わたしは、自分に自信を持たなければならない。
できるだけ簡明な文章を、ストレートな文を書くべきだ。
わたしは、自分に自信を持たなければならない。
できるだけ簡明な文章を、ストレートな文を書くべきだ。
わったん基金にわずかですがカンパしました。
「渡辺修孝さんの支払い拒否と提訴を支持し、裁判を支援する意思を表明しておきます。」という意志においてです。実はそれほど内発するものはなかったのだが、今井さんたちに対しちょっと前に下記のようなメールを出したので、その都合上「支払い拒否」支援はせざるをえないか、と思ったのでした。(訴訟の趣旨は変わったのか?)
わたしの第一の問題意識は、外務省が金払えと言ったとしても、内容証明が来るまで払う必要はない、という実用的見地に立ったものです。下記サイトのように、反対なのに内容証明が来る前に自発的に払うのは馬鹿げたこととも思われますが、当事者の周辺には別の事情もあったのかもしれない。
ちょっと前の話になるが、(5/1)http://ac-net.org/honor/ というサイトに対し、次のようなメールを出した。
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高遠さんほかに対するバッシングに大きな怒りを持つものです。
ところで(無責任な質問)といわれるかもしれませんが、次のような意見をもったので参考までに送付します。特に回答を求めるものではありません。
野原燐
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外務省からの請求について
払わない方が面白い、のではないか?
少なくとも(2週間程度の期限を定めた)法的な請求書を出させることは誰からも文句を言われる筋合いのないことであり、ぜひ実行して欲しい。(法的請求書であれば不服申立の権利についての記述があるはず。)おそらく役人としてはその書類を作るだけの根性はないのではないか。(つまりはいはいといって払ってしまえばその瞬間問題は消滅するので、外務省に充分な合法性がなくとも検証できない。)
最後まで払わず裁判するのが面白いと思うが、3人及び家族が日本中からのバッシングに耐え、裁判闘争を続けるという意志を獲得した場合、しか実際にはできないでしょう。(払ってもバッシングは続くとすれば同じかも知れない。)
外務省の金の使い方についてどの程度まで公開できるのか?という問題に、従来から国民の広い関心が集まっているので、それとも関連して、外務省の言い分を検証するのも面白いと思う。
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允恭「登か」*1するや、皇太子淫虐にして、衆の棄つる所たり。安康、弟を以て兄を伐ち、過乱を■定す。衆の推す所、天命これに帰す。
日本思想体系48『近世史論集』というのが古本屋で1700円だったので買ってみた。このごろ大日本史とかに少しだけ興味があるが、これは大日本史自体ではないが、前期水戸学派の学者の史論二つが中心の本。p22には例えば上記のような文章がある。万世一系という原理があくまで正しいとした場合、次の天皇が淫虐にしてどうしようもない奴だった場合はどうする、という疑問が発生する。戦前だったらこのような問いはタブーであり、日本にはそんな天皇~皇太子はいないと強弁されたのではないか。現在の(何の根拠もない)愛国主義者もたぶんおなじだろう。実際には記紀によっても上記のようなことがあった。どうしようもない奴は大衆の意志において棄てられる、それが天の意志でもあるのだ、と元禄のころの儒者、安積澹泊は考えた。
*1:天にのぼる、帝の崩御について言う。
今日の引用。
「――君は僕の気を悪くしようと思っているのか。そう言えば君の顔は僕が毎晩夢のなかで大声をあげて追払うえびす三郎に似ている。そういう俗悪な精神になるのは止し給(たま)え。(「海 断片」梶井基次郎) http://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/2384_13826.html
源平盛衰記に、成経、康頼、俊寛の鬼界が嶋に流されてある事をいえる段に、かの嶋に「ラン」岳という山有りて、その山に、夷(えびす)三郎殿と申す神を、いはひまつりて、岩殿と名づくといへり、神祇官年中行事にも、戎三郎殿とあり、この神のこと、いといふかし、神に殿と申すも、めずらしき称なり。*1
小さな島の小さな岩殿。そこが夷三郎殿と名付けられたこと(の無意味に近い意味)に注目した宣長はやはりすぐれた感受性をもっていた、といえるだろう。(えらそうに言うな) 菅田正昭氏の古神道論の先駆者として、みたいな意味で。(菅田氏のurlはここ http://www.yoyo.ecnet.jp/SUGATA/index.html)
(前半はまったく関係ない。でも印象的な断片でしょう?)
