支離滅裂な歴史の偽造

すでに南太平洋戦線では、日本は米軍の圧倒的な物量を前に、真っ向勝負ができる状態ではありませんでした。日本軍は、ゲリラ化して戦っていました。ゲリラとは、要するに非戦闘員のような振りをして実は戦闘員である存在、とここではざっくり定義させて頂きます。そして、米軍もそのゲリラ攻撃に、サイパン以外の各所で苦しんでいました。このことから、米軍に素直に白旗を挙げても、米軍がおいそれと信用してくれるかどうか、となると、これは恐らく米軍は信用しなかったと思います。だから、非戦闘員たるサイパン島の日本人住民は、結局自決する以外に道がなくなってしまったわけですね。

http://d.hatena.ne.jp/sanhao_82/20050701#p1

勝てない場合は意識を失う上官

さらに言えば、物量差と見せつけられ、士気の低下する軍や住民を叱咤激励するために「生きて俘虜の辱めを受けず」と、前線の司令官が言ったことは十分考えられるでしょう。軍隊とは、兵器の信奉者です。相手との兵器能力差が圧倒的であることに気が付けば、士気は間違いなく低下します。しかし、軍隊は敵と戦って勝つのが仕事です。負けるのは仕事じゃない。上官としては、何とかして勝ち戦にしなければならないわけです。それが軍隊の存在価値ですから。

http://d.hatena.ne.jp/sanhao_82/20050701#p1

「生きて俘虜の辱めを受けず」は単なる一将校の発言などではなく、日本軍全体の根本原則でした。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050709#p2 に書いたとおり、であるからこそ、食糧も武器もなくなり瀕死の状態でも1年以上もジャングルに潜み「建前として」(降伏し無い)戦争状態を持続しつづけなければならなかったのですね。

また捕虜になって生還した人も大部分が、(形だけのこともある)玉砕攻撃をしてその途中でよろよろ倒れて捕まったとか、ケガで意識を失っていた時に捕まったとか、意志としての「降伏」をしていないわけです。逆に言えばそうした僥倖の場合を除き、すべて無意味に死んでいったわけです。

「軍隊は敵と戦って勝つのが仕事です。」どんなに頑張っても相手の戦力を傷つけられない場合は、仕事の範疇ではない。それでも降伏してはならない、などとファナティックなことを考えたのは大日本帝国だけです。

憎悪せよ。

「大東亜戦争の責任者」

(15)

「大東亜戦争」は一部の支配者が(国民の意志を抑圧して)行ったのか? それとも国民の大多数が自ら主体としてそれを支えたのか?

そういった論点を取り上げようとはしていない。それがバンザイクリフとどういう関係があるのか分からない。あえていえば、わたしはむしろ後者に近い。したがって東条の責任を言うときは、(国民の代表としての)東条として考えている。東条に責任なし、と主張する人は(みずからの)国民の責任を回避しようとしているのだ、と理解する。

ところで、「東条に(ある場合にはヒロヒト)に責任あり」とする主張も、「国民に責任なし」を言わんがためのものがある。左翼が人民(プロレタリアート)を主体として立てようとする立場はそうなるわけだが。国民というカテゴリーは絶対ではなく、別のものでも良いわけだ。

「大東亜戦争」は、レイプ・虐殺と、(兵士、国民に対する)自決圧力という特徴を持つ。バンザイクリフが後者の象徴であることは、マッコイさんほかの反論にも関わらず、揺るがない。

敗れても目覚めない。

進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。(略)敗れて目覚める。それ以外にどうして救われるか。今目覚めずしていつ救われるか。俺たちはその先導になるのだ。日本の新生にさきがけて散る、まさに本望じゃないか。

