神武天皇のY染色体

初代の神武天皇のY染色体は、男系男子でなければ継承できない。

八木秀次(高崎経済大学助教授)

(「皇室典範に関する有識者会議」での発言)

“神話”を、(最新の?)自然科学的知見に合うように合理化立体化して、それが太古から伝えられた真実であると高唱する点で、八木氏は服部中庸などの立派な後継者である。まぐわいとはY染色体を継承するための行為なのだろうか? その辺の古事記解釈を詳しく聞きたいところである。*1

さて「男系系譜が125代続いた伝統である」、「歴史の重さ」などというレトリックも使っているようだ。日本には「万世一系」というイエオロギーしか誇るものがないから、このイデオロギーの歴史は古い。

*1:ついでに「三大考」21世紀ヴァージョンも書いてください。

「男尊女卑は我が古俗」ではない

其の俗、国の大人は皆、四,五婦。下戸も或いは二,三婦。婦人淫(みだ)れず。トキせず。

(魏志倭人伝)

(習俗として、上層の者にはみな、四,五人の妻があり、下層の者にも時には二,三人の妻を持つ。婦人は淫らでなく、嫉妬しない。)

上層の男は多くの妻を持つが、沢山の下層の男は妻を持てない、というのが、一夫多妻制の社会である。伝の通りだと女の数がよっぽど多くないと計算があわない。

 ところで、1910年の白鳥倉吉「倭女王卑弥呼考」という論文は画期的なもので現在まで影響を与え続けているらしい。

彼は「大人は皆、四,五婦。下戸も或いは二,三婦」を引いて、こう書いた。

此の如く男尊女卑は我が古俗なりにしも拘(かかわ)らず、(後略)

しかしながら、明らかに矛盾を孕んだ断片から一方的な断言だけを引き出してくるのは無理がある。

また「男尊女卑は我が古俗なり」も「夫婦の制が判然と確立」していることも、明治の皇室典範制定に際して、女帝否定論者によって繰り返し我が国の“伝統”として持ち出されたことであった。

p195『つくられた卑弥呼』義江明子ちくま新書 isbn4-480-06228-9

「皇室典範制定に際して」のところを急いで読むと、「明治の」を飛ばして現在の議論と勘違いしそうだ。世の中には「一夫多妻」と聞いただけで涎を垂らすスケベオヤジもいる。しかしながら現在の自己の欲望を直ちに「伝統」「歴史」と言いかえることに自己の学識と知力を(あるいは無意識に)傾けてしまう学者先生に比べれば、そのイノセンスは愛されよう。

(『つくられた卑弥呼』は良い本ですよ。)

良いトンデモ/悪いトンデモ

# amgun 『どうも。色んなことで煮詰まっているamgunです。世の中まだまだ「と」な人たちがたくさんいますねぇ。中庸も篤胤も守部も現在の科学的見地?から見れば「と」な人たちなのでしょう。世界の中心で「トンデモ」を叫ぶ。なんかネタに出来ないかな?』 (2005/06/09 09:56)

noharra 『確かに、超愛国的トンデモと括ると、八木某と中庸、篤胤はおなじ括りに入ってしまうけど、私は後者には滑稽感、恥ずかしさは感じますがどこかで愛と尊敬も持っているのです。それに対し、八木某には困惑と侮蔑しか感じません。だいたい江戸時代の感覚では、男子直系相続でなければならない、も反ジェンダーフリーも国学的というより儒教的だし。そんなものを「伝統的」だと信じてたら宣長が怒るよ、と。

 宇宙論や救済論は本来神話などとシンクロしてるし、自然科学とは別の場所にあるので可笑しくても良いのです。イエスさまのお話なんかもそうですね。それに対抗できるような話をなんとか作ろうとすること自体は、試みるに値することだと思います。

 明治以来の日本が自然科学も社会、人文科学も欧米から取り入れそれを真理だとしてきたその根拠が、追いつき追い越せの時代の終わりとともにかなり揺らいでいる。そういった情況への反応が、恥ずかしいけれどなんとか自前で考えようとした「三大考」への関心を呼んでいるのでしょう。

八木秀次は馬鹿にだけしとけば良いみたいだが、政界では小泉、安倍、石原と中央を占拠してるから困ります・・・』 (2005/06/09 21:17)

