著作権/引用について

 現在日本にあるすべての法律を尊重しなければならないものでもなかろう。公共の福祉に反しないかぎり自己の幸福を追求していいのだから。後は他者の権利との調節の問題(司法の領域)だ。国家といえども多くの場合、私と対等な権利主体にすぎない。*1「著作権」というものの理解については当然、著作権者(「持てる者」)と利用者との利害対立を反映し、解釈にも相違が出るだろう。シェアウエアなどの作者は弱い立場でお願いしているだけだし、しかるべき金額は払うべきだと思う(ズルしてることもあり、スンマセン)。ただ「大企業である=著作権者」の利益など特に尊重する必要もないのでは。ハリウッドや日本の音楽産業などのコンテンツに興味がないからでもあるが。難しい問題なのでこれはとりあえずのメモ。

下記に、分かりやすい入門とリンクがある。(最初、リンクだけしとこうと思ったがまとまらない思いを上に書きました。)

http://d.hatena.ne.jp/katawa/20041113#1100358461 はてなダイアリー – この平坦な戦場で生きのばす為に

*1:日本の司法はちゃんと機能しているのか?という問題になるが。

自然権/公共の福祉

「公共の福祉に反しないかぎり自己の幸福を追求していいのだから」と書きましたが、「公共の福祉」とは魔法の言葉でいくらでも悪用が可能なんだ、ということは広く知られている。

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20040430#p1

自分自身(あるいは組織)の安全を確保し、幸福追求のための自然権を保持するということは、自然人の根本的な権利であって、国家というものは、この自然権を保障する目的のために成立する機構(手段)であるというのが近代の建前です。

ということを再度確認しておきたい。

そして自然権のうちでも、わたしたち個々の人間の身体や精神、希望などを破壊することが最も強く否定されなければならないだろう。身近な感覚ですぐに理解できない巨大企業や国家の利益は、例え権利があろうと、<柔らかいもの=ひとりの人>の権利に劣後すると理解していいのだと思う。

憲法13条

swan_slab 『こんにちは、のはらさん。

憲法13条というはてなキーワード(未完成)は私が著作権法32条などおかまいなしに憲法学者の見解を列挙しているのですが、私のスタンスはばりばりに長谷部説よりです。松井茂記教授の説も掲載する予定です。長谷部氏と松井氏のスタンスはわりと対照的で、自然権ないし切り札としての人権を認めるリベラルデモクラシーとデモクラティックプロセスに絶対的なまでの信頼をおき、すべての自由は民主主義に開かれているとして憲法は実体的な価値について語るべきではないという立場の違いがあります。大雑把に言うと。』

スワンさんからコメントいただいた。どうもありがとう。「キーワード憲法13条」読みました。憲法13条というのはある裁判に関わったとき聞いたことはありました。(ていうか法学部出身のくせにそれまで知らなかったのか。)後者の説についても興味がありますね。補充されるとのことで期待しています。

・・・じつは、今日は朝からスワンさんとの過去のやりとりを振り返り続きを書こうとしていたのでした・・・

ディスコミュニケーション

えーとid:noharra:20041024で、id:swan_slab:20041020の一部を引用し感想を書いた。すぐにスワンさんからコメント欄に応答があり、こちらも応答。しばらくしてまたスワンさんから応答があった。ですがそれを放置したままになっていて、すみませんでした。

 だいたい、「わたしの文章は断言的、批判的、攻撃的なきらいが多分にあるようです。(できれば)どうかご容赦ください。』であるわけですが、その割に手当たり次第に引用、あるいは批判などをし回って、尻も拭けない状態で皆さまにご迷惑をお掛けしているわけでございます。 ・・・

 論点に直接切り込もうとする意欲はあると言えば聞こえは良いが、他人の日記の引用をしつつ行うときは、その方とのコミュニケーションという側面にも考慮しつつ行わないと、いけない。 ・・・