「臼淵大尉の場合」吉田満

残念ながらわたしたちは敗北から何も学びませんでした。敗北という言葉を忌避し、ふやけたナルシズムがゆっくり育っていくのをじっと待ったのです。

天皇は天神の御子なり。

 明治4年に死んだ鈴木雅之という国学者がいる(らしい)(1837-1871)。「気一元論とも言うべき性格を有した壮大な宇宙論をベースにした」思想家だそうだ。*1

辱(かたじけ)なくも天神の高天原に坐まして布行せたまう生成の道

というものが万物を生む。そしてその「生成の道」を行うことが「万物」・人間の行き方である、とする。ところで雅之において、天神とは、アメノミナカヌシ、タカミムスビ、カミムスビ、アマテラスの4神のことだが、アメノミナカヌシが創造主宰神として中心化、絶対化されている。

人道とは、いはゆる天神の生成の道、即ち君臣親子夫婦兄弟朋友等の理をいふなり。

君は(略)天神の大任をうけたまわりて、善を賞め悪を刑ふ職位に居たまへば、実に軽々しく容易ことにあらず。さらば何事も天神の大御心を心として執はからいたまい、かりにも私を用ゐず。

従って、「臣」や「子」の側でも、もし「生成」に反する所業が「君」「親」に見られた場合は、「命をもすてて諫(いさ)むべき」であり、*2

天皇は天神の御子なり。

天皇は形而上学的存在である。それは一方では「生成」を完遂する(しなければならない)という存在であり、倫理的責任から自由でない、ことになる。

明治憲法

1条 大日本帝国は万世一系の天皇之を統治す。

3条 天皇は神聖にして侵すべからず。

 神学的には明治憲法の方がウルトラ化している。天皇は国家(くに)と等値されることにより絶対者となる。生身の天皇より上位のもの、<天神の大御心>つまり普遍は存在しない。(短絡的に言うと、現在中国韓国と和解できないのも他者理解のためのベースが存在しないからだ。)

 憲法上記だけから見るとそう言えるが、<神聖>即ちすべての価値の源泉とも読める。その場合普遍は存在し、(かならず)天皇と同一化しているだけ、ということになる。

 その時の権力者が強力な批判をはね返すことができずに居直るとき、に前者の論理が必要となる。

 即ち、226事件御聖断と815敗戦である。

天皇は神であるのだから、人民が何万人死のうが気にしないのかもしれない(東アジアの伝統からははずれるが)。仮にそうだとしても、日本を焦土にしてしまったこと、そのことを<天神>に対して詫びる絶対的な責任がヒロヒトにはあったはずだ。

・・・

*1:p109『幕末民衆思想の研究』桂島宣弘isbn:4892591858

*2:桂島 同書p115

湯浅、鈴貫、寺内、梅津、磯谷

開巻いきなりはじまる、磯部の呪詛の言葉、

「神国をうががふ悪魔退散 君側の奸払い給へ 牧ノ、西寺、湯浅、鈴貫(鈴木貫太郎)、寺内、梅津、磯谷、他軍部幕僚、裁判長石本寅三外裁判官一同、検察官予審官等を討たせ給へ。菱海*1の云ふことをきかぬならば 必ず罰があたり申すぞ 神様ともあらふものが菱海に罰をあてられたらいいつらのかわで御座らふ」

 という天を呪い人を呪う言葉を読むと、今日の読者はいやでも、それから九年後の日本の敗戦と戦犯裁判を思わずにはいられまい。この報いとして日本の悲運が来たと考える必要はないが、この呪詛には日本の来るべき凶運に対する予言的洞察が含まれていたと考えることはできるのである。*2

id:noharra:20050626#p4 で、マッコイさんの「磯部浅一なんかは靖国に祀られていないから怨霊と化して日本を軍国主義に導いたんじゃないか、」という発言を引用した。ネタ元はここかもしれない。*3

東京裁判で裁かれた東条英機以下と、上記で磯部が挙げた(磯部を裁いた)牧野以下*4が同質性を持つとすれば、東条英機以下は磯部の呪いによって報いを受けたのだ(日本の滅亡はそのための手段にすぎない)、という史観が成り立つ。そこまで云わなくとも、三島の「予言的洞察が含まれていた」という発言の根拠には磯部の呪詛に対する共感があるのはいうまでもない。

