「心の中の光と影」

藤原定家は1162-1241。

もう3首貼ってみよう。

宿ごとにこころぞみゆるまとゐする花の都のやよひきさらぎ

定家には珍しい庶民的雰囲気の歌。まとゐ=まどゐ(円居)で団欒。家ごとのさざめきの雰囲気の違いを肯定的に歌っている。

さむしろや待つ夜の秋の風ふけて月をかたしく宇治の橋姫(新古420)

「さむしろに衣片敷き今宵もやわれを待つらむ宇治の橋姫」が本歌。夜がふける、衣を敷くはずなのに、定家では一見「風がふけ」たり「月を敷」いたりしてるように読め、難解になっている。邦雄によれば「肩すかしともいふべき修辞の妙」だというのだがそんなものなのかね。邦雄の読みでは、わたし(女)が男を待つがいつまで経っても男は来ないという歌。宇治の橋姫とは「宇治の里橋のあそび女」となっている。*1

わすれじよ月もあはれと思い出でよわが身の後の行く末のあき

我が死の後の行く末を、月よ、哀れと記憶に留めよ!という強い命令の歌。「これは景色としての月から遠く隔たった一種の呪物と化し、死後の世界まで照らし出すようなすさまじい光となってゐる。(邦雄)」戦争で(例えば異国の山河で)死ぬ前の晩に月が異様に照っていたといった情況を思い浮かべることもできる。

*1:p94『定家百首』

頼信紙

カフカ忌の無人郵便局灼けて頼信紙のうすみどりの格子

(塚本邦雄)

http://d.hatena.ne.jp/shimozawa/20050610 仏文学者の下澤さんのところから孫引き。

無人郵便局みたいなものが余りに一般的な物に成ってしまったので分からなくなっているが、無人郵便局というものが成立しうる<システムの底力>の存在を、否定的眼差しにおいて描き出したのがカフカ。みたいな理路だろうか。頼信紙(電報を頼む紙)という言葉の響きと紙の薄さのシンクロが印象的。

(6/12追記)

紅旗征戎わが事にあらず

  「紅旗征戎わが事にあらず」(藤原定家)

冒頭にこの定家の名言が引いてある。(略)

 「紅旗破賊非吾事」

 たしかに定家の言として有名ですが、これは、白氏文集から。

http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20050605/1117931695

ふーん、そうなんだあ。

ちなみに「紅旗征戎吾が事に非ず」と定家が日記(名月記)に記したのは、1180年9月、19歳の時、らしい。

ところで「 「名月記」は漢文、して、古事記も漢文。漢文とは日本語。」結論に賛成する。ということは漢文とは、「中国語の文法で書かれた文」と「それが日本風に崩れたもの」を併せたものだと理解できる。ここで、古事記については如何でしょうね。あそこまで崩れた「漢文」は以後書かれていないと思う。漢文じゃないからどうだということではないですが。

 うちの玄関ドアの外側の枠の土台から数センチのところに緑色の蛹があってこんなところでは無事には育つまいと思っていたら。今家族のものが羽化しているのを発見。まだ羽が広がっていないが無事に飛び立つだろう!

鎮守の森

 今、NHKで宮脇昭さんとかいう植物学者が、日本の本来の自然、森の姿を研究しているという話をしていた。各地の鎮守の森が本来の森の植生をかなり残しているなどということを、宇佐神宮なども訪ねつつ語っていた。 

 篤胤の『霊の真柱』まだ半分しか読めないが、やはり神道の神髄はそうした言説ではなく、森や自然の持つ(かもしれない)霊性との交流にあるのかもしれない、と思わないでもない。だからといってわたしは当面できることとして本を読み続けるしかないが。

東条英機無罪?

東条氏の孫や一部極右分子に引きずられて、「東条英機無罪」にしてしまって、日本人は本当に良いのでしょうか?

「大東亜戦争を反省し、平和国家(憲法9条)に生まれ変わった」というのが戦後日本の表看板でした。

後半はともかく、「反省」については撤回できないことはバンドン会議で明らかになりました。(もう一方に、戦前の「国際連盟脱退」に類似する道を選ぶ、という選択肢もあります。)

「反省」をどうパラフレーズし、近隣諸国に訴えかけていくのかが問われているのだ。日本国家にとっては。「反省」という課題に背を向けふやけたナルシズムに耽ろうとする人々には冷水を浴びせなければいかない。

ヒロヒト=ヒトラー

中国に反日教育は存在しない、そうだ。悪である大東亜戦争の責任は「日本軍国主義」である、という理屈。この理屈によって「日本民衆との連帯」は是とされ、日中友好は盛り上がった。

