無料のアンティウイルスソフト

 だいたいわたしはセキュリティ感覚がない方なので、アンチウイルスソフトも入れていない。(今のところ迷惑は掛けていないと思う・・・)うちのもう一台のパソコンはマカフィーを入れていたが1年の期間が切れ継続版を購入した(金をコンビニで払った)がダウンロードに失敗、返金してもらった。で頭に来てアンインストールしてしまった。ので無防備な期間があったが、やはり入れろと言うので、考えた。ある人がMLで教えてくれた、AVG Free Edition というのをダウンロードしてインストールしてみた。

http://free.grisoft.com/freeweb.php/doc/2/lng/us/tpl/v5

すると翌日、うちの子(小学生)が面白フラッシュの頁かなんかを見まくっていて見事感染。(前回は、トロイの木馬という大騒ぎするほどのこともない奴ということだった。今回のも、デスクトップがどんどん壊れていき見た目は派手だが、たぶん同じようなものだったのだろう。)(リセットしたが「ウィルス検出」という警告はでなかった。)早速、【Complete Test】を行う。半時間ほどで終わり感染ファイル1個を発見。(それだけで隔離してくれている?)ウイルスソフトのこともよく分かっていないし英語も読めないのでたよりないが現状肯定。

 チェコのソフトだそうです。無期限無料。軽いなど市販品より良い点もあるらしい。

http://airtracks.hp.infoseek.co.jp/  【AVG-JP】

日本語化パッチがある。(やってみました)

http://homepage2.nifty.com/asagiura/afswoos/f_avg.htm

こちらには、AVG日本語化ウィンドウ一覧 がある。

http://homepage2.nifty.com/asagiura/afswoos/f_sec.htm

ついでに、キプロスのファイアウォールソフトの紹介もある。

http://www10.plala.or.jp/palm84/avg_free.html

詳しい説明。AVG Anti-Virus Free Edition 6.0について

これ何の言(げん)ぞ与(や)、これ何の言ぞ与、

 『孝経』というのは儒教の教典(十三経の一つ)ですが、四書五経には入っていないので知らない人が多いでしょう。*1漢の時代の初めには既にあったのは確かという古典です。

敢へて問ふ。父の令*2に從ふのみは、孝と謂ふべけんや、と。子曰く、是れ何の言ぞや。是れ何の言ぞや。言の通ぜざるか。昔者天子爭臣七人有れば。亡(む)道(どう)と雖ども天下を失はず。諸侯爭臣五人有れば。亡道と雖ども其の國を失はず。大夫爭臣三人有れば。亡道と雖も其の家を失はず。士爭友有れば。則ち身令名を離れず。父に爭子あれば。則ち身不誼に陷らず。故に不誼に當っては。則ち子以て父と爭はざるべからず。臣以て君に爭はざるべからず。故に不誼に當っては。則ち之を爭う。父の命に從ふ又安んぞ孝と爲すを得んや。

http://www.keitenaijin.com/keikyo.htm(孝980901)から引用させていただきました。(一部変更しています。)

http://kanbun.info/keibu/kokyo.html *3

 孝経というのは、孔子が弟子の曾子と問答する形で<孝>について論じています。<孝>は親孝行の孝には違いないのですがかなり意味が広くなっています。ここでは曾子が質問しています。子供が父の命に從うべきか?当然だ、と肯定するかと思いきや孔子は、「これ何の言ぞ与(や)、これ何の言ぞ与(や)、言(げん)の通ぜず。」と、絶句するほど不本意な様子。

 中江藤樹の註釈にしたがって読んでみると、「父の命に従うとは、もっぱら父の命に従順して、不義といえども敢えて諫止しないことをいう。」「可謂孝乎」の「乎」とは疑いの辞である。つまり曾子はすでに父を不義に陥れるの不孝を知っている(のである)。だけども、諫争すると愛敬の和をやぶることがある。確かに、従順は孝子の本来であるとは言えるとしても、この場合は本当の孝には成っていないのではないか。*4藤樹先生、かなり曾子にはきびしい、深読みをされます。