 さて、日数が少し経っただけで何を書いていたのか忘れてしまったので、まず論点を復習しておきましょう。

  1. id:noharra:20041013に書いたように、南京大虐殺を語ることが、「大東亜戦争従軍の将兵、遺族さらには日本国及び国民の誇りに傷をつけ、辱めさせた」ことになるとする、「なかった派」が社会的影響力を行使した。
  2. 「私たちが、先祖との連続性を回復し、先祖をステロタイプな殺人鬼にしないためには、自虐史観排斥みたいな運動傾向にならざるをえないのかもしれず、」id:swan_slab:20041020より
  3. 「戦争はいけなかった」「戦争は悪だ」という叫びは、実は当事者の現実を封印するという方向にも働いたのだ。加害者は「当事者の現実の封印」に加担した。ある意味では右も左も封印に加担したのだ。そのことにより、特別に学ぶ努力をしない人の場合、非常に薄っぺらな当事者像しか手に入らないことになった。id:noharra:20041023#p1(野原)
  4. 【アジア諸国との関係で】日本人は加害者だ。(スワン)
  5. 歴史的判決というべき04年10月15日に、水俣病を語るブログや2chの言論が閑散としていた状況は、そうしたジレンマから私たちの意識が完全に自由であったことを意味するだろう。(スワン)id:swan_slab:20041020より
  6. 「イスラエルが悪い」と思うのは簡単でも、言うのは簡単ではない、ということのようだ。それと同じように「チッソが悪い」、と言うのは実は簡単ではないのではないか。*1「私たちもまた、加害性を抱えながら果実を手にしてきた。」黙っている人たちは発言すればジレンマに向きあわなければならないことを(どこかで瞬時に)察知したからこそ黙っているのではないか。(野原)id:noharra:20041023#p3
  7. 私のイメージでは、糾弾する→ゆえにコミュニケーションが切断される、ではなくて、ディスコミュニケーションゆえにステロタイプな殺人鬼像が量産される、というイメージです。(スワン)
  8. 糾弾することで切断されるというよりは、むしろガチンコでやりあえばコミュニケーションが生まれてくる可能性は少しはあると感じています。(スワン)

とざっと振り返ってみましたが、二人の発言はかなりすれ違っています。ですからこれはこれとして、再度新しい論点が出てくれば、・・・ということにしましょう。

*1:上記「言う」は「いう」になっていたが訂正。

「切断操作」

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20041114#p5 でスワンさんとのこの間のやりとりを整理したところ、すぐにコメントをいただいた。日記の欄がずれるがこちらに再掲し考えて見よう。

# swan_slab 『6の沈黙に関連するんですが、香田さん殺害事件に典型的な【切断操作】がみられたと思いますがどうでしょう。【「わざわざ殺されにいくような愚かさ」は我々とは一切無縁のものだ。ゆえに同情もわかない】という切り離しです。もしかすると、人生の他の場面では、自分だって七転八倒して愚かな行動にでて危険もわからず飛び込んでいることがあるかもしれないということを一切考えない糾弾です。ただもしかすると本当に立派な人なのかもしれずなんともいえないのですが、直感的には、人間はみな多かれ少なかれ自らのエラーから学ぶ愚かな生き物だと思います。id:swan_slab:20041110#1100344497 で他人に厳しく自分に甘い自己責任論者の例を批判的に書きましたが、重要なことはみんな自己に厳しくあれ!ということでは全然なくて、自分を棚にあげてひとをこき下ろすのは【切りはなし操作】だろうということです。

瞬時に察知したから沈黙する(ないし切りはなす)という分析はそのとおりかもしれません。沈黙(あるいは切りはなす)した瞬間から察知したことも忘れ、すべてなかったことにしてしまうという意味で。こうして理不尽に切りはなされる傾向があったからこそ、それに対して、コミュニケーションを取り戻そうとして香田さんに同感しようとする傾向が他方で生じてきたという気がしないでもありません。

