ナショナリズムと昭和維新

# index_home 『ある程度同じ思想信条を持ち合わせているといっても、やはり個人個人で違う人間ですから、細かい部分では差異があるのは当然なのでしょうね。でも、それで意見を交わしていくとまたお互いの論を高めあうことができるような気がします。(例えば「君が代の強制に明確に反対」という論理を各人で磨きあうことができる…とか) 

ちなみに>「パトリオティスム/ナショナリズム」を違う物として考えて、前者を肯定し後者の現実の国家組織への忠誠という面を全否定する>という論理なら、私も近いかもしれません。また細かく検討すると差異があるのでしょうけど。』

(野原)

おっしゃるとおりだと思います。さて、

id:noharra:20050324#p5 で尊皇攘夷運動について触れましたが、昭和でそれに近いエトスを持った運動としては、226などの昭和維新運動があります。

 hikaruさんの文章を始めて読んだのは偶然で、3月の始めでした。226事件被告たちの「ご法事」に行かれて、磯部浅一のご遺族にも会われた文章が印象的でした。226事件被告たちはあっさり殺されてしまったのに、その後に展開した大東亜戦争の罪まで被せられて可哀相です。戦後左翼史観は彼らに対し偏見に満ちた評価しかできなかった、のではないでしょうか。

 昭和維新派について知識があるわけでも無いのですが、そういったことも含めて、ナショナリズムについて語り合いたいです。

難民とアイドル

# hal44 『またちょっと書きました。

http://d.hatena.ne.jp/hal44/20050325

基本的なところでは異議があるわけではありません。

ただ、相互の思想の差異を確認するために少し書いてみます。

では、いかなる状況において、「愛国心」は実現されるのでしょうか?ご存じのように、日本人とは何であるかを規定する他者が、「敵」として現れた場合です。

(野原)

 現在多くのプチウヨとかが口にするのは、被害者としての「横田めぐみ」です。日本人少女めぐみさんが無垢な被害者であり、彼女に対する加害者として「敵」=金正日一派=北朝鮮国家が名指されます。このような排外主義は私にとっても不快なものです。ですがそこで思考停止して良いのでしょうか。このごろ思うのは、めぐみさんというのは「日本人」というより「難民」である、ということです。彼女が失踪してから20年近く、少しは気付きながら日本国(外務省)は、国家と国家のつき合いを重んじて、一人の日本人の運命に深く関わっていこうとはしませんでした。それが数年前から家族会、救う会とかができて、少しづつ世間の注目もあつまり、ようやく現在のような(そういう言葉を使うことが許されるとしたら)国民的アイドルに成ることができたのです。世界中でひどい目にあっている女性たちはたくさん居り、めぐみさんにだけ注目することが正しいわけでは無いのは言うまでもありません。しかしいまでは有名になった「めぐみさん」自身たった2,3年前までは国民的レベルでは誰も知らない、見捨てられた存在であったわけです。めぐみさんを見捨てたまま知らん顔を続けるのが正しいわけではない、と言うことには同意いただけるのではないでしょうか。とすると、次の問題は、「めぐみさんに多くの人の関心を集める方便としてナショナリズムに訴えること」の是非です。これは例えば、韓国人慰安婦某女にできるだけ多くの人の関心を集める方便として韓国人ナショナリズムに訴えること、とパラレルな問題です。

 わたしはこのような方便を肯定すべきだと力説したいわけでは別にないのですが、全く無視すべきだと言うことにもならないと思っています。

またこのブログはいまヘッドに「米国人のレイチェル・コリーさんがイスラエル軍に轢殺されました。」という文を掲げています。パレスチナ人は毎日のように殺されているのに、何故パレスチナ人ではなくたまたま殺されたアメリカ人の名前を掲げるのか、という問題とも関わる問題にもなってきます。

 以上の話は、狭義のナショナリズムには関係ありません。ナショナリズムに類似のアイドル利用の大衆動員方法みたいなことをどう評価するかという問題です。

民衆のための反乱者?

