詩に、悠々たる大空*1は父母だとある。とすれば、四海の内は皆この父母の子の兄弟だ。だが、この兄弟たちのつきあい(相友愛する)方を見ると、なかには性命(本性や天命)を以てつきあう者もあれば、表面的なつきあいにとどまる者もあり、またたがいに縁のない人たちもいる。熊沢君と私とのつきあいは性命を以てするつきあいであった。「徳は弧ならず必ず隣りあり」(『論語』里仁篇)と言われ、自分は孤立しないような徳をもっているとはいえないが、昨秋、有徳の隣人の訪問を受けた。(後略)*2
この文章で興味深かったのは、「徳は弧ならず必ず隣りあり」を逆に読んでいるところ。(わたしは絶対的で絶望的な孤独のなかにいる)つまりわたしは未だ徳をもってはいない。というふうに。わたしたちは幾人かのあるいはたくさんの人々に囲まれて生きる。だが、恋愛といい家族といい同志といい国家といいそれらはすべて「表面的なつきあいにとどまる」のではないか。(このわたしの孤独をわたしはどうすることもできない。)
病弱で絶えず死を意識しながら生きた中江藤樹の無意識にはそうした孤独感があったのかもしれない。であればこそ毎朝着飾って礼拝を捧げたのだろう。だが絶望感を語ることは無意味である。友人との関係を喜び、日常生活の些事に喜びを見出すこともできる。ひとはポジティブにしか生きられないものなのだ。意識など切り捨てても生きていける。