君が代~愛国心(4/3追加)

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20050328#p2

紹介が遅れましたが、上記で

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050318

からはじまった、君が代~愛国心についての錯綜した議論の

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050327

までの簡単なまとめが、記されています。

index-homeさん、 hal44さんのブログにも記事があります。

spanglemakerさんのブログにも。

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20050329#p1

またスワンさんは、上記でクローズアップ現代の反響(多数のブログのまとめ)をされており、コメント欄も賑わっています。

「卒業式に思う」を読んで。

id:azamiko:20050312「卒業式に思う」を読んで。

 長女Kは18になったばかりですが、11日都立高校を卒業しました。ひとまづ、親としての役割は解任されたと思っています(やれやれ)。

 この文章が感動的なのは「親としての」存在性から書かれているからだ。わたしの体験談「わたしは君が代の強制には反対なので、その時だけ着席した。http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050318#p2」 が1分間ほどの一人の個人の内心の自由の行使であり、それ以上の波紋を投げかけなかったものであることと対比し、興味深い。*1

「親として」という言葉に家族制度イデオロギーの臭いをかぎ取り反発してみせるフェミニズム系の言説は、自己の欠落を発見していくべきだろう。

卒業はしたもののその卒業にまつわるもろもろがなんとも釈然としないままなのです。もう、卒業したのだから関係ないといえば、そうなのですが、東京都の公立学校に通う、これから通おうとしている人たちには関係のない話とは思えません。

 わたしたちの日常は常にそんなふうにとおりすぎる。持続している必ずしも些細とはいえない不条理であるかもしれないが、とりあえず私が関わっている部分については、「問われなければいけない大きな問題」そのものではないし、ちょっといまは忙しいしその問題はパスしておこう。日常とはそんなふうに過ごさざるを得ないものではある。しかし、それだけで良いのかといえば、いけない! 少なくとも一生のうち何度かは、かっこわるくとも孤立しようとも声を挙げるべきなのだ。そうでなければただの奴隷だ(とわたしは思う)。

ところで、卒業式と「卒業証書授与式」は違うものなのだろうか?、そう言えばうちの小学校でも後者の方だった。なぜ親しみにくい言い方をするのかとちらっと思っただけだったが。

学校全体で、卒業生を祝うのではなく、校長が各クラスの生徒代表に証書を授与するための学校長主催の会。つまり、校長の決定した形式にのっとり、遂行されるものなのだとか。卒業授与式って。

卒業式の主人公は卒業生です。多くの歌謡やドラマにうたわれる通りですね。法的には学校長主催だという。それも間違いではない。国家とは公共の福祉であり、その場が盛り上がるためのコーディネーター兼仮の名宛人として国家=校長がいるだけだ、と考えれば、両者は矛盾しない。

なぜその場が盛り上がることが必要かといえば、わたしたちは最小のパトリ(原郷)、最小の祭り無しには(おそらく)生きていけない存在であるからだ。国家の方もこのことを強く望んでいる。君が代は心から唱われ、卒業式は祭りとしてのカタルシスを得られるものでなければならない。「強制された君が代」がナンセンスということは彼らが心から思っていることだ。ではなぜ彼らは「強制し続けるのか?」*2それは20年後を見すえてのことだろう。継続すればそれが伝統になり誰も疑問を持たなくなる。

 だが本当にそうか。戦後日本は60年も安定的に継続している。国民の意識の均質化は他のどの国家よりも高い(たぶん)。にもかかわらず現在、卒業式の君が代問題については(たぶん)1割以上の不満分子を解消できない。彼らの目的と根拠は、国民統合とその自然さである。であるならば、彼らもまた敗北しているのではなかろうか。

司会者のかけ声に、式が始まってすぐに全員起立、礼。空っぽの壇上に向かって、礼をします。うっかり礼をしてしまいました(笑)。はい。それから、そのまま「国歌斉唱」。そこで座る人はわずかです。立っている人も歌っている人はわずかでした。地域によっては君が代斉唱の音量まで調査していると言いますが(笑)。いったい、なぜ、ここまでして日の丸や君が代をするのでしょうか?なぜ?