事件直後から「同情できないのか」「え?無理っす」といったやり取りがしばしばみられたのはそういうことかなと思っています』

ところで、「切断操作」って社会学の概念だったんだ。はてなキーワードで教えてもらった。「共同体に特有な問題処理の作法。」とある。なるほど

「切断」と「ジレンマ」

 キーワードは「切断」と「ジレンマ」ですかね。まず、「ジレンマ」について再掲すると、下記の通り。

(5-2)

一方で自分だけが快適な利便性を享受し、チッソの製品である携帯のディスプレイやPCの液晶をみながら、国はひどいよね、とかチッソはひどいよねといって被害者の苦悩に思いをはせる私自身の批判次元のジレンマは、戦争当事者たちの子孫が戦争責任を語る場合とでは水平的な軸であるか歴史という垂直の軸であるかの違いであるだけで、じつは同一の地平にあるのではないだろうか。(スワン)http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20041020#p2

(5-3)

関係性が見えにくいだけで、私たちはあたかも切断されているかのように認知する傾向があるように思う。私たちは、現在における空間的、水平的なレベルでの関係性をどこかで切断してしまっている。私たちには関係ないよ、と*1。(同上)

つまり、「水俣病」「戦争責任」「イラク戦争」どれをとっても、それらは問題として額縁に入れられ、あるいは動画としてブラウン管の向こうに、わたしたちと切り離された対象として、(わたしたちを脅かさないものとして)存在するわけではない。とスワンさんは主張する。この点について(も)わたしは強く共感します。

この中で一番分かりやすいのは、今現に米軍の銃砲によって人々が死んでいっている、イラクであるはずです。イラクについては下に書きます。

香田証生さんの死は確かに痛ましい。だけどイラク問題の本質はそこにはないのではないか、とわたしは思うのです。だからといって、香田証生さんの問題が大事ないというわけはない。また次に考えます。

わたしたちとイラク戦争問題との関わり

(6-2)

わたしたちとイラク戦争問題との関わりといえば、もちろん自衛隊派兵である。自衛隊駐留期限は目前に迫っており、駐留延期は決まっていない。派兵は「イラク復興のため」に行われた。ところがアメリカと日本のもくろみに反し、1年間でイラク国内は無茶苦茶になった。

第一条 この法律は、イラク特別事態(国際連合安全保障理事会決議第六百七十八号、第六百八十七号及び第千四百四十一号並びにこれらに関連する同理事会決議に基づき国際連合加盟国によりイラクに対して行われた武力行使並びにこれに引き続く事態をいう。以下同じ。)を受けて、国家の速やかな再建を図るためにイラクにおいて行われている国民生活の安定と向上、民主的な手段による統治組織の設立等に向けたイラクの国民による自主的な努力を支援し、及び促進しようとする国際社会の取組に関し、我が国がこれに主体的かつ積極的に寄与するため、国際連合安全保障理事会決議第千四百八十三号を踏まえ、人道復興支援活動及び安全確保支援活動を行うこととし、もってイラクの国家の再建を通じて我が国を含む国際社会の平和及び安全の確保に資することを目的とする。

http://www.kantei.go.jp/jp/houan/2003/iraq/030613iraq.html

イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法

<イラク国民の生活の安定と向上、民主的な手段による統治組織の設立等>という二つの目的のために、自衛隊はそこにいる。そのために自衛隊はどうしたらいいのか。id:noharra:20041031#p1 で引いたイラク人ライードさんの判断によれば、答えは簡単だ。撤退がベストだという。

事態の解決は,ブッシュ政権(あるいはケリー政権)とイラク人に任せてください。これは彼らの為すべきことなのです。ブッシュ政権に,イラクに対する彼らの戦争を正当化するための「国際的」という隠れ蓑を与えないでください。イラクにあなたがたの国の武装集団(your military groups)がいることは,ただ単に,政治的なものなのです。米国政権の誤った対外政策を支持するためだけなのです。人種差別的な「アメリカ帝国のための戦争」を支持することは,あなたがた平和的な国民のしたいことではないでしょう。

小泉は少なくとも自衛隊員が何人か死ぬまで自衛隊を撤退させる気はない。だが(おそらく近い将来に大きな確率で予測できる)彼らは一体何の為に死ぬのか?イラク人に感謝されないのであれば。

