北野勇作 ささやかな日常?

北野勇作はわたしが知らなかっただけで有名人のようだ。最近は『人面町四丁目』という新作も出たようでリンクも多い。そのうち下記が丁寧に批評していた。

http://d.hatena.ne.jp/marron555/20040712#p1(風街まろんさん)

いままでのSFは青春小説だった、「状況を動かすことへの主体的な意志や、逆に世界に関わることの不可能性に対する絶望を描く」。それに対し「北野勇作のSFはその正反対にある。大状況がどんなに揺るごうとも、個人の力がどんなに無力であろうとも、ささやかな場所を得てささやかな日常を生きるスタンスは揺るがない。」「いわば中年小説」とのこと。

なるほど。これはSFというより小説一般、いやむしろ現在の青春の不可能性そのものに関わる問題だ。いや「青春の不可能性」をテーマにしてしまえば青春小説になる。不可能性をその主観的形態「絶望」において描こうとするのが従来の小説であったとすれば、そうではない形態(ゲーデル的とでも言っておこうか)で描こうとするのが北野SFかもしれない。

わたしの心身のうちにも神明は宿る

高島元洋『山崎闇斎 日本朱子学と垂加神道』isbn:4831505439 からちょっと引用して見よう。

 しかし大雑把な言い方をすれば神道の歴史ば、共同体の個々の神々と、この限定を超えて普遍化する方向にある神観念との対立の歴史である。前者の神を共同体の「八百万神、後者の神を普遍的な「一神」と、今は単純に置き換えておくと、神道の流れは、「八百万神」から「一神」へと重点を移して展開すると考えられる。むろん、「八百万神」と「一神」の間題は、記紀の神々の系譜が示すように神道の歴史の最初からあり、そこでの「一神」の意味はさまざまな共同体を一つに結合するところにあった。「一神」は、「八百万神」をそのまま結合して成立していたわけであるが、このような事態がおそらく中世から近世にかけて変化する。すなわち「一神」はさらにこの「八百万神」の個性を吸収すべく機能する。つまりそれぞれの共同体は、外部に対して持っていた独自の殻のようなものを徐々に失い、同時に内部の統合を弱め、そこで自由になる個々の成員は、共同体に代わる新たな秩序を人倫に求めることになる。

 共同体の神は「八百万神」で祭祀によって支えられるが、人倫における神は「一神」であり、祭祀というよりはむしろ日常倫理が重要なものとなる。こうして「八百万神」から「一神」へと重点が移ってゆくわけであるが、これはまた「神」観念そのものの変化でもある。つまり共同体の神とは、本来畏怖すべき何ものかであり、その圧倒する力において共同体を加護しこの成員を統合する。ここで個々人は基本的に共同体の成員としてのみ神に関与する。

 これを変化せしめるのが、個々人が私的に神を求める私祈祷の現象である。言うまでもなく個々人の願望は、共同体の願望ではない。この二種類の願望のずれたところに「一神」の観念が発達する理由がある。願望は、神の加護を求める。そして共同体の願望からはずれた私的な願望は、神に加護だけを求める。すなわち「神」は、共同体という限定された空間を磁場にして働く畏怖と加護の二重の力であったが、「一神」へと抽象化されることで畏怖の性格が弱くなり、加護するだけの力となる。「八百万神」が個性を失って「一神」に吸収されるということは、かくて「神」観念が変質することであるが、実はこの過程に「神人一体」説が成長する。神は加護するだけの力で、人の願望に応えて人に宿る。神は容易に人の接近し得るものとなり、神は誰にでも宿り、誰でも神になり得ると捉えられる。こうしてここに「神人一体」の考え方が生まれるわけであった。「神人一体」説の背後に共同体からずれた私的な願望の問題がある。つまり、「神人一体」説は日本の古来からの宗教的土壌であるシャーマニズムに成立するものであるが、通常のシャーマニズムと異なる点は共同体の意志に結びつくか否かということであった。*1

ここで語られているのは簡単なことだ。八百万の神の時代とはひとが共同体の成員として自足していた時代であり、ひとは祭祀を通して畏怖すべき神に加護を求めた。近世になって共同体のたがが緩み、個々の共同体を越えた「一神」が求められ「神人一体説」が出る、それは神道の倫理化でもある。ここで面白いのは、わたしの内に神があれば、わたしについてはそれで終わりで社会や祭祀など超越した存在になりうるのではないかという問いが発生するだろうという点である。実際にそれに近いひとはいたらしい。話が一挙にドストエフスキー的になる。実際ドストエフスキーの投げかけた無神論云々の問題は見かけと違って近代的問題ではないのだろう。同書p575から孫引きする。