つまりは従わせるためにやっているとしか思えないのですね。

 「立っている人も歌っている人はわずかでした。」というのがわたしの体験と一致する。で私が座った事に対し、回りの反応は全くなかった。これは考えると不思議なことにも思える。大衆の中で一人だけ違った行動をすれば、とがめるような空気が走るのが普通だろう。大衆もまた、「国家斉唱に着席する」というマイナー文化があることを知っているのだろう。

 「心をこめて歌う」という自発性が発生するよう彼らは50年努力してきたが、まだ道は半ばだ。

実は前日、学校へ出かけました。長年お世話になった先生方にお礼と親からのメッセージを伝えるためです。

(略)お弁当を作る以外はノータッチ、お任せでこれたことをほんとうに感謝しています。ひとつにはそういう感謝の気持ち。そして、もうひとつは東京都が日の丸掲揚、君が代斉唱に関して、教師を大量に処分しているが、強制的なやり方に反対し、先生方が自己の意思に従い行動されることを支持するというメッセージを伝えるためです。

それ以前に、教師たちは公務員である前に、日本国民であり、思想・信条において、不利益をこうむることがあってはならないはずです。東京都が処分すること自体が憲法違反です。

 azamikoさんとわたしの最大の違いは、目の前にいる先生たちへの距離感、親近感ですね。教師たちと連帯する、というそういう発想が私にはなかった。君が代強制の問題が顕在化している東京都とそれ以外の地域との落差という問題はありますが。

「教師たちは公務員である前に」という文が前提にしているのは、公務員は職務命令に従うべき存在だという規定であろう。しかしそれより先に、公務員は「全体の奉仕者」(憲法15条)である。ここに儒教の「中庸」というものを読み込もうとすることは不当ではない。「道の行われざるや、我これを知れり。知者はこれに過ぎ、愚者は及ばざるなり。」聡明な人は知恵にまかせて出過ぎたことをする、と。全体が全体であるということの確認は揺るがしてはならない絶対的要件であるでしょう(儒教にとって)。しかしそれは強制によっては達成できないものなのです。

 ここからazamikoさんの卒業式前日の学校での行動の記録が始まる。学校にしょっちゅう行く(行かざるを得ない)父母(母父)もいるがほとんどいかない親も多い。わたしは後者だったが、推測するにazamikoさんの場合、(高校はともかく)小学、中学時代は前者の経験があったのだろう。学校は官僚組織ではなく親と一緒に共通の目的を達成すべき共闘者であるととらえている。

(先生に渡すべき手紙を)「それをコンビニでA3で2枚つづりにコピーし、学校の事務室で裁断機を借りて切りました。」という細部も興味深い。すべての表現はコピーであり、コピーにはしばしば高価な機械が必要である。必要があればわたしたちは学校にそれを借りに行くべきであるし学校はそれを拒否すべきではない。こういう文体で語ってもつまらないが、それを身体化できるかどうかは大事なことだ。

さてazamikoさんのやろうとしたことは、先生たちに自分たち3人が書いた手紙を渡すことでした。ところがそれに対して次のような対応が為されました。

しばらくして副校長が来て、

「学校の配布物に関してはすべて学校長の許可がいるということに今年の1月からなりました。前半は構いませんが、後半の東京都教育行政を批判した部分を削除していただければ配布できます」

「先生に検閲を受けるつもりはありません。これは、配布物ではなく、親からお礼とともにお渡しするお手紙です。配布物に関する公式文書があるというならみせてください」と私。