 次孔子の発言。「「何言与」とは、なお、なんの心をもってかくのごときの言(コト)をなすやと云うがごとし。けだし「言」というのは心の声なり。*5」孔子は曾子の心を知っているつもりだった。だから、まさかこんなふうな発言はしないはずだと思っていた。だのにそういう発言があった。「ゆえに、何の心をもってしこうしてこの言をなすやと謂う。そしてこれを戒める。「何言与、何言与。」と重ね言うものは、もって深くこれを警戒する(いましめる)ところなり。」

 次は実例。社長の回りがイエスマンばかりだとその会社は潰れる。つまり君を諫める者がなければならない、ということを、天子、諸侯、大夫、士、父とその規模にしたがって五回繰り返して強調しております。

 結論。「父の令に従うのみなるは、また焉(いずくん)ぞ孝となすを得んや。」形式的な従順は、(大義に反する場合)不孝となるわけです。

 ところで一方、儒教には以上に書いたことに反するフレーズもあります。「君君たらずとも臣は臣たらざるべからず。父父たらずとも子は子たらざるべからず。」(6世紀ごろ作られた偽書らしいですが、孔安国の「孝経」序にある言葉です。日本では敗戦まで大いにもてはやされた。君主が絶対であるのは天の秩序の象徴であるからであり(天という言葉を使わないとしても)、生身の天皇自体には誤りもあるのが当然です。国家の命令を一切疑うことなくそれに「従う」ことだけを価値とした文化が敗北したのは当然のことだったわけです。そして戦後、絶対的権威の場に天皇に代わり「民主主義(アメリカ)」が居座ることとなり、その構造は解体されずに継続し続けている。ということなのでしょうか。最近、日の丸、君が代、愛国心といったものへの服従を強調する動きがあるようです。二千年以上前に「孔子」が絶句して嫌がった思想と共通点があるとわたしは思います。*6

追記:父がその社会で犯罪者として指弾される存在であっても、社会的能力のない飲んだくれであっても、子は父を見放さず孝を尽くさなければいけない、これは儒教の原則であり、その意味では「父父たらずとも子は子たらざるべからず。」というのは全く正しいわけです。問題は既成の権力関係における上位の者が、居直りの論理としてこれを持ち出すときですね。それは儒教の原則に全く反しているわけです。

*1:四書の一であり短いから読みやすい、大学・中庸とかでも、わたしは最近馴染みになったが知らない人が多いだろう。

*2:孝経には、古文と今文二種類のテキストがあって、ここは古文では「命」だが今文では「令」。

*3:孝經(Web漢文大系)、テキストクリティックも詳細に行っている。

*4:以上不正確な引用。p243『中江藤樹』岩波日本思想体系

*5:言の内容。シニフィエ。

*6:孝経、および中江藤樹、テキストも漢文、現代文の区別もめちゃくちゃに引用、大意表現しています、すみません。

武士道から遠く離れて

http://www.goisu.net/cgi-bin/psychology/psychology.cgi?menu=c032

あなたの漢(おとこ)のサムライ度チェック – 無料占い GoisuNet

  上記の占いをやって見ました。毎日(ではないが)古くさい儒学の本を頑張って読んでいるのになんて結果だ!?

>あなたの漢(おとこ)のサムライ度チェック>結果

あなたの漢(おとこ)のサムライ度を診断してみました。

あなたの漢気度は【4%】ぐらいで夜な夜な欲望のまま戯れる【フランス貴族】の血をひいています。

耽美的な享楽を何よりも愛するあなた。自分が大好きで、ちょっとナルシーな気のあるあなたから、漢気はまったく感じられません。

男くささを野蛮と思い、勇気や信念を古典的なものととらえるあなたは、現在の軟弱日本を代表するようなひ弱な男子といえるでしょう。あなたにとって大切なものは、自分自身と欲望を満たすこと。それ以外のことは、はっきりどうだっていいのです。個人主義者であり、社会にあまり興味のないあなたは、漢の世界とは正反対の位置で暮らしているのでしょう。まあ、仕方ありません。敗戦国日本はマッカーサー上陸以降、鬼畜米兵の「日本国民総白痴化計画」によってコーラとハンバーガーで骨抜きにされてしまったのですから……。