問曰く、心は神明の舎なれば一心の外に神はなしといへば、祭などと云事も無用の事、迷の者のする事也と云人あり。いかに。

答曰く、心の外に神なしとは、心の理の外に異なる神はなしとの事なり。灯をさして此の火の外に火はなしと云たるに同じ。さりとていづかたにも火なき事あらんや。此火にちがひ又異なる火と云物はなきとなり。あしく心得て宗廟社稷の神はなきものなり、祭祀もいたづら事なりなどいふやからは、一心の量をせばく見て一向偏見のものなり。灯を見て火と云ものは、是ばかりにて国土に火ともしたる所はあらじとおもふにひとし。又外に神ありとのみ心得て本心をわすれたる人は、余所の宝を羨み尊ぶに同じ。何の益なき事なり。其上神明の教にもそむくものなり。よく工夫すべし。*2

*1:p572

*2:『陽復記』度会延佳p106 日本思想体系・近世神道論、前期国学

平等な教育 で良い

小学6年生の親としては中学校では英数国それぞれ、週5~6時間はやってほしいなどと凡庸なことを思ったりもする今日この頃・・・『教育』広田照幸 岩波フロンティアisbn:4000270079 を図書館で見たので借りてみました。良い本でした。

 朱子学のように普遍的に善である立場に教師が立ちそれを生徒に教えるという構図は崩れてしまった。「青少年を丸ごと帰属させ彼らに生き方を指示する各種の制度が、青少年の個々人の存在に先立って存在している、という感覚が失われた」*1のだと広田氏は捉える。そのとおりだろう。大人にとっての会社や労働組合、地域や家族すらそうであろう。一方で青少年は「自己の価値を自前で探そうとする強い欲求を」消費市場において試行錯誤する。そのとき学校は端的に魅力を失う。

 まず多様な個人が存在する。それを均質化、統制化してひとつの集団にまとめ上げようとする学校に対し、不満が高まる。それはもっともなことなのだ。だがしかしと、広田氏は言う。「学校批判の一連の運動が総体としてみると「強い市民」による「強い子供」像を前提とした学校変革論ではないのか」と。*2つまりぶっちゃけていうと、現在教育について多様な言説を繰り広げている主体はすべてインテリである。インテリの子弟は「強い子供」である可能性も高い。だが自分で情報を集めて判断する力のない親や子供だって世の中には沢山いるのだ。非エリートだっても楽しく過ごせる学校を作っていこうという主張は甘いひびきを持つ。だがそれで良いのか?

 「市場の自由」をもとにした教育システムは,ひょっとすると今よりも快適な学校生活を,ほとんどすべての子供たちにもたらすことになるかもしれない.自分が行きたいと思えるような学校を選び,学びたいものを選んで学ぶ.また,マイノリティの子供は,自分の家庭の文化がそのまま学校の場でも重視されるような,そういった教育を受けることができる.学校に行かなくても,もっと気楽に過ごせる場が用意されている…….しかしながら,その結果は冷酷である.教育の成果はいずれ労働市場で厳しい判定を受ける.ごく一部分のエリート向けの学校へ行った者を除いて,多くの子供たちは,大人になったときに自分に開かれている職業の選択肢が,さほどよくないものばかりであることを思い知らされることになる.もっと魅力的な選択肢は,別の学校や別のカリキュラムを選んだ誰かにすでに占有されてしまっているからである.慌てて「生涯学習」に取り組んでみても,キャリアアップに励むエリートたちとの差は開く一方,ということも生じる.つまり,「学校時代は誰もが幸せ/卒業したらほとんどが大変な人生」というシステムになりかねないわけである.

 第二に,もっと根本的な問題は,資源・環境の有限性を考えると,新自由主義的な経済システムは,不公正で持続不可能なシステムだということである.エネルギーや資源消費量の観点からみて,今の日本の人々の生活水準は,世界中の人々が長期的な未来に向けて享受しうる水準よりもおそらく高いレベルにある.貧しい国々の人々が今よりも豊かになる権利をもしわれわれが尊重するのであれば,また,遠い将来の子孫(今の子供たちではない)がある程度の豊かさを持った生活をしてゆく権利を,われわれが「ご先祖」として保障してやる必要があるとするならば,新自由主義的な原理による経済発展には,重大な問題があることになる(代替エネルギーなど新技術がすべての資源・環境問題を解決してくれるという楽観論があるが,決して根拠のあるものではない).環境的公正の問題は,もっと持続可能な経済システムの必要性を提起しているのである.それゆえ,グローバルな経済競争でトップを走り続けるための教育,というものとは別のものがデザインできないのかを,考えてみる必要があるだろう.