 戦後左翼は彼らの偏見に基づき「反乱主体」を卑小化する。マッコイさんは、訳も分からずそれを踏襲したまま、あろうことか「日本を軍国主義に導いた」責任を磯部に押しつける。命日には磯部の怨霊に気を付けろよ。

*1:磯部浅一の自称

*2:p198三島由紀夫「『道義的革命』の論理」『英霊の聲』isbn:4309402852

*3:三島は靖国に言及してないから違うか

*4:牧野、西寺?は例外として、湯浅以下と考える方が良いか。

間違いは訂正すればよい!

モヒカン族とやらが流行っているという。世捨て人が流行りものに手を出すのも恥ずかしい。だけどまあ面白いかもしれないので引用して見よう。

http://mohican.g.hatena.ne.jp/keyword/%e3%83%a2%e3%83%92%e3%82%ab%e3%83%b3%e5%ae%a3%e8%a8%80

モヒカン族 – モヒカン宣言

■ 宣言

1. 発言者の社会的地位を気にせず、言説だけに注目する

2. 事実のやりとりに、余計な装飾語はいらない

3. 間違いは、きちんと認めて修正すればいい

だいたい賛成です。特に3. 「余計な装飾語はいらない」というのが理想ですが、私は意味なく相手の気分を害していることが多いのではとも思う。

■ モヒカン族5つの価値

校正

間違いを訂正してくれる人を我々は尊敬して評価します。よけいな裏読みをして「人格攻撃している」とは思いません。

共有

アイディアに校正の機会を与えることが生みの親の義務です。「理由が無いけど、これはこれでいいんだ」というエレガントではない開き直りはくだらない。

ツッコミビリティ

校正、反論しやすいエレガントな言説が価値ある言説です。その為には、冗長にならない範囲で、ソースと推論過程を明確化し他へ示します。

(1項目略)

差異

お互いの違いを確認することで、我々はつながります。「自分らにとって良いから他の人にも良いはずだ」とは思いません。(同上)

正しい、というか反論しにくい。あえて言えば、読みとりにくい文体で書かれた文章をどう評価するか、という問題が考察されていない。

文学的には、文章とは伝達可能性と不可能性のバランスにおいて成立する。文章を書くとき、ツッコミビリティを高めるという意識を持って書くべきだというのは賛成だ。だが一方では他者には“全然分からない”といわれるそうした文章を書く権利も人は持つ。それは「詩」であり、文章(論説文)は自ずから別だろう、と言われるかも知れないが私はそうは思わない。例えば磯部浅一のように反逆罪で訴えられたらそれに対する反論は、論理=合法性を離れ詩に近づくだろう。だからといってそれを揶揄することしかできないものは、自らえらんだわけではない東条英機を許しながらあと千年生きることになる。

「その為には、冗長にならない範囲で、ソースと推論過程を明確化し他へ示します。」わたしの文章にはソースの提示はあるが推論過程の提示がないな…

ちなみに、<野原燐 気付 自主ゼミ実行委員会>の原則は下記の通り。

1.公開。

2.参加者の自由な討論ですべてを決定する。

3.このゼミで討論され考察の対象となった事柄は、参加者が各人の責任において、以後あらゆる場で展開していく。

考えてみればわたしたちの社会も、すべての市民の「自由な討論ですべてを決定する」というラディカルな原則を“原則としてだけは”とっくの昔に採用していたのだった。その場合、モヒカン宣言に類する心構えは当然必須ということになるべきだったろう。モヒカン宣言なるものがけっこう新しく見えるのは、「自由な討論ですべてを決定する」を真面目に押し進めようとする勢力がごく少なかったことを意味しよう。したがって、上記のような留保は付けつつも、モヒカン宣言に賛成し発展を祈りたい。

