<決裂>にわたしの本源はある

 私は存在する--わたしのまわりには空虚がひろがり、現実の世界の暗闇がひろがっている--私は存在する、不安のなかで、盲目のままに。*1

「<私は存在する>は必然的に真理だ」とデカルトは言う。それは間違っていないが、どのように存在するかは論証していない。上記のような<暗闇のなかでの存在>にも同等の権利があるのにそんなことに気付きもしない、という著しい偏差を持つ。*2

 私がついに逃げ場を失い、自分の本性をなしているあの決裂を、私が「在るもの」を超越するための場としたあの決裂を認めるに至るのは、まさに私が死につつあるときであろう。生きているかぎり、私は往復運動や妥協で満足することになる。何をどういってみたところで、私が一種族の一個人であることは分かりきっている。そして大ざっぱに見れば、私は万人共通の現実性と協調して生きている。私は、まったき必然性からして在るもの、どのようにしても除去できないものに加担している。「死にゆく自我」はこの協調を捨てるのである。それは、嘘いつわりなしに、自分のまわりにあるものを一個の空虚とみなし、自分自身をこの空虚へのひとつの挑戦とみなすのである。*3

「生きているかぎり、私は往復運動や妥協で満足することになる。<だがわたしは満足したくない>」“現実”というものがあってそれはわたしがそこに属するべきものだ、そうしなければ生きていけないことは分かっているが、その論理を自明のものとしてその上で生きていくのは嫌だ、出来ない!という悲鳴。それを力強く言表してくれる思想家。全共闘時代の直後バタイユは日本の若者に非常に人気があったが、難解さ訳の分からなさ*4を乗り越えて、どこに共感していたのかといえば、そうしたところだったのだろう。

わたしというものは<決裂>、かいま見るだけでも大きな衝撃を受けてしまうそうした危険な超越とともに存在する。将に存在/未存在する。だからといって“現実”というものが、社会人になるのを怖がる大学生にとってのように平板に否定されるべきものとは限らない。わたしの内に<決裂>があるのなら、その外側“現実”の方にも<決裂>があると考えることもできるはずだ。だがそれはバタイユの道ではない。バタイユは雄々しくもわたし(自我)だけに立脚し考え続けるのだ。

<決裂>が否定しがたいのは、「まさにわたしが死につつある」ときだ。それはそうかもしれないが、でも死の直前に何かを視たとしてもすぐ死んじゃったら無意味でしょ、と俗人は考えるがバタイユはその一点に執拗に関わり考え続ける。この持続力はすごい、私も学びたいものだ。

*1:p160バタイユ『内的体験』現代思潮社版

*2:永井均存在論はこの偏差の上で偏差を丁寧に展開したものであり冗談ぽい。?

*3:p165 同書

*4:その原因の過半は、翻訳者と本人の力量不足にあると酒井健氏は言っている。

ナショナリズムを超えられない

メルマガ『カルチャー・レビュー35号』の村田 豪氏「困惑する福田和也」について、著者ほかにメールしたのでこちらにもあげておきます。

http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re35.html#35-3 で全文読める。(上記の上部にある岩田氏の文章にもすこしだけ言及)

  *  *  *

今回の村田さんと岩田さんの文章をとても興味深く読ませてもらいました。

まず岩田さんの文章が、「伝統」という言葉をどう定義しているか見てみよう。

 「福沢諭吉が異常に目立っているのですが、このような人物を輩出したのも、も

ともと中津に知的伝統が根付いていたからだと思います。」突出して有名になっている(良くも悪くも)福沢個人ではなく、その背後にあった「知的伝統」に眼を向けようとしています。 伝統の実体は(例に挙げられるのは)漢文的教養です。しかし、過去に存在し現在まで残っているものというように伝統を実体的にとらえるのではない。「まったく異なる知的世界を自らの世界に取り入れるためには、自らの知的能力を最大限に問い返す必要があります。その時に日本人にとって助けとなったのは漢籍の知識ですが、おそらくこの知的伝統がなければ私たちは日本語で西洋の文化を取り入れることは出来なかったでしょう。」西欧文化との出会いという危機において他文化を取り入れるのは格闘にも似た必死の営為でした。このような知的格闘を可能にする物を指して、岩田氏は伝統と呼んでいるようです。

(えー枕で、伝統について考えたのは、村田氏の文章が「右翼:進歩派」という図式から始まっていたのでそれを相対化する軸になれば、と思ってのことですが、上手くいきませんでした。)

 で、福田和也は伝統については、「自分が「日本」や「伝統」という言葉を通じて唱えているのは、言ってみればカント的な「趣味の共通感覚」の再建なのだという議論」をしているようです。わたしは福田を読んでないので、村田氏の文章を読んだ印象だけで言うことになります。でも<趣味の共通感覚としての伝統>とはいったい日本に即して言うと、一体どんなものなのだろうか?(セリーヌやバタイユの背後にいたファシズム作家を扱ったのが彼のデビュー作のはず。フランスのような先進国住民においてすら、なだらかに現象するかに思いきややはり伝統という名に於いてファシズムが呼び込まれてしまう、というのに。)

福田は一貫して、左派や市民主義に巣くう無自覚なナショナリズムが、欺瞞的な自己正義しかもたらさないことを批判してきました。しかしその一方で、小林よしのりや「新しい教科書を作る会」に見られるナショナリズムが、戦争の実体を正視できず、責任を欠いたものであり、弱者のルサンチマンにすぎないと指弾することも忘れませんでした。左右の対立は、所詮見かけ上のものにすぎず、「弱者のナショナリズム」「似非ナショナリスト」としてどちらも厳しく斥けなければならない。(村田)

