漢字の数

当用漢字というものは、1946年内閣から告示された1850字をいう(らしい)。今小学校では約千字習う、残りは中学で覚えなさいということか。ところで外国ではどうかというと、と中国と台湾はほぼ同じで、小学校約2500字、中学校約1000字である。台湾の方が漢字重視というイメージがあるが数は同じくらい。韓国は小学校ではなし、中学で約900とのこと。*1

漢字(あるいは漢字とコンピュータ)については下記参照。

http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~yasuoka/kanjibukuro/japan.html

日中台で、元は同じ字だったはずなのに今は違ってしまった場合にユニコードでどうなるのか疑問でした。下記で少し分かった。ユニコードは「元同じ字だったかどうか」は考えていない。似たような字体がある場合に同じコードをふる場合と違うコードをふる場合がある、ということか。

http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~yasuoka/kanjibukuro/unicode.html

*1:9/9朝日新聞夕刊「漢字めぐり国際シンポ」より

新しいものを認識する

私たちの思考において本質的なことは、新しい素材を古い範型のうちへと組み入れるはたらき(=プロクルステスの鉄床)、新しいものを同等のものにでっちあげるはたらきである。(ニーチェ)*1

 「抑(そもそ)も意(こころ)と事(こと)と言(ことば)とは、みな相(あい)称(かな)える物にして、上つ代は、意(こころ)も事(こと)も言(ことば)も上つ代、

後の代は、意(こころ)も事(こと)も言(ことば)も後の代、

漢国は意(こころ)も事(こと)も言(ことば)も漢国なる」*2

私たちは私たちが予め持っている範型(パースペクティブ)によって、考え言葉を使っている。そこで宣長がいうように、古代とか外国のような他の文化、あるいはニーチェが言う<新しいもの>はわたしたちの持っている何かに直ちに翻訳されてしかわたしたちのもとにやってこない。アポリアですね。

*1:p40『権力への意志・下』ちくま学芸文庫 原佑 訳

*2:本居宣長 『古事記伝』一之巻・総論p26岩波文庫

死刑を望むのは甘えではないか

1.グアンタナモの収容者を米軍は即時解放せよ。

参考  http://www.asyura2.com/0406/war58/msg/991.html

2.さて宅間某(宅間守氏)に対し、死刑が執行されたそうです。

わたしは死刑廃止論です。肉親とかが殺されたら犯人を憎悪するのは当然だと思う。だがその思いを国家が私に代わって晴らしてくれるべきだ、などという発想はおかしい。殺されたということは絶対的な不条理であり、宗教によって被害者の気持ちが救われることはありえても、国家はそうした問題には関与しなければいけないわけではないし関与することは不可能である。第三者が被害者感情がどうのこうのと口を出すのもおかしい。被害の絶対性に思いを致すならば、そこにひたすら立ちつくす被害者を放っておくことしかできない。

泥としての子供の擁護

http://barairo.net/ のhippieさんの下記の文章に

http://barairo.net/UStour2004/archives/000031.html

次の通り、コメントを付けました。

hippieさま

 日比野さんのパレスチナ関係の講演とかを、1、2回聴きに行ったことのある野原燐(ハンドルネーム)(男性)と言います。関連したことを最近少し考えたので少し反応させていただきます。

>>日本の一定のフェミ業界では大きな危機感が抱かれ、「憲法の男女平等を守れ」と強く主張している人がいます。

   「危機感」というのはわたしも少しいぶかしい気がしました。わたしの感覚では男女平等というのは法のアプリオリに組み込まれていると感じており、戦前的パラダイムに本気で戻せるのか、え?え? と突っ込めば法的常識の範疇では答えられないと思うのですが。こういう動きは侮蔑してやるという感覚を広げていけばよいのではないでしょうか。

