教育御意見箱

文部科学省は教育御意見箱というものを設けています。

http://www.mext.go.jp/a_menu/goikenbako/index.htm

特に学校現場における教育活動について日頃感じた疑問や御意見、全国に紹介したい学校や教員の優れた取り組みなど、文部科学省ホームページで国民から広く募集し、スクールミーティングと相まって、現場に根ざした教育改革や施策の推進に役立てるため「教育御意見箱」欄を設けました。

(開設期間:平成17年3月18日から平成17年5月30日)

教育指導・教材(goiken01@mext.go.jp)、教科書(goiken02@mext.go.jp)

児童生徒の問題行動などへの対応(goiken03@mext.go.jp)

学校安全(goiken04@mext.go.jp)

性教育(goiken05@mext.go.jp)、男女平等教育(goiken06@mext.go.jp)

学校と家庭、地域との連携など、子どもの育ちの環境(goiken07@mext.go.jp)

その他(voice@mext.go.jp)

< 電子メールの場合>

・ 次の項目全てについてご記入の上、ご送付ください。(電子メール本文にコピーして貼り付けてください)

(氏名)

(性別)

(年齢)

(職業)

(意見)

・ セキュリティの関係上、添付ファイルは開くことができません。ご意見・ご要望は必ず電子メール本文に記入してくださるよう、お願いいたします。

・ お寄せいただいたご意見・ご要望の内容は、氏名を除き、全て公表される可能性があります。

・ ご意見・ご要望の内容は、300字程度(目安)におまとめください。

 日の丸君が代と並んで、いま政治的焦点になっているのは「性教育(goiken05@mext.go.jp)、男女平等教育(goiken06@mext.go.jp)」ですね。

バッシング勢力に負けないように、メールしてみましょう。

君が代百年戦争とは?

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050329#p1 で「日の丸君が代百年戦争」というタイトルを使ったが、意味を説明していなかった。

文部省は、一九五八年一〇月一日、小学校の新学習指導要領(新たに文部省告示として公示)に法的拘束力を付与するとともに、「音楽」のなかで「『君が代』は…児童の発達段階に即して指導する」とし、

http://www.asahi-net.or.jp/~si8k-nmmt/98-08-07kanagawa.htm#%87V 

当てずっぽうに50年と思っていたのだが正確には48年前に、学習指導要領に「君が代」が登場した。そしてそれ以来文部省と日教組及び他の反対派との間で、熾烈な(時には緩慢な)闘争が継続されてきた。

幾つかの画期*1を経て、現在「教師側」が完敗の状態になった。

 しかしながら、君が代の問題は教育問題ではない。当然ながらナショナリズム、国家への感情の問題である。現在多い目に見ると「君が代の強制」に反発する市民は約半分。上手くいけば十年でこれを数人にすることができるだろう。そうなってはじめて、「諸外国と同じように」君が代は皆で大きな声で唱われ、わたしたちは同一性を確認できるだろう。

 それとも「君が代の強制」に対する国民の反発は意外と根強く、毎年行わざるを得ない卒業式は「反対派」が最小の努力で最大の効果を上げうるパフォーマンスの場になるだろう。

 中に何も入っていないきらびやかな空虚な箱=国体、に対する絶対的畏敬というおかしな信仰を普遍として持たざるをえないという攻撃的民俗宗教(東アジアのシオニズム)はその無理を暴かれ崩壊して行くであろう。数十年後には。どちらを選ぶかは国民の意志と感覚による。

*1:1990最高裁伝習館判決、1999国旗国歌法

ユダヤ人/シオニズム

高橋 『 何年か前までは、私はナチスに迫害されたユダヤ人を気の毒に思っていた。単なる心情的支援であったが。しかし、イスラエルにおけるパレスチナ人に対する暴虐無残な殺戮・弾圧などを見聞きしているうちに、ユダヤ人というのは、私が子供の頃に皇軍の将校から聞いたユダヤ陰謀説なるものを信じる気持ちになってきた。

 実にユダヤは世界に災厄をもたらす巨悪の1つである。イスラエルはナチスよりも恐ろしい。よって今後はイスラエルを ナチラエル NAZIRAEL と呼ぶ事を提案する。』

