地球の人口をこえて

http://d.hatena.ne.jp/dempax/20050512#p1

「10億人の小人」問題を解いてみた. → #9,2625,8177 が最後に残る.

(野原)

1000億の場合、 62,561,046,529人目に成りますね。

1兆の場合、  350,732,558,337人目。

10兆の場合、 2,407,813,955,585人目。

百兆の場合、59,262,511,644,673人目。

千兆は、311,150,139,736,065 。(?)

次は、1,985,601,490,518,020 !!ここでエラー。偶数になっている。

1,985,601,490,518,017 でしょうか?

確かに一致はする

上のエクセルの式で

A4に a=+D3+C3 と書きました。(a3-b3-c2+c3と同じ)これを、

A4に aa=+b3  に変えてから下にずっとコピーしても、C列の結果は変わりません。

1と0が並んでいますが、これを下から読むと

入力数字の2進法表示になります。

例:1000 ->1111101000

これを最初の1を削って、最後に1を追加し10進法に変えると、答えに成ります。

(2のk乗) > n > (2の(k-1)乗) の場合、( n- (2の(k-1)乗))×2+1

で答えが出るというのがdempax方式ですが、これを2進法で表現すると上記のようになります。

(5/14 22時)

(削除予定)メモ

旧い計算式A4をaとします。  a=+D3+C3 

D3=+A3-B3-C2 なので、 a=A3-B3-C2+C3 です。

新しい計算式A4をaaとします。 aa=+B3

A3=B3*2+C3 ですから a=B3*2+C3-B3-C2+C3=B3+C3*2-C2 になり

aとaaの差 a-aa=C3*2-C2 になる、と思いましたが、ここが間違いです。

つまり、新しい計算フォームでのB3(一般にBn)(区別のためにβと呼ぶ)と旧い計算フォームでのB3(一般にBn)は一致しません。

(以下考え中)

難しい問題とは思わなかったのに!

ええと別にそれほど難しい問題では無かろうとは思いながら、日曜日から解けずに(文章にできずに)いました。

正しい答えを与える(に違いない)二つのフォーム(テンプテートといった方がよいのか)がある。なぜその二つが同値になるのかを説明せよ、という問題です。野原フォームと2進法フォーム。前者はややこしいので後者の表記法を基準にする。

後者は基本的に一つの式しかない。

α(n)=α(n+1)*2+γ(n) γは0か1です。

前者はややこしくてすっきりしません。A列をA(n)、それを2で割った余りC列を C(n)とする。

ややこしいのはA(n)の定義にC(n-2)がからんでいるからです。

具体的な例で考える。

与えられた数が102の場合。

(1)

C(0)=0 A(1)=102 C(1)=0 、 この場合A(1)=α(1) C(1)=γ(1)=0 

(2)次に、

α(2)=51 で、C(0)=0,C(1)=0 ですから

A(2)=A(1)-B(1)-C(0)+C(1)=A(1)-B(1)=α(2)

C(2)=γ(2)=1

(3)次に、

α(3)=25 で、C(1)=0,C(2)=1 ですから

A(3)=A(2)-B(2)-C(1)+C(2)

A(2)-B(2)=α(3)+1 -C(1)+C(2)=0+1=1 ですから

A(3)=α(3)+2=27

C(3)=γ(3)=1

(4)次に、

α(4)=12 で、C(2)=1,C(3)=1 ですから

A(4)=A(3)-B(3)-C(2)+C(3)=A(3)-B(3)-1-1=A(3)-B(3)

=α(3)+2-B(3)=(α(4)*2+1)+2-(α(4)+1)

=α(4)+2 偶数となりなんとか

C(4)=γ(4)=0 と同位相になります。

(5)次に、

α(5)=6 で、C(3)=1,C(4)=0 ですから

A(5)=A(4)-B(4)-C(3)+C(4)=A(4)-B(4)-1+0

A(4)=α(4)+2=α(5)*2+2 B(4)=α(5)+1 したがって、

A(5)=(α(5)*2+0)+2-(α(5)+1)-1

=α(5)+2-2=α(5) 偶数となりなんとか

C(5)=γ(5)=0 と同位相になります。

以上で、C(n-2),C(n-1) が、(0,0)(0,1)(1,1)(1,0)

の場合、すべてを当たった結果、

A(n)とα(n)の差は、0か2であり、したがって

C(n)とγ(n)は常に等しいことが分かった。

・・・

(数学的には不充分かもしれないので誰か指摘してください。)

(5/18 21:41)

スピノザ~儒教

でぐぐって見たら、こんなのがあった。メモしておこう。

そしてまたここで、筆者が比較社会思想研究の恒例として汎神論と多元的民主主義思想を兼ね備えたスピノザを挙げたことに対して、サンデル、テイラー両氏とも、スピノザが東西思想の架け橋となりうる哲学者であろうと格別の関心を示したことを、特記しておきたい。

