おとなり日記より
http://d.hatena.ne.jp/genonocide/20050119#p2
緊急!】クルド人二名強制送還される!
入管に収容されたクルド人家族の2名が18日?の14時25分成田発のトルコ航空機で強制送還されました。
おとなり日記より
http://d.hatena.ne.jp/genonocide/20050119#p2
緊急!】クルド人二名強制送還される!
入管に収容されたクルド人家族の2名が18日?の14時25分成田発のトルコ航空機で強制送還されました。
[VAWW-NET Japan による訳]
日本軍性奴隷制を裁く2000年「女性国際戦犯法廷」(検事団およびアジア太平洋地域の人々 対 天皇裕仁ほか、および日本政府)の認定の概要(2000年12月12日) [VAWW-NET Japan による訳]
は下記urlにあります。裕仁の刑事責任認定の部分、及び日韓条約等で解決済みとはならないことを示した部分を掲載します。
http://home.att.ne.jp/star/tribunal/ International Tribunal Internet Broadcasting
24.この「法廷」に提出された証拠の検討に基づき、裁判官は天皇裕仁を人道に対する罪について刑事責任があると認定する。そもそも天皇裕仁は陸海軍の大元帥であり、自身の配下にある者が国際法に従って性暴力をはたらくことをやめさせる責任と権力を持っていた。天皇裕仁は単なる傀儡ではなく、むしろ戦争の拡大に伴い、最終的に意思決定する権限を行使した。さらに裁判官の認定では、天皇裕仁は自分の軍隊が「南京大強かん」中に強かんなどの性暴力を含む残虐行為を犯していることを認識していた。この行為が、国際的悪評を招き、また征服された人々を鎮圧するという彼の目的を妨げるものとなっていたからである。強かんを防ぐため必要な、実質的な制裁、捜査や処罰などあらゆる手段をとるのではなく、むしろ「慰安所」制度の継続的拡大を通じて強かんと性奴隷制を永続的させ隠匿する膨大な努力を、故意に承認し、または少なくとも不注意に許可したのである。さらに我々の認定するところでは、天皇は、これほどの規模の制度は自然に生じるものではないと知っていた、または知るべきであったのである。
29.第二次大戦後、日本は多くの条約に署名してきた。これにはサンフランシスコ講和条約、日本・オランダ協定、日比賠償協定、「日本国と大韓民国との間の基本関係に関する条約」、「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」などがある。この「法廷」は、これらの平和条約は「慰安婦」問題には適用されないと認定する。条約によってであっても、個々の国家が人道に対する罪についての他の国家の責任を免ずることはできないからである。
30. 「法廷」は、諸平和条約には本質的なジェンダー偏向が存在するという主席検察の主張は、納得できるものだ、と認定する。「法廷」は、個人としてであれ集団としてであれ、諸平和条約終結時の女性が男性と平等な発言権も地位 も持っていなかった点に留意する。まさにこのために、平和条約締結時、軍の性奴隷制と強かんの問題は何の対応もなく放置され、条約の交渉や最終的合意に何の役割もなかったのである。「法廷」は、国際的な平和交渉過程がこのようにジェンダー認識を欠いた まま行われることは、武力紛争下で女性に対して犯される犯罪が処罰されないという、いまも続く不処罰の文化を助長するものと認識する。(同上)
えーと、現代思想2001年5月号p216の岡野八代「遅れる正義/暴力のあとで」は、次のようにはじまる。
2000年12月東京で行われた「女性国際戦犯法廷」の初日8日と9日の二日間、わたしは<その場>にいた。彼女たちの声を聞くために、そこで何が起こるのかを見るために。
それがどうした、とも思います・・・女性国際戦犯法廷というものは、窮極の被害者という絶対的他者を立ててしまうこと、つまり複雑多様な現実を非常に平面的な分かり易すぎる図式に還元してしまうことだ、といったイメージがある。わたしの中にもある。(イメージがあるので細部まで読まないのでイメージが保存される。)だが岡野氏の体験したそれは決して分かりやすい体験ではなかった。それは良いのだが、彼女の文章は逆に分かりにくすぎるのだった。