ほとんどすべての学校改革論や教育論は,長期的にみてわれわれが直面している,最も深刻で重大なこの問題から目を背けている.*3

前半だけ引用するつもりだったが、後半も大事なのでついでに引用しました。

“エコロジーに反する経済成長のためのエリート作りのための新自由主義的教育改革”が現在もっとも有力な潮流だと広田氏は認識する。そしてそれに対抗するためには、教育学の枠を越えどのような未来社会を作っていくのかというビジョンを語ることが必要になる。大量消費大量廃棄の資本主義はいけないというのはエコロジーであり、教育学とは関係ないという常識を越え、広田氏がこれを書いたのには、こういうわけがある。

*1:同書p25

*2:同書p37

*3:同書p80-81

不正に貫かれた単一支配

「彼らは、この運動を制御するのではなくて、この運動によって制御されているのである。」マルクス*1

商品に価値がある、そのことが主体にとってあたりまえとして受け止められることをマルクスは批判する。ある前提を受け入れることによって不定型なわたしは主体になる、そしてそれ以後わたしは何かを制御できる主体で有り続け、わたしがなにかメタレベルによって作られたものだということはわたしの認識の外部にありわたしににはたどり着けないことになる。

 崎山氏の本の最後の部分を引用しておきます。

 それは、不正に貫かれた資本制の単一支配に敗北するべき「理由」は、わたしたちの内在的な可能性のなかには一つとしてない、ということだ。

 多数性・多様性にみちた、いくつもの世界のつながりによって、地獄でしかないこの単一支配の世界さえも、はじめて存在しうる。そして多数で多様ないくつもの世界は資本の所有物ではけっしてない。それはわたしたちが生きる場であり、人びとの生を支えるそれらの世界をアタリマエに希求するわたしたちが打ち倒されることは、絶対にありえない。

 さまざまな世界を人びとのつながりあいのなかで信じ、わたしたちの生きる世界に変えつづけていくこと。わたしたちに必要なものは、この単純な真理なのである。

「世界を、不正な=単一支配」と呼ぶことにはわたしは賛成したくないという思いをずっと持っていました。それを天皇制と呼ぼうと資本主義と呼ぼうと。ただ今までのマルクス主義者と崎山氏との間には微妙だが大事な差異があるようにも感じる。世界を不正と名指しながら、「わたしたち=正義」という逆像を成立させることを避けようとし、それにまあ成功しつつあるという差異が。

*1:p35『資本』崎山政毅から孫引き isbn:4000270087

重慶~~~ヒロシマ

今日は59年目の原爆記念日である。

朝日新聞の社説は、ヒロシマに並べて、ドレスデン、重慶などへの空爆を取り上げている。

「こうした無差別爆撃は、20世紀の戦争の非人道性のもっとも分かりやすい象徴となった。先例となったのは、スペイン内戦中の37年に独軍機が行ったゲルニカ攻撃であり、日本軍機が38年から中国の重慶に対して繰り返した大空爆だった。それらがドレスデンへ、東京大空襲へとつながり、結局、広島と長崎への原爆投下へ行き着く。」朝日新聞8/6

東京広島長崎という日本人の被害に対しその前史として、ゲルニカ、重慶、ドレスデンを取り上げたのは世界史の広がりに対しより適切な表現だと一応は評価できる。しかしカート・ヴォネガットのファンなら、彼が口にするのを何とか避けようとする身振りによってしか語れなかった<ドレスデン>を知っている。ドレスデンが「分かりやすい」という形容詞とともに叙述されることに異和感をいだくだろう。さらにこの文章はドレスデンの聖母教会の金の十字架の輝きの記述から始まり、20行ほどドレスデンについて書かれている。それに対し、重慶への言及は26字だけだ。重慶はヒロシマのように日本人に広く知られているわけではない。ここでのドレスデンと重慶の比率のアンバランスは何を意味しているか?そこには、例えばユダヤ人少女アンネの悲劇は日本人に広く知られているが、それに比すべき中国人や朝鮮人の物語は皆無であるといった言説分布と同じエピステーメが存在している。日本のインテリは基本的には欧米インテリの口まねをしているだけなのだ。アンネなど日本人には関係ない、とあえて放言しておこう。

2年前から重慶の被害者たちとヒロシマとの交流は始まっているようだ。下記urlに3人の方の証言が載っている。

http://www.anti731saikinsen.net/kanren/jukei/index.html

長いが「  王孝詢氏のメッセージ  」をそのままコピ&ペーストします。

日本軍の爆撃機が重慶を爆撃することに関するいくつかの問題

            王孝詢

   一 日本軍による重慶爆撃の情況

 1938年2月18日から1943年8月23日にかけて、日本侵略軍は9000機余りの爆撃機を出撃させ、重慶に対して5年間にわたり爆撃を続けた。歴史上これは「重慶大爆撃」と呼ばれている。

当時の中国国民政府の記録によると、日本軍の爆撃により、11,889人の重慶市民が殺され、14,100人の重慶市民が負傷し、壊された家屋は3万軒余りである。他の財産の損失は数えきれない。