マザコン度  100%

 以上はあまりあたってないが、下記の藤樹の文章が指摘するタイプにはきっちり当てはまっているように思えた。ウウ・・・

「すでに暗処に魔を来るたしぬれば、何事も異風をこのみ、人をばいける虫とも思はず、天下に我をこすべき者なしと、人もゆるさぬ高慢を鼻にあて、親おやかたのぐち(愚知)なるをさげしみ、友達をあなどり、かりそめにも己れを是とし人を非とす。或いは世間のまじわりをいとひ、独り居ることを好み、あるいは甚だしきときは気のちがふかたもありとみえたり。」*1

「うまれつき利根無欲けなげなる人、此のやまい多し。」

さらに、高慢や孤独という現象には現れなくとも、“自分が設定した狭いチャンネルでだけ他人とつき合ってそうであることに疑問を抱かない者たち、”あるいは“自分というものを守るという動機しか持たない者たち”と言ってみれば、ほとんどの現代人はあてはまるか。

*1:p164 「翁問答」中江藤樹・日本思想体系、中央公論版p163

妊娠から遠いわたし

http://d.hatena.ne.jp/strictk/20040927 strictkさんへの応答が遅れている。今日、漫画「NANA」というのを少しだけ読んだ。続きを読もうと近のリサイクル古書店にいったら、十数冊でているはずのこの漫画だけが一冊もない。少女マンガの棚には慣れていないのでそう確認するまで数分かかった。*1準備ということもないが、「西尾幹二のインターネット日録」というのがあるのを知り読んでみると、大したことは書いてなかった。

http://blog.livedoor.jp/nishio_nitiroku/ 9/9

落合恵子(作家)さんの文を批判している。

(落合)私たちを取り巻く社会において、自分自身であることをずっと求め続けることは時には大きなストレスになることかもしれません。しかし、やはり私たちは個であることから始まり、個であることを続けていかなければなりません。このことは、セクシュアリティを含めて、あらゆる人権について考える時の基本であると思います。

(西尾)落合さんは「個」という観念をいきなりここでもち出す。両親そろっている「普通」の家庭へのルサンチマンもにじませた論が展開される。けれども落合さん自身はここでいう意味の純粋な「個」なのだろうか。この「個」の概念は間違っていないか。

「落合さん自身はここでいう意味の純粋な「個」なのだろうか。」というのは「為にする問いかけ」である。人間存在というのはマルクスを持ち出すまでもなく関係性の束とも考えることができる。存在としてのわたしが「けっして「個」ではない。」というのは正しい。

しかし、<実存としてのわたし>については「やはり私たちは個であることから始まり、個であることを続けていかなければなりません。」という断言が適切であろう。ところが、次の文章「このことは、セクシュアリティを含めて、あらゆる人権について考える時の基本であると思います。」を読むと少し違和感が残る。人権を考えることは普遍的政治的な立場に立つことではないか。セクシュアリティを含む困難に真正面からぶつかったとき、人権概念は役に立つこともあればそうでないこともある、と思える。*2人権という概念を最終審級とすべきではない。概念ないし言葉を大事にするのではなく、困難にあるあなたと(それに関与しなければならないわけではない)わたしという関係が当為ではないが不可避である、ことが大事であると思われる。(しかしながらたぶん)落合さんが立ち止まっている問題もそうした問題であることは間違いないであろう。したがってここでの落合さんへの疑問は、わたしとは多少言葉の使い方が違う、というだけのことになった。

一方、西尾幹二の方はいちゃもん付けをしてるだけだ。「そして、なにかに依存し、包まれていなければ真の「個」は成立しない。」この文章の多義性に、西尾氏のマジックの種が隠されている。「野原9/23」などで丁寧に触れたとおり、母ないしそれに代わる他者に依存する時間の持続がなければ、わたしたちは「ポリス的動物」になりえない。それと「独立した大人でも諸関係や国家に依存している」というのは別の問題だ。はっきり書かないのはそこに思想的弱点があるからだろう。

「彼女は見方によれば特権者の側にいる。「普通」とか「普通でない」とかはすべて相対的概念だ。」この二つの文章は明らかに矛盾してますね。後者はニーチェとも言えるが、芸のないニーチェはニーチェから最も遠いものだ。

追記「トラックバック」というもがよく分かっていなかったので、一度やってみようと、畏れ多くも西尾氏あてに試みたが、2回失敗しあきらめた。無難だったろう。

*1:翌日もう一度行ったらちゃんとありました。人気漫画コーナーという棚で集英社の棚とは別のところにちゃんとあるのだ!