>>また第一章の天皇制の規定は全て削除して、君主制国家としての日本のあり方を共和制国家に変えるべきです。

   同意します。

>>「現在の私たちの生活」は、守るべきものなのではなく、変わるべきもの、変えるべきものです。

   同意します。

さて、24条改正論ですが、

>>「大人になれば結婚すること」を自明視する社会自体を変えるべきだし、結婚しない人が何の不自由なく生きることのできる社会をつくるべきです。

 まあいちゃもんつけになるかもしれませんが、「結婚しない人」というカテゴリーはちょっとあやしい、と感じる。とりあえずわたしは、未婚の母から生まれた子供が増加し幸福に暮らしていける社会を作っていくべきだと考えています。子供を作らない自由は認めます。人間存在とはその過半が泥のようなものではないでしょうか。仏教で言う「生老病死」とは泥のような対象化しにくいエリアです。そうしたエリアを敬遠し生きていく方向に流していこうとするベクトルがわたしたちの世界には流れているのではないでしょうか。そうであるとすれば子供を作らない自由を行使したとしても、同時に子供を育てる自由を行使した方が良いのではないでしょうか。

 日比野さんは子供について一言も触れていないので過剰反応になりますが。子供をどのようなイメージで見ているのかが問題です。子供は愛の結晶ではありません。不定形で不安定な他者です。

護憲派批判という文脈で書かれていたので、別の文脈でのちょっとした違和感について書いてみました。もちろん批判未満であることは自覚しております。

とりとめのない文章ですみませんでした。

関連表現が下記にあるので、よかったら併せて読んでください。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040905#p1

はてなダイアリー – 彎曲していく日常

                   野原燐

女童べの言葉

本居宣長『石上私淑言(いそのかみのささめごと)』を新潮古典文学集成isbn:410620360XC0310 で読んだ。この全集は文章の半分くらいに現代語訳でふりがながふってあり、現代語訳を読みながら原文を読んだ気持ちだけは味わえるという私にとってはありがたい本です。

和歌についての問答形式で書いているので論点が明快で読みやすい。

「歌はひたすらに物はかなくあだあだしう聞えて、ただ女童べ(をんなわらはべ)のもてあそびにこそしつべけれ、まことしういみじきものと見えぬにや。」*1

女や子供のもてあそびものでたいしたもんじゃないだろう?ととても失礼な問いかけからある節は始まる。宣長答えていわく「まことにさることなり(そのとうりである)」(漫才ならコケルところ)でも結局は彼は次のように力強く言う。

「詩はもと人の性情を吟唱するわざなれば、ただ物はかなく女童べの言めきて(言葉みたいで)あるべきなり。」その背後には「大方人は、どんなに賢しきも、心の奥を尋ぬれば、女童べなどにもことに(特別には)異ならず」という人間観がある。その通りだと思う。今からおよそ250年ほど前の発言として非常にラディカルなものだ。唐の人の書いたものなど、「誰でもみな己賢こからんとのみするゆえに、かの実の情の物はかなく女女しきをば恥ぢかくして言にもあらわさず」「まして作り出る書などは、うるわしく道々しきことをのみ書きすくめて、かりにもはかなだちたる心は見えずなんある。」*2全然書いていないものを読みながら、あなたの心の奥には女童べと同じものがあるのだと断言する。なかなかすごい。

*1:p406同書

*2:p409同書

モルデハイ・バヌヌ

オノ・ヨーコがジャーナリストのシーモア・ハーシュとイスラエルの核の内部告発者のモルデハイ・バヌヌに平和助成金を授与した。(ニューヨーク) 

家族なしには主体になれない

(1)

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040905 に対する、

hippieさんのだいぶ前のコメントに返事していませんでした(忘れていたわけではないのだが)。hippieさんは岡野氏の「「家族」は、わたしたちが自分を生き抜くために、「とりあえず」は自分の欲望は自分のものであると、自認できる存在となる「なる」ために、その形を変えながらも、わたしたちが必要としているひととひとの結びつきではないだろうか。」という文章に反論しています。