わたしたちは民主主義国家に住んでいる。わたしたちが民主主義国家を形成しているのだ。*1イラクに現在自衛隊員が滞在しているのは「わたしたちの意志」である。国民の一人ひとりは、自衛隊員が命の危険を掛けてそこにいる以上、自分の意志を今再確認し公表すべきであると思う。

つまり、「自衛隊のイラク駐留」と<わたし>の間には二重の関係があります。民主主義の国家意志を形成した(する)国民としての関係と、「無意味かも知れない」死に(わたしたちの依頼により)追いやる(可能性)という情緒的関係。二重の関係において今、自分の意志を確認し表示することは<わたし>(あなた)の権利であり、義務である。

 これはすでに、http://d.hatena.ne.jp/noharra/20041030#p1 である方にお聞きした設問に近い。そのときの答えは「平和主義は非現実的且つ国際的孤立の道に他ならない」だったが、答えは、わたしの問題設定にとっては第一義的にはどうでも良いのである。国民の51%が「そうしろ」という断固たる意志を持っているのなら自衛隊員の死は(国内的論理では)やむを得なかろう。

 (わたしは悼まない。*2高額の年金などを払う事にも反対だ。)

*1:この「わたしたち」には「在日」も入るのか?在日も国家形成に参加している。だが国家意思形成には参加していない。・・・

*2:非国民と呼ばれて叩かれまわってもよい。そのためのハンドルネームですから。

勝ち組を戦場に

ずいぶん前の文章ですが、

http://d.hatena.ne.jp/demian/20040707#p4  経由で

http://d.hatena.ne.jp/amegriff/20040701#1088641482

を知りました。

戦争は国益の為にやるもので、実際その損益をかぶる階層すなわち「勝ち組」が戦場に行くべきですね。

ところで、西村真悟衆議院議員は次のように言っている。(とのこと)

国のために命を投げ出しても構わない日本人を産みだす。お国のために命をささげた人があって、今ここに祖国があるということを子どもたちに教える。これに尽きる。

お前みたいな奴が日本を破滅に導き、日本中が焦土になった原因を作ったんじゃないか。これが分からないのなら、日本人は逝って良し!

「切断操作」(2)

 香田証生さんについてはうまく書けない気がする。最初の3人の人質(なかでも高遠さん)についてはこの日記でもけっこう書いたのだが。自己引用。

 自己責任についてはもっともだ。というか、“アンマンのクリフホテルからのタクシーでバグダッドに向か”うと決めたとき、バグダッドに着くことなく拘束される可能性や死の可能性を彼らは充分考えた上で行為したに違いない。死んでしまえば何処に怨みを残そうが詮方ないのであって、どのような気持ちをもって、あるいは惰性で決断したにしてもそこにはやはり、死を覚悟した決断があったとはいえるだろう。(略)

「ほとんどの書き込みが単なるルサンチマンの表出としてしか読めません。」という2ちゃんねらーまがいの発言が多かったらしいが、そこ(決断)に<至高性>の臭いをすばやく嗅ぎつけ、それにヒステリックに反応する、野原ふうに言えば“奴隷”の心性を持った人が大量発生しているということだろう。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040414#p5

 自己責任については、香田さんの場合も同じだろう。彼は馬鹿なこと(かもしれないこと)をした。そして殺されてしまった。彼が後悔しながら死んでいった、かどうかは分からない。どちらにしても彼は殺された。*1一瞬、そこに静かに立ち止まるべきだろう。

日本中だけでも無惨に(「抑圧された」という情況においてそれを原因の一部として)死んでいく人々は少なくないはずだ。それでもマスコミで大きく報道される人は少なく、他の人は悼まれない。

香田さんに対してだけ、「危険なところに行ったお前が悪い」という発言行為があるのはなぜか。裏読みするならば、そこにはまず、「香田証生は他者ではない」という前提がある。その上で「切断操作」があるわけだ。