高橋さん、こんにちは。野原燐です。

(1)現在のイスラエル国家はパレスチナ領域内に住む(及び領域外に移住をやむなくされた)パレスチナ人に対して土地の強奪、家屋破壊、検問、壁、暴行、殺害などなどによる迫害を継続しています。にもかかわらず国際社会からの批判は弱くUSA国家を始め多くの大企業なども多大な援助を行っています。

(2)フセイン政権を倒して得をするのはUSAではなくイスラエルである。イスラエルの核を不問にしたまま、核拡散反対を強行しようとしても論理的に矛盾する。小泉が追随しているUSAの中東政策は長期的に見て中東に安定をもたらす見込みはない。

(3)

 書くべき事はいくらでもあるのですが、ここでは「ユダヤ陰謀説=実にユダヤは世界に災厄をもたらす巨悪の1つである。」という言葉使いについて。

「国内」での暴虐無残な殺戮・弾圧などにより国内だけでなく結果的に世界じゅうにテロリズムの蔓延をもたらしている(ともいえる)犯人は、イスラエル国家とそれを支えるシオニストたちです。ユダヤ人というひとたち、はべつに一つの考えでまとまっているわけではありません。現在のイスラエルのあり方に批判的なユダヤ教指導者もたくさんいます。

 したがって、巨悪はユダヤではなく(現在残念ながらイスラエル「国内」で圧倒的多数派である)シオニズムである、と理解すべきです。

(4)

現在まで欧米の殆どの地区において、ユダヤ人差別が日常的に存在しているという事実もある。したがって、ユダヤ人ではなくシオニズムが悪だ、と考えるべきだと思います。

 以上は、欧米と違いユダヤ人に対して歴史的に負い目を持たない日本人にとっては容易に辿り着ける認識のはずです。

(5)

ところで、ユダヤ人とシオニズムとの差異は、日本人に対しても適用できます。日中友好声明のときに確認された「悪しき軍国主義者」と「それ以外の(本来は平和を愛していたはずの)日本人たち」という区別です。前者をわたしはこの間、【国体護持派】とも呼ぼうとしてきました。

宮台: 靖国神社にA級戦犯が祀られているのはどういうことであるのか。理屈ははっきりしている。要は、天皇陛下と日本国民から罪を免じてA級戦犯が悪いということにする。これがサンフランシスコ講和条約*1の基本になる。もちろん中国もロシアも参加していませんが理屈は世界中に知られていたわけですよ。日本国民が悪いんじゃないという話にしてA級戦犯に罪をなすりつけた。(http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20041201#p1 スワンさんの引用する宮台真司より。

靖国神社にA級戦犯が祀られていなかったのはどういうことだったのか?を端的に説明している。

 (わたしたちは悪くなかったんだという)否認のナルシズムである【国体護持派】は、日本人に対し悪影響しか及ぼさない連中であることは明らかでしょう。

国旗国家法

(野原)

この対策として設けられたのが、国旗国歌法である。それにより、形式的・儀礼的あった国歌と国旗が正式に日本国の国旗かと国旗と制定された。

 これにより、公の職務を持つもの、即ち教師らはそれに従い、法に基づいた行動をしなければ習い。

http://d.hatena.ne.jp/foursue/20050401#p4 より

http://d.hatena.ne.jp/blackeye2025/20050328 の引用の一部

「教育現場で強制しない」旨約束のうえ、国旗国歌法を制定した。という経過だったはずですが。

国旗国歌法はべつに、「歌いなさい」とか書いてないし。

foursue 『noharraさんの言いたいことが全然解らないので、とりあえず解ってくるまでROMしますね。私にリンクを張る理由も同じく解りません。』(2005/04/02 14:33)

「教師らはそれに従い、法に基づいた行動をしなければならない。」の「法に基づいた行動」が意味不明なのですが。(野原)

# foursue 『法に基づいた行動くらい、野原さんなら自分で理解できると思いますけど・・・釣りですか?

いろいろあると思いますが、この場合は法を犯さない行動とするのがいいのではないですか?