# hippie 『岡野さんの家族についての「わたしたちが必要としているひととひとの結びつき」という認識は私には乗れないです。甘すぎるよ。(略)』

ここで岡野氏とhippieさんとの差異は、家族に「」がついているかついていないかにあります。

岡野氏の使う「家族」とは、狭義のそれに対し範囲を少し拡大して考えるといった安易なものではない。

(2)「家族」の「 」について

岡野さんの『家族の両義性』という文章から要点だけ抜き書きしてみよう。

「公的領域においてひとは「ことばを理解する動物」で「ポリス的動物」であることが前提とされている。*1」思えばhippieさんとわたしとの間にもひとは憲法の条文を論じ合うことによりそれを改正していくことができるという前提があったはずだ。(RESが遅れたのは申し訳ない。)

「だが、そもそもどうしたらわたしたちは、そうした動物に「なることができるのか」。」

「ことばの選びによって初めて表現される自分を生きていくことができるということは、ひととしての前提というよりも、ひとと「なる」プロセスであると同時に、そうしたプロセスの結果でもある。」

「もちろんことばだけに限定されるわけではないのだが、さまざまな記号を使用することによって、自分の輪郭を描きだし、他者とは異なる存在として自分を生きるように「なる」ことは、わたしたち一人ひとりの経験から考えてみても、自然発生的にひとりの力でなし得るような営みではないはずだ。そして、わたしたちは、いかなる形態をとるのであれ、「家族」というユニットを、そうしたプロセスを通じてひとと「なっていく」場として、尊重してきたのではなかっただろうか。」

「わたしたちが自分を生き抜くために、「とりあえず」は自分の欲望は自分のものであると、自認できる存在となる「なる」ために」も、とりあえず、言葉を獲得していくプロセスは必要である。そのために「そのプロセスを見守ってくれる、すでに自分の欲望を言葉で分節化できる他者」に依存するという関係が必要である。

 岡野氏の文章は言葉や情念が未成立な混沌からかろうじてそれらを成立させようとする現場に立とうとしており、まわりくどい文体になっている。

(3)

それに対し、hippieさんは「わたしたちが必要としているひととひとの結びつき」とフレーズの持つ“甘さ”を問題にする。家族イメージを甘やかなイメージで飾り立てることにより「家族制度」というものが延命し存在してきた事実、それをイデオロギー的に糾弾するというスタンスに立っている。

 しかし糾弾とは原点に戻って考えてみると、自己身体の分節化出来ない叫びに根拠をおくものではないのか。そのとき、それが私でないとしても、不定形で不安定で泣き叫ぶしかない存在(存在未満)であるところの乳幼児からの声を、目の前に存在しないからといって無視するのはおかしい。

 現実というものを、差別の複雑な交錯として考えることは可能だ。だがそれに還元することはできない。誰にも(何にも)支配されない自由な時間をも私たちは持っている。その意識自体が既成のいくつかのイデオロギーに染められているとしても。子供は還元不可能性の喩でもある。

『こういうことを言うのならせめて主語を「わたしたち」ではなく「わたし」にして書いて欲しいです。』hippieさんには前提の混同があるようだ。ある人の人生において子供を持つかどうかは彼女/彼の自由だ。しかし現在、家族というものを考えるとき、「子育て」というテーマをは不可欠のものだ。また逆に、「子育て」を「家族」なしに行う試みも成功していない。もちろん施設で育つ子供たちもいるのだが、そっちがメインにはなりそうもない。というか、その場合でも(切実に)「必要としているひととひととの結びつき」がなければ子供は、自立した自由な主体になりえない、と岡野氏は論じているわけである。したがってその断言をくつがえしえなければ、「甘すぎるよ」はただの感情的放言になる。