夢の浮き橋

春の夜の夢の浮き橋とだえして嶺に別るる横雲の空

(藤原定家)

塚本邦雄さんの本が一冊だけあったので、引用してみた。

「ぴたりときまつたゆるぎのない夢幻の定着」と彼は評している。

「この歌は完璧な形而上学であり」とも。(p165『定家百首』河出文庫)

立ちのぼるみなみの果に雲はあれどてる日くまなき頃の虚(おほぞら)

(藤原定家)*1

不思議な歌である。大きな空がすべて日光に覆われている夏である。だが邦雄の読みは「これは鈍色一色に塗りつぶされ、一点白い太陽が輝いているだけの、重い一首」となる。ふむ。

*1:同書p42

「心の中の光と影」

藤原定家は1162-1241。

もう3首貼ってみよう。

宿ごとにこころぞみゆるまとゐする花の都のやよひきさらぎ

定家には珍しい庶民的雰囲気の歌。まとゐ=まどゐ(円居)で団欒。家ごとのさざめきの雰囲気の違いを肯定的に歌っている。

さむしろや待つ夜の秋の風ふけて月をかたしく宇治の橋姫(新古420)

「さむしろに衣片敷き今宵もやわれを待つらむ宇治の橋姫」が本歌。夜がふける、衣を敷くはずなのに、定家では一見「風がふけ」たり「月を敷」いたりしてるように読め、難解になっている。邦雄によれば「肩すかしともいふべき修辞の妙」だというのだがそんなものなのかね。邦雄の読みでは、わたし(女)が男を待つがいつまで経っても男は来ないという歌。宇治の橋姫とは「宇治の里橋のあそび女」となっている。*1

わすれじよ月もあはれと思い出でよわが身の後の行く末のあき

我が死の後の行く末を、月よ、哀れと記憶に留めよ!という強い命令の歌。「これは景色としての月から遠く隔たった一種の呪物と化し、死後の世界まで照らし出すようなすさまじい光となってゐる。(邦雄)」戦争で(例えば異国の山河で)死ぬ前の晩に月が異様に照っていたといった情況を思い浮かべることもできる。

*1:p94『定家百首』

頼信紙

カフカ忌の無人郵便局灼けて頼信紙のうすみどりの格子

(塚本邦雄)

http://d.hatena.ne.jp/shimozawa/20050610 仏文学者の下澤さんのところから孫引き。

無人郵便局みたいなものが余りに一般的な物に成ってしまったので分からなくなっているが、無人郵便局というものが成立しうる<システムの底力>の存在を、否定的眼差しにおいて描き出したのがカフカ。みたいな理路だろうか。頼信紙(電報を頼む紙)という言葉の響きと紙の薄さのシンクロが印象的。

(6/12追記)

紅旗征戎わが事にあらず

  「紅旗征戎わが事にあらず」(藤原定家)

冒頭にこの定家の名言が引いてある。(略)

 「紅旗破賊非吾事」

 たしかに定家の言として有名ですが、これは、白氏文集から。

http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20050605/1117931695

ふーん、そうなんだあ。

ちなみに「紅旗征戎吾が事に非ず」と定家が日記(名月記)に記したのは、1180年9月、19歳の時、らしい。

ところで「 「名月記」は漢文、して、古事記も漢文。漢文とは日本語。」結論に賛成する。ということは漢文とは、「中国語の文法で書かれた文」と「それが日本風に崩れたもの」を併せたものだと理解できる。ここで、古事記については如何でしょうね。あそこまで崩れた「漢文」は以後書かれていないと思う。漢文じゃないからどうだということではないですが。

 うちの玄関ドアの外側の枠の土台から数センチのところに緑色の蛹があってこんなところでは無事には育つまいと思っていたら。今家族のものが羽化しているのを発見。まだ羽が広がっていないが無事に飛び立つだろう!

鎮守の森

 今、NHKで宮脇昭さんとかいう植物学者が、日本の本来の自然、森の姿を研究しているという話をしていた。各地の鎮守の森が本来の森の植生をかなり残しているなどということを、宇佐神宮なども訪ねつつ語っていた。 

 篤胤の『霊の真柱』まだ半分しか読めないが、やはり神道の神髄はそうした言説ではなく、森や自然の持つ(かもしれない)霊性との交流にあるのかもしれない、と思わないでもない。だからといってわたしは当面できることとして本を読み続けるしかないが。