こびと=小人って差別用語なのか、ATOKで出ないな。
8人の小人が輪になっていました。1~8と番号が付いていると考えましょう。妖怪ミツハノメ*1が来て一人おきに止まります。止まるとその子は消滅してしまいます。またたくまに2,4,6,8番は消滅。最後に誰が残るでしょうか?
また7人、9人、10人のときはどうなるでしょう?
*1:古事記No78
を考えてみよう。
数字は1~10。すると、1巡目で偶数が消える。奇数は二進法では最小の桁が0。つまり答えは最小桁が1。1巡目の個数をF(1)=10とする。個数10を2で割る。10÷2=5余り0 g(1)=0 F(2)=0+5
2巡目は1,3,5,7,9のうち3,7が消える。つまり g(1)=0だが、1巡目と逆に*1、二進法では10の桁が1のものが消える。つまり答えは10の桁がゼロ。5÷2=2余り1 g(2)=1 F(3)=1+(5-2)=4
一拍置いているので3巡目は1,5,9のうち1,9が消える。つまり g(2)=1なので、2巡目と反対に二進法では100の桁が0のものが消える。つまり答えは100の桁が1。4÷2=2余り0 g(3)=0 F(4)=3-1=1 終わり。
つまり答えは2進法で101。10進法で5。
これであっているのかな。与えられたxについての式がわからないのでまだ不安。
エクセルでフォームを作った。1000を入れると17になる。本当か?
*1:数が0001から始まるから
# dempax 『http://d.hatena.ne.jp/dempax/20050510 で≪1000人の小人≫問題を考えてみました. 御検討頂き度.』 (2005/05/10 23:56)
dempaxさん どうもありがとうございます。
dempaxさんの解法の方が分かりやすくクールですね。
ところが、ガーン!
答えが違うので、考えてみるとやはりわたしが間違っていた。
例えば最初の人数が13人の場合。
dempaxさんの考えでは、2のn乗(この場合8)にするために5を引く。
つまり2,4,6,8,10,と消して、その時点の先頭「11」が答えになる。
わたしの作ったフォームでは(答えだけ書くと)「3」となる。3は2進法で「011」。11は「1011」で4桁目が違う!
どうも間違いばかりですみません。orz(平身低頭)。
(5/11 20:06)
恥ずかしながら、エクセルのフォーム(?)。
A3に最初の人数を入れる。
G1に答えが出る。=SUM(G2:G14)を入れる。
G2に1を入れる。
B3に =INT(+A3/2)
C3に =-B3*2+A3
D3に =+A3-B3-C2
E2に 1。E3に =+E2*2
F3に =+C3*E3
G3に =IF(D3=1,0,1)*IF(D3=0,0,1)*F3
A4に =+D3+C3
B3:G3を下にずっとコピー。
A4を下にずっとコピー。(以上)
http://d.hatena.ne.jp/dempax/20050512#p1
「10億人の小人」問題を解いてみた. → #9,2625,8177 が最後に残る.
(野原)
1000億の場合、 62,561,046,529人目に成りますね。
1兆の場合、 350,732,558,337人目。
10兆の場合、 2,407,813,955,585人目。
百兆の場合、59,262,511,644,673人目。
千兆は、311,150,139,736,065 。(?)
次は、1,985,601,490,518,020 !!ここでエラー。偶数になっている。
1,985,601,490,518,017 でしょうか?
上のエクセルの式で
A4に a=+D3+C3 と書きました。(a3-b3-c2+c3と同じ)これを、
A4に aa=+b3 に変えてから下にずっとコピーしても、C列の結果は変わりません。
1と0が並んでいますが、これを下から読むと
入力数字の2進法表示になります。
例:1000 ->1111101000
これを最初の1を削って、最後に1を追加し10進法に変えると、答えに成ります。
(2のk乗) > n > (2の(k-1)乗) の場合、( n- (2の(k-1)乗))×2+1
で答えが出るというのがdempax方式ですが、これを2進法で表現すると上記のようになります。
(5/14 22時)
旧い計算式A4をaとします。 a=+D3+C3
D3=+A3-B3-C2 なので、 a=A3-B3-C2+C3 です。
新しい計算式A4をaaとします。 aa=+B3
A3=B3*2+C3 ですから a=B3*2+C3-B3-C2+C3=B3+C3*2-C2 になり
aとaaの差 a-aa=C3*2-C2 になる、と思いましたが、ここが間違いです。
つまり、新しい計算フォームでのB3(一般にBn)(区別のためにβと呼ぶ)と旧い計算フォームでのB3(一般にBn)は一致しません。
(以下考え中)
ええと別にそれほど難しい問題では無かろうとは思いながら、日曜日から解けずに(文章にできずに)いました。
正しい答えを与える(に違いない)二つのフォーム(テンプテートといった方がよいのか)がある。なぜその二つが同値になるのかを説明せよ、という問題です。野原フォームと2進法フォーム。前者はややこしいので後者の表記法を基準にする。