法の外にあると考えられてきた従軍「慰安婦」問題を、再度「法」の内部の問題として解決しようとした試み、と岡野は今回の問題を捉える。
といった問題が露わになった経験として。
法システムによって排除されてきた者が、法システムに向かって異議を唱えるときには、法システムの言語・文法によって語らなければならない、そうでなければ、法は聞く耳を持たない、という困難に陥る。(同上p217)
例えば全共闘運動の後、「裁判闘争」というものの訳のわからなさに出会ったことのある者なら、はあはあと、(半身を引きながらも)耳を傾けることができる。ただまあ学生運動のような言葉から生まれた活動と、辺境のサバルタンたちはもちろん違う。
サバルタンは<聞く耳>と出会う事により語りはじめる(こともある)。*1
暴力があった、その後に沈黙を強いられてきたであろう女性たちが、今回東京にやって来るまでの文字通りの長い道のりのなかで、聞く耳を持つ人に出会った。そのことによって、彼女たちは苦痛に苛まれながらも、暴力がふるわれる以前に自分たちが作り上げてきた文脈を破壊した--その意味で、彼女たちにとっては脈絡のない--出来事を伝えようとし、切断された記憶を取り戻すようにして少しずつ、いったん破壊されてしまった文脈からなる世界をやっとの思いでもう一度構築しなおしてきたのだということは、想像に難くない。(同上 p218)
さて、そのように裁判は始まろうとする。一つの非人称の声から。
あなたは真実を語ることを誓いますか
これは証人いや原告・・・いやこれは刑事裁判に類似ものであるから彼女たちではなく検事が原告であり、彼女たちは当事者性を疎外され証人であるにすぎない。これは証人調べを始めるときの決まり文句に過ぎない。だが、それを聞いて岡野は驚く。上に書いたように、自身の力でやっと沈黙から抜け出しここまでやってきた彼女たちに対し、「何を語るべきであり、さらにその言葉がいかに聞き取られるべきかを予め決定してしまうような発言に接して、わたしは驚いてしまったのだ。」
被害女性の一人、エスメラルダ・ボエ(東チモール)さんは叫ぶように言う。
なぜ私がわざわざ日本にまで来て嘘をつきますか!
裁判官の耳に届く言葉を発するための「儀礼」は暴力ではないか、と岡野は言う。彼女たちのことばを彼女たちの現在において聞くのではなく、「裁判官にとっての「現在」、遅れてやってきた裁判官にとっての既存の一つの文脈(適正法手続)へと埋め込もうとしているのだから。」
法はいつでもそうしたもの(すべてを法の普遍性の下に包摂しようとする)にすぎない、としたり顔の奴らは言うだろう。だがそれは少し違う。法は正義に訴えることを認める。その限りで法もまた試されるのだ。
以下、彼女の文章を歪めた形で断片的に引用しておく。
・・・
「不運を不正として想像し直すこと」を迫られる正義はつねにすでに遅すぎる。
遅れてくるがゆえに、つねに正義には責任が問われている。
・・・
彼女たちは責任を求める。これまでとは違う形での-未来における-<わたし>の応答可能性を。
・・・
不運/不正を区分しているのは、正義ではない。それは法の存在*2によるのだ。
・・・
「正義」「責任」「真実」といった言葉は男性中心的権威にともなう言葉だ。彼女たちに強制されてきた「彼ら」の言葉が、彼女たちの身体を通してもう一度発せられたとき、そうした言葉を「わたし」の言葉として紡ぎだすことで、自らの力で文脈からなる世界を創造しつつある女性たちを、わたしは見ていた。(同上 cf.p225-227)
http://d.hatena.ne.jp/liddy/20050120
北村肇さん(「週刊金曜日」編集長)
朝日が本質的な問題を提起したにも拘らず、問題がすりかえられ矮小化されている。問題は三つ。
o NHKが政治的に番組を変えていたこと。過去にも、島ゲジ時代にもあった。
o 番組について自民党の議員を回って釈明していること。
o 政治家本人は圧力ではないといっているが、「公平にやってくれ」と言ったと認めている。これは圧力以外の何ものでもないし、「その何が悪い」と開きなおっていること。
(北村さんおよびliddyさん、引用させていただいてありがとう。)
(1)