 「重慶大爆撃」の中でも、1939年5月3日、5月4日の爆撃及び1941年の六・五隧道虐殺事件は全世界を驚かせた。 1939年5月3日の昼、日本海軍航空隊の第一空襲部隊に属する36機の中型の爆撃機は、重慶中心部の人家が密集した商業地域に対し、冷酷な無差別爆撃を加えた。爆弾98発と焼夷弾68発を投下し、下半城の19街路の町並みは廃墟になり、主城の41街路の町並みは火の海となってしまった。爆撃は1時間かけて行われ、673人が死亡し、350人が負傷し、爆撃や火事で壊された家屋は1,068軒である。

 1939年5月4日の午後6時、日本海軍航空隊の爆撃機27機は再度重慶市の中心部を1時間以上かけて爆撃した。爆弾78発と焼夷弾48発を投下し、上半城の38街路の町並みが爆撃され、最もにぎやかな10街路の町並みが全壊され、3,318人が殺され、1,973人が負傷し、3,803軒の家屋が壊された。この爆撃による死傷者数は、一回の爆撃による死傷者数という点においては、第二次世界大戦中最高記録である。

 1941年6月5日夜の6時18分から11時27分にかけて、日本軍の爆撃機は3陣に分かれて順番に重慶を爆撃した。5時間もかけて行われたこの爆撃によって、重慶市中心部のトンネルに難を逃れようとした市民1,000人が窒息して死亡するという、非常に凄惨な結果がもたらされた。

   二 日本が重慶を爆撃した目的及び戦術の変化

  1937年7月7日、日本軍国主義は盧溝橋事件をきっかけに、全面的に中国を侵略する戦争を発動した。盧溝橋事件から広州を占領した1938年10月25 日までの15か月間、日本軍は中国に100万の兵力を投入し、中国の13省の340都市及び100万平方キロメートルの土地を侵略して占拠した。

ところが1938年の末、日本侵略軍は44.7万人が死傷し、軍事力は大いに弱められた。軍事費の支出が大幅に増えたため、日本人民の生活は日増しに悪化して、日本国内では戦争に反対する声も高まった。

一方、中国の抗日勢力は叩き潰されてなかった。100万余りの中国の正規軍は、武漢の周りの戦区に駐屯し、直接に華北、華中の日本侵略軍に脅威を与えた。国民政府が支配した西南と西北地域には、日本軍と対抗する実力があった。中国共産党が率いる八路軍と新四軍は、抗日根拠地に遊撃戦を行い、正面戦場と合わせて、日本軍を挟撃する状態になった。日本軍は広州を占領した後は、大規模な戦略進攻は困難になり、抗日戦争は対峙する段階に入った。

 1937年11月、国民政府は最後まで抗日戦争をするため、重慶に遷都することを決め、公に発表した。その後、重慶は抗日戦争時期の中国の政治、経済、軍事及び文化の中心となった。中国人民の抗日意欲をたたきつぶし、国民政府を投降に追い込み、中国を滅亡させて「大東亜共栄圏」を打ち立てるため、日本侵略軍は重慶を最も重要な攻撃目標として、1938年から重慶に対して戦略爆撃を開始した。

 1938年に日本軍が重慶に対して行った爆撃は、長距離で試験的な攻撃であったが、1939年に入ると爆撃は頻繁に行われるようになり、かつ野蛮な大量虐殺の段階に入った。その特徴は以下の通りである。第一に、日本軍は賑やかな市区を爆撃するだけではなく、近郊ひいては遠い郊外も爆撃の目標にした。第二に、無差別爆撃を実施した。人民の住宅、学校、工場、医院、外国の駐在機関及び大使館も爆撃された。第三に、昼の爆撃に加えてさらに、夜間においても不定時に爆撃する戦術をとって、かき乱す時間と爆撃する時間を伸ばし、重慶を常に不安定な状態においた。

 1940年、第二次世界大戦のヨーロッパ戦争が勃発した。日本は、南に進攻して、東南アジアと太平洋にあるイギリス、アメリカ、フランス、オランダなどの国の植民地を奪う好機が来たと考え、中国に対する侵略戦争を、出来るだけ早く終わらせようと考えた。南へ進攻する兵力をつくるため、日本は「101号作戦」計画を立て、重慶に対して1939年より更に激しい、広範囲にわたる爆撃を開始した。

数で比較してみると、前年の1939年には日本軍は59陣で809機の爆撃機を出撃させ30回の爆撃、2,213発の爆弾投下であったのに対し、1940 年には日本軍は191陣で4727機の爆撃機を出撃させ80回の爆撃、投下された爆弾は9553発のもの数になった。重慶の市区だけではなく、遠い郊外地域も大規模な爆撃を受けた。1939年の爆撃は日本軍の攻撃が無差別に行われていることを露呈したが、日本は外部に対して「重慶の軍事、政治拠点しか爆撃しない」と揚言していた。