前も思ったんですが、引用するならもうちっと具体的に文章に対して批評しては?まどろっこしい言葉遊びが多すぎますよ。』

(野原)えっと、話がかみ合いませんね。

「教師が国家斉唱するべきだ」と命じている法律はない。というのが私の主張です。

3入学式や卒業式などにおいては,その意義を踏まえ,国旗を掲揚するとともに,国歌を斉唱するよう指導するものとする。

小学校学習指導要領(平成10年12月告示、15年12月一部改正)-第4章:特別活動

学習指導要領自体が学校教育法の範疇外である疑惑がある。

それに指導要領は法ではありません。

「まどろっこしい言葉遊びが多すぎますよ。」などという暇があれば、「野原さんなら自分で理解できると思いますけど」など言わず、的確に自己主張してください。

東京都からの処分後退?

<転送歓迎>

「都教委包囲首都圏ネットワーク」のW*1(千葉高教組)です。

東京都教育委員会は本日(3月31日)、卒業式の

処分を発表しました。

内訳は、

小学校3名、

中学校1名、

障害児学校4名、

高校44名です。(計52名)

減給10分の1を6ヶ月間が4名(3回目の不起立者ら)、

減給10分の1を1ヶ月間が10名(2回目の不起立者ら)、

他は戒告(1回目の不起立者ら)です。

また、本日、青年法律家協会の弁護士が、竹の台高校でのビラまきの際に荒川警察署が不当な妨害を行ったことに対し、抗議に行きました。

警官20名が弁護士を包囲して、警察署の敷地内に一歩も入れない状態で、約40分くらい対峙してたそうです。その後、記者会見が行われたとのことです。

詳細は追ってお知らせしますが、今回、3回目の不起立者が停職とならなかったのは、やはりこの間の闘いと世論の高まりが大きいと思います。

彼らはそこまでできなかったのです。

起立している教職員もほとんどは強制反対です。また、世論調査でも強制には反対が多いのです。私たちは道理ある多数派なのです。

(略)

*1:野原が匿名化

君が代斉唱は強制されない

http://www003.upp.so-net.ne.jp/eduosk/tisiki-kokkaitoubenn.htm

文科省が隠したがる「国旗国家法」国会審議での政府・文科省の答弁

不起立、不斉唱で子どもたちが不利益をこうむることがあってはならない

○「子どもは当然、通常の場合に、学校が定められた教育活動に主体的に参加していく、これは教育活動の本来持っております作用でありますし、教員はそういった教育活動の本来的な作用に従って児童生徒を指導していくと言うことでございますけれども、指導の結果、最終的に児童生徒が、例えば卒業式にどういう行動をとるか、あるいは国旗・国歌の意義をどのように受け止めるか、そういうところまで強制されるものではないという意味で、強制するものではないと申し上げているところでございます。」

                (御手洗政府委員 1999年8月4日文教委員会)

「法律を楯に強制的に無味乾燥な議論に入ってはならない」

学校現場で、「日の丸・君が代」の歴史をしっかり教えること

○「これからもこの法律を盾にして強制的に無味乾燥な議論に入っていくのじゃなく、教育の中で正確に、日の丸の歴史とそして君が代が生み出されてきた歴史、また一時期これがゆがめられて使われた事実、そういうものをきちっと教えることによって学校現場の教育が生かされ、それが民族のアイデンティティとなって国際的な人間として我が国の国民が育っていくように私どもは努力していかねばならないし、またこの席で私は文部大臣にも要請をしておきたいわけです。」

       (野中広務官房長官 1999年8月2日国旗及び国歌に関する特別委員会)

(同上 より)

君が代の強制は教職員及び子どもの思想良心の自由を侵害する

 この論点についての反対派の代表的意見として東京弁護士会のものを掲載する。いまさらですが。

 東京弁護士会は、東京都教育委員会の2003年10月23日付「通達」による学校行事等における「国旗・国歌実施指針」に基づき教職員の処分ないし厳重注意などの不利益扱いを行うことは、教職員及び子どもの思想良心の自由を侵害し、子どもの教育を受ける権利を侵害する事態を招くため、かかる処分等を行わないよう強く要望する。http://www003.upp.so-net.ne.jp/eduosk/toukyou-benngosikai-ikenn.htm「国旗・国歌実施指針」に基づく教職員処分等に関する意見