「子育て」の問題を考察しないで「家族」の本質をぐいっとつかんで、論じることはできない。

関連野原表現:http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040706#p1

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040905#p1

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040916#p1

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040926#p1

*1:p128・『現代思想』

現在のイスラエル国家に敵対することに遠慮はいらない、

なぜならそれは反ユダヤ主義ではないから。

http://d.hatena.ne.jp/takapapa/20040924#p3

はてなダイアリー – 【ねこまたぎ通信】からそのままコピペします。感謝。

バグダッド住民の第1の敵はイスラエル 世論調査

http://www.nikkanberita.com/read.cgi?id=200409212034242

【東京21日=齊藤力二朗】バグダッドの住民が第一の敵と考えるのは、イスラエルであることが世論調査の結果判明したと19日付のネット紙、イスラム・オンラインが報じた。イラク調査センターが1万人のバグダッドの住民を対象にしたアンケート調査の結果、第1の敵はイスラエルとする回答が32%で第1位であった。…

家族なしには主体になれない(2)

http://d.hatena.ne.jp/strictk/20040923

はてなダイアリー – strictkの日記 で、野原9/23に触れていただいた。

以下長くなったが、応答というより言い訳です。

☆☆ はじめに

strictkさんの全体のタイトルが「家族以外にも子供を育てる自由を。」である。このタイトルだけを読んでわたしは私の偏狭な性格を少し反省した。そのスローガンに野原は異議がないし、strictkさんもhippieさんもそうだろう。同意できる点を確認もせず違和感だけ提出しても、議論は実り少ないと。

今回の議論の出発点は、二つ在り、Aは自由民主党の一部の「現憲法24条は、家族や共同体の価値を重視する観点から見直すべきである。(cf野原0706)」という意見、(E)は皇太子発言である。(hippieさんは後者には触れていない。)

Aに反対する主張が、B「憲法24条の改悪を許さない共同アピール」である。http://www.geocities.jp/herasou/kaeru/whatsnew/wn_20040707_stop.html

A改憲派:B護憲派(人権派)という構図である。それに対し、hippieさんは、C「護憲」というスローガンは既得権防衛的であり社会変革(それは当然少数派が多数派を説得することだ)に繋がらないのではないか、とする。わたしはこのことに強く賛成したい。hippie氏は、性別二元論に反対する(男/女二つのカテゴリーのどちらかに帰属していないと存在とは認めないとする社会的強制、と理解してよろしいか?)。それはもっともだ。

「「結婚した男女二人で構成する家族」を社会の基本に据えるという事自体がそもそも間違っている」というhippie氏の文章にもわたしは半分以上賛成だ。家族を国家(を形成すべき社会)の構成要素としてみるという家族観にわたしは反対しているからだ。家族を、ロマンティックラブイデオロギーや近代家族に還元するフェミニズム風家族観にもわたしは反対する。hippieさんの立場はフェミニズムから進化した(?)ホモ(バイ)セクシュアルあるいはクイアー風のものなのだろうがその差異はここでは取り上げない。野原(わたしたち)はアンティゴネーを証人に立て、家族は国家より古いと主張する。

「子供は愛の結晶ではありません。不定形で不安定な他者です。」ということで、野原は何を言いたいのか?「結婚しない自由」は「欲望し主張する主体というもの」を無意識のうちに前提としている。ここで、「欲望し主張する主体」は「家族」を通してしか生成できないと仮にするならば、わたしたちは出口のないループに閉じこめられることになる。即ち1)家族が否定されるべきものであり、2)家族以外はわたしたちを産みだしえない、という矛盾。ここで野原は岡野氏の発想を借り、わたしたちを産みだすものを<家族>と呼ぶ(つまり現在の家族以外に拡大された色々な形態を含む)。そのことにより2)の命題を強く肯定することにより1)を否定する(<家族>を肯定する)ことになった。

(1)