1940年には、日本がイギリス、アメリカ、フランス、ドイツなどの国の駐在機関と大使館のため確定した「安全区」以外、日本軍の爆撃機は重慶のすべての地区と施設に対してさらに残虐、野蛮な無差別爆撃をおこなった。しかも破壊力がとても強く、新しい凝固ガソリン弾と数多くの焼夷弾を使った。その爆弾は極めて大きい被害をもたらし、爆撃によって、1939年に4,437人が死亡し、4,979人が重傷し、4,827軒の家屋が壊された。1940年、 4,232人が死亡し、5,411人が重傷し、6,955軒の家屋が壊された。この2年間の死傷の人数及び壊された建物の数の差がそれほど大きくないのは、1940年に重慶市区の防空意識と防空施設が極めて改善されたことに起因する。

 1941年、日本は南に進攻する政策を推進し、太平洋戦争開始の準備をするため、対中国の戦争をなるべく早く終わらせることが日本の当面の急務になった。そのため、1940年の「101号作戦」計画の後には、日本軍はさらに1941年7月の中旬に、「102号作戦」計画を立てた。

この計画によると、5月から7月にかけて、日本海軍の第22航空隊は、重慶に対して20回余りの爆撃を行った。7月中旬に日本海軍の第11航空隊、8月の初めに日本陸軍の航空隊第60戦闘隊は相次いで重慶に対する攻撃に参入した。

この1年間の爆撃には、一つのあからさまな特徴がある。日本軍は疲労爆撃戦術を採用したという点である。大量の兵力で、一回限りの爆撃ではなく、少量の爆撃機を使って一日中連続して何度も空襲、あるいは何日間も持続して空襲した。そのため、重慶の市民は連続の空襲警報の下奔走し、疲れ果ててしまった。正常な生活や仕事ができなくなって、精神的に常に緊迫した状況に置かれた。

6月14日から16日にかけて、28日から30日にかけて、7月4日から8日にかけて、27日から30日にかけて、4回にわたって連続して爆撃があった。

8月8日から14日にかけて、連続して7昼夜の爆撃があり、毎回の爆撃の間に6時間の間隔をとった。

8月10日から13日にかけて、重慶市区では13回にわたり空襲警告が鳴り響き、警告の時間は96時間に達した。

また、日本軍は無差別爆撃の範囲を拡大し、日本軍が確定した「安全区」内のイギリス、アメリカ、フランスなどの国の大使館も何回も爆撃を受けた。全世界を驚かした六・五大隧道虐殺事件は、まさに疲労爆撃という形で引き起こされた。

 1941年12月8日、日本軍は真珠湾を奇襲し、太平洋戦争に突入した。日本は太平洋戦争に参加したこと、中国の空軍と防空力が強められたこと、米国の志願航空隊すなわち陳納徳将軍が率いた「飛虎隊」が対日作戦に投入されたなどの結果、日本は中国戦場の制空権を失った。そのため、1942年、1943年に入ると、日本軍は偵察機を派遣し、重慶及び周辺地区の上空に入って、偵察しかできなくなった。この2年の間には、1943年8月23日に一回の重慶に対する空襲があった。151発の爆弾が投下され、21人が死亡し、18人が重傷し、99軒の建物が壊された。

   三 日本軍が重慶を爆撃して犯した罪

 日本軍が重慶を爆撃して犯した罪は三つある。

 1、平和を破壊する罪、すなわち他国を侵略する罪である。

 2、戦争法規と慣例に違反した罪、すなわち重慶を爆撃した時に国際法に反する手段をとった罪、及び平民の生命と財産を害する罪である。

1907年のハーグ陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約付属書陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則の第27条は以下のように定めている:

「包囲攻撃する時に、宗教、技芸、学校及び慈善事業に関する建物、医院及び収容所などは目標にしてはいけない」

日本が加入した1929年の「海軍条約」も同様に定めている。

「平民に恐怖を感じさせ、非軍事的性質の個人財産を害し、あるいは非戦闘員を傷害するなどを目的とする空襲を禁止する」

言うまでもなく、日本軍が重慶で行った無差別爆撃は、国際法と国際慣例に反したものである。ここで指摘しなければならないのは、日本が重慶で行った無差別爆撃は、「過失」ではなく、故意に国際法と国際慣例を踏みにじった爆撃だということである。   1937年11月に制定した日本の「航空部隊使用法」 103条はこのように強調する