3 教育の場における「国旗・国歌」の取り扱いと、思想良心の自由への配慮の必要性

(1) 「君が代」・「日の丸」には、戦前の軍国主義国家における歴史的な経緯があり、国民主権という憲法の基本原則にはふさわしくないとの信条を持つ国民は少なくない。かかる意味で、「君が代」の斉唱を行なうか否か、「日の丸」を掲揚するか否かはまさに個人の思想良心の自由にかかわることである。

  日本弁護士連合会も、1999年の「国旗・国歌法」の国会上程に対して、会長声明で、「『日の丸』『君が代』は・・過去の忌まわしい戦争を想起させ、被害を受けた諸国民に対する配慮の面からも国際協調を基本とする現行憲法に相応しくないと指摘する声も少なくない。」、「『君が代』の歌詞は国民主権という憲法の基本原則に相応しくないとする意見があることも事実である。」、「政府は、法案は『日の丸』の掲揚、『君が代』の斉唱を強制するものではないと説明している。しかし国旗・国歌が尊重されるのは、国民的心情によるものであるべきで、法制によって強制の傾向が強まることは問題である。」、「今回の法案上程は、国民の間における混乱を持ち込みかねないものであり、あまりに性急と言わねばならない」として、国旗国歌法の制定に伴い、その掲揚・斉唱の強制の傾向が強まって、思想良心の自由を侵害する事態を懸念していた(1999年7月14日)。

(2) 学習指導要領においては、1989年以来、「日の丸」を「国旗」として掲揚し、「君が代」を「国歌」として斉唱「するよう指導するものとする」とされている。しかし、学習指導要領は、「児童・生徒に対する教育をつかさどる」教師が教育を行うに当たっての大綱的基準を定めたものであり、「子どもの教育が、教師と子どもとの間の直接の人格接触を通じ、子どもの個性に応じて弾力的に行われなければならず、そこに教師の自由な創意と工夫の余地が要請される」ものであることに照らし、学習指導要領の内容が「教師に対し一方的な一定の理論ないし観念を生徒に教え込むことを強制するような」ものであってはならないとされている(1976年5月21日旭川学力テスト事件最高裁大法廷判決(以下「旭川学テ判決」という))。ましてや、子ども達が学習するに際して、学習指導要領により学習内容を強制されることなどあり得ないことである。そのため、これまでは、成長発達の途上にあり、思想良心の形成途上にある子どもに対し、「日の丸」を「国旗」として掲揚し、「君が代」を「国歌」として斉唱することを強制することが許容されるものとは考えられてこなかった。

(3) このような事情から、1999年の「国旗・国歌法」の制定に際しても、これを審議した国会において、当時の小渕内閣総理大臣は、「国民に対して強制することはない」旨答弁し、さらに、児童生徒に対する「国旗・国歌」の指導について「児童生徒の内心にまで立ち至って強制しようとする趣旨のものでなく、あくまでも教育指導上の課題として指導を進めていくことを意味するものでございます。この考え方は、1994年に政府の統一見解として示しておるところでございまして、『国旗・国歌』が法制化された後も、この考え方は変わるところはないと考えます。(1997年7月21日衆議院内閣委員会内閣総理大臣・小渕恵三)」と述べていた。

  また、起立をしなかった児童生徒がいた場合の指導のあり方に関し、国会審議の中で「何らかの不利益をこうむるようなことが学校内で行われたり、あるいは児童生徒に心理的な強制力が働くような方法でその後の指導等が行われるということはあってはならない (1999年7月21日衆議院内閣委員会文教委員会連合審査会政府委員)」と答弁されていた。

  「国旗・国歌法」制定の際には、「学校における『国旗・国歌』の指導は内心にわたって強制するものではない」し、「学習指導要領は、直接、児童生徒に対して拘束力を持つものではない」旨が、政府によって繰り返し確認されていたのである。

(4) そもそも、学校は、子どもにとって人格の完成をめざして学習し、成長発達する権利を充足する主要な場なのであり、「個人の基本的自由を認め、その人格の独立を国政上尊重すべきものとしている憲法の下においては、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家介入、例えば誤った知識や一方的な観念を子どもに植えつけるような内容の教育を施すことを強制するようなことは、憲法26条、13条の規定上からも許されない」(旭川学テ判決)のであるから、学校において学習指導要領に基づいてなされる、「国旗」の掲揚・「国歌」の斉唱に関する指導に当たっては、それが、思想良心の形成途上にある子ども達への強制にわたらないような条件を確保する必要がある。