(山脇 直司)http://homepage2.nifty.com/public-philosophy/yamawaki5.htm

アメリカにおける朱子学の大家として名高いドバリー氏は、約20年前に朱子学とリベラリズムの親近性を論じて注目を浴びた学者であるが、最近ではむしろ儒教を一つのコミュニタリアニズムとみなして、その現代的意義を論じる傾向が強まっている。そこでまず、彼が一体どのような問題提起を行うのかに、参加者の関心が集まった。その彼は、朱子学が仏教やエスノセントリズムにはない普遍主義的倫理を持ち、しかもその理気思想が宇宙論的射程を持つが故に、地球的規模でのエコロジー危機に対処しうる公共哲学になりうることを指摘した。そしてさらに、儒教には「人民による政治」という伝統はないものの、統治者が常に民意を汲み取り「人民のための政治」を行うという意味での公共性の伝統が存在している点を強調した。(略)、ドバリー氏は、侍文化によって歪められた日本の儒教・朱子学と異なり、本来の儒教・朱子学には人権思想や制度変革思想が存在することを改めて力説した。

(同上)

反普遍を求める日本

ハイネの生を受けた社会は、フランス革命の影響の強かった19世紀初頭の十年間においてすら、スピノザの十七世紀オランダの社会よりも遙かに遅れていたのである。*1

 で二十一世紀の日本はどうかというと、スピノザの社会より遅れているとも言える。近代を通り越して超近代に至ったはずのわが日本でいくら何でも、という気もするのだが。

卒業式における君が代斉唱問題に出会い、ブログで他の方の体験とも交流できて考えを深めることができた。なぜいまごろ愛国心なのか。靖国参拝とシンクロする愛国心とは、戦前との連続性の強調でしかない。「生きて俘虜の辱めを受けず!」として国民を死に追いやったことへの反省がどこにもない。それでも何が何でも愛国心なのだと言う。何故かと言うと、それは結局日本にはそれしかないから、だろう。民衆の不安や空虚を埋めるべき宗教的なもの、日本にも神仏混淆を始め豊富な伝統があったのだが、教育勅語以後それを国家神道にむりやり統合してしまったため、豊富な水脈はほとんど失われてしまった。上からの国家統合のために、「民衆の不安や空虚を埋めるべきもの」を求めるものたちは愛国心(靖国的なもの)の復権だけを六十年間願い、多くの努力と金銭を掛け地道に努力してきた。それは成功した。

 かわいそうな日本はどこへ行くのか。

*1:p40『非ユダヤ的ユダヤ人』I・ドイッチャー岩波新書1970年

靖国問題

 小泉首相は靖国に平和を祈りに行くそうだが、冗談ぽい。靖国参拝のおかげで日本は永遠に米国の属国だというのに。イラク占領への加担が大東亜の大義に反さないとでも言うつもりか。

先日(5/15)の朝日新聞に、高橋哲哉『靖国問題』ちくま新書の書評が出ていた、野口武彦氏による。

 野口による論旨要約(の要約)

1)<国民感情>「戦死の悲哀を幸福感に転じていく装置」がヤスクニ。

2)<歴史認識>「A級戦犯合祀をめぐって、アジアの戦争で莫大な被害者を発生させた植民地主義との関係を直視すべし」

3)<宗教>神社非宗教論は間違いだ。

4)<伝統文化>靖国信仰を「死者との共生感」に還元するのはまやかしだ。靖国は死者を選別する装置だ。*1

5)<新追悼施設案>

どんな追悼施設も政治に反戦平和の意志がない限り、いずれ「第二の靖国」に転化するだろう、という予言。

野口は“(国民の間に多様な思いがあるが)それが感情の問題ならどれもが心情としてはもっとも、”みたいな感想をもらす。

明治2年設立以来の靖国の歴史。・・・「神聖な境内に戦場の死者の霊魂が迎えとられて永遠に眠る。この安息感は純粋無垢な宗教感情でなくて何であろうか。ゆえに首相の靖国参拝は政教分離を定めた憲法第20条に違反する」と高橋は言っている(そうだ)。

これに対して野口の立脚点は違う。(野口も靖国参拝には否定的みたいだが)

「招魂社の夜店・見世物は昔の東京名物で、例祭の日、境内にむらがる群衆には怪しげで猥雑な活気が溢れ、アセチレン燈の臭気がせつなく郷愁をかきたてていた。《靖国感情》はこのドロドロした底層から、死者と生者が同一空間で行き交う精霊信仰の水を吸い上げている。この泉に政治が手を突っ込むのは不純だ。民衆みずからがそう感じることが大切なのではないか。」