「……もっとも重要なのは直接に住民を空襲し、敵に極めて大きい恐怖をもたらし、敵の意志を打ち砕くことである」。

   1939年1月21日に平沼首相は議会でこのように演説した

「中国人が日本の意向を理解してもらいたい。そうでなければ、彼らを消滅する以外ほかの方法はない」。

1939年7月24日、中国侵略派遣軍の参謀長が軍事態勢についてこのように陸相坂垣将軍に提案した。

「恐怖心をつくって敵の軍隊と人民を混乱させるために、空軍は後方の戦略拠点を空襲するべきである」。

3、人道違反罪日本軍が重慶を爆撃した際に、細菌爆弾を使用した事実については、当時の新聞にも掲載された。

2001 年4月、日本軍による細菌戦によって被害を受けた中国人が日本政府に賠償請求をした。これを支援するため、日本弁護団の構成員である一瀬敬一郎氏、731 部隊資料編纂会の奈須重雄氏等が重慶を訪れ、調査を行った。彼らは重慶の梁平県で当時の目撃者と罹災者の遺族を訪ねて調査した。その結果、日本が重慶に細菌爆弾を投下したことが明らかになった。(以上)

根源的なものにたいして受動的

高島氏の本からのノート。丸山真男は山崎闇斎のことを「あまりに敬虔な朱子学者」と呼んだそうですが、高島氏によれば、朱子学と闇斎学は全然違う、ということになります。*1

例えば「天地の間は唯理と気のみ。しこうして神なる者は、理の気に乗りて出入りする者なり。」という文は朱子の文であり、闇斎の文でもある。しかし、同じタームを使って述べていても発想の根拠が違うのだ。違いを簡単にまとめると、以下の如し。

朱子学:

人は聖人となり、太極という天地の動きの根源そのものになると考えられている

主体性の極限へ向けての能動的な上昇の方向を持つ

闇斎学:

教えによって、この太極から流出する働きにひたすら随順することが思われている 

根源的なものにたいして受動的

天理はすでに人に与えられて内在するものであり、それを自覚にもたらすものが教えであり学問にほかならない

       で、ここから話は急に飛ぶが、

昨日NHKの広島をテーマにした番組「復興」というのを見て、市の中心部がすべて焼け跡になりわずかなビルの残骸以外文字通り何もないリアルな画像を見て、ショックを受けました。それがわずか数年で力強く復興していくのはやはり人類史に残る「復興の物語」として普遍的な力を持つものです。そしてアメリカの犯罪をあくまで追求するという方向をとらなかったことについても、追求することは正義を求めることであるがやはり憎しみを保存し場合によっては強化することであるので、少なくとも半ばは良かったと評価すべきでしょう。何もない荒野のイメージからの衝撃を持たずにヒロシマに言及してはいけないと、自戒しなければいけないと思った。

そして広島では今年も例の如く「平和の誓い」なるものが宣言された。いまグーグルで探したら適当なものがなかったので、だいぶ古いものを引用する。「広島平和宣言(昭和57年)

 燈燈無盡‐ヒロシマの平和の心は、すべての人々に受け継がれ、語り継がれなければならない。」http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/heiwa/hiroshima-j/etc/20040305org00m040995000c.html

ここでは、「ヒロシマの平和の心」というのがアプリオリに置かれている。ここには「天理はすでに人に与えられて内在するものであ」るのだという前提と、したっがって私たちがしなければいけないことは「それを自覚にもたらす」ことつまり平和教育、「教えであり学問にほかならない」という方法論がある。これって闇斎主義そのものではないか。とちょっと思った訳であります。

 わたしはこれまで戦後平和絶対主義を、宣長の思想や京都学派など色々なものと似ていると強弁してきました。わたしの主張は飛躍と矛盾ばかりだといわれるでしょうがもうちょっとがんばって材料を集め、数年がかりでなんとか話をまとめたいと思っています。

ところで、「ヒロシマの平和の心」とは何だろう。我が家を中心に都会がすべて荒野になったときひとは何を思うのだろう。一つは「戦争遂行は間違いだった」という思いだろう。NHKの番組に出てきた広島市の課長さんなどは当然国家の戦争遂行を下部で職務として支えていたわけだ。彼は私のしてきたことは間違いだったと娘に懺悔する。儒教的には政治は民の生きることを支えるためにあるのだから、彼の懺悔は当然だ。だが平和とは何か。国家は戦争する権利はないのか。そうだ国家は戦争する権利はないのだ、と彼は考えただろう。日本国家は戦争する権利がない。アメリカも中国も、そして日本人の少なくない部分もそう考えた。だが三者の考えたことは(もちろん?)三者とも全く違ったことであった。そして59年後、ヒロシマの中学生は何を「平和」といっているのだろう。わたしにとって平和とは何か?それは自衛隊と米軍に守られた欲望資本主義の現状のことではないのか。それとは違う何かがある、と私は言えない。だからわたしは「平和」という言葉を肯定的に使っていくつもりはない。

戦争の不在を求めることが、国家による国家に至らないエスニックグループや個人に対する抑圧を放置することを伴ってはいけない。対北朝鮮融和主義には反対しなければいけない。

*1:isbn4-8315-5043-9 同書p39-40

岡真理さんのヒロシマ

今年のヒロシマにはファルージャからも男性が参加していると聞いたが、岡さんが通訳として付き添っていたらしい。今日「少女ヘジャル」*1というトルコのクルド映画の上映会がありそれに協賛する形で岡 真理氏と松浦範子氏の対談があった。その時に言っていた。