*2:ろくな体験~闘いもしてないくせに、えらそうに言っても良いのか?(陰の声)

西尾幹二はルサンチマンか?

 上記を書いてから思いついたのは、これって「大虐殺なかった派」に似ているということだ。なかった派は

1)「大大虐殺があった」とAさんは主張している。

という命題をまず立てる。そしていくつものトリビアを用意して、

2)「大大虐殺があった」という命題は成立しえない。という結論を導き出す。西尾氏も

1)「「個」が(あるいは人権が)絶対的な価値である」と落合氏は主張する(そう信じている)。

という命題をまず立てる。それに対し

2)「「個」(あるいは人権)は絶対的な価値たりえない」ことを立証する。という手順を辿る。なぜ自己を主張するのに他者(それも平板化された他者)を必要とするのか。ジェンダーフリー派の攻撃による危機なんていうありもしない状況認識が必要なのか。

「美は自然の或る微笑であり、生存の力と快感との或る剰余だ、*1」とニーチェは言っている。もちろん書くことという行為もそうでなければならない。2)という主張をするために1)という前提が必要であると考え、そして1)が“わたしたちを脅かしている”という認識のもとに、やっと2)という自己主張に辿り着く。このような発想法は典型的にルサンチマンの徒のものである。“それがわたしたちを脅かしている”と警告する時点ですでに失格である。

『NANA』8巻で主人公はなんと“母性本能”という言葉にぶつかってしまう。母性本能なんて丁度ニーチェの時代に流行った言葉でもうとうにお蔵入りかと思われていた。そんなカビの生えた言葉であってもひとはそれにぶつかり血を流す。「自然の或る微笑であり、生存の力と快感との或る剰余」として生きる以上そういうことも当然あるのだ。

“それがわたしたちを脅かしている”と警告するものたちは、わたしたちの生に敵対するものだ、というのがニーチェの主張である。西尾にそれが分からないはずはないのに。

*1:p105『生成の無垢・上』ちくま学芸文庫

もっと不幸な子供

「うちのバンドには、ナナといい、シンといい、人様の愛情にめぐまれずに育ったやつらもいますしね*1」漫画『NANA・9』(isbn:4088565606)のこのセリフを読んで、

http://blog.livedoor.jp/nishio_nitiroku/  9/9の西尾幹二の下記の文章はやっぱり問題じゃあないかな、と改めて思った。

「落合さんのお母さんは彼女を強く愛した。彼女は恵まれている。その意味ではもっと不幸な子供たちに対して優越者である。落合さんはそのことに気がついていない。

 もっと不幸な子供たちからみれば彼女は「普通」の価値観の中に安住することが許されている側にいる。彼女は見方によれば特権者の側にいる。

「普通」とか「普通でない」とかはすべて相対的概念だ。基準も機軸もない。」

 「もっと不幸な子供がいる。」と西尾は事実を記す。しかし西尾は彼らについて何を知っているのか。この文章の上で彼らとどういう関係を結んでいるのか。「彼女は見方によれば特権者の側にいる。」というのは正しい、ただしそれは「もっと不幸な子供の立場に立てば」の話だ。不幸な子供が生きのびること、それは「「普通」とか「普通でない」とかはすべて相対的概念だ。」ということが(仮に理屈の上で分かることがあったとしても)絶対に分からない生を生きるということだろう。西尾は「もっと不幸な子供」の実像について何も興味を持っていないし知る必要があるとも考えていない。西欧中世の偉い坊さんが最も貧しい者について熱心に語りながら、その実像を知らなかったのと同じだ。(ニーチェ系のマルクス主義批判とはこうしたものなのだが。)

「お母さんの愛に支えられて生きた子供だ。けっして「個」ではない。」

「そして、なにかに依存し、包まれていなければ真の「個」は成立しない。」

「もっと不幸な子供」はそうした生い立ちを持ったというだけで、真の「個」には辿り着かないだろう、ほとんどそう言っている。そういうつもりはなかった、と西尾はいうだろう。だが、こういうものの言い方をすれば、「もっと不幸な子供」にはそう受け止められる。こういうものの言い方をしてしまうのは、「もっと不幸な子供」のことが眼中にないからだ。眼中にないなら引き合いにだすな!

