チェチェンに対する無知

ジャーナリスト常岡浩介氏のブログの■2004/09/03 (金) 17:31:42 ザカエフ・インタヴューというところから引用する。

http://www2.diary.ne.jp/user/61383/

これまでチェチェンに関して日本で報道されてきたことは、わずかなフリーランサーの例外を除いて、ことごとくロシア当局の主張のトレースに徹してきました。一秒たりとも、独立運動の当事者の声を大手メディアが伝えたことはありませんでした。対立する当事者双方を取材するのは、報道の基本中の基本であるにも拘らずです。

だから、その不作為の当然の帰結として、この10年間に、チェチェン民族全人口の25パーセントが、残虐極まりない方法でロシア軍と諜報機関に殺されてしまったこと、生き残った人々が、死ぬよりも過酷とすらいえる虐待の渦中にあることなどについて、日本では一切、伝えられてこず、市民が事実を知る機会もありませんでした。

わたしはチェチェンに対して無知だから正しさに近づいていけるかどうか分からない。<<ある事実ではなくその事実が(マスコミによって)取り上げられる基盤が(決定的に)歪んでいるのではないか?>>について、この文章は疑問を突きつけている。そのような主張は検証が困難だ。だがどんな場合もまずそういった問題意識を持たなければいけないのだということを、わたしたちはこの間学んできた。

追記1:天神茄子さんのブログのリベラシオンの翻訳からの引用。かたよったところだけ引用しているので、元のブログの方もみてください。常岡さんについても同様。

http://d.hatena.ne.jp/temjinus/20040905#1094310455 samedi 04 septembre 2004 (Liberation – 06:00)

最後に西欧社会のプーチンに対する物分りのよさにも疑問を持たねばなるまい。プーチンに反テロ努力の支援者を見るあまり、西欧はチェチェンにおけるプーチンの過誤を許している。

追記2:下記では、学校に突入したロシア軍の兵器が対戦車誘導弾など強力すぎるという指摘。

http://d.hatena.ne.jp/q-zak/20040905

追記3:

http://d.hatena.ne.jp/takapapa/20040906 経由で

http://chechennews.org/chn/0429.htm チェチェンニュース から

どうしても、繰り返して書かなければならないことがある。チェチェン戦争が「対テロ戦争」だというのは、ロシア当局のプロパガンダに過ぎない。その内実は、たった100万人弱のチェチェン共和国に対して、人口2億の大国ロシアが、常時10万人の軍隊を送り込んでおこなっている侵略戦争だ。そのために、この地域は今までにないほど不安定になっていて、どんな事件が起こるか見当もつかない。

 チェチェン戦争は、「対テロ戦争」ではなく、91年に宣言されたチェチェンの独立を挫折させようとする戦争だ。だからこそ、住民の虐殺が放置され、石油資源は略奪され、親ロシア派の傀儡政権によってチェチェンの人々の政治的権利も剥奪されている。8月29日に、さまざまな事件に紛れて行われた傀儡政権の大統領選挙では、こっけいなほどの不正が横行した。

追記4.もひとつリンク  http://d.hatena.ne.jp/Gomadintime/20040908

・・もいっこ。

http://d.hatena.ne.jp/junhigh/20040906#p1「はてなダイアリー – 迷路の地図」さんの文章を利用して。野原の感想を考えてみた。

「国家による暴力の行使は、国民の安全を保障するためのものである」というたてまえがある。当為である。これを逆転して「国家による暴力の行使を、自らの安全を保障するものと考えてしまう」国民も少なくない、というか大部分に近いかも。

イスラエルの存在の許容

 イスラエルのシャロン首相がプーチン大統領に電話した、というニュースは興味深い。結局のところ21世紀初め世界*1が血なまぐさくなった原因を作ったのはこの二人とそれに対し宥和した私たち自身にある、というのが真実だ、と将来の歴史家は判断するでしょう。

http://www.asahi.com/special/040904/TKY20040

 「イスラエルの平和を考える会」機関紙のミスターフvol8が今日は郵送されてきた。パレスチナ人政治学者アッザーム・タミーミーさんへのインタビューから引用。

ハマースがイスラエルに言うのは、「まず何よりも前に、あなたが泥棒であることを認めなさい」ということです。パレスチナ人に「あなたの土地を取ってごめんなさい。とても悪いことをしました。新しい生活を始めましょう。私たちはあなたたちと一緒に住めますか?」と。

