一国二制度から天下主義へ

 許紀霖という人の『普遍的価値を求める』という本が非常に興味深かった。
 かってわれわれは、キリスト教(神を中心とした外在的超越性)や儒教(内面と天理が合一する内在的超越性)あるいは他の宗教が与える究極的な価値とともに、生きることができた。(p164)しかし今や、先進国は自由、自由主義の下に生きている。自由、平等、公正といった個人の自己選択を保証する制度的条件が整えられ、人はすべてを決定する理性を持って生きていくことになった。自由主義は、社会の不正義によって生み出された苦難に対しては有効な救済の方策を持つのだが、日常生活や存在意義に関わる苦難や死に対しては、基本的には白紙の答案しか出せない。
 自由主義は価値の多元性を認める。自由・平等・公正という正しさは強調されるが、精神的秩序の「よさ」や「善」の問題については、答えない。絶対的な善と悪の間で選択を行うには、道徳的理性というよりも、信仰(あるいは内在的良知)に由来する意志や決断の方を必要とする。キリスト教や儒教など、「枢軸文明」と著者は言うのだが、その豊かな「善」の資源を再吸収していくことが必要だ。
 人が人として生きていくことの困難、日本ではそれはかって想像されなかったさまざまな形で現れているが、自由主義によって救いえないものだ。「枢軸文明」からより多くのものを汲み取る必要はあるだろう。

 さて、すべてのものから独立した〈近代的主体〉の自由な権能といったもの、それを至上化したものが〈近代的国家の主権〉であるかもしれない。近代的主体を前提にする哲学はポスト構造主義によって批判されたが、政治的領域においては近代国家の至上性(主権)は疑われないままだ。それどころか、一部の学者の世界ではなぜか今頃「シュミット主義の亡霊」がもてはやされる。SNSなど最新のメディアでは排外主義的言説がポピュリズム的に繁茂する。
 いま私たちは、苦しくとも、西欧と東アジアを古代から深く掘りなおし読み直すことなしに、再出発できないのではないか。

 この本は難解な面も多いが、誰でも分かるようなモチーフが二つある。
 いま世界中の人が認識するしかないことは、中国の巨大化である。世界の覇権国家である米国と対等な国力をつけつつある。
 そこで思い出すことができるのは、清朝に至る過去の大帝国である。帝国は、強大な権力を範囲内の人民に直接押し付けるといった形態を取るものではない。「漢民族が住む地域は中心にある十八省で、清朝は歴代の儒家の礼楽制度を継承し、中華文明によって中華を統治した。それに対して、満州族、モンゴル族、チベット族が住む辺境地域では、ラマ教を共通の精神的な絆とし、統治方法はより多元的で、弾力的で、柔軟であり、歴史的な持続性を維持した。」(p69)
 それに対して現在の中国は、自分たちの統治意識への同化をチベット、ウイグルに押し付け、彼らの宗教を破壊しようとし、全面的な反発を力で抑え込もうとしている。ウイグルには百万人もの収容施設があると、西側諸国にも知られ糾弾されそうになっている。なぜ清朝のようにうまくやれなかったのか?

 もう一つは、韓国、ベトナム、日本などとの関係である。
 「伝統的な中華帝国には万国来朝の盛況があった。重要なことは、それは周辺国家が帝国の武力制服を恐れたからではなく、先進的な文明と制度に引きつけられたからで、そうした文明の吸引力こそが国家のソフト・パワーにほかならない。」(p76)
 これができなくなったのは、中国が限定された領土、領民に対する独占的排他的支配を自らうたう近代国家としてアイデンティフィしているからだ。近代国家であるには、中国は大きく成りすぎた。大きくなりすぎた米国が、人権の普遍性を振りかざす姿勢を持ち続けることしかできないように、中国もなんらかの「普遍性」を強く打ち出すしかないだろう。