後者は基本的に一つの式しかない。
α(n)=α(n+1)*2+γ(n) γは0か1です。
前者はややこしくてすっきりしません。A列をA(n)、それを2で割った余りC列を C(n)とする。
ややこしいのはA(n)の定義にC(n-2)がからんでいるからです。
具体的な例で考える。
与えられた数が102の場合。
(1)
C(0)=0 A(1)=102 C(1)=0 、 この場合A(1)=α(1) C(1)=γ(1)=0
(2)次に、
α(2)=51 で、C(0)=0,C(1)=0 ですから
A(2)=A(1)-B(1)-C(0)+C(1)=A(1)-B(1)=α(2)
C(2)=γ(2)=1
(3)次に、
α(3)=25 で、C(1)=0,C(2)=1 ですから
A(3)=A(2)-B(2)-C(1)+C(2)
A(2)-B(2)=α(3)+1 -C(1)+C(2)=0+1=1 ですから
A(3)=α(3)+2=27
C(3)=γ(3)=1
(4)次に、
α(4)=12 で、C(2)=1,C(3)=1 ですから
A(4)=A(3)-B(3)-C(2)+C(3)=A(3)-B(3)-1-1=A(3)-B(3)
=α(3)+2-B(3)=(α(4)*2+1)+2-(α(4)+1)
=α(4)+2 偶数となりなんとか
C(4)=γ(4)=0 と同位相になります。
(5)次に、
α(5)=6 で、C(3)=1,C(4)=0 ですから
A(5)=A(4)-B(4)-C(3)+C(4)=A(4)-B(4)-1+0
A(4)=α(4)+2=α(5)*2+2 B(4)=α(5)+1 したがって、
A(5)=(α(5)*2+0)+2-(α(5)+1)-1
=α(5)+2-2=α(5) 偶数となりなんとか
C(5)=γ(5)=0 と同位相になります。
以上で、C(n-2),C(n-1) が、(0,0)(0,1)(1,1)(1,0)
の場合、すべてを当たった結果、
A(n)とα(n)の差は、0か2であり、したがって
C(n)とγ(n)は常に等しいことが分かった。
・・・
(数学的には不充分かもしれないので誰か指摘してください。)
(5/18 21:41)
でぐぐって見たら、こんなのがあった。メモしておこう。
そしてまたここで、筆者が比較社会思想研究の恒例として汎神論と多元的民主主義思想を兼ね備えたスピノザを挙げたことに対して、サンデル、テイラー両氏とも、スピノザが東西思想の架け橋となりうる哲学者であろうと格別の関心を示したことを、特記しておきたい。
(山脇 直司)http://homepage2.nifty.com/public-philosophy/yamawaki5.htm
アメリカにおける朱子学の大家として名高いドバリー氏は、約20年前に朱子学とリベラリズムの親近性を論じて注目を浴びた学者であるが、最近ではむしろ儒教を一つのコミュニタリアニズムとみなして、その現代的意義を論じる傾向が強まっている。そこでまず、彼が一体どのような問題提起を行うのかに、参加者の関心が集まった。その彼は、朱子学が仏教やエスノセントリズムにはない普遍主義的倫理を持ち、しかもその理気思想が宇宙論的射程を持つが故に、地球的規模でのエコロジー危機に対処しうる公共哲学になりうることを指摘した。そしてさらに、儒教には「人民による政治」という伝統はないものの、統治者が常に民意を汲み取り「人民のための政治」を行うという意味での公共性の伝統が存在している点を強調した。(略)、ドバリー氏は、侍文化によって歪められた日本の儒教・朱子学と異なり、本来の儒教・朱子学には人権思想や制度変革思想が存在することを改めて力説した。
(同上)
ハイネの生を受けた社会は、フランス革命の影響の強かった19世紀初頭の十年間においてすら、スピノザの十七世紀オランダの社会よりも遙かに遅れていたのである。*1
で二十一世紀の日本はどうかというと、スピノザの社会より遅れているとも言える。近代を通り越して超近代に至ったはずのわが日本でいくら何でも、という気もするのだが。
卒業式における君が代斉唱問題に出会い、ブログで他の方の体験とも交流できて考えを深めることができた。なぜいまごろ愛国心なのか。靖国参拝とシンクロする愛国心とは、戦前との連続性の強調でしかない。「生きて俘虜の辱めを受けず!」として国民を死に追いやったことへの反省がどこにもない。それでも何が何でも愛国心なのだと言う。何故かと言うと、それは結局日本にはそれしかないから、だろう。民衆の不安や空虚を埋めるべき宗教的なもの、日本にも神仏混淆を始め豊富な伝統があったのだが、教育勅語以後それを国家神道にむりやり統合してしまったため、豊富な水脈はほとんど失われてしまった。上からの国家統合のために、「民衆の不安や空虚を埋めるべきもの」を求めるものたちは愛国心(靖国的なもの)の復権だけを六十年間願い、多くの努力と金銭を掛け地道に努力してきた。それは成功した。
かわいそうな日本はどこへ行くのか。
*1:p40『非ユダヤ的ユダヤ人』I・ドイッチャー岩波新書1970年