id:noharra:20050119#p4では、裁判過程に登場する「慰安婦」の声が文脈を構成することの困難としてあるのに、裁判官の側はそれを、自動的に自分の文脈においてだけ評価し残りは切り捨て、それが当然だと思っている。という趣旨の岡野氏の文章を引用した。すなわち、デリダのいう<亡霊>としてわたしたちの前に彼女たちは現れた。
また、亡霊は現れるだけではなく、つねに何かを語り出すものでもある。
(略)あるいは、ナチの強制収容所というおよそ証言不可能な場所から生き残った人が、長くまもっていた沈黙を破って語り出す言葉のことを考えてもよいだろう。だがこうした言葉は客観的な出来事の証言であるばかりではなく、さまざまに矛盾し、時間的に混乱したものとしても現れてくる。彼らの経験した出来事が、およそ単純に現前するようなものではなかったからである。デリダに言わせれば、こうした発言を受け止めることが亡霊の声に応えることである。亡霊の命令や約束は、つねに自己分裂・自己矛盾しながら容赦なくつきつけられる命令や約束なのである。(廣瀬)
p119『デリダ』林好雄・廣瀬浩司 講談社選書メチエ isbn:4062582597
(2)正義を求める
正義に対して正当な態度をとる必要がある。
最初の正義とは、正義の言い分を聞くこと、正義がどこからやって来て、われわれに何を要求するのかを理解しようとすること。
このとき、正義がやって来て要求をなすのは、特異なもろもろの固有言語を通じてであることを心得ていなければならない。
(cf.p47 『法の力』デリダ isbn:4588006517)
正義は、他者の特異性へ自分を送り届ける。
われわれの特異性、すなわちわれわれの基礎が検証されなければならない。
正義を取り巻くわれわれの概念的・理論的・規範的装置の起源、基礎、および限界についての問いかけを絶えず喚起しつづける、ことが必要だ。
(cf.p47 同上)
“われわれの概念的・理論的・規範的装置の起源、基礎、および限界”とは天皇にほかならない。したがって天皇有罪という四文字は、それに賛成するにせよ反対するにせよわたしたちの思考の原点におかれる。誰もが知っている(のかも知れない)天皇有罪を決して口にしないという黙契のうちにわたしたちの社会は存在していた。「天皇有罪を口にすること」は有罪か?わたしたちの社会はその問いにどう答えるのだろうか?
・・・・・・・・・・ ・・・天皇有罪・・・
・・・・・・・・・・
天皇有罪、をある人のある主張として理解するのではなく*1、わたしたちの起源、基礎、および限界として解剖していかなければならない。
「天皇有罪を口にすることが許されないこと」は、正義すなわち「ある公理への信奉者が脱構築によって宙吊りにされる瞬間*2」という体験から隔てられていることを意味する。
どうして誰も最も虐げられた者、従軍慰安婦の立場に立とうとしないのか?それが言説にとって最も安易な立場であるのではなかったか。わたしたちはこの十年以上そう聞かされてきたのに。
イスラエル女性たちがヨルダン川西岸地区を勇敢にも行進し、命を落としたパレスティナの男性や女性たちのために黙祷を捧げるとき、ニューヨークのイスラエル女性たちのグループが痛ましくプラカードを掲げて、過去五年間で殺されたパレスティナ人の六ニパーセントが二一歳以下の子供たちであることをわたしたちに思い知らせ、彼女たち/かれらと母親たちのために嘆き悲しむとき、彼女たちは、裏切り者、売女、レズビアンと蔑称される。なぜなら、彼女たちは、人間である彼女たち/かれらのために哀悼することを通じて、敵とされる者たちを想像し得る限りの最悪の野獣として扱うことを拒んでいるからである。
「フェミニストの想像力」ドゥルシラ・コーネルp138現代思想200301月号
イスラエル国家がパレスチナ民衆を抑圧し殺害しているのであってその逆ではないことについては過去何度も書いたつもりだ。アメリカのユダヤ人にもイスラエル国家の過剰な暴行に心を痛める多くの人たちがいる、それを知ることも大事だ。ただ言いたいことは、「敵とされる人たち」というのとはだいぶ違うが、かって「日本人でも白人でもない」「女性」であるという理由で沈黙に押しこめられていた人々が語り始めたとき、わたしたちは何かの理由を付けてそれを聞こうとしなかった。そこにはやはり(歪んだ?)ナショナリズムが造った境界線があろう。