 介護保険導入時の論争に見られた、家族による介護か家族外による(を含めた)介護か、という論争の布置を子育てに応用し、その前者に野原を位置づけておられるようだ、strictkさんは。残念ながらそれは見当違いである。この点について、野原は後者の側に立っている。

 strictkさんは、高齢者の介護の問題についてはどうか、という問題を投げかける。「痴呆の高齢者は、秩序を理解できなくなり、忘れてしまい、混沌状態へ向かっていきます。」介護を家庭内でのみ行うことと、その混沌を家族の外部の人間と共に分かち合うというプランとが対比される。そして、「ここで、重要なのは、家族の中のみでのひととひととの結びつきと、家族以外との結びつきに優劣の判断をつけるべきではない、ということです。」が強調される。 そして、「子供という混沌を家族が抱えきれない場合、子供は家族以外を含むひととひととの結びつきにより育てられるべきでしょう。そのとき、家族のみのひととひととの結びつきで育てられることと、優劣をつけるべきではありません。確かに、子供を家族のみのひととひととの結びつきで育てる自由は認めるべきです。が、そうでない結びつきで育てる自由も認めるべきだと思います。」と結論される。以上すべてに野原は異論はない。

 野原は「子育てには婚姻(血縁)を前提にした家族が必要だ」、という主張はしていない。したがってstrictk9/23は野原9/23への反論にはなっていない。独立して読めば条理の整った良い文章である。

 野原が「それでも、子供を育てるという状況には家族は必要だと主張します。」と言っても良いだろう。だが、わたしが言っているのはカッコ「 」のついた「家族」であり、血縁を前提とした家族ではない。「家族」とはstrictkさんが高齢者介護について丁寧に説明してくれたような外部介護者との関係を含む。場合によっては外部介護者たちだけのネットワークでもよい。

前回「(2)「家族」の「 」について」という章を設けて説明したつもりだったが、説明が下手だったようだ。

岡野氏は「そのプロセス(欲望と言葉を獲得する)を見守ってくれる、すでに自分の欲望を言葉で分節化できる他者」に依存するという関係、を強調している。 即ちそれを、「家族」と呼んでいるのだ。*1それは当然ながら現在法的に家族と認められている関係である場合もあるだろうが、そうでない場合もある。具体的には書いていないが数年以上持続する関係でないとまずいのではないかと思われる。 すなわち、「家族」とは<見守る>という持続的関係においてだけ定義されているのであり、法的な家族であるかどうか、男女であるかどうか、血縁関係があるかどうかは関係ない。

 「家族のひととひととの結びつきによる混沌との対峙と同じように、家族以外も含んだひととひととの結びつきによる混沌の対峙も、認められなければなりません。(strictk)」岡野氏においても外部からの支援は排除されるどころかむしろ要請されている。「ひとり一人がそうした主体「となる」プロセスを確保するために、家族以外の者たちが公的な支援を活用して、個々の家族の構成員に支援を与えることが必要なのではないか、という問題提起でもある。*2

(2)

とは言っても、strictkさんとわたしの差異は残る。

(野原さんは)「子供を産まない自由は認められるべきだが、子供を産む自由も認められるべきだと主張するのです。」言い訳ばかりになりますがわたしはこんなことも主張していない。「子供を産む/産まないの自由」と「子供を産まない自由」は同義語であるので、上の文章は主張ではなく「産む」ことへの情緒的訴えかけかと思われますが、野原はそんなことは言っていない。

わたしが書いたのは「そうであるとすれば子供を作らない自由を行使したとしても、同時に子供を育てる自由を行使した方が良いのではないでしょうか。」である。子供を作らなかった人に対し、子供を作った人の子育てに介入する可能性について書いている。(ここからも野原が子育てに対する外部からの介入支援に否定的でないことは分かる。)とはいっても、現状はそのような介入が行われるようなシステムにはなっていない。したがってそのような方向に社会を変えていくことには賛成である。即ち「家族以外にも子供を育てる自由を。」というstrictkさんの主張に賛成である。

「私も、子供を産む/産まないの自由は認められるべきだと思います。」で始まるstrictkさんの考察は周到で説得力がある。わたしの危惧は、「生む/生まない」という欲望し選択する主体の側からだけ物事を考察して良いのか、という点にあります。(野原自身文章を書いたりしている以上、選択可能な主体の側に属していることはもちろんです。)