ところが日本ではA級戦犯グループの一部は日本で戦後権力者に成り上がり、靖国神社においては「合祀」に成功した。

合祀以後、天皇は靖国神社に詣っていない。これは当然のことである。外国から見た場合、ヒロヒト=ヒトラーであり、それを逃れる道は東条=ヒトラーしかない。後者を無理矢理定着させることが(幸いアメリカの一部勢力の助力を得たとはいえ)どんなに困難な課題だったか、天皇は忘れる筈もない。だが国民は。戦後国民は主権者になったというが。大東亜戦争をどう評価するのかも言わずに眠り込んでいる。

(6/18追加)

# poppo-x 『こんにちは。一方で、裕仁氏と東条英機の間の個人的確執が、東条合祀後靖国へ参拝しない一因との分析もあります。

http://blog.goo.ne.jp/asaikuniomi_graffiti/e/3fede30ef997afc56ba99b7e088382e0

私の視点 靖国問題ー昭和天皇と東条の確執

Weblog / 2005-06-07 11:31:53』 (2005/06/18 06:54)

(野原)

浅井さんの貴重な文章の紹介ありがとうございました。

印象的なので一部をもう一度引いてみます。

敗戦直後から毎年ではないものの数年置きに靖国神社を参拝(正式には「御親拝」というそうな)していた昭和天皇が、A級戦犯合祀が行なわれる1978年の3年前に参拝して以来、靖国に踏み入れていないのだ。

 そこから色々調べてみると、靖国への合祀には天皇への「上奏(天皇への事情説明)」が必要なのに、靖国側はその手順を取っておらず、合祀を巡って天皇と靖国の間に確執があった事が浮かび上がってきた。

http://blog.goo.ne.jp/asaikuniomi_graffiti/e/3fede30ef997afc56ba99b7e088382e0(浅井久仁臣)

そして、14人のA級戦犯が秘密裡に合祀された。

(同上)

この「秘密裡に」は、左翼や左翼的世論に対する秘密というだけでなく、天皇や権力中央の一部に対しても絶対秘密だった、と。ある種のクーデターといえるほどのものですね。陰謀説を採っている野原としては、これを押し進めた分子の中に、米国や北朝鮮の工作員が居たのでは?という疑惑を捨てきれないぞ(笑い)。

賀屋興宣(かや・おきのり)(7/5追加)

上に「天皇や権力中央の一部に対しても絶対秘密だった、と。ある種のクーデターといえるほどのものですね。」と書いたが、これは具体的にはまず第一に、その前年にに死んだ賀屋興宣氏の直系分子に対する秘密、ということになるのだろう。

(朝日新聞2005年06月27日)

 そういえば、かなり前になるが、A級戦犯のひとりが遺族会のトップだった時代がある。62年から15年間も会長の職にあった賀屋興宣(かや・おきのり)氏だ。日米開戦時に東条内閣の蔵相だったことからA級戦犯として終身刑を受けたが、10年間の服役後に仮釈放されて政界に復帰。その後は自民党政調会長や法相を務めた大物政治家だ。

 そうか、さては遺族会を「正義の戦争」論に導いたのは、賀屋氏だったのか。そう思って氏の回顧録や新聞記事などを調べてみると、大きな見当違いだった。日中戦争を「意味の分からぬ戦争」といい、米国との戦争に至っては、何と無謀なことをと、しきりに断罪しているではないか。

 大蔵省の出身の賀屋蔵相は、日米の開戦に抵抗した。結局、東条英機首相らの軍部に押し切られたのだが、しかし「いくら反対したからといっても、戦争責任者として切腹ものだ」などと自分を繰り返し責めている。

    ◇

 東京裁判はやはり問題だらけだとしているが、違うのはその先だ。外国による裁きでなく「日本人は自主的に戦争責任を判断する必要がある。あれだけの日本の歴史に対する汚辱と、国民の惨害に対して、重大な責任者がないはずがない。私はその一人である」。日本人の手で戦争責任者を問えなかったことは「日本国民として遺憾千万」とも書いているのだ。

 遺族会の会長を引き受けたのは償いだったといい、遺族年金の増額などに腕を振るった。靖国神社の国家護持運動を進めるような時代錯誤の面もあったが、叙勲を辞退し続けるなど自責の念を持ち続け、77年に亡くなった。東条氏らが靖国に祀(まつ)られたのは、その翌年だ。賀屋氏がこれを知ったら、果たして何と言っただろう。

http://d.hatena.ne.jp/makuramori/20050704 からコピペさせてもらった。