*1:「玉勝間」日本思想体系40 p151
概念集(2への序文の位相で) 1
概念と像の振幅 2
技術 3
無力感からの出立 5
自主講座 7
自主ゼミ 9
連続シンポジウム 11
大衆団交 13
一票対ゼロ票 14
参加 15
瞬間 17
表現手段(過程) 19
年周視差 21
生活手段(職業) 22
華蓋・花なきバラ 24
メニュー 25
訂正 27
六甲あるいは〈 〉空間の方法 29
今日は、「ランドセルゆれて」 http://ransel.com/ という映画を見た。つき合いといえば、つき合いで見たのだが、思ったより良かったので書いておきたい。学童保育とは、働く親を持つ子どもたちの豊かな放課後を守り続けるためのシステムです。そうした子供たちを集めある時間だけ居住する空間を確保し保護者の代わりとしての指導員が見守り一緒に遊ぶ、といったことをしています。
http://ransel.com/arasuji.htm(あらすじ)より、
今、さつき学童のみんなが夢中になっているのは三年のダイキとユウマの二人が校庭のはずれの池で見つけてきたトンボのヤゴ (名づけてダイマ) です。ダイマがトンボになる日が待ち遠しく、みんなは心待ちにしています。
トンボのヤゴの映像がたびたび挿入されるのだが、この映像が良い効果をあげていた。ヤゴは泥や有機物のもやもやしたものを身にまとってしまい、そこにいるのだがいっこうにはっきりしないのだ。そのはっきりしなさを映像的に定着しておりなかなかのものだと思った。子供たちのなかにあるいじめや登校拒否や反抗といった問題、親たちの失業や失踪、暴力といった問題、指導員自身親でありながら、仕事にエネルギーを吸い取られわが子に当たってしまうという問題、そういった諸矛盾の象徴としてヤゴの不鮮明さがあるわけだ。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040518 でラファでの寺畑さんのボランティア活動を「学童保育」と書いてみた。日本では学童保育は多くは小学校3、4年までこの映画のように長くて6年までなので、中学生を相手にする寺畑さんのプロジェクトをそう呼ぶのはちょっと違うのだが。でも今日の映画の小さなクライマックスシーン。我が儘な子がいて、いつもブドウのゼリーしか食べない。その子が皆の説得とかによりついにミカンゼリーを食べる。第三者から見ると馬鹿かと思われるだろうが、彼がそうする一瞬を指導員たち、学友たちは息をつめて、見守っているのだ。反抗的なパレスチナ人の少年がその頑なさに隙を見せたときの喜び、を寺畑さんは話してくれたのだが、あれと同じだなと思った。
パレスチナのことに関われるのに国内問題には関わりがない、といった場合もあっても良いと思う。(そういうことがあるのだ。)ただ自分の子供のことを考えることが同時により大きな問題にもつながるというのは喜ばしいことだろう。
http://d.hatena.ne.jp/gyodaikt/20040616 北田氏のブログで、荒川区の男女共同参画社会基本条例案というものがトンチンカンである旨批判していた。全く賛成である。
第一八条「男女共同参画社会の形成に当たっては、男女の区別を差別と見誤って否定の対象とすることなく、男女の人権を尊重しつつ、その特性を踏まえた正しい理解の下に、この条例の趣旨から逸脱することのないよう努めるものとする」。
女性の特性の正しい理解とは何か?男がやっている仕事で女ができないものはほとんどない。特性というものが仮にあったとしてもその事実は曲げられない。問題は家庭、子育てだ。共稼ぎであれば、母親に負担が集中しないよう、父親と社会がより大きな関与をしてくべきである。国家が少子化対策に熱中すべきかどうかという議論はあるが、父親と社会の関与という方向性は正しいと思う。荒川区の場合は、現在の矛盾に対して過去には男女間の適切な役割分担があったとして過去を理想化しノスタルジックに成っているだけだろう。
北田氏は次のように言っているが、そのとおりだと思う。
「あえて」言おう。子ども増やしたいんなら、即刻この条例案を撤回せよ!
東洋の近代は、ヨーロッパの強制の結果である。
近代:生産様式、社会制度、それに伴う人間の意識
:封建的なものから自己を解放する過程に、その封建的なものから区別された自己を自己として、歴史において眺めた自己認識 p10
<歴史>そのものが可能になるのはヨーロッパにおいてである
歴史は、空虚な時間の形式ではない。自己を自己たらしめる、そのためその困難と戦う、無限の瞬間がなければ、自己は失われ、歴史も失われるだろう。
不断の自己更新の緊張によってかれは辛うじて自己を保持している
「疑う我を疑いえない」という近代精神の根本の命題のひとつが、そのような状態におかれた(自己をおいている)人間の心理に根ざしていることは否定できまい。
竹内好「中国の近代と日本の近代」の最初の3頁からメモ。*1
*1:『日本とアジア』 ISBN: 4480081046 ちくま文庫。この本を本屋で探しているのですが未入手です。1966年発行の親本を図書館で借りて読んでいます。
「黙れ–この礼儀をわきまえぬ無頼のやからめ。私の偉大なる武勲、誰も否定できない私の親愛なる気持ち、私の弁舌に満ちあふれている深遠なる知識に関するお話から、尊敬できるものを享受できず、安らぎの時間や高貴なる教訓を手に入れることができない者がいるとしたら、おまえのようなろくでなしだけである」
ドゥリートは私が話しつづけるのを認めず、私の耳元で大声で叫んだ。*1
「ラカンドン密林のドン・ドゥリート-カブト虫が語るサパティスタの寓話」(副司令官マルコス=著 小林致広=訳)が現代企画室より刊行(定価2500円+税)されたのですが、本日もうある図書館にならんでいました。副司令官とはサパティスタ民族解放軍(EZLN)の副司令官である。辺境のすごい過激派軍事組織のテロリストの親玉なのか? とにかく政治的文書に非常な文飾を付けたものみたいだがおもしろそうだから借りてみた。
「これは政治文書か、文学か、寓話か。はたまた、ジャングルでやるべきことのないゲリラのスキャンダラスなお遊びか。つかみどころのない、世にも不思議な物語が、混沌たる過渡期に、ついに登場! ここには新しい表現スタイルの模索の跡がくっきりとある。」
http://homepage2.nifty.com/Zapatista-Kansai/
わたしは知らなかったが4年前から活発なサイトがあり、そこからペーストしてみた。
これはほら話である。何にも似ていない。一定の方法はあるが必ずしも意味があるわけではない。ドン・キホーテやサラゴサ手稿に少し似ているが、例えば残雪のデタラメさを思わせる所もある。
*1:p146『ラカンドン密林のドン・ドゥリート』isbn:4773801050