公式文書は「学校から生徒及び保護者に配布する文書にかかわる取り扱い基準」。つまり、生徒、保護者に配布するものに関してで、教師への配布物ではありませんでした。

 副校長は分かっていてなお「学校の配布物」の範囲を拡大解釈して市民を威圧しようとした。わたしが電話した市の教育委員会の担当者も「学習指導要領の法的拘束性」だけを強調しそれが生徒や父母には当然及ばないことを口にしなかった。まずここを軽くクリアーして次のステージへ。

どうもありがとうございました」

と言って、事務室を出て、各教員室(教科ごとに教員室が分かれています)に出向きました。構内を迷いながら、社会科、英語科、家庭科の教員室をみつけて入ってゆくと、予行に出ていたり、出講日ではないので欠席していたりで、少人数でしたが、いらした先生にお礼と手紙を渡し、いない先生の分は受け取っておくといってみなさん、とても快く受け取ってくださいました。家庭科を出たところで再び、副校長に出くわして、

という風に書くと本当にRPGみたいだな。ここでバトル。

副「これ以上、構内を歩かれては困ります。しかるべきところに連絡します」というので、

A「しかるべきところというのは?教育委員会ですか?」

副「それだけではなくて・・・」

A「警察ですか?」

副「・・・そうです」

Aさんがここで激したりすると、(RPGなら衛兵)がやって来て即座に拘束されてしまう。日本国でも拘束の可能性はあった。学校の敷地内ですから。

校長を待てと再度指示され待つ。・・・校長登場。

校「教育というのは強制をともなうものです。

シニカルに言うと、教育とは強制を自発性であるかのように勘違いさせることであり、それは実際成功しているわけで、君が代についてだけ成功しないのならその理由を自分に問うべきなのだ。

日本は法治国家で、私は公務員として公務員法にのっとって職務を遂行しています。

あなたは手紙と言われますが、これを手紙だとは思えません。都の教育行政を批判した文書です。そういう文書を構内で配られては困ります。お断りします」

 文書の性格は校長が判断する。そして構内で配ることは禁止する。法的に正しい禁止かどうかはともかく、禁止はなされる。

校「私は公務員ですから、職務に従います。今の都政に反対ならば、そういう運動をおやりになればいい。すべて、政治は戦いですからね。今はこういうことになっているのです。あとのことは、歴史がすべて判断してくれるでしょう」

A「歴史が判断してくれるでしょうって、歴史を作るのはあなた自身ですよ。校長の裁量の範囲だというにもかかわらず、手紙一枚先生に渡すことを拒否するというのは、自主規制以外のなにものではないでしょう!自分の首を自分で締めているようなものですよ。そう思いませんか?」

校「構内で配ることをお断りします」

A「先生の裁量の範囲だというのに、そこまでなぜ拒否されるのですか?先生の許可を得るつもりはありません。これは配布していただく文書ではありませんので。個人的に先生にお渡しするお手紙ですので、失礼します。ありがとうございました」

校「校長の権限で、構内の立ち入りをお断りします」

さていよいよ警察を呼ぶボタンが押されそうだ。Aさんは賢明にも退却する。

私の書いた手紙に、なぜこれまで拒否反応をおこさなければならないのでしょう。

何の強制力もない、保護者3名連記の一枚の手紙に。

彼らには守らなければならない物がある。それが(強制による)自発性という矛盾に私たちからは見えたとしても。

以上。リンク先を読んで頂くだけでいいのだがわざわざ拙い要約を作ってしまった。わたし自身の存在様式はazamikoさんより校長に近いのではないか、との疑問も発生した。

この問題にも関連する、この間のazamikoさんとアレクセイさんとのコメント欄でのやりとりも興味深かった。

*1:自己嫌悪的にならないでもない。

*2:現在、東京都などとそれ以外の府県では強制の度合に違いがあるわけですが。

「多数派としての」批判

terutell 『azamikoさんのブログに投稿したのですが、反映されないので、こちらに再投稿します。

azamikoさん、はじめまして。noharraさんのブログから来ました。

まるで2ちゃんねるみたいなコメントがたくさんありますね。

azamikoさんへの批判的コメントのなかで、気になるのは、おまえは少数派だ、ということを言い募るものです。

これまでしばしば、そういう態度を相手への批判非難に使う意見を、Yahooの掲示板でも、ブログでも、見てきました。おまえは少数派だ、サヨクだ、プロ市民だ、わたしは世間の多数派だ、良識派だ、常識がある。