# swan_slab 『最近の議論のなかでは、「差異の擁護」という観点で、もっとも説得的な議論をしているのはhikaruさん(http://d.hatena.ne.jp/index_home/20050325)だと思います。

少なくともこのコメント欄におけるspanglemakerさんのお考えはよくわかりません。

野原さんの組織への忠誠批判は、例えば「国家元首」という言葉のなかに無自覚に潜む価値観の否定へと向かうものだと私は思います。すなわち、国家をひとつの有機体ととらえ、その頂点に首という比ゆをもってくる考え方です。N・Bさんの提示したレイコフのメタファーを考えるうえでも、参考になるかもしれませんね。ナチスの経験から、ほとんど封印されたような概念なんですが、この点からも再検討できそうなので、また考えるヒントをよろしくお願いいたします。

>愛国心は敵を必要とする>hal44さん(http://d.hatena.ne.jp/hal44/20050325

なるほど、私の関心としてはリスク認知と評価の問題が浮かび上がってくるかなと。

私自身は、差異の擁護自体どこまで認められるかでうろうろしており、何を言いたいのか一番はっきりしていないのはスワンということになるかも。』 (2005/03/25 21:15)

# index_home 『あらら、226事件の記述まで読まれていたのですね…おはずかしや。(ちなみに「葬式」ではなく「法事」ですね…いえ、私も実は最初に「葬式」と書いてしまって後から編集しなおしたのです…226の青年将校は当時「民衆のため、というとアカといわれるのは心外だ」と述べていることがあります。行動は別としても、彼らなりの方法で民衆をどう救えるかという考えの過程は少し興味あります。

スワンさん>実は前からブログをアンテナに入れて拝見させてもらってました。私は思想方面の知識が足りないのでいつも勉強させていただいてるんです。』 (2005/03/25 23:38)

(野原)

えっっ「226事件被告たちのお葬式に行かれて」って野原はちゃんと書いてますね。葬式のはずないだろ。「日本の伝統」を学びたいなどと言ったりしているのに、、まあ恥ずかしい!ことです。ちょっと今から直しておきます。

226の青年将校は、民衆のため、に天皇の名において決起し、天皇に弾圧され殺されたのしょうか。「民衆の為」という真心があったのは事実でしょうが難しいですね・・・

「ナショナリズム否定」の是非

# hal44 『野原さん、

ナショナリズムのよい使い方って、近年の例ではちょっと思いつかないですね。議論はあるでしょうけど、拉致問題に関しては、あのナショナリズムの高揚が、問題を不必要に拗らせてしまったと私は思いますし、レイチェル・コリーの件に関しては、アメリカ世論のナショナリズムは全く盛り上がりませんでした。ジェシカ・リンチとの扱いの違いとか考察の対象としては面白いですけどね。

社会開発研究とかで、第三世界に於ける、ナショナリズムの経済発展のための不可欠性みたいな事は議論されてますが、そのくらいかな、ナショナリズムが役にたつのって。』 (2005/03/26 00:48)

(野原)

 横田めぐみさんに焦点を当てることによって、「北朝鮮=悪」という排外主義が勝利するという不愉快な情勢が成立したことはまちがいありませんね。

竹島と独島は別の島だと思っていたという人が居て、そのとおり別の島ですよ、ということにしておいても、困る日本人韓国人はそれほど多くないと思うのですがね。さて。

 レイチェル・コリーの名前を利用することにより「レイチェルか/イスラエルか」という問題を焦点化することができる。「テロリストか/イスラエルか」という二項対立ではなく。ただアメリカ国内ではシオニストの影響力がものすごく強いので反シオニズムは少数派にとどまっているわけですが。