もし彼らがそうすれば、南アフリカのアパルトヘイトが解決したように、私たちは「一緒に住めます。解決しましょう。」と言うでしょう。

 野原のブログは読者を向いていないが、ここだけは、どうしても読んで欲しいので引用した。だがわたしの真意は伝わらないだろう。「1917年のバルフォア宣言云々かんぬんそのことをいつまでも言い続けにないといけないのか。そうしたら北海道はアイヌに返さないといけないのでないか」、とわたしも数ヶ月前まで反応していたと思う。つまりここはリラックスしてゆっくり考えないといけない。土地を返せ、とここで「ハマース」は言っていないのだ。にもかかわらず、「土地を返せ」と言われたかのように反応してしまう。わたしの生活がその土地の上の数十年であるとき、そこはわたしにとって「私の土地」である。そのことの真実を他者は奪うべきでない。だが(わたしは第三者だから言えるわけだが)パレスチナ人が私の土地だ、と主張するとき、その主張は否定されるべきということになるだろうか?

 満州や朝鮮に生まれ数十年そこに育ってしまった日本人にとってそこがわたしの「故郷」であるのは事実であり、彼自身にとっての真実である。だが個人のレベルの実感と、国家間の調停の結果は違う。そしてこの問題は立場によって答えが違うといっても、わたしはわずかな勉強の成果として一応の答えを持っている。20世紀は帝国主義の時代だった。だが帝国主義を否定する価値観もあった。後者の価値観に立つかぎり「イスラエルは泥棒である」という表現は不当でないとわたしは思う。「満州国は泥棒国家だった」とわたしたちは認めたではないか。

*1:アフガニスタンやスーダンなど広い地域においてはそれ以前もそれ以後と同様血みどろだった!?

スーダン・ダルフールの悲劇

 わたしはチェチェンに対して無知だ、と先日書いたがダルフールについてはそれ以下だ。

極東ブログさんがスーダン問題について発言されており、スーダン・ダルフール危機の情報を共有していくためにWikiを作成されたことを(たぶん昨日)知った。

http://wiki.fdiary.net/sudan/

今日、「スーダン 虐殺」で グーグルしてみた。

「国境なき医師団」の頁にたくさん記事があるので読んでみてください。

http://www.msf.or.jp/news/news.php?id=2004071603&key=sudan

ちょっと引用します。「まだ大人にならない14‐15才の少女が身の回りのものをすべてもち、ロバに乗って丘を越えていくという信じられない光景を見ます。彼女たちは、きっと殴られ強姦されるであろうことを知っています。しかし彼女たちは『他に選択肢はない』と言うのです。」

漢字の数

当用漢字というものは、1946年内閣から告示された1850字をいう(らしい)。今小学校では約千字習う、残りは中学で覚えなさいということか。ところで外国ではどうかというと、と中国と台湾はほぼ同じで、小学校約2500字、中学校約1000字である。台湾の方が漢字重視というイメージがあるが数は同じくらい。韓国は小学校ではなし、中学で約900とのこと。*1

漢字(あるいは漢字とコンピュータ)については下記参照。

http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~yasuoka/kanjibukuro/japan.html

日中台で、元は同じ字だったはずなのに今は違ってしまった場合にユニコードでどうなるのか疑問でした。下記で少し分かった。ユニコードは「元同じ字だったかどうか」は考えていない。似たような字体がある場合に同じコードをふる場合と違うコードをふる場合がある、ということか。

http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~yasuoka/kanjibukuro/unicode.html

*1:9/9朝日新聞夕刊「漢字めぐり国際シンポ」より

新しいものを認識する

私たちの思考において本質的なことは、新しい素材を古い範型のうちへと組み入れるはたらき(=プロクルステスの鉄床)、新しいものを同等のものにでっちあげるはたらきである。(ニーチェ)*1

 「抑(そもそ)も意(こころ)と事(こと)と言(ことば)とは、みな相(あい)称(かな)える物にして、上つ代は、意(こころ)も事(こと)も言(ことば)も上つ代、

後の代は、意(こころ)も事(こと)も言(ことば)も後の代、

漢国は意(こころ)も事(こと)も言(ことば)も漢国なる」*2

私たちは私たちが予め持っている範型(パースペクティブ)によって、考え言葉を使っている。そこで宣長がいうように、古代とか外国のような他の文化、あるいはニーチェが言う<新しいもの>はわたしたちの持っている何かに直ちに翻訳されてしかわたしたちのもとにやってこない。アポリアですね。

