http://d.hatena.ne.jp/mkimbara/20040111 で、mkimbaraさんが村上の
「たとえばアダム・スミスのモラル・センチメントのセンチメントなどというのは、ドイツ語に翻訳できない」などなどの発言を紹介していた。そこで、以下のコメントを付けた。
わたしも今日、『転位と終末』という小さな本の4人の討論で、卒論では情念論、ジャスティス、モラル・センチメントなどをやった、と村上が言っているのを読みました。ですがちょっと分かりにくく、こちらの引用を読んで、要は「やはり経験とか感覚とかいうものをばかにしないで煮つめていくというところが」ドイツ系思想にはない、ということが言いたかったのだと分かりました。「一方、ヒュームなんぞ、静かなパッションからジャスティスやモラルを導き出して激しいパッションは捨てていくというようなことで体系をつくり、今の英米の権力は、そういう哲学を意識的無意識的にもっている。つまりブルジョアの思想は皆さんの考えているより勁(つよ)いのです。」とも書いていました。ですから「村上さんはロマンティックではなかった」と言われる趣旨はよく分かります。(野原)
それに対して、『転位と終末』という本について質問が返ってきた。こちらで説明させてください。この本は、明治大学出版研究会が編集・発行したもの。奥付では昭和46年1月17日第一刷発行となっている。全共闘系学生が自分たちの主催した講演、パネル討論会を自分たちで本にした、気負っていえば“自立を志向した”本だ、と言えましょう。全238頁。目次を紹介すると、
- 国家論ノート 吉本隆明
- 「擬制の終焉」以後十年-政治思想の所在をめぐって 吉本隆明
- 生活・思想・学問 橋川文三
- 日本浪漫派と現代 橋川文三
- 日本的情念の原点(パネル討論) 大久保典夫、磯田光一、桶谷秀昭、村上一郎(1970.5.31明治大学第20回和泉祭本部企画)
- 資料
- 後書 となっています。
考えて見ると70.11.25が三島の自決なので、講演があったがその半年ほど前、本ができたのがその直後ですね。学生たちと三島が共有したものは時代の熱気だけではなかった、がそれ以上のものとしては結晶しなかった。
村上の「赤軍派なら入らないが、赤軍になったら入るのですな、僕は……」という発言が、袖に引用されている。226事件における斎藤史のお父さんのように(滑稽と世間に見られても)登場し死ねた方が村上個人にとっては幸せだったのかもしれない。(三島事件は衝撃的かつ有名だけれども、全共闘派がむしろメジャーだった時代の流れから孤立していたので、ややこしくなるだからここでは出さない方がよかったな。)
当時の雰囲気を思い出すため70.12.14付けの明治大学出版研究会の名前による後記から数行引用しておこう。
六〇年代の学生運動は、人間を解放し、世界を獲得するためとにといった内容で闘われた。そのなかで、絶対的権威に対する反抗といった形で、新左翼諸党派に対してノンセクト・ラディカルといったものが発生したが、彼らもまた諸党派同様、絶対的価値観による<節操>と<規律>なしに、人間と社会の解放運動をすすめてきたにすぎなかったのだ。そして、彼らは二年間の反権力闘争のなかで強大な権力の前に、もろくも三々五々拡散していってしまった。われわれはここで、セクト、ノンセクトを問わず、その中で誰一人として絶対的価値観と自己の存在をリアリスティックに直視し続ける者がいなかったということをいう必要があるだろう。それ故に、マルクス主義に殉ずる者も一人としていなかった。勿論、自分達をも含めて、この「現実」から左翼総体が恥かしめを受けねばならないであろう。
(なお誤解のないよう付け加えるが、野原は本を買っただけで講演も出版も知ってる訳ではありません。)ですが、何らかの意味で“全共闘派のすえ”であるだろうからしてちょっとコメントしておこう。
- 六〇年代の学生運動は、他者の解放というよりもむしろ自己の解放を目的としたものだった。
- これは運動の高揚期には盛り上がりやすいが、凋落期には急にしぼむ要因ともなった。
- だが運動の凋落は、連合赤軍の敗北や他のどんな原因によるのでもない。自らの思想の弱さ以外にない。
- 70年代後半から資本主義的欲望への(強制的)自由の時代になっていった。消費資本主義を肯定的にしかとらえれない吉本隆明と全共闘くずれ。
でもそう主張するなら、いま情況とどう関わるべきなのか言って見ろ!と反問されるでしょう。わたしとしては、30年前から進歩していないので、ここに立ち止まって考え続けるしかない。(迂回しかしていないが・・・)