この図式化にのっとって、相手を批判することに疑問を抱かない。

多数派であることにあぐらをかく。

こういう批判非難のしかたは、民主的だと思いません。信用できません。多数派であることが正しいことの証明にはならないのに、数をたよって相手をおとしめ黙らせようとする。そのことに自分で気がついていない。今のブログや掲示板に蔓延するサヨクたたきの大部分は、自分達は論理的で正しくて常識があるというだけならまだいいのですが、たいてい多数派だと主張する、そこに卑怯さ、醜さを感じます。』

(野原燐)

terutellさん コメントありがとうございます。

いつぞやは大変失礼いたしました。(911の直後のことです)

 azamikoさんの方も沈静化しつつあるようでまずは良かった!

今後ともよろしく。

「あたりまえ」が支配する帝国

 国民だれもが納得する(すべき)理念において、愛国心が要請されるというのはフランスやUSAなど多くの国においてあることです。一方愛国心の名の下に権力者への一方的かつ全面的な強制が行われることもある。わたしたちの近い過去を、そのような全体主義だったとみなすかどうか、が論者の立場の違いになる(のでしょう)。

 さて、「日の丸君が代に格段の理念は存在しない」、という当局の見解を批判したいわけです。*1理念の不在をどう批判したらいいか?

 からくににして道という物も、其の旨をきはむれば、ただ人の国をうばはむがためと、人に奪はるまじきかまへとの、二つにすぎずなもある。……もとよりしかきたなき心もて作りて、人をあざむく道なるけにや、後の人も、うはべこそたふとみしたがひがおにもてなすめれど、まことには一人も守りつとむる人なければ、国のたすけとなることもなく、其の名のみひろごりて、つひに世におこなわるることなくて、聖人の道は、ただいたづらに、人をそしる世々の儒者どものさへづりぐさとぞなれりける。……

 道というのは儒教の基本理念です。宣長は儒教の理念を批判し別の理念を建てるのではなく、理念という物それ自体を否定してしまうきらいがあります。道とか偉そうに言っているが要は「他国を奪う」「自国を防衛する」に帰着すると。醜悪な心を以て作った欺瞞的な「道」にすぎない、と。

 かくてその聖人どものしわざにならひて、後々の人どもも、よろずのことを、己が智(さとり)もておしはかりごとするぞ、彼の国のくせなる。……

されど物のことわりといふものは、すべてそこひもなくあやしき物にて、さらに人の心もてうかがひはかるべき物にはあらねば、しひてあきらめしらんともせず、よろづの事はただ神の御はからひにうちまかせて、おのがさかしらを露まじへぬぞ、神の御国のこころばへには有りける。

人智を以て世界を規定してしまうという発想自体がいけないのだ、と。すべて、神のはからいにまかせるべきだと。

故(かれ)皇国の古へは、さるこちた(言痛)き教も何もなりしかど、下が下までみだるることなく、天の下は穏(おだひ)に治まりて、天津日嗣いや遠長に伝はり来坐り。さればかの異国の名にならひていはば、是れぞ上もなき優れたる大き道にして、実(まこと)は道あるが故に道てふ言なく、道てふことなけれど、道ありしなりけり。そをことごとしくいひあぐると、然らぬとのけじめを思へ。言(こと)挙げせずとは、あだし(異)国のごと、こちたく言ひたつることなきを云ふなり。*2