*1:「人様」と婉曲表現しているが、親に愛されずに、の意だろう。

「私」(主体)の余白に

http://d.hatena.ne.jp/strictk/20040927 への応答)

 strictkさん 応答が遅れてすみません。

ぜひとも、応答しなけりゃいけないとの思いもありました。ですがなかなかうまく書けませんでした。『NANA』を題材にあげてのテーマがあまりに直接的身体的であり、そのような強度を全く見落としたままでこの問題を論じていたわたしがあさましく思えた、そのような気持ちもあったということです。 そのような気持ちをかかえたまま、すこし逃げていました。

『NANA』の8巻から11巻まで読みました。面白かったです。ただわたしは8巻から突然読みはじめたので、ハチ(奈々)が「新婚生活」に入るに当たって捨てた世界というのを読んでいないので、ハチが持っている二面性が分かっているとは言えませんが。

「ナナは、奈々のいうところの、母性本能という言葉に動揺し、自分の考え方を揺るがされます。」野原10/7にも触れましたが、ここでちょっと考えさせられました。つまりナナはもし子供ができたらという問いにあらかじめ答えを出していたはずです。だからめんどうでもピルを飲み続けていたのでしょう。であればなぜ、母性本能なんて言葉につまずくのか。そんなは必要はないのじゃないか。自動的にそう思ってしまう野原には、あらかじめ決めた(浅はかな)図式に合わせて現実を整形してしまう傲慢な男の浅はかさがある!と糾弾されるでしょうか。

もう一人の主人公奈々ですらこう言っている。「誰にも内緒で堕ろしたら何事もなかったように今まで通り生きてけると思ったの…でも病院で…ほんとに自分の子供がお腹にいるんだって分かって…急に実感みたいのが湧いて…」産婦人科で見せられるエコー写真はそれこそ不定型な黒い固まりが写っているだけだ。堕ろす可能性があればそれは見てもしかたないものだろう。見ても何も写っていない。そこで実感など抱く必要はないのだ。フェミニストの一部がそう断言する気持ちも分かる。不鮮明なエコー写真に<到来する他者>を見てしまうかどうか、それはその人自身にとっても年齢や情況によっても答えが変わってくる問題だろう。そこに他人が善意の倫理観や宗教的確信を持ち込むべきではないだろう。産まないと決めているのに、なおこの<到来する他者>という問題に出会い衝撃を受けてしまうナナに感動した。

さて、一番の論点は

☆ 子育て共同体に育てられた子供の一人であるわたしは、今度は別の子育て共同体に参加しなくていいのか?という問いかけです。

この問題をstrictkさんは丁寧に展開し、イエスと答えられました。ただし、

あくまでも他者としての子供であり、「私」(主体)を揺り動かし、理解不能で厄介な他者であり続ける子供の傍にいることに、耐え続けるための子育て共同体です。そういう意味では、子育て共同体には、参加せざるをえないと思います。 という意味においてです。

これこそまさにわたしの言いたかったことです。より明瞭に表現してくださってとても嬉しくおもっています。

 子供を持つか持たないかは個人の自由だ、という文章は、個人の責任だ、とも言い換えられます。これは言いかえれば、責任がとれないなら産むなということですね。命令としては、産んだ以上生まれてきた者に対し、愛とか仁とかいうものを持続すべきだろう(そう言い切ることに問題はないように思える)。それはそれでいい。だが、1年中続く乳幼児の世話や長期に渡る多額の費用負担などというものは、現在ではやはり「結婚して家族をつくる」という方法以外では、不可能に近い。

「性愛=出産=核家族」という三位一体の近代家族は美しいイデオロギーにも飾られ、優れた制度であったわけですが、現在限界にきているようです。したがって、それに代わる緩やかな制度をわたしたちは用意していかなければいけないと考えられる。それなのにフェミニズムなどの側が、家族からの自由を主張するばかりで足りると思っているとすれば、そこには理論的にみて盲点があるじゃないか、というのがわたしの主張でした。それぞれの個人に、出産あるいは子育てに関わらなければならない倫理的義務がある、などという主張はしていませんので念のために書いておきます。(もっともそのための税金は取ってもいいと思っている。ちなみに、ニーチェもそういう意見だったようだ、*1関係なかったか。)