ファルージャでもミサイルが落とされボールペン一本でさえ粉々になっていたという被爆が多発している。ところが日本のマスコミはせっかくイラクから来た彼に、ヒロシマのことを国に帰ってどう伝えますかという紋切り型の質問ばかり繰り返したといって、岡さんは怒っていた。根源的悲惨と祈りはヒロシマのブランドであり、世界にそれが啓蒙されなければならないという(善意の)流出論。一方少なくないクルド人はわたしたちは世界で始めて毒ガスの被害者になった、第二のヒロシマナガサキだ、と日本人へのシンパシーと尊敬を込めて言うという。尊敬とは、汚染された荒野を数十年でまた大都会に変えた<祈り>に支えられた努力に対するものだろう。世界が矛盾に満ちているかぎりわたしたちは闘わなければならない。つまり平和とは闘いでなければならないのだ。

*1http://www.annieplanet.co.jp/hejar/index.html ハンダン・イペクチ監督。 ・8/7~8/20 テアトル梅田 http://www.cinemabox.com/ 連日モーニングショー 10:00~ ・8/21~ 第七藝術劇場 http://www.nanagei.com/ 連日12:20/14:35/16:50/19:00

ゴキブリ

暗い部屋に入ったら何かが素足をはい上がってきて悲鳴をあげたらゴキブリだった。1mほど離れた床の上で逃げないので、叩きつぶした。合掌。

「対話概念を変換し…」

 松下昇は、概念集5のp7「批評概念を変換し…」で次のようなことを言っています。

批評、とかいっても文学というものがあり批評というジャンルがどこかに存在するわけではない。

批評とは「任意の位置ないし関係相互の間における発想や存在の様式の矛盾を止揚する原則を模索する」そうした行為の総体を指す概念 である。

「一瞬ごとの呼吸や排泄のように身体化されるレベルで、また料理のように自分のやりうる範囲で批評の根拠ないし原初形態は常に出現している」その動きや方向の無意識性を対象化していくということが大事な課題である。*1

日常でも掲示板などでの対話でも、自分があたりまえだと思っていたことが相手にとってはそうでなかったと気付くことはよくあることです。発想の差異は、論壇においてはいくつかの座標軸によってきれいに分布しているかのように表象されます。しかしわたしたちが日常で出会う他者はそうした場(テーブル)に存在しているわけではありません。たとえば相手が小学生であればいくら正しいことを言ってもそれが「意見である」と検討されることすらふつうはありません。AとBとの自由で理性的対話によって民主主義の基礎が形成される、それは肯定すべきでしょう。しかし私たち日常の対話は性別とか役割、年齢など、位置~関係~存在様式の差異によって大きく左右される。インターネットは一般論として、誰でも参加できまた、各参加者間の形式的平等が保証されているというおどろくべき長所を持っているように見える。それは嘘ではないし長所は活用していくべきだ。ただここで指摘された「存在様式の差異」といった問題は残っている。忘れられているとすればいっそう何かを抑圧していることになる。

さて各主体間に存在様式の差異が存在したとして、それが矛盾であり止揚されるべきものだ、とアプリオリに決めつけるのはおかしいのではないか、と読者の大半は(読者がいたら)思っただろう。(差異という言葉こそポスト・モダン情況の指標の一つであり、それは矛盾、止揚や闘争というタームの忌避を伴っていた。)だがわたしたちの存在様式が分断されており、そのせいで対話ができないなら、その矛盾が解決されなければ対話は開始できない。

意見を言うとはどういう事態なのか?それは知識を持つ者だけに許された特権的な価値のある行為なのか。そういう側面があることは否定できない。例えば自分がある意見を持っているとしてそれを1枚のビラにして見ろと言われればかなりの勉強と労働が必要になる。だがそうしたあるレベルを越える勉強というハードルを越えないと意見を言ってはいけないのか。断固としてNOと応えたのが全共闘だろう。

言説を精緻化することは敵の土俵に乗ることであることが多いし、そのことに無自覚であると敵の論理に巻き込まれていってしまう。そうではなく、他者からは幼くナイーブに見えたとしても「わたしの怒りの原点」といった初発性を忘れずに耕していくことの方が、困難で貴重な営為である。<69年性>といったものをそのようにパラフレーズしても良いのだろうか。

わたしたちは誕生から死滅の瞬間まで言葉と言説にまみれて生きている。「一瞬ごとの呼吸や排泄のように身体化されるレベル」において批評の根拠ないし原初形態が常に出現している、という把握はさすがだと言わなければいけない。「また料理のように自分のやりうる範囲で」というフレーズは分かりにくいが、料理が苦手な人がそれでも料理をした場合なんだか変で美味しいとはとうていいえないものができあがるがそれでも食べられないことはないのだ、みたいな感じか。