  そのためには、学校において日常的に思想良心の自由が確保されている実態を経験できることが必要であるとともに、児童生徒にたいし、事前に思想良心の自由を説明し、「国歌」斉唱時に「国旗」に向かって起立しない自由があることを説明し、起立しない自由を選択しても不利益を受けないことを説明し、そのような不利益を被ることがない状況を確保するなどの教育指導上の配慮が不可欠であると考えられる。

  現在、わが国でも多民族・多文化共生が求められる社会になっており、様々な国籍や文化・宗教の子ども達が、ともに学んでいるという学校の現状がある。「国旗・国歌」の指導に際しては、こうした外国の子ども達が自己の文化を享有し自己の宗教を信仰する権利への配慮の観点からも、上記の説明は重要である。

 さらに、教育は、教員と児童生徒の信頼関係において行われる。教員が児童生徒にたいして「国旗・国歌」への起立斉唱を強要することは、起立斉唱したくない児童生徒との信頼関係を損なわせることとなり、児童生徒の信頼できる教員から教育を受ける権利をも侵害することになる。

君が代~愛国心(4/3追加)

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20050328#p2

紹介が遅れましたが、上記で

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050318

からはじまった、君が代~愛国心についての錯綜した議論の

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050327

までの簡単なまとめが、記されています。

index-homeさん、 hal44さんのブログにも記事があります。

spanglemakerさんのブログにも。

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20050329#p1

またスワンさんは、上記でクローズアップ現代の反響(多数のブログのまとめ)をされており、コメント欄も賑わっています。

「卒業式に思う」を読んで。

id:azamiko:20050312「卒業式に思う」を読んで。

 長女Kは18になったばかりですが、11日都立高校を卒業しました。ひとまづ、親としての役割は解任されたと思っています(やれやれ)。

 この文章が感動的なのは「親としての」存在性から書かれているからだ。わたしの体験談「わたしは君が代の強制には反対なので、その時だけ着席した。http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050318#p2」 が1分間ほどの一人の個人の内心の自由の行使であり、それ以上の波紋を投げかけなかったものであることと対比し、興味深い。*1

「親として」という言葉に家族制度イデオロギーの臭いをかぎ取り反発してみせるフェミニズム系の言説は、自己の欠落を発見していくべきだろう。

卒業はしたもののその卒業にまつわるもろもろがなんとも釈然としないままなのです。もう、卒業したのだから関係ないといえば、そうなのですが、東京都の公立学校に通う、これから通おうとしている人たちには関係のない話とは思えません。

 わたしたちの日常は常にそんなふうにとおりすぎる。持続している必ずしも些細とはいえない不条理であるかもしれないが、とりあえず私が関わっている部分については、「問われなければいけない大きな問題」そのものではないし、ちょっといまは忙しいしその問題はパスしておこう。日常とはそんなふうに過ごさざるを得ないものではある。しかし、それだけで良いのかといえば、いけない! 少なくとも一生のうち何度かは、かっこわるくとも孤立しようとも声を挙げるべきなのだ。そうでなければただの奴隷だ(とわたしは思う)。

ところで、卒業式と「卒業証書授与式」は違うものなのだろうか?、そう言えばうちの小学校でも後者の方だった。なぜ親しみにくい言い方をするのかとちらっと思っただけだったが。

学校全体で、卒業生を祝うのではなく、校長が各クラスの生徒代表に証書を授与するための学校長主催の会。つまり、校長の決定した形式にのっとり、遂行されるものなのだとか。卒業授与式って。

卒業式の主人公は卒業生です。多くの歌謡やドラマにうたわれる通りですね。法的には学校長主催だという。それも間違いではない。国家とは公共の福祉であり、その場が盛り上がるためのコーディネーター兼仮の名宛人として国家=校長がいるだけだ、と考えれば、両者は矛盾しない。