*1:p40『権力への意志・下』ちくま学芸文庫 原佑 訳

*2:本居宣長 『古事記伝』一之巻・総論p26岩波文庫

死刑を望むのは甘えではないか

1.グアンタナモの収容者を米軍は即時解放せよ。

参考  http://www.asyura2.com/0406/war58/msg/991.html

2.さて宅間某(宅間守氏)に対し、死刑が執行されたそうです。

わたしは死刑廃止論です。肉親とかが殺されたら犯人を憎悪するのは当然だと思う。だがその思いを国家が私に代わって晴らしてくれるべきだ、などという発想はおかしい。殺されたということは絶対的な不条理であり、宗教によって被害者の気持ちが救われることはありえても、国家はそうした問題には関与しなければいけないわけではないし関与することは不可能である。第三者が被害者感情がどうのこうのと口を出すのもおかしい。被害の絶対性に思いを致すならば、そこにひたすら立ちつくす被害者を放っておくことしかできない。

泥としての子供の擁護

http://barairo.net/ のhippieさんの下記の文章に

http://barairo.net/UStour2004/archives/000031.html

次の通り、コメントを付けました。

hippieさま

 日比野さんのパレスチナ関係の講演とかを、1、2回聴きに行ったことのある野原燐(ハンドルネーム)(男性)と言います。関連したことを最近少し考えたので少し反応させていただきます。

>>日本の一定のフェミ業界では大きな危機感が抱かれ、「憲法の男女平等を守れ」と強く主張している人がいます。

   「危機感」というのはわたしも少しいぶかしい気がしました。わたしの感覚では男女平等というのは法のアプリオリに組み込まれていると感じており、戦前的パラダイムに本気で戻せるのか、え?え? と突っ込めば法的常識の範疇では答えられないと思うのですが。こういう動きは侮蔑してやるという感覚を広げていけばよいのではないでしょうか。

>>また第一章の天皇制の規定は全て削除して、君主制国家としての日本のあり方を共和制国家に変えるべきです。

   同意します。

>>「現在の私たちの生活」は、守るべきものなのではなく、変わるべきもの、変えるべきものです。

   同意します。

さて、24条改正論ですが、

>>「大人になれば結婚すること」を自明視する社会自体を変えるべきだし、結婚しない人が何の不自由なく生きることのできる社会をつくるべきです。

 まあいちゃもんつけになるかもしれませんが、「結婚しない人」というカテゴリーはちょっとあやしい、と感じる。とりあえずわたしは、未婚の母から生まれた子供が増加し幸福に暮らしていける社会を作っていくべきだと考えています。子供を作らない自由は認めます。人間存在とはその過半が泥のようなものではないでしょうか。仏教で言う「生老病死」とは泥のような対象化しにくいエリアです。そうしたエリアを敬遠し生きていく方向に流していこうとするベクトルがわたしたちの世界には流れているのではないでしょうか。そうであるとすれば子供を作らない自由を行使したとしても、同時に子供を育てる自由を行使した方が良いのではないでしょうか。

 日比野さんは子供について一言も触れていないので過剰反応になりますが。子供をどのようなイメージで見ているのかが問題です。子供は愛の結晶ではありません。不定形で不安定な他者です。

護憲派批判という文脈で書かれていたので、別の文脈でのちょっとした違和感について書いてみました。もちろん批判未満であることは自覚しております。

とりとめのない文章ですみませんでした。

関連表現が下記にあるので、よかったら併せて読んでください。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040905#p1

はてなダイアリー – 彎曲していく日常

                   野原燐

女童べの言葉

本居宣長『石上私淑言(いそのかみのささめごと)』を新潮古典文学集成isbn:410620360XC0310 で読んだ。この全集は文章の半分くらいに現代語訳でふりがながふってあり、現代語訳を読みながら原文を読んだ気持ちだけは味わえるという私にとってはありがたい本です。

和歌についての問答形式で書いているので論点が明快で読みやすい。

「歌はひたすらに物はかなくあだあだしう聞えて、ただ女童べ(をんなわらはべ)のもてあそびにこそしつべけれ、まことしういみじきものと見えぬにや。」*1

女や子供のもてあそびものでたいしたもんじゃないだろう?ととても失礼な問いかけからある節は始まる。宣長答えていわく「まことにさることなり(そのとうりである)」(漫才ならコケルところ)でも結局は彼は次のように力強く言う。

「詩はもと人の性情を吟唱するわざなれば、ただ物はかなく女童べの言めきて(言葉みたいで)あるべきなり。」その背後には「大方人は、どんなに賢しきも、心の奥を尋ぬれば、女童べなどにもことに(特別には)異ならず」という人間観がある。その通りだと思う。今からおよそ250年ほど前の発言として非常にラディカルなものだ。唐の人の書いたものなど、「誰でもみな己賢こからんとのみするゆえに、かの実の情の物はかなく女女しきをば恥ぢかくして言にもあらわさず」「まして作り出る書などは、うるわしく道々しきことをのみ書きすくめて、かりにもはかなだちたる心は見えずなんある。」*2全然書いていないものを読みながら、あなたの心の奥には女童べと同じものがあるのだと断言する。なかなかすごい。