「しかし、現在、その状況が用意されているとは言えず、しばしば子供を産むことが、産まないことより優れているという判断がなされる場合はあります。」わたしたちは産む/産まないの選択可能性を持つ主体から出発したはずだった。ここの判断とは誰の判断なのだろうか。私たちの社会にはそうした圧力が不断に流れているのだろうか。確かに成人男女に対し、結婚し子供を作るのがまっとうなあり方だといった「常識」は存在する。政府も同様の事をPRしている。しかし政府のPRは少子化対策としてである。少子化という現実があるということは「産めという圧力」とは別に「産むな」という方向に働くベクトルがどこかに存在していることを意味している。と野原は考える。hippieさんとstrictkさんとの野原の差異はここにある。

 「産むな」というベクトルはどこにどのように存在しているのだろうか。わたしたち一人ひとりは、主体でありたいという欲望とそうでなければならないという命令に振り回されている。これらの課題にわたしたちは存在の全面を挙げて向きあわねばならず、子供という選択肢は脱落すると思われる。正しい描写だとは必ずしも思わないが、そのようなこともあるのではないか。自己であるという義務と緊張を少し弱めると、産むことも受け入れやすくなるかもしれない。これは甘ったれたたわごとかもしれない。産むことの方が安易であると言うことの方が多いかもしれない。

(3)けっきょく

 strictkさんの発言の全体に対しわたしは特に異議はない。あえて言えば、「子供を産む/産まないという権利の自由があったとしても、子供を産む/産まないの間に優劣の判断があれば、自由ではありません。」AとBの間にはだいたい第三者からの価値付けはすでに為されているわけでそれに対し自分の判断を確認し行為することが、自由と呼ばれるのではないか。

 hippieさんとの間にも、実際的な対立点は少ない。家族を国家(社会)の単位として過不足無いものと捉えている点に違和感があるに過ぎない。

*1:これは文中で説明していないので、野原の解釈。

*2:現代思想200409号p128

天のウズメの胸乳

 むかし、神が天から下ってこようとした時、天のやちまたに一人の異形の地神*1が居た。何ものだと従の神に聞かせようとしたが、皆位負けして問えない。天のうず女に命が下る。「天のうず女*2、すなわちその胸乳を露わにかきいでて、裳帯(もひも)を臍の下に仰(おした)れて、咲(あざ)わらいて向きて立つ。*3」有名な天の岩戸の前のパフォーマンスとほぼ同じである。*4しかし、天の岩戸の時の、神々が観客として大勢いて、天のうず女のパフォーマンスに「八百万の神ともに笑いき。」という、みながショーを楽しんでいるといった配置とは今回は全く違う。どんな敵が潜んでいるかしれない未知の領域に入ったとたん、強そうな異貌のものが立ちふさがっている。どちらかというと闘って力でねじ伏せて進んでいくしかないとシシュエーションにいきなり裸に近い女が登場するのは、21世紀風の趣味にはひょっとしたら合うかもしれないが、古代にふさわしいことなのか、と疑問がふくらむ。

 だが、白川静の『字統』などによれば、濃い化粧をした巫女(ふじょ)の呪祝の力は古代において非常に重視されたもののようだ。*5天のウズメのエロティックなパフォーマンスは、エロティックなものとしてあったのではなく、敵を倒す呪いの力を持つものであったのだ。したがって「胸乳かきいで」云々というフレーズは、後者の闘いのシシュエーションに置かれていたテキストの方が古いのではないか。現代人にも分かりやすいストリップショーの喜びという場面は、古事記の時代の人によって新たに作られたものでそれほど古くないのではないか。

*1:猿田彦大神

*2:天鈿女、あるいは天宇受売

*3:p134岩波文庫『日本書紀』

*4:古事記では、「胸乳をかきいで、裳緒(もひも)をほとに忍(おし)垂(た)れき」。p51新潮日本古典集成

*5:『字統』の媚、蔑などの項目参照。