 ナショナリズムをどう考えるかはやはり難しい問題に成ってくるように思います。以下は、hal44さんの考え方に対する批判ではありません。

 戦後の進歩派は戦争の反省から「ナショナリズムからの卒業」といった態度を取っていたように思います。彼らが反日米安保、反自衛隊と結びついているうちは欺瞞が少なかったでしょうが、60年代以降安保反対を実際に追及する勢力は少数派になりました。進歩派の多数派が実際にやっていたことは、パックスアメリカーナを困難な理想主義としての平和と曖昧に混同し、基地を沖縄に押しつけ続けるということではなかったでしょうか。「生きて俘虜の辱めを受けず」というスローガンを作り多くの国民を死に追いやった責任も、「負けに決まった戦いをさっさと終わらせなかった責任」も、アメリカに対する原爆は戦争犯罪だという告発もしてこなかった。

「ナショナリズムからの卒業」派は、中国や韓国の国家ナショナリズムに対しては寛容でダブルスタンダードかもしれない*1。現在北朝鮮の人権状況を真剣に告発しないのはまずいと思います。

「ナショナリズムからの卒業」派は自身戦争を体験しながら、自己の存在を切り裂くようにはそれを総括せず、他人事のように全否定した。加害者としての側面を持つことを否定できない兵士たちの体験と自分たちを切り離し、ナショナリズムから絶対に卒業できない兵士たちを遅れた暗い存在と見なし放置した。

 ちょっと一方的な書き方になりましたが以上のような面もあると思います。

ナショナリズム否定論は正しいと(一応)思うのですが、その正しさの基準とは何なのか。最近学者とつき合って分かったことは「論文は正しく書かなければいけない」ということで、そのような正しさの基準で自分の全体(発言)を規制しているとするとそれはちょっと違うんじゃないか、と思っています。書斎で何冊かの本を読みこの考えが一番正しいと言い得たとしても、そう判断した自己は抽象的空間に存在する自己にすぎない。血しぶきを浴び飢えに苦しみ慰安婦を抱いたその体験の総体から、切り離されたところで「正しさ」を成立させてしまうことは、現実を極端に平板化させてしまうことになります。

「ナショナリズムからの卒業」というのは私の勝手なネーミングで、hal44さんの考え方には当てはまらないでしょうが、わたしが割り切れないとうじうじ感じているのはどこらあたりかを書かせてもらいました。

*1:貴重な例外として韓国民主化運動との連帯の運動があります

本居宣長の神(迦微)概念(その1)

本居宣長の二つの神概念について書きます。

まず一つは、なんでもありの神 です。

「天地初発の時、高天原に成れる神の名は、天之御中主神。」というのが古事記の冒頭です。「天地初発之時、於高天原成神名、天之御中主神。」(天はアマと訓(よ)めとかいてある)という漢字ばかりのが本来です。

この「神名」という二字について本居宣長(1730-1801)は『古事記伝・三巻』で長々と註釈する。

神名はカミノミナハ*1と訓べきことも、首巻に云り、カミ(迦微)と申す名の義(こころ)は未だ思い得ず、【旧く説けることども皆あたらず、】*2

神という漢字にはもちろん意味がある。宣長が云っているのは、「神という漢字」の意味でこの神を解釈してはいけない、ということだ。「かみ」という和語があった、本来の意味は分からない、だが中国からきた「神」とは当然違った意味を持った別の言葉だったはずだ、というのが宣長の立場。旧説、「上」や「鏡」から説明するなどは全部違っていると。

さて凡そ、カミ(迦微)とは、古御典などに見えたる天地の諸々の神たちを始めて、それを祀れる社に坐す御霊をも申し、又人はさらにも云わず、鳥獣木草のたぐい海山など、その余(ほか)何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳のありて、可畏(かしこ)き物をカミ(迦微)とは云うなり、

【すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功(いさを)しきことなどの、優れたるのみを云うに非ず、悪しきもの奇(あや)しきものなどにも、よにすぐれて可畏(かしこ)きをば、神と云うなり、さて、人の中の神は、先ずかけまくもかしこき天皇は、御世々々みな神に坐すこと、申すもさらなり、其は遠(とほ)つ神とも申して、凡人(ただびと)とは遙に遠く、尊く可畏(かしこ)く坐しますが故なり、*3

(略)】

鳥獣木草のたぐい海山など何でも神でありうる、また価値的にも優れたるだけを云うわけではない、悪やあるいは奇(あや)しきものよく分からないものである場合もある、というわけですね。基本的には天の神を神と云い、人の霊は鬼と云う中国での用例とは全然違います。明治以降の日本は古事記の読み方を始めとして、宣長から非常に大きな物を受け継いでいるのですが、さすがにこの神の定義だけは違います。キリスト教の絶対唯一神を規範として受け入れてしまった(無意識のうちにも)ため、鳥獣木草のたぐいはともかく、悪やあるいは奇(あや)しきものについては非常に抑圧的にしか語られなくなったのではないでしょうか。

抑(そもそも)カミ(迦微)はかくの如く種々(くさぐさ)にて、貴きもあり賤しきもあり、強きもあり、弱きもあり、善きもあり、悪きもありて、心も行(しわざ)もそのさまざまに随ひて、とりどりにしあれば、

大かた一むきに定めては論(い)ひがたき物になむありける、

まして善きも悪しきも、いと尊くすぐれたる神たちの御うへに至りては、いともいとも妙(たへ)に霊(あやし)く奇(くす)しくなむ坐(し)ませば、さらに人の小さき智(さとり)以て、其の理などちへのひとへも、測り知らるべきわざに非ず、ただ其の尊きをたふとみ、可畏(かしこ)きを畏(かしこ)みてぞあるべき、

最も賤しい神の中には徳が少なくて凡人に負けるものさえいる。かの狐なんかも怪しきわざをなす、つまり「まことに神なれども」、いつもは微(いやし)き獣にすぎない。だけどそうした「いと賤しき神」ばかりを見て、「いかなる神といえども理を以て向かうには可畏(かしこ)きこと無しと思ふは、」「ひがごとなり(間違いだ)」と断じられる。

つまりここで宣長は神の本質については論じていない。というより神とはこういうものだと一定に定めて論じること自体に反対している。人の智には限りがあって、「まことの理はえしらぬものなれば」、というのが宣長の強調するところ。カミは当然人智を越えたものであり、人から見た正邪の区別からも自由である。その本質はどうだとか論じる事自体が不当である、と。言われてみれば理屈ではある。

 世界や神を「理」とか「道」とか中国起源の形而上学カテゴリーで云々しても結局そうした理学の範疇論からでることはできない。お狐さんも神ですよと言えば滑稽なようだが、それでも目の前の狐一匹でさえ持っている不可思議というものを無化してしまう理学の暴力的裁断だ、と儒者の「さかしら」を攻撃するわけですね。これはこれでまあ面白いとも思えます。

(全然纏まりませんが、その2へ続く。)

*1:万葉仮名で書いてありルビが振ってあるが万葉仮名は省略

*2:『古事記伝』岩波文庫 p172

*3:だいたいこんな感じですが正確な引用ではありません

本居宣長の神(迦微)概念(その2)

 まことの道は、天地の間にわたりて、何れの国までも、同じくただ一すじなり、然るに此の道、ひとり皇国(みくに)にのみ正しく伝はりて、外国にはみな、上古より既にその伝来を失えり、(略)

異国の道は、皆末々の枝道にして、本のまことの正道にはあらず、(略)

