だけども野原は、12/20の文章で水村を引用しながら、この結論には触れず、「日本人の名誉白人意識は揺らいでいない」という反対のことを断言しているのだ。
日本国内で無自覚に生きている限り、韓国と出会わざるをえないという体験などしなくても生きていける、という国内体験だけで生きる人の実感をベースに語っているからだ。“なかった派”やネット上の嫌韓人士の存在を身近に感じているのも理由の一つだろう。
わたしは数年前次の文章を書いた。
http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/dai.htm「わたしたちは忘却を達成した」
日中戦争時の日本軍の残虐行為をことさらに強調したものである。わたしたちの現実というものはいくつかの忘却、いくつかの隠蔽のうえに成り立っているものでであると思う。しかしここで書き手はあるアポリアに突き当たるのだ。日本という現実の内部存在者でありながら何故、野原だけがその「忘却」に気づき、現実総体を糾弾するという外部の立場に立つことができるのか、という。
「日本軍の残虐行為」がほらこんなに存在するじゃないか、と事実とされる物の膨大さを突然提示するという方法は有効ではないだろう。わたし、日本国内で平和に暮らしているとされるわたしからその「残虐行為」への回路がわたしにとって必然であることを同時に提示しない限り、説得力がない。
「日本国内で無自覚に生きている限り、韓国と出会わざるをえないという体験などしなくても生きていける」、という国内体験だけで生きる人の実感というのもあやしいものだ。
「今、若い人に、あなたは自分がアジア人であるのを知らないと、そんなことを教えても無駄である。」かもしれない。いずれ歳取ればわかるだろう。それでは遅すぎるのかどうか、は分からないが。
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(長くなったので一応UPします。苦労した割にまともな文章が書けなかった・・・)