 許紀霖が依拠しようとするのは、儒家、道家、仏教など古代からの中国の伝統である。キリスト教、ギリシャ思想などと合わせて、ヤスパースに習い「枢軸文明」と著者は言うのだが、その豊かな「善」の資源を再吸収していくことが必要だとする。
儒教は、一人称の小我を越えて、天下、人類の大我を目指していた。ひとつの地域に限定されることを自ら欲する近代国家と違い、「天下は天下のひとびとのための天下である」(p60)中国人は常に「天下」において考えていた。そして、天下の価値は普遍的でありヒューマニズムだ、と言いうる。

 中国は近代国家であり、少数民族であろうとその一人ひとりはそれぞれ国民として完全に平等に尊重されることになっている。しかしその現実は求心的すぎる国民国家の基準をマイノリティに押し付け、民族文化を破壊するかに至っている。
 「伝統的な帝国の多元的な宗教と統治の制度を参考にして、儒家を漢民族の文化アイデンティティに記号とし、また同時に、少数民族の宗教、言語、文化の独自性を保護して、少数のエスニックグループとしてのかれらの権利を認め、制度的な保証を与えるという考えもある。それによれば、「一国二制度」は、香港、マカオ、台湾において運用される国策であるだけでなく、辺境の自治区に対しても拡大すべき統治方針であるということになる。」(p74)
(2020年8月にこの日本語訳は日本で出版されたが、丁度そのころ香港における「一国二制度」の持続を求める運動は、完全に潰されたようだ。しかし、許紀霖は百年単位で思考しているわけだから、何らかの逆転はありうるかもしれない。)

 また、大きな国際問題になっているのは、東シナ海、南シナ海のたくさんの島嶼についてである。それぞれの島に対して、それがどの国家の領域であるかを厳密に確定すべきだという思想は東アジアにはなかった。島は共同で使用されるものだったのだ。海に近代の主権という境界を存在させるべきでないだろう。(p80)鄧小平「擱置争議、共同開発」は古代の天下主義の智慧を発揮したものだった、と考えうる。日本の田中、大平もそれを了承した。それを覆したのは、(おそらく米国の意志を受けた)一部の日本の外務官僚である。

 とにかく、中国が自らを近代国家としてアイデンティファイするのは、愚かなことだと許紀霖は言っている。
 「これは中国の内政で、外国人がとやかく言うのは許さない」「これは中国の核心的利益であり、他国の干渉を許すことはできない」(p76)といった言説は、たとえ国際法上は正しくとも周辺国の反発しか産まない。そうではなく、友好こそが相互の利益を産むと、それを中国は一貫して追求してきたことを思い出すべきだ。

 近代国家主義の原則を相互に大幅に緩めた例として、数百年の憎悪と流血の果に手に入れたEUの体験を参考にすべきだろう。

 2001年9月のいわゆるイスラム原理主義によるテロ事件に対して、面子を失った米国はアフガン・イラク戦争を開始したが、結局中東地域に平和と安定をもたらすことに完全に失敗した。人権を大事にするはずの先進国も、シリアやイスラエルによる国民に対する広範な人権侵害を見逃さざるをえない状況になっている。「西洋と異なる中国的な近代化モデルが台頭し、右翼ナショナリズム及びポピュリズムの嵐が世界的規模で吹き荒れました。pⅳ」
 つまり、「今日の世界は普遍性を失った時代になっている。」このような時代に、何を基準にものごとを考えていけばよいのか、許紀霖は冷静に問い尋ね続ける。

(備考)
許紀霖氏は、1957年上海生まれ。20世紀中国思想史研究。
『普遍的価値を求める  中国現代思想の新潮流』
許紀霖:著, 中島隆博:監訳, 王前:監訳, 及川淳子:訳, 徐行:訳, 藤井嘉章:訳
叢書・ウニベルシタス 1121 2020年翻訳刊。
https://www.h-up.com/books/isbn978-4-588-01121-4.html
参考:中国の「新天下主義」について−許紀霖『普遍的価値を求める』を読む 子安宣邦
http://blog.livedoor.jp/nobukuni_koyasu/archives/84281039.html