まづ第一に、この世の中の惣体(そうたい)の道理をよく心得おくべし、その道理とは、この天地も諸神も万物も、みなことごとく其の本は、高皇産霊(たかみむすび)神、神皇産霊(かみむすび)神、と申す二神の、産霊(むすび)のみたまと申す物によりて、成出(なりいで)来たる物にして、(略)されば神代のはじめに、伊邪那岐、伊邪那美二柱大御神の、国土万物もろもろの神たちを生成(うみな)し給えるも、其の本は皆、かの二神の産霊(むすび)の御霊(みたま)によれるものなり、

抑この産霊(むすび)の御霊(みたま)と申すは、奇々妙々なる神の御しわざなれば、いかなる道理によりて然るぞなどということは、さらに人の知恵を以て、測り識(し)るべきところにあらず、(略)

さて、イザナギ神、女神のかくれさせ給ひしを、深くかなしませ給ひて、ヨミの国まで慕い行かせたまひしが、この顕国(うつしくに)にかへらせたまひて、そのヨミの国の穢悪(えあく)に触れ給えるを清め給ふとして、筑紫の橘の小門(をど)のあはぎ原に御禊ぎし給ひて、清浄にならせ給へるところより、天照大御神成り出ましまして、御父大御神の御事依(よさ)しによりて、永く高天原(たかまのはら)を所知看(しろしめ)すなり、

天照大御神と申し奉るは、ありがたくも即ち今此の世を照らしまします、天津日の御事*1ぞかし、

さて疲れてきたので、もう少しくだけて写すことにする。

天照大御神は皇孫尊(すめみまのみこと)に葦原中国(なかつくに)をしろしめせとありて、天上より此の土へ下し奉りたまふ、

そのときに、大御神の勅命に、「あまつひつぎは あめつちの むたときはかきはにさかえまさむ」とありし、この勅命はこれ、道の根大本なり、

勅命をひらがなだけで書いたので何のことか分からないでしょうが、要はあまつひつぎ(天皇のことだろう)に此の世の総てはまかせるぞ!みたいな意味なんでしょう。

以上「玉くしげ」本居宣長*2の最初のところからでした。

かなり長く引用したが、これが宣長によって再編された神道なるものの核心部分だ(と思う)からです。

 それまでの日本では華夷秩序的な世界像が普通でした。世界の中心に中国がありそこから周辺へ向けて段々文化、秩序が緩んでいくといった世界像です。江戸時代の中ごろから(明滅亡以後)は中国ではなく日本を真ん中に置くこともありましたが世界像の形は同じです。ところが宣長の場合は全く違います。世界は「まことの道」というものが普遍的に支配しているのだと宣言してしまう。でそれが神道なわけですから、これをまともに信じたら大東亜戦争期のように(いまでいう)海外に神社をいっぱいいっぱい作り続けるしかなくなる、わけですね。

  1. 万物は産霊(むすび)の神の産霊(むすび)の力によって生成した。
  2. 太陽でもある天照大御神が高天原を支配する。
  3. 此の世の総てはあまつひつぎが支配する。

という構造ですね。

前回と対比的に取り上げたのは、前回は、尋常でないすぐれたる徳があるものは神だ、ということで「貴きもあり賤しきもあり、強きもあり、弱きもあり、善きもあり、悪きもあり」、となんでも善かったのですが、今回は全くニュアンスがちがうなあ~と*3

 この宣長の二つの部分を引用しようと決めたのは、教育委員会に君が代のことを聞いてつらつら考えたからでした。君が代の内容に意味があるわけではない、国歌だから認めて欲しいという低いレベルのお願いと、それほど遠くない過去にあった「生きて俘虜の辱めを受けず」的総動員体制との間にはちょっと同一化しかねるほどの落差があります。

 ところが、この宣長の二つの神の定義の間にも、同一化しかねるほどの落差があるわけです。

ということはこの四つはやはり国家神道的なものということで同一化して理解して良いのかもしれないですね。

ということが言いたかったのでした。(うーん苦労した割には?)