「香田証生は他者ではない」には二つの意味がある。マスコミが大きく報道する「日本人」としての同胞感。それと、多かれ少なかれ日本社会で仕事に熱中することに生きがいを見いだせず、浮遊感をもてあましつつ何らかの意味の自分探しをしている者としての共感*2

 ということで、わたしの問題意識では、(1)同情 がまずあり、それが(2)切断された と思います。

 ところで、前回の人質事件の時の「切断操作」と今回のそれはかなり違いますね。前回は明らかに反動的、政府支持的効果があったが、今回はなかった。ああこれは切断操作ではなく、人質が帰ってきたか駄目だったかの効果か。全然分析になってないな。まあどちらにしても「テトリストを憎め!」という大合唱が起こらずによかったです。(そう言いたがっている人もいますが。)

*1:テロリストを憎むことは、わたしも危険を冒し戦いに行く可能性につながる。

*2:2ちゃんねるやはてなのユーザーは大ざっぱに言うと大方後者のカテゴリーに入るのでは。だが、普通の大衆はそんな浮ついた問いを必要としない、考えもしない場所で生きているはずだ。それとも普通であることは、浮遊感を身体のすぐ裏側に感じながらそれをヒステリックにうち消すことで成立しているのか??

軍事大権の総括者(11/22追加)

スワンさんからコメントいただいた。

# swan_slab 『

わたしたちは民主主義国家に住んでいる。わたしたちが民主主義国家を形成しているのだ。*1イラクに現在自衛隊員が滞在しているのは「わたしたちの意志」である。国民の一人ひとりは、自衛隊員が命の危険を掛けてそこにいる以上、自分の意志を今再確認し公表すべきであると思う。

こないだの憲法13条観(長谷部VS松井)と絡んで、私自身は民主的政治過程によっても奪うことができない【個人の尊厳】という観念を認めます。べつにマイノリティの人権がどうのということ以前に、多数決によっては奪うことができない本源的な生の平等を信じます。立憲主義は民主政を限界付けると考えます。

民主政は究極のポピュリズムに堕する危険を防ぐことができないし、制度的な欠陥や官僚制などに支えられていることなど、いろいろな意味で、民主政にそこまで信頼を置けないというのが正直なところです。

スワンさん、コメントありがとう。

わたしは「国民の51%が「そうしろ」という断固たる意志を持っている」とはとうてい思えないのです。国民の意思がどこにあるか、60年安保のような大騒動でも起これば議論の余地もあるがそうでない限り首相の意思がそれだと推定されます。という法的、政治的常識は覆しようもありません。ただまあネットという自由な言論空間の一部において、あらためてわたしたち一人ひとりの意思を確認することは別にやっても良いことだと思ったのです。

ただ国民という言葉を使ってしまうことには、それだけで一定の土俵(国民国家)の上に載ってしまっているという危惧(懸念)もあるのですが。

つまり上記の文章は、日本を民主主義国家として肯定的に把握しているという主張ではありません。(そうも読めるでしょうが)民主制についての判断はスワンさんに非常に近いと思います。

 ところで、私が最も強く訴えたいことは、下記にも書いたけれど、

・・兵を出した以上撤兵することは(どんな場合でも)非常に困難なことだ。

・・したがって、どのような条件において兵を退くということをあらかじめ厳格に定めておき、その条件を越えたら直ちに退かなければいけない。

・・条件違反の判断をきっちりしなければいけない。

ということです。 http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040414#p1

これは、日本遺族会の会長の古賀誠氏の言っていることとほとんど同じであり、戦後日本が出発した時における「最低限」の反省であるはずです。*1

スワンさんが冬山登山の検討会の例で実感をこめて訴えたいとしておられることも内容的には同じだと思います。

 ところが小泉氏にはそうした問題意識が全くうかがわれず、首相(

軍事大権の総括者)としての最低限の条件を満たしていません。ある思考回路もった人々にとっては愛国テロの対象になるでしょう。

*1:なお、図式的にいっておくとわたしはほぼ極左であり遺族会とは多くの点で対立する。