倫理的義務という問題に近いけれども微妙に違うのが、次の問題。

 望んでいない子供(他者)との出会いによって、「私」(主体)を変化させた奈々と、子供(他者)との出会いを避け避妊を続けるナナ。「NANA」は、どちらが正しいといったり、より良い生き方だといったりもしません。しかし、自分の体が子供を孕み得ると知ったとき、この問題は全てのそういう体を持つ人が直面せざるをえない問題です。

性愛の行為は出産の可能性を(避妊していても、多少は)持つ。商行為としての売買春においてだ。しかし売買春においては、それは業者側の責任で初めからなかったものとされている。わたしたちはこの間、婚姻外性行為の自由を獲得してきた。しかし家族制度は生きのびているわけで、婚姻外の性行為に関わって孕んだ者は裸のまま放り出されるルールになっている(ようだ)。この場合、自己責任という言葉は孕んだものの側にだけ適用される、つまり男性の責任は問われない。それが不当なことであるのは言うまでもない。この点、『NANA』の男性たちは立派である。結婚しようとするロックスターはもちろん、も一人の少年も避妊していたにもかかわらず自分の関与の可能性を否認しない。しかしよく考えればすぐ分かるように、strictkさんが上記で語っている問題はもっと深い。

(突然ですが)性行為というのは<死>の交換かもしれない。NANA(11)のまんなかへんには、ナナがレンに性交中、首を絞められるシーンが描かれている。だが次の頁ではその後、ナナの「顔色よくなった」ことが報告される。ありふれたSMプレイとして受け止めることができたからではないだろう。華やかで現代的な『NANA』という漫画は、主人公たちが皆不幸な生育歴を持つという点で古い(ロマン主義的?)ステロタイプを踏んでいる。彼らの華やかな生活のうらにはいつも絶対的孤独と<死>が待ち受けている。

望んでいない子供の可能性という危険と、ここでいう<死>は近接関係にあるかもしれない。不幸な生育歴を持つものたちの方が早く子供を欲しがるというのは良く言われることだ。

 性愛を快感と欲望のタームでだけ語るのは一面的だろう。<死>とだけ関連付けるのもファシズム的だろう。出産と快感と自由の喜びを語る文化(古事記以前の時代にはあったようにも思われるが)が、今後、切り開かれていくべきだろう。

*1:一定の年齢以降の独身男性の税金の負担増(たとえば遺産相続のさいの)p525『生成の無垢』ちくま学芸文庫

NANA論

下記の二人の方の興味深い『NANA』論を読ませていただきました。感謝。

http://d.hatena.ne.jp/TRiCKFiSH/20031114#p1

9巻対象。「ナナは自立を目指しているのだが、実はさほどレンへの想いは強くない。」などの指摘がある。

http://d.hatena.ne.jp/TRiCKFiSH/20040129#p1

「そもそも少女マンガの発展は、大島弓子に代表されるように、社会的・文化的な男女の非対称性のなかで、いかにして自らの「主体の首尾一貫性」を諦めるかという過程を描き続けてきたものだといえる。」という、大島弓子ファンである私には興味深い指摘がある。

http://d.hatena.ne.jp/lepantoh/20031214

「NANA」嫌い派。ナナはパンクじゃなくファッションとしてのパンクでしかないと論じる。24年組の異端性をストレートに継承しようとしている志に惹かれる。24年組のラディカリズムは当然ぴったり同世代の全共闘のそれに通じるものであり、わたしもそれを継承しているのだといつかは書きたいものだ。

性行為の自由

「わたしたちはこの間、婚姻外性行為の自由を獲得してきた。」と野原は下に書きましたが、主語の性別がどちらであっても自由があるという認識は、とんでもないんじゃないか!、という反問は当然ありうる。

http://d.hatena.ne.jp/chimadc/20041012(おとなり日記)によれば、

(女性は)

だからセックスする時、こころならずも、という役割を演じなければならず(或いはそう思い込まねばならず)、それが性的幻想の核になっているんだ日本では。(略)

男が行動する、それになんでも応じた性感を、女が受動態で享受する、しかもその受動ぶり、主導権を剥奪され続けていることの不当ぶりに自覚しないように文化が設定されているわけさ。