なぜその場が盛り上がることが必要かといえば、わたしたちは最小のパトリ(原郷)、最小の祭り無しには(おそらく)生きていけない存在であるからだ。国家の方もこのことを強く望んでいる。君が代は心から唱われ、卒業式は祭りとしてのカタルシスを得られるものでなければならない。「強制された君が代」がナンセンスということは彼らが心から思っていることだ。ではなぜ彼らは「強制し続けるのか?」*2それは20年後を見すえてのことだろう。継続すればそれが伝統になり誰も疑問を持たなくなる。

 だが本当にそうか。戦後日本は60年も安定的に継続している。国民の意識の均質化は他のどの国家よりも高い(たぶん)。にもかかわらず現在、卒業式の君が代問題については(たぶん)1割以上の不満分子を解消できない。彼らの目的と根拠は、国民統合とその自然さである。であるならば、彼らもまた敗北しているのではなかろうか。

司会者のかけ声に、式が始まってすぐに全員起立、礼。空っぽの壇上に向かって、礼をします。うっかり礼をしてしまいました(笑)。はい。それから、そのまま「国歌斉唱」。そこで座る人はわずかです。立っている人も歌っている人はわずかでした。地域によっては君が代斉唱の音量まで調査していると言いますが(笑)。いったい、なぜ、ここまでして日の丸や君が代をするのでしょうか?なぜ?

つまりは従わせるためにやっているとしか思えないのですね。

 「立っている人も歌っている人はわずかでした。」というのがわたしの体験と一致する。で私が座った事に対し、回りの反応は全くなかった。これは考えると不思議なことにも思える。大衆の中で一人だけ違った行動をすれば、とがめるような空気が走るのが普通だろう。大衆もまた、「国家斉唱に着席する」というマイナー文化があることを知っているのだろう。

 「心をこめて歌う」という自発性が発生するよう彼らは50年努力してきたが、まだ道は半ばだ。

実は前日、学校へ出かけました。長年お世話になった先生方にお礼と親からのメッセージを伝えるためです。

(略)お弁当を作る以外はノータッチ、お任せでこれたことをほんとうに感謝しています。ひとつにはそういう感謝の気持ち。そして、もうひとつは東京都が日の丸掲揚、君が代斉唱に関して、教師を大量に処分しているが、強制的なやり方に反対し、先生方が自己の意思に従い行動されることを支持するというメッセージを伝えるためです。

それ以前に、教師たちは公務員である前に、日本国民であり、思想・信条において、不利益をこうむることがあってはならないはずです。東京都が処分すること自体が憲法違反です。

 azamikoさんとわたしの最大の違いは、目の前にいる先生たちへの距離感、親近感ですね。教師たちと連帯する、というそういう発想が私にはなかった。君が代強制の問題が顕在化している東京都とそれ以外の地域との落差という問題はありますが。

「教師たちは公務員である前に」という文が前提にしているのは、公務員は職務命令に従うべき存在だという規定であろう。しかしそれより先に、公務員は「全体の奉仕者」(憲法15条)である。ここに儒教の「中庸」というものを読み込もうとすることは不当ではない。「道の行われざるや、我これを知れり。知者はこれに過ぎ、愚者は及ばざるなり。」聡明な人は知恵にまかせて出過ぎたことをする、と。全体が全体であるということの確認は揺るがしてはならない絶対的要件であるでしょう(儒教にとって)。しかしそれは強制によっては達成できないものなのです。

 ここからazamikoさんの卒業式前日の学校での行動の記録が始まる。学校にしょっちゅう行く(行かざるを得ない)父母(母父)もいるがほとんどいかない親も多い。わたしは後者だったが、推測するにazamikoさんの場合、(高校はともかく)小学、中学時代は前者の経験があったのだろう。学校は官僚組織ではなく親と一緒に共通の目的を達成すべき共闘者であるととらえている。

(先生に渡すべき手紙を)「それをコンビニでA3で2枚つづりにコピーし、学校の事務室で裁断機を借りて切りました。」という細部も興味深い。すべての表現はコピーであり、コピーにはしばしば高価な機械が必要である。必要があればわたしたちは学校にそれを借りに行くべきであるし学校はそれを拒否すべきではない。こういう文体で語ってもつまらないが、それを身体化できるかどうかは大事なことだ。