*1:p406同書

*2:p409同書

モルデハイ・バヌヌ

オノ・ヨーコがジャーナリストのシーモア・ハーシュとイスラエルの核の内部告発者のモルデハイ・バヌヌに平和助成金を授与した。(ニューヨーク) 

家族なしには主体になれない

(1)

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040905 に対する、

hippieさんのだいぶ前のコメントに返事していませんでした(忘れていたわけではないのだが)。hippieさんは岡野氏の「「家族」は、わたしたちが自分を生き抜くために、「とりあえず」は自分の欲望は自分のものであると、自認できる存在となる「なる」ために、その形を変えながらも、わたしたちが必要としているひととひとの結びつきではないだろうか。」という文章に反論しています。

# hippie 『岡野さんの家族についての「わたしたちが必要としているひととひとの結びつき」という認識は私には乗れないです。甘すぎるよ。(略)』

ここで岡野氏とhippieさんとの差異は、家族に「」がついているかついていないかにあります。

岡野氏の使う「家族」とは、狭義のそれに対し範囲を少し拡大して考えるといった安易なものではない。

(2)「家族」の「 」について

岡野さんの『家族の両義性』という文章から要点だけ抜き書きしてみよう。

「公的領域においてひとは「ことばを理解する動物」で「ポリス的動物」であることが前提とされている。*1」思えばhippieさんとわたしとの間にもひとは憲法の条文を論じ合うことによりそれを改正していくことができるという前提があったはずだ。(RESが遅れたのは申し訳ない。)

「だが、そもそもどうしたらわたしたちは、そうした動物に「なることができるのか」。」

「ことばの選びによって初めて表現される自分を生きていくことができるということは、ひととしての前提というよりも、ひとと「なる」プロセスであると同時に、そうしたプロセスの結果でもある。」

「もちろんことばだけに限定されるわけではないのだが、さまざまな記号を使用することによって、自分の輪郭を描きだし、他者とは異なる存在として自分を生きるように「なる」ことは、わたしたち一人ひとりの経験から考えてみても、自然発生的にひとりの力でなし得るような営みではないはずだ。そして、わたしたちは、いかなる形態をとるのであれ、「家族」というユニットを、そうしたプロセスを通じてひとと「なっていく」場として、尊重してきたのではなかっただろうか。」

「わたしたちが自分を生き抜くために、「とりあえず」は自分の欲望は自分のものであると、自認できる存在となる「なる」ために」も、とりあえず、言葉を獲得していくプロセスは必要である。そのために「そのプロセスを見守ってくれる、すでに自分の欲望を言葉で分節化できる他者」に依存するという関係が必要である。

 岡野氏の文章は言葉や情念が未成立な混沌からかろうじてそれらを成立させようとする現場に立とうとしており、まわりくどい文体になっている。

(3)

それに対し、hippieさんは「わたしたちが必要としているひととひとの結びつき」とフレーズの持つ“甘さ”を問題にする。家族イメージを甘やかなイメージで飾り立てることにより「家族制度」というものが延命し存在してきた事実、それをイデオロギー的に糾弾するというスタンスに立っている。

 しかし糾弾とは原点に戻って考えてみると、自己身体の分節化出来ない叫びに根拠をおくものではないのか。そのとき、それが私でないとしても、不定形で不安定で泣き叫ぶしかない存在(存在未満)であるところの乳幼児からの声を、目の前に存在しないからといって無視するのはおかしい。

 現実というものを、差別の複雑な交錯として考えることは可能だ。だがそれに還元することはできない。誰にも(何にも)支配されない自由な時間をも私たちは持っている。その意識自体が既成のいくつかのイデオロギーに染められているとしても。子供は還元不可能性の喩でもある。

『こういうことを言うのならせめて主語を「わたしたち」ではなく「わたし」にして書いて欲しいです。』hippieさんには前提の混同があるようだ。ある人の人生において子供を持つかどうかは彼女/彼の自由だ。しかし現在、家族というものを考えるとき、「子育て」というテーマをは不可欠のものだ。また逆に、「子育て」を「家族」なしに行う試みも成功していない。もちろん施設で育つ子供たちもいるのだが、そっちがメインにはなりそうもない。というか、その場合でも(切実に)「必要としているひととひととの結びつき」がなければ子供は、自立した自由な主体になりえない、と岡野氏は論じているわけである。したがってその断言をくつがえしえなければ、「甘すぎるよ」はただの感情的放言になる。

「子育て」の問題を考察しないで「家族」の本質をぐいっとつかんで、論じることはできない。

関連野原表現:http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040706#p1

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040905#p1

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040916#p1

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040926#p1

*1:p128・『現代思想』