それと愛国心などをナショナリズムという範疇で語るべきなのかどうか。宣長の神道的なものなら、自国の論理で世界を支配できるとするものなのでちょっとどこからみても駄目だろうということにしかなりません。

*1:太陽のこと

*2:1786年

*3:前回は古事記伝巻三、1767年くらいなので、二〇年ほどは違いがある。とは言っても、この差異は同じ物の両面とみたい

では隣人とは誰か

# N・B 『 あまり考えてませんが一つだけ、ナショナリズムもレイコフによる家族のメタファーの国家への適用も、枠の問題だと考えるべきなのだとは思います。キリスト教の文脈で言えば、「では隣人とは誰か」ということです、「共約不可能なもの共生の前提」の問題も「愛国心」に代わるものの問題もそれでくくれると思います、パトリオティズムに私がやや否定的なのは枠の問題が抜けるからなのです。ちなみに、「リベラル」のモラルの最大の矛盾点は「相手が望むことなせ」という「リベラル」の黄金律が、「リベラル」が「保守」の「モラル」を受け入れなければならないという結論に至ることです。「保守」にはこの矛盾がありません。これが枠という問題とも絡むと思うのですが。どうも自分の意見がはっきりしませんですいません。』 (2005/03/26 08:11)

3/25コメント欄より

言挙しない、神ながらの道

(野原)

N・Bさんが参照を要請されるレイコフというのがよく分からず(参照先urlをやっと見ましたが)、どうも応答しにくいです。

わたしはただのあまのじゃくなのかもしれない。*1

 どんな国家も自らを普遍的な理念として自己規定していると。その点で、スワンさんによれば、フランスのあり方と、アメリカのあり方は全く違うと。そうすると日本の状況はどうかというと、憲法の理念は平和主義と象徴天皇だという。平和主義も理念でありうるかも知れないが*2、そのような理念を現在の日本が持っているとは思えない。そうするとやはり“言挙(ことあげ)しない、神ながらの道”みたいな感じを受ける。「強い者=アメリカに随順する、それが一番抵抗が少ないやり方であり、ベターな方法だと」ということに直ちにつながるのかどうか分かりませんが、そんな感じを持ってしまいます。

「実質的正義」=「モラル」というものがよく分からない、みたいなところから先に進めません。「保守は厳しい父親のモデル、リベラルは慈しむ親の家族モデルに基づくため、」という二項対立は日本では成立しないのでないか。天皇とは男性であると同時に女性でもある。神話学とかのレベルでは明らかにそう言い切れると思います。

「葦原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国」というのは柿本人麻呂の歌です。下記にありますが、「反反日、反ジェンダーフリー」ですので、批判のサンプルに良いかも。

http://www2.ocn.ne.jp/~nozakigp/2661.htm

*1:「丸山の観点からすれば、権威主義に対する解毒剤とは「あまのじゃくの精神」ということになるのであろう。http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C1028182794/E320095057/ より」

*2:国民国家の常識を越えていくという方向での理念

# swan_slab 『ちょっと【邪悪な愛国心と正しい愛国心は観念できるか】という私の問いに戻したいことがあるのですが、これまでの議論をふりかえると、

hikaru さんhal44さんは愛国心はそもそも悪いものにならざるをえないといった議論を展開しているように思います。そもそも悪いものにならざるをえない理由として、hikaruさんはすでに存在している多元的社会における生活を提示します。これは例えば「国籍保持者に奉仕活動を義務付けるべきだ」という考え方を例にとれば分かるように、愛国心は国内的にも排他的性格を持たざるをえない。つまり差別を助長する。

hal44さんは同じく多元的社会あるいはグローバル化した社会を前提に、その排他性を「敵の必要」という観点から説明しているように思われます。お二人の議論を重ね合わせると、国外に敵をつくるのみでなく、国内にも敵をつくる論理であるから、愛国心は忌避されるべきであるということになろうかと思います。

