つがありました。人質の家族は国家方針である自衛隊派兵の撤回を訴えたことで世論の反発を呼びました。わたしが強調したいのは、[「米軍の力を借りた人質救出」路線]を拒否してくれと主張する権利を家族は持つはずだという点です。前回家族に拒否の意志はありました。この点について当局と軋轢があったことも確かだと思います。今回面倒なので過去資料は探しませんが。

「政府なんてなくてもいい、あるいはないほうがいいなんて考え方は、彼ら市民運動家たちが実は経済的に恵まれている…からこそじゃないのか。」に対し、私は肯定したのですが、これはいま一度考え直した方が良いようです。

「国家を批判する余裕のない人、あるいは国家の庇護なくしては生きていけない人、ステレオタイプに「国家以外にアイデンティティを持ち得ない人」。」という想定の仕方は不正確です。

人質批判をした人でも(B)2チャンネルなどに自分で人質批判を書き込んだ人、と(C)テレビで大量に垂れ流される人質批判言説が自分の心のどこかに触れたため取り入れた庶民 は区別すべきです。さらに(D)新聞の1面に載るような言説一般に全然興味を示さない人々も存在するはずです。

それに対して(A)「僕の周りの連中の間では今も昔も反・自己責任論の大合唱。」を対照して見ましょう。知的にはA>B>C>Dというような階層差が存在するような気もします。

だとしても「批判者を気取る私たちが現体制の下、なんだかんだよろしくヌクヌクやっているのはこの悲惨の上に乗っかってでもあります。」というのは意味が明確ではない。

 イラクの10万人(?)の死者に対し、日本人として野原はその「悲惨の上に乗っかって」いると指摘されたらそうかもしれない。その悲惨を直視しどう関われるのか考えるべきでしょう。日本国内においても野原は階級的知的に劣位なものの上に乗っかっているかもしれない。だが階級的知的劣位であること即ち、「国家以外にアイデンティティを持ち得ない人」たちではない。

http://d.hatena.ne.jp/homoinsipiens/20041029#1099030289(これを書いとけばトラックバックになるかな)