 しかし、「道」を否定する言説というものもよく考えると矛盾に満ちており自立できるのかどうか危ういところがある。つまり宣長は明らかに、他国(からくに)と自国を対比的に取り上げ、他を否定し自を肯定するために理屈をこねている。その理屈というのが、他国には「道、さかしら、言説」があり、自国においてはそんなものがなくともちゃんと治まっていた、というもの、であるわけである。しかし、宣長のそれもさかしらであり言説であることは宣長以外には明らかである。

 現在のプチウヨも執拗に「アサヒ、サヨク」を否定する。否定ではなく素直に自己の理念を語るべきだろう。

日本的政治の根本は神勅によって万世一系の天皇が統治することに存する。而してこれは宣長によれば、単なる理念ではなく、歴史的に実証されたる、また日々実証されつつある事実である。(丸山真男の宣長論の一部より)

http://www2s.biglobe.ne.jp/~MARUYAMA/tokugawa/norinaga.htm

 理念の代わりにあるものが、「万世一系の天皇」という事実である。1945年の敗戦においてヒロヒト氏が退位しなかったこと、そのことは万世一系という理念にあらざる理念を現在まで延命させている。

 わたしは日本人である*3。日本人である限り、日本の伝統を負っているそのことに誇りを持つべきだ、という人がいる。わたしはその断言に半分は賛成である。ディズニーランドなんぞでちゃらちゃらせずに宣長を読みたまえ? ただ「日本人である」ことの自明性から、国家国旗を肯定し、愛国心を肯定し、などなどという自同的論理の連鎖。これは実は、宣長に起源する特殊な言説のあり方である、といいうる。

*1:もちろんこれは今だけの言表であり、教育基本法改悪が通れば、「愛国心」の注入が大々的に行われるのでしょうが、それはそれで別の問題です。

*2:以上宣長からの引用は、子安宣邦『「宣長問題」とは何か』isbn:4480086145 のp61-66からの孫引き。だいたい「直毘霊(なおびのたま)」

*3:というのが本当かどうか?わたしは本当は日本生まれの韓国朝鮮人か中国人だがカムアウトしてないだけかもしれない、顔を知っている人でも区別はつかない

ある「愛国」の理念

 2ちゃんねるからの引用(らしい)。

http://www.2ch.net/index-right.html

 神皇正統記が大日本者神国なり、異朝には其たぐいなしという我国の国体には、絶対の歴史的世界性が含まれて居るのである。我皇室が万世一系として永遠の過去から永遠の未来へと云うことは、単に直線的と云うことではなく、永遠の今として、何処までも我々の始であり終であると云うことでなければならない。天地の始は今日を始とするという理も、そこから出て来るのである。慈遍は神代在今、莫謂往昔とも云う(旧事本紀玄義)。日本精神の真髄は、何処までも超越的なるものが内在的、内在的なるものが超越的と云うことにあるのである。八紘為宇の世界的世界形成の原理は内に於て君臣一体、万民翼賛の原理である。我国体を家族的国家と云っても、単に家族主義的と考えてはならない。何処までも内なるものが外であり、外なるものが内であるのが、国体の精華であろう。義乃君臣、情兼父子である。

 我国の国体の精華が右の如くなるを以て、世界的世界形成主義とは、我国家の主体性を失うことではない。これこそ己を空うして他を包む我国特有の主体的原理である。之によって立つことは、何処までも我国体の精華を世界に発揮することである。今日の世界史的課題の解決が我国体の原理から与えられると云ってよい。英米が之に服従すべきであるのみならず、枢軸国も之に傚うに至るであろう。』

これが、日本精神の真髄だ!と。かなり良くできているが、我が国は素晴らしいと言っているだけで、理念としては空白。(北畠親房の「天地の始は今日を始とする」という私が好きなフレーズが入っているので点が甘い。)