今、従軍慰安婦を主題にした「裁判」をめぐる事件が大きな話題になっているが、誰も従軍慰安婦を直視しようとはしていない。非国民と名指されるのを怖れているからであろうか。それとも最も安易な言説を行使する者という汚名を怖れているからであろうか。
「合衆国市民であるラディカルなフェミニストたちはあえて政治的に汚名を被るべきである。*1」
わたしたちは天皇の有罪を求めているのではない。わたしたちは「慰安婦」たちの意を迎えようと思っているわけではない。ただ過去の事実*2にできるだけ素直に接近しようとし、慰安婦たちの主張を聞きその上で、判断しようとしているだけだ。下に掲げるような時効を理由にした門前払いはわたしたちに何も教えてくれない。わたしたちは他者からの申し出に対し対等な者として対応する。裁判官が不当な判決を出せば再審請求するだろう。
従軍慰安婦を直視しようとしないひとたちに対し、いくらソフィストケイトされた理由を口にしようと、スキャンダルの臨界を越えないという無意識に従っているのではないか、という疑いを野原は持ってしまう。
民衆法廷の主催者の立場と「東史郎裁判」についての孫歌の立場には、前者が「法的な手続きにのっとっていない(非正統的な」パフォーマンスを弁護し、後者が「法的な手続きにのっとっている」はずの判決を批判する、という違いはあるものの、「法」の外部にある「正義」の基準に照らして現行の(日本の)法体系を批判している、という姿勢では共通しているように思われるのだ。これはなにもこの両者に限ったことではなく、ポストコロニアリズムの立場から現行の(先進国の)民主・法治・自由の欺瞞性を批判する議論は、どうしてもこういったより高次の「正義」の存在をナイーブに仮定する姿勢から免れていないのではないか、という気がする。
http://d.hatena.ne.jp/kaikaji/20050123 梶ピエールの備忘録。
民衆法廷が「「法」の外部にある「正義」の基準に照らして」ものごとを裁いたというのは当たっていないでしょう。単に日本の裁判所で適用されるべき法より若干広めの「法」を基準にして裁いた、というだけのことでしょう。*1 とにかく「正義を模索すること*2」を、すぐに「より高次の「正義」の存在をナイーブに仮定する姿勢」と言いかえるのはやめていただきたい。
*1:判決を読んでいないので詳細には論じられないが
女性国際戦犯法廷を真正面から擁護する論者がいない、と書きましたが、
id:mojimojiさんは、「シンパシーを感じる」と明言し、いろいろ文章をかいておられます。わたしは彼の主張に同意するものですので、簡単に紹介させてもらいます。
一般傍聴を認めていない件
全面的な一般傍聴を認めるのがベストなんだろうけど、当時、従軍慰安婦の論点で政府を批判する集会は暴力的な右翼シンパが出没してた頃で、
一般傍聴がないことの弊害がどのように避けうるかといえば、それは裁判の内容を事細かに公開することによって、かなりの程度なしうるだろう。これについては、(略)『女性国際戦犯法廷の全記録』、『女性国際戦犯法廷の全記録〈2〉』を見ればいい。
弁護側代理人がいない
これについては、「呼んだけど来なかった」に尽きる。
従軍慰安婦問題については、オランダ人に対する事例を除き、法的責任を一切問われておらず、その調査さえ日本政府はしない(それどころか、妨害さえしていると取られても仕方のない状況さえある)。問題にされているのは、恣意的な「法の不在」なのであり、そのような行為がまかり通っている以上、法を僭称しているのはむしろ政府の側であるという理屈は十分説得力を持っている。
それに対する反論、おおや氏の。
http://alicia.zive.net/weblog/t-ohya/000148.html
(しかし私は「正義は(主に法的な)手続きを通じて構築される・示されるものである」として独立した正義の存在を認めない立場であるから、そもそも前提を共有していない)方の意見。
「正義も各個人の同意に基いて構成されるしかないし、」日本国家が同意しなければ正義は一切成立しないと。
と書いてあるが、私も賛成なので自分のためのメモとして。
僕の方は、人間が基本的に自由であるためには、それを支える物質的条件が必要なのであって、最低でもそうした物質的条件に関わる客観的な正義というものが必要である。という立場です。