言説といったものを考える場合、フーコーのエピステーメーみたいに全体的に考えるか、それとも個々の差異に注目するかのどちらかになりがちだ。この隘路を抜け出すためにエージェンシー(行為体)への注目(バトラー)などがなされた。松下も“批評の根拠ないし原初形態”を原点として持ち上げるのではなく、その近傍を含んで把握しさらにそれ自体ではなく〈その動きや変容〉(とそれが無意識のうちに起こっていること)にこそ注目すべきだ、と考える。

わたしたちは、まいにち他者に出会いながらそれをなんとかやりすごして日々をおくっている。まあ生きるとはそうしたことなのだろうが、対話(に似たこと)をしている以上はわたしたちはいつでもそれをもっと深めることはできるのだ。

参考 http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/hihyo.html#hihyo

*1:以下、『概念集・5』より原文を引用しておく。「私にとっては批評という概念は基本的に、概念集3の〈批評と反批評〉の項目が引き寄せる領域で揺れ動いており、より厳密にいいなおすと、任意の位置ないし関係相互の間における発想や存在の様式の矛盾を止揚する原則を模索する時に対象とする概念として論じようとした。どこかに批評というジャンルがあるのではなく、一瞬ごとの呼吸や排泄のように身体化されるレベルで、また料理のように自分でやりうる範囲で批評の根拠ないし原初形態は常に出現しているのであり、その動きや方向の無意識性の対象化こそが各主体にとって不可避の課題であるということは、六九年情況を潜った私にとって自明であった。私が一連の資料の刊行を私が書いた批評集ではなく、私について書かれた国家(α)やマスコミ(β)や文筆業者(γ)による批評の集成から開始した契機は、このような把握からの必然であったし、この試みは段階や度合の差異はあるにしても、任意の人によって、いや、まずプロの批評家によってやってみる価値のある作業であると確信している。」

天ではなく神

高島元洋『山崎闇斎 日本朱子学と垂加神道』isbn:4831505439 は七百頁近い大著だ。図書館から借りてざっと斜めに読んだ。

要点をまとめることもできないが、少しだけノートしておこう。

え、この本は、第一部闇斎学と朱子学  第二部修養論  第三部垂加神道 となっている。第一部では、朱子学の基本概念である「天人合一」「太極」「心」「体用論」が闇斎学では同じ言葉を使っていても違う意味になってしまっていると論じられる。第二部も同じく「居敬」「窮理」を中心にする朱子学に対し、闇斎学では「窮理」が無視されると指摘する。朱子学の根本概念に神道的な発想が入ってきていると言う。

朱子学において、「敬」とは「絶対主体」たる「心」の「主宰」する機能を充然に発揮せしめるための修養概念である。*1

 朱子学の場合、「敬内義外」の意昧が、「居敬」「窮理」の概念の枠内で理解されていることはすでに見た。すなわち分殊の理を対象とする「省察」も理一の理を対象とする「存養」も、いずれもつねに「理」に対応してある。「敬内義外」は、要するに「太極」(理)を具体化する「絶対主体」(心)の確立に向けられている。これに対して闇斎学の「敬内義外」は、「敬」にあって「神」(理)を自覚し、「義」においてこの

働きが具体的に現われるということであり、つまり「神」(理)の働きの具体化する過程を示している。ここで「理」とは「神」である。「神」の働きは人の意識の機能を吸収同化すべき方向をもつ。この限りで意識が「理」(神)を対象として捉えるという「窮理」の観念は成立しにくい。つまり、朱子学の「心」(絶対主体)の機能は「理」を対象化するが、聞斎学の「心」(神明之舎)の機能は「理」(神)と同化する。かくて朱子学の「敬内義外」は「窮理」の観念と必然的に結びつくが、闇斎学の「敬内義外」には「窮理」の考え方は入ってこない。(略)

  (闇斎の)「窮理」という言葉で考えられていることは、ここでは聖人の教えを知り、これに随順するということである。言いかえると「神」(理)の働きのさまざまな具体を知って、これに同化することである。つまり「窮理」といっても、「心」の「主宰」する機能を独立して捉えるのではなく、この機能を最終的には「神」(理)の働きに委譲することが思われている。(略)

  要するに、朱子学の「理」が観念であり、闇斎学のそれが実体としての神であるがために、前者の「心」は「理」を対象としてその「主宰」する機能を発揮するが、後者の「心」はその「理」(神)の働きに、自身の機能を同化せしめる方向にあるということであった。意識のそもそものありようが異なっていた。朱子学は意識を「聖人」にまで高めることを考え、闇斎学は意識が「神」の働きとして顕われることを思った。すなわちこれは「神人一体」の問題である(略)*2

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 以上、メモ。

*1:同書p449

*2:同書p451-452