ということだそうです。なるほど。

南京大虐殺なかった派の言説

1. 所謂『南京大虐殺』は、当時の体験者や、研究者、学者により、諸説が分かれているところであり、ないという強力な証拠があるものの、あるという確証がない状態で、松井石根氏、岸信介氏等実名を使用し、これをあたかも戦争の真実として漫画化している。 

 『大虐殺』はないという強力な証拠がある、と主張する。一方、諸説が分かれていることは認める。実名を使用して歴史小説を書く自由自体を否定する。

2. 中国の真偽定かでない写真を用い、百人斬りを事実として記載し、意図的 に歴史を歪曲している。

3. 歴史的認識が確立されていない青少年に多大なる影響を与える貴誌に、史実ではない残虐なシーンが登載された事は、次代を担う青少年の心を傷つけ、遺憾である。

日本軍の行った「残虐なシーン」が歴史上に存在しなかったと主張しているのかどうか、主張がはっきりしない。

4. 事の重要性を認識せず、問題の事実関係についての調査研究を怠り、大東亜戦争従軍の将兵、遺族さらには日本国及び国民の誇りに傷をつけ、辱めさせた行為は厳に慎むべき行為であり、フィクションと記載された「漫画」であっても許されない。(以上)「集英社問題を考える地方議員の会」代 表 犬伏秀一大田区議   

「事の重要性」とは何か、全く主観的フレーズで意味不明。虐殺や残虐なシーンが存在しなかったとは信じがたい、というのが99.9%の研究者の意見だ。歴史を歪曲し、日本の国益を損なっているのは君たちだ。それにしても悪文ですね。(笑い)

 http://blog.goo.ne.jp/inuhide/e/cc0e9fe06f5b7b23bf3c86b623877114

いぬぶし秀一の激辛活動日誌:本宮ひろし先輩、史実を曲げちゃダメ!@ヤングジャンプ

ちなみに、区会議員いぬぶし秀一さんはネットではかなりマイナー!「集英社問題を考える地方議員の会」グーグルすると検索結果 約 33 件。

うち、1.只今勉強中 3.blog::TIAO 4.Negative Stories -北国tv 5.はてなダイアリー – 月よお前が悪いから と明確に「反いぬぶし」派の主張のサイトが並び、自身の「激辛活動日誌」は7位にしか入っていない。

追記:「大東亜戦争」は世界に向かってアジア解放の大義を打ち出したものでした。大義それ自体が「恥ずかしい」ものだったとはわたしは思わない。それより現在の小泉氏の路線は死んでいった兵たちを辱めるものだと思う。それはともあれ、一人でも10人でもレイプすれば、日中友好、大アジアの大義に反する出来事なわけですから、「日本国及び国民の誇りに傷をつけ」る行為になるのです。ところが実際にはそれは行われた。占領地区での露骨な中国人差別も同じです。それらの行為が「日本国及び国民の誇りに傷をつけ」た行為である。事実があったのに、自己の認識枠組みに反するからとそれを認めないというのは、自己に誇りをもっているひと(たとえば中江藤樹主義者*1)にはありえないことです。自己に誇りを持たず、「日本国の誇り」が守れるはずもなかろう。

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20041013 2004-10-13+  駝  鳥  + さんが丁寧な事情紹介と批判をされています。

追記:<<<ないという強力な証拠があるものの、あるという確証がない状態で>>>というフレーズはそこらじゅうで笑いものになっている。

http://d.hatena.ne.jp/Jonah_2/20041014 はてなダイアリー – 当代江北日記」 から引用すると

「これだけではなく、色々な場でこの抗議文の論理上のまずさが指摘されているので、際立って日本語の下手な人々が拙速に作り上げたものだと考えられる。」

追記(10/16~10/21):hatenaにも、次のように書く人がいる。

として、ある人の日記から1行引用しましたが、削除します。

理由はその方と一定対話したのでここに掲げておく必要がなくなったから。

*1:「過を飾り非を遂げて改むることを知らず、人皆其の人品を知り其の心の邪を知れども、己れ独り克く隠して知られずと思へり、(中江藤樹)」『日本陽明学派之哲学』井上哲次郎p111から孫引き。冨山房、明治33年