ハッピー=より高次の水準への訂正

上記「5つの価値」のうち省略したのは下記の1項目。

全体最適化

たくさんの人がハッピーになれるエレガントな方法を見つけた時、我々は最もハッピーになります。

抽象的すぎてピンとこなかったのだ。「間違いの訂正」といっても何が間違いかはについて他人と同意するのは時として困難だ。したがって何を目指すのかをイメージとしてだけでも提示しておかなければいけないと思って書かれた規定だろう。希薄だがポジティブである。

「スパゲッティな」プログラムは悪い、その反対はエレガントで良い、そのような価値観を文章や人間関係、社会関係にも敷衍しうるみたいな感覚が基礎にあるのだろう。

掲示板*1などへの表現は、全当事者に向かって等距離に開かれている。したがって「幻想性のエネルギーの量と質を、関わりをもつ全当事者が認識し解放していく度合で、より高次の水準ヘ〈訂正〉しうる。」わけである。

松下昇氏の文章の一部を引用しておく。

一 執筆~印刷~配布の全過程に関わろうとすること、全ての人がそうしうる情況をつくろうとすること、その試みが極めて困難であるが不可能でないことまでは視えてきた。訂正についても、具体的な作業を行う人の内的な意識を共有しつつ、この意識や労働対価の疎外形態の止揚をめざしている。

二 ①〈黒板〉~〈壁〉への直接表現や話体の言葉も、それらが影響を及ぼした幻想性のエネルギーの量と質を、関わりをもつ全当事者が認識し解放していく度合で、より高次の水準ヘ〈訂正〉しうる。

②権力の表現所有~訂正に関する構造は、基本的には権力構造の打倒~解体によって〈訂正〉しうるが、権力が無視しえない、別の〈同一〉表現をつくりだし対置する作業が、拘束されている表現を固定化させないためにも必要である。

③人間~社会の行動軌跡~様式の対象的〈訂正〉の組織論の萌芽は、前記①、②を具体化する際に、モンテーニュのとった〈空虚〉への対し方の対極で〈 〉を媒介して出現しつつある。

松下昇『概念集・2』p28「訂正」より

*1:ブログとかも他者に強制的に開かれた表現であるという点では従来のHPより掲示板に近い

<新しい事物>を世界へ投げ入れる可能性

http://d.hatena.ne.jp/using_pleasure/20050706/1120590416 記識の外 – モヒカン族のために。

から、「ハッカー宣言」 * 作者: マッケンジー・ワーク, 金田智之 * 出版社/メーカー: 河出書房新社 の一部の一部。

004 ハッカーは新しい事物を世界へ投げ入れる可能性を創り出す。しかし、それは常に偉大な事物であるとは限らないし、良き事物であるとも限らない。だが、とにかくそれは新しいのだ。

(略)

我々は我々が生産する何ものかを所有しない。その何ものかが我々を所有するのだ。

130 情報はコミュニケーションを上回っている。ドゥルーズによれば、「私たちはコミュニケーションを欠いていない。対照的に、私たちはコミュニケーションを持ちすぎているのだ。私たちは創造することを欠いている。私たちは現前するものに抵抗することを欠いているのだ」。情報とはこの意味での抵抗であり、情報の死んだ形態であるコミュニケーションに対して抵抗をおこなうことなのだ。

133 情報の、反復するコミュニケーションへの従属化は、情報生産者の情報所有者への奴隷化を意味している。

 コミュニケーションについて一般的な理解は俗流ハーバマス主義ともいうべきものである。彼らは、物事を常にある人*1が予め理解している地平に回収してしまう。つまり彼らにとって<新しい>ことは起こらない。私たちが理解し合うとき<差異>は私たちの手により殺されている?のかもしれない。 

つねに「情報の死んだ形態であるコミュニケーションに対して抵抗をおこなうこと」が為されなければならない。

つまり、モヒカン族ブームの核心は、一見ポスコロ的PCに反するかに見える「ハンドアックス」という比喩の過剰さにある。

*1:大衆?