さてazamikoさんのやろうとしたことは、先生たちに自分たち3人が書いた手紙を渡すことでした。ところがそれに対して次のような対応が為されました。

しばらくして副校長が来て、

「学校の配布物に関してはすべて学校長の許可がいるということに今年の1月からなりました。前半は構いませんが、後半の東京都教育行政を批判した部分を削除していただければ配布できます」

「先生に検閲を受けるつもりはありません。これは、配布物ではなく、親からお礼とともにお渡しするお手紙です。配布物に関する公式文書があるというならみせてください」と私。

公式文書は「学校から生徒及び保護者に配布する文書にかかわる取り扱い基準」。つまり、生徒、保護者に配布するものに関してで、教師への配布物ではありませんでした。

 副校長は分かっていてなお「学校の配布物」の範囲を拡大解釈して市民を威圧しようとした。わたしが電話した市の教育委員会の担当者も「学習指導要領の法的拘束性」だけを強調しそれが生徒や父母には当然及ばないことを口にしなかった。まずここを軽くクリアーして次のステージへ。

どうもありがとうございました」

と言って、事務室を出て、各教員室(教科ごとに教員室が分かれています)に出向きました。構内を迷いながら、社会科、英語科、家庭科の教員室をみつけて入ってゆくと、予行に出ていたり、出講日ではないので欠席していたりで、少人数でしたが、いらした先生にお礼と手紙を渡し、いない先生の分は受け取っておくといってみなさん、とても快く受け取ってくださいました。家庭科を出たところで再び、副校長に出くわして、

という風に書くと本当にRPGみたいだな。ここでバトル。

副「これ以上、構内を歩かれては困ります。しかるべきところに連絡します」というので、

A「しかるべきところというのは?教育委員会ですか?」

副「それだけではなくて・・・」

A「警察ですか?」

副「・・・そうです」

Aさんがここで激したりすると、(RPGなら衛兵)がやって来て即座に拘束されてしまう。日本国でも拘束の可能性はあった。学校の敷地内ですから。

校長を待てと再度指示され待つ。・・・校長登場。

校「教育というのは強制をともなうものです。

シニカルに言うと、教育とは強制を自発性であるかのように勘違いさせることであり、それは実際成功しているわけで、君が代についてだけ成功しないのならその理由を自分に問うべきなのだ。

日本は法治国家で、私は公務員として公務員法にのっとって職務を遂行しています。

あなたは手紙と言われますが、これを手紙だとは思えません。都の教育行政を批判した文書です。そういう文書を構内で配られては困ります。お断りします」

 文書の性格は校長が判断する。そして構内で配ることは禁止する。法的に正しい禁止かどうかはともかく、禁止はなされる。

校「私は公務員ですから、職務に従います。今の都政に反対ならば、そういう運動をおやりになればいい。すべて、政治は戦いですからね。今はこういうことになっているのです。あとのことは、歴史がすべて判断してくれるでしょう」

A「歴史が判断してくれるでしょうって、歴史を作るのはあなた自身ですよ。校長の裁量の範囲だというにもかかわらず、手紙一枚先生に渡すことを拒否するというのは、自主規制以外のなにものではないでしょう!自分の首を自分で締めているようなものですよ。そう思いませんか?」

校「構内で配ることをお断りします」

A「先生の裁量の範囲だというのに、そこまでなぜ拒否されるのですか?先生の許可を得るつもりはありません。これは配布していただく文書ではありませんので。個人的に先生にお渡しするお手紙ですので、失礼します。ありがとうございました」

校「校長の権限で、構内の立ち入りをお断りします」

さていよいよ警察を呼ぶボタンが押されそうだ。Aさんは賢明にも退却する。

私の書いた手紙に、なぜこれまで拒否反応をおこさなければならないのでしょう。

何の強制力もない、保護者3名連記の一枚の手紙に。

彼らには守らなければならない物がある。それが(強制による)自発性という矛盾に私たちからは見えたとしても。

以上。リンク先を読んで頂くだけでいいのだがわざわざ拙い要約を作ってしまった。わたし自身の存在様式はazamikoさんより校長に近いのではないか、との疑問も発生した。

この問題にも関連する、この間のazamikoさんとアレクセイさんとのコメント欄でのやりとりも興味深かった。

*1:自己嫌悪的にならないでもない。

*2:現在、東京都などとそれ以外の府県では強制の度合に違いがあるわけですが。