「宗教」というのは明治期に西欧から入ってきたカテゴリーにすぎない。それに対して憲法20条は、戦前戦中の国家神道強制に対する直接の反動を強い動機として成立したものである。にもかかわらずその歴史性は20条の文言には書き込まれず、「信教の自由」「宗教」について抽象的に規定されているだけだ。「国民が国家神道強制の被害者であった」という事実はなかった、または記憶から抹消されている。

<死者と生者が同一空間で行き交う精霊信仰>がわたしたちにリアルなものなのであれば。平将門に習合した北一輝を祭り上げることが早急に必要なのかもしれない。

・・・

*1:死者が神になるのなら、東条を入れて、北一輝を入れないのは何故だ。野原

「存在」っていったい何?

 存在とは、being,Sein,etre,esse(アクサン省略)であり、「あること」である 。だがそれでは何のことか分からない。

「その本性が存在するとしか考えられないもの」からスピノザの『エチカ』は始まっている。「(あるものが)あるかないか」は単純な問題で、哲学の問題ではないとわたしは思ってしまうがそうではなく、それこそが哲学なのだ。どういうことなのか、分からない。

 八木雄二『中世哲学への招待』isbn:4582850693という本は、西欧人は(日本人を含む)アジア人とはまったく違った感じ方考え方を根源的にしているのだ、ということを解説しており、とても興味深い本だった。

その本のp88-89に次のような部分がある。長いが引用する。

 でも結局分からないのだが。

 さてアンセルムスは、神の存在証明をつぎのように始める。すなわち、まず「それより大いなるものが考えられないもの」という概念を知性のうちに構成する。この概念が実在のうちに対応物をもつかどうかは、まずは考えの外である。そしてこの概念について考えてみる。アンセルムスによれば、神を信じない愚か者だろうと、この概念を考える知性はもっていると言う。そしてかれによれば、単なる概念としての存在は、知性のなかにしかないのだから、知性のなかに在ってなおかつ知性の外にも在るものの方が「より大いなるもの」であると言う。言い換えると、存在するという完全性の点で、知性のなかにしかないものより、知性のなかにも外にも(すなわち、両側で)存在するものの方が、優秀である、ということである。アンセルムスは、このことは客観的事実、言い換えれば学問的に認められる事実だと考えている。

「現実にも存在するものの方が、わたしたちが考えているだけのものより優れている」というこの観念は、たぶん日本人にはなじみがない。仏教的無の観念からすれば、優秀さの問題と存在の問題は無関係である。実際、在った方がいいものと同じく、無い方がいいものも世の中にはたくさんある。非存在より存在を有意義と見るヨーロッパ精神のもつ傾向は、やはり歴史的なものだと言うべきである。

 プラトンの場合も、善(最高価値)は存在を超えるが、存在と近縁な関係にあることは間違いない。この関係は、かれより二世代から三世代ほど先に生きて、古代ギリシア哲学に論理の力を見せつけたパルメニデスから受け継いだ「存在と論理の一致」の思想と関係するし、キリスト教の場合「神が世界を創造したし、現在も創造し続けている」という観念と関係していて、何が理由とも言い切れない。しかし、存在にこそ意義があって、非存在には意義がない、という思想は、ヨーロッパの思想に一般的な原理である。この思想を真っ向から否定した思想家はヨーロッパにはいない、と言ってもいい。プラトンと対比されるアリストテレスも、アンセルムスの証明を否定したトマスも、この点では一致しているのである。

 それゆえ、ヨーロッパの歴史に敬意を表することにしよう。つまりこの原理を認めて、単なる概念よりも実在もするものの方が「より大いなるもの」であるとするならば、一挙に、つぎの結論が出てくる。「それより大いなるものが考えられないもの」は、確かに、「実在する」。

 なぜなら、もしもそれが実在しないと考えられるなら、実在する、と考えられたものの方が「より大いなるもの」だからである。そして「実在する」と考えられたもの、そのように理解されたものは、わたしたちが普段、周囲に在るものについて「実在する」と理解しているように、現実に実在する、と言うほかないものである。こうして、「より大いなるものが考えられ

ないもの」は、考えられるだけではなく、実際に存在する、と結論され、神の存在証明が終わる。

p88-89 八木雄二『中世哲学への招待』

 この証明を概念から実在への「飛躍」と見るかどうかは、「存在と論理の一致」をどこまで認めるかにかかっている。「存在の有意義性」の方は、すでに述べてきたように西欧一般に認められた存在の価値観として西欧内部では問題にされない。だから知性のなかで考えたことがどこまで実在と一致するかは、もう一つの問題なのである。

p90 八木雄二『中世哲学への招待』

天地の始は今日を始めとする理なり。

北畠親房『神皇正統紀』p83(岩波日本古典文学大系)