それに対して、私は「愛国心」の社会公共的価値はあるという考え方です。もう少し具体的にいうと、現行の憲法的秩序に深い信頼と確信を寄せ、それを不断の努力によって守っていこうとする態度はひとつの愛国心といえないでしょうか。国制(Constitution)に対する信頼。もちろん、愛国心の多様性を前提としますので、現行制度に否定的な愛国心もあり得る。この着想は、17世紀にアメリカに渡った移民たちの契約モデルをイメージしています。何が「善い」のかはさておき、善い社会を目指していこうというコンセンサスです。しかし、通常、メイフラワー盟約も、憲法的秩序への忠誠も、パトリオティズムとの関連で認知されていませんね。

それから、野原さんは

>進歩派の多数派が実際にやっていたことは、パックスアメリカーナを困難な理想主義としての平和と曖昧に混同し、基地を沖縄に押しつけ続けるということではなかったでしょうか。>

と述べています。

この多数派がどのような人たちを指すのかちょっとぼんやりしていますが、私の考えでは、戦後の日米外交は、「巻き込まれリスク」と「見捨てられリスク」の均衡のなかで対米距離を測ってきた。しかし、江畑謙介が指摘*1するように「巻き込まれリスク」といった観念は、冷戦後強力に推し進められたアメリカの「全世界戦略」の現実に目をそむけるものであると。そういう側面は恐らく日本の知識人の間にもあっただろうと思います。

また、左翼的知識人のなかには、依って立つ立場自体を問題にされることがあった。例えば丸山眞男はそのたち位置「精神的貴族主義」が批判の的となった。

>パトリオティズムに私がやや否定的なのは枠の問題が抜けるからなのです。>N・Bさん

ちょっとよくわからなかったですが、私自身は「隣人とは誰か」の対象をアトミックな個人に見定めるか、個人を育む歴史的・文化的・政治的中間集団の多様性を認めるか、といったことに興味があります。』 (2005/03/26 18:22)

# index_home 『スワンさん

>私は「愛国心」の社会公共的価値はあるという考え方です。

もちろん、現代は多元的な社会になってきているといっても、国家が崩壊したわけではありませんから「愛国心」の価値はあると思います。もっとも、価値があるだけに危ういともいえるかもしれませんが。』 (2005/03/26 22:15)

# hal44 『「社会公共的価値」あるいは、道徳律の基礎としては、遍性のある「人権」を私は採用します。「人権」の保証には超国家的な枠組みが必要なんですけど、現実的な問題は多々ありますね。「愛国心」は国民にしか人権を認めませんから。』 (2005/03/27 06:17)

*1:『日本の軍事システム』P21

超国家的社会公共的価値

# index_home 『こっちにコメントをつけてよいか迷いましたがとりあえず…

hal44さんの「人権」は確かに「愛国心」よりも超国家的社会公共的価値として注目されていますね。二番煎じのようですが私も同意します。

いまだそれぞれの国家が自らに変わる枠組みとして認めきれていない(先進国でさえもその気配アリ。特にアメリカとか…)ことが一番の問題なのかもしれないと思います。』 (2005/03/27 08:58)

# swan_slab 『ちょっと関連することですが、例えば民主主義・人権を「超国家的社会公共的価値」と普遍性をみとめたのは戦後のことですが、それには功罪もあるように思えます。

先月、パリで所信表明演説を行ったライス国務長官は

 「我々の責務は明確だ。我々は、自由の格差の中で正しい側に生きる者として、不幸にも誤った側に生まれた人々を救う義務を負う。」

と述べています。

また、フランスの哲学者のポール・リクールは、「他者の苦しみゆえの義務」という観念をみとめ、他国への人道的武力介入の正当化を模索します。

かつてフランス的価値の領土的拡大を目指したのがフランスの植民地主義だったとすれば、アメリカの世界戦略は、価値の普遍性の名の下に、相対化を阻害されているという印象ももちます。』 (2005/03/27 09:38)