でも勇ましい気がするのでちょっとした戦争くらいならできるかも。

身勝手なこと喚き散らして(4/4追加)

http://d.hatena.ne.jp/azamiko/20050312

きびをむく少女の指先傷つきてラムの琥珀酒カリブの海より来たる – 梅の花もほころび。

azamikoさんのコメント欄が大変なことに!

fantomeye 『親とか教師の人からしてみれば自分たちはいいことしている、間違っていないと考えているのかもしれませんが、私達生徒の思い出を作る場に土足で入ってきて身勝手なこと喚き散らしている以外のなにものでもないんです。国とかのやり方に文句があるなら役所でやってください。(略)

(野原)

fantomeyaさん はじめまして

「私達生徒の思い出を作る場に土足で入ってきて身勝手なこと喚き散らしている」のは、横山教育長の側か?、それとも処分された教師の側か?

「子供たちが主役の舞台」を勝手に変更して「日の丸を正面に据える」よう変更を命じたのは東京都にすぎません。

もし自分の子どもがあなたと同じような考え方だったらと思うと恥ずかしくて顔から火が出そうです!

粛々と式典を行いたい

# fantomeye 『呼ばれたので出てきました。日の丸が正面だろうが歌うのが君が代であろうが、私達生徒はそれを粛々とやるだけの話です。日の丸が正面だったからなんだというんですか? 難癖つけて式典をぶち壊す大人のほうがよほど迷惑です。日の丸が正面にあったからって卒業式の思い出は清いままですが、そこで思想ふりかざしてゴネる大人が居るほうが、思い出にとってはよほどマイナスなのです。部外者が勝手に思想を持ち込んで騒がないでください。』 (2005/04/04 08:53)

# 1 『井の中の蛙 未だ大海を知らず

2ちゃんねるってしってるんだからそこへおいでよ 自分の家のトイレで落書きしても、恥ずかしいのも知識や意見を聞くことは出来ないよ

便所の落書き 結構じゃないですか、一度便所と言われる其処を見た方が

貴兄の為だよ』 (2005/04/04 11:23)

# snusmumrik 『全くひどい話です。以下、本宮ひろ志先生を支援する勝手連(通常時・ネット右翼問題を考える国民会議)の投稿ガイドラインから引用させていただきました。

http://sinrigakukenkyu.ameblo.jp/entry-2b60315ab5ef442bdb67193199b7f2c4.html

この辺が参考になるのではないでしょうか。

「当ブログで初めてコメント欄を利用される際、(中略)ハンドルネームとお持ちのウェブログのURLを明記してください(お持ちでない方はハンドルネームのみで)。私は当ブログを家の一部のようなものと考えておりますが、他人の家を訪問する際に名を告げて挨拶をするのは当然の振る舞いでしょう。挨拶というのは人倫の根本です。挨拶もできないくせに偉そうに国民の義務を語る方は早々にこの場を立ち去って義務教育をやり直してください。」』 (2005/04/04 13:21)

# mikogami 『初カキコさせて貰います

東京都の命令であると判っているなら

東京都に対して政治活動を行えばいいのです

これ以上生徒や教師を苦しめないでください』 (2005/04/04 14:15)

# 転載 『文句があるなら、こんな他人のブログでコピペ思想を振り回してないで、

自分の嫌いな教師なり日教組なりに直接言えばいいのですw

これ以上ブログ主を苦しめないでください。笑いすぎの腹痛でw

だいたい何が「私達生徒は」だ。

今日びの生徒が「粛々と」なんて物言いを、いったいどこで覚えるかってのw

さあ、これでもくらって帰れ帰れ。

▼【テンプレ】日の丸・君が代の強制を無効化するアクション!(処分不可能)

http://ch.kitaguni.tv/u/8016/%a1%da%a5%c6%a5%f3%a5%d7%a5%ec%a1%db/0000187681.html

▼アムネスティ・インターナショナル日本

「君が代」斉唱の強制に人権上の強い懸念を表明

http://www.incl.ne.jp/ktrs/aijapan/2004/0406090.htm

▼天皇陛下が「日の丸・君が代強制」に懸念を示されました

http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/ann/20041028/20041028-00000038-ann-soci.html

宮内庁、このご発言を「日の丸・君が代を強制しない」という国旗国家法制定時の首相発言や政府方針にそうものだと言明。

http://www.asahi.com/politics/update/1028/003.html

南野知恵子法相も「自主性に任せるべき」と発言。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20041029-00000052-kyodo-pol

天皇・宮内庁・法相がダメだというものを、

なにゆえ校長が強制できるのか。

愛国者を自称するならば、大御心の深さを思い、いますぐ教育現場への強制をやめましょう。

強制するものがあれば、それはもはや朝敵・国賊ですw

石原都知事と東京都教育委員会、およびその子飼いの校長たちは

海よりも深く反省しなさい。

他人のブログに、事実や根拠の示せない感情論をまきちらすステハン・捨てはて名どもは

日本人として恥を知りなさいw』 (2005/04/04 16:42)

# ぶらふぁ~ 『>今日びの生徒が「粛々と」なんて物言いを、いったいどこで覚えるかってのw

オマエみたいな頭の悪い大人等及びもつかない程、今の若者は国語に通じてるよ。

ハイティーンが昨今の文学賞を総なめにしている現状をなんと見る?』 (2005/04/04 19:11)

# mikogami 『うわ…痛々しいな…

この長文書いてる人は管理人さんじゃないよね?

管理人さんならもう来ませんけど』 (2005/04/04 19:42)

# fantomeye 『いやですねー、所詮生徒ごときが、子供ごときが、みたいな感じが見え見えで。ご自分の学生時代を基準にして考えないでいただきたいものです。生徒がこーいう物言いするのは信じられませんか?それこそ偏見ですよ。私の物言いが不自然と感じるなら、小学生が日の丸君が代に反対するのも不自然極まりないと思われてますよね?』 (2005/04/04 20:16)

# fantomeye 『転載さんの学生時代がいつごろか知りませんが、今はネットがこれだけ発達した時代です。その気になりさえすれば私のような学生でも活発な議論の場に参加できますし、そこでの物言いに影響を受けることも出来ます。転載氏はよほどボキャブラリーの貧しい子供時代を送られていたのかもしれませんが、それをもって現在の標準だと思い込まないで欲しいですね。』 (2005/04/04 20:19)

誰が式典をぶち壊したのか?

(野原)

fantomeyeさん

「難癖つけて式典をぶち壊す大人のほうがよほど迷惑です。」と言われるが、azamikoさんはもちろん、去年今年処分されたたくさんの教師たちのうちで、「式典をぶち壊す」なんてことをした(できた)人は一人もいないです。

万一いるのだったら教えてください。前の日に手紙を渡しに行ったり、黙って座ったりしただけでしょう?

 式典の「粛々たる」進行が、妨害された例をまず挙げてください。

それがないのなら、普通の生徒なら何も問題は無いはずです。あなたは最初からイデオロギー的な過剰反応をおこしているのに、それをうまく無垢な生徒であるかのように偽装しているだけだ。と私には思えます。

知性の不在

http://d.hatena.ne.jp/spanglemaker/20050404#p1

意見が食い違わない範囲で「子どもたち一人一人が主人公」という認識なのか、単に高校生はもはや「教育」の「主人公で」はないのか。

「教育とは」「子どもたち一人一人が主人公である」と野原が書いたことと、わたしが fantomeyeさんの発言を否定したことが、矛盾していると、spanglemakerさんは指摘する。しかし、そうは思いません。

今回はfantomeyeさん個人の意見を問題にしているわけで、生徒会の決議でもなんでもない。「当局の指導する形の卒業式が正しく、それに反対するものは破壊者である」という論理は、「子どもたち一人一人が主人公である」と矛盾する。わたしだけでなく多くの人がそう思うだろう。