わたしはこの福田氏の主張に賛成です。村田さんは理解を示しつつ搦め手から無化しようとしているようです。

 翻って、福田の擁護する「日本」や「文芸」というものへの批判も、この「ナイーブ」から始まるようにも思います。なぜなら福田の「ナショナリズム」や「伝統」に対して、「ナイーブ」さが実質を持たないとは言えないからです。福田は、この手の「ナイーブ」こそが「国を危うく」するのだと危惧するのでしょうけれど、しかし一体何が悪いのか。かつてスガ秀実は、歴史論争での左翼には「亡国ナショナリズム」が足りないと言い放ちましたが、ここはもっと縮めて単に「亡国」を意識するのみでしょう。「ナイーブ」が「亡国」をもたらそうと、それでも結構ではないか、と。それに対して福田がせいぜい「フィクション」としての「伝統」に依拠し続けるしかないのなら、それは例えば三島由紀夫の反復を超えるものではありえません。そして、その三島であってさえ、いわば戦後的「ナイーブ」に敗れたのではなかったのでしょうか。(村田)

 最後に村田氏は自己の立脚点として「ナイーブ」を持ってくる。三島の敗れた戦後的「ナイーブ」とは、欲望自然主義による国家の無化であったでしょう。

しかしそれが、国家の無化ではなく不可視化にすぎなかったことはいまや明らかです。いまや「自衛隊が日本を守る」という近代的「軍-国家」観がおおぴらに復帰している。村田氏はそれに向き合い対抗するのに、自己身体の肯定だけでもって足りると考えているようです。それはこの文章では展開されていないので、今後の課題ということになりますね。

 ナショナリズムに対しどういう立場を取ればいいのかわたしにも矛盾があります。

「わたしという抽象的普遍的消費主体が国家の外に存在してる」と考えるのは不当だ、と保守派は言う。野原が思うにこれは認めざるを得ない。「自己/国家」という2極で考えるとアポリアから抜け出られない。「自己/天あるいは理」という2極でまず考えるべきだろう。とりあえず、大事なことは日本と韓国/朝鮮、台湾/中国との国境を下げることだろう。

まとまらない文章で恐縮ですが、感想… まで。

  *  *  *

恥ずかしながら

本に埋もれて暮らしていますなんていっても大層なことではなく、手に取る本に比べて読み終わる本が少ししかないというだけのこと。今日掃除(万年床を上げて掃除機を掛けるだけ)するといつものように二十数冊積み上がった。

 そこで六月からの読書計画*1

1.ルカーチ『若きヘーゲル下』

これは図書館から借りる。上は少し読んだだけだが下だけで良いことにする。

2.ヘーゲル『哲学史講義 下』今見るとアラビアの哲学からシェリングまで全部入っているから読んで損はなさそう。

3.本居宣長『古事記伝』 文庫本をそろえなければ…

4.『山崎闇斎学派』

5.漢文入門(いつまで言ってるのやら)

6.相良『伊藤仁斎』(図書館から何度借りても読めない)

7.ラシュディ『真夜中の子供たち 上・下』最近ブックオフで購入。(気が向けば読む)

他・上野千鶴子他『当事者主権』(買おう)

それ以前に読めそうなもの

・中山元『始めて読むフーコー』

・子安宣邦『日本近代思想批判』岩波現代文庫

・宋斗会『満州国遺民』isbn:4833105225

・松沢哲成『天皇帝国論批判』れんが書房新社(古本屋で購入)

・吉本隆明『「ならずもの国家」異論』

・仲能健児『インドにて』幻冬社文庫(マンガです、読むの忘れてた。傑作のはず。)

『デリダを読む』情況出版もせっかく持っているのだから少しは読もう。

本を読むなど愚かなことだ。ぼたん雪が舞っている。「 太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪ふりつむ。(三好達治)」みたな立派な雪だ。ここでは積もらず溶けていってますが。木の葉の上にだけ積もった。

*1:3/21までは、バタイユ/ヘーゲル/デリダを少し、それ以後は松下昇を読む予定

浅田農産の卵って

10個230円もするブランド品なんだと聞いて、へー。

墓は不可避のものだ。裸体にすることも、劣らず不可避のことだ。(バタイユ)

(註:意味不明な引用)

政治でも哲学でもなく

自分の思惟を言表せんとしたわたしは、どうしても哲学様式をとるほかなかった。だからと言ってわたしは、哲学者たちに語りかけているのではない。*1

巨大な“革命を怒号する騒乱”であった全共闘運動期に<何をどのように変革するのか、自分一人で表現せよ>と小さな声で語った松下昇は、造反教官とか革命者とか呼ばれもした。活動家や政治家のようにみえたとしてもそれは彼にとって“強いられた仮装”だったにすぎない。それが真に新しいものであるなら既成の政治や哲学の文法では語り得るはずもない。“あらゆる詭計、術策、擬態”を持ちいて書いたバタイユと、彎曲という言葉や<>という記号を用いて書いた松下は、意外にも近いものを追求していたのかも知れない。

*1:バタイユ「瞑想の方法」『内的体験』の「沈思の方法」のことだろう。デリダp191『エクリチュールと差異下』から孫引き

逆らう

方法とは、習慣的な規律のゆるみに対して加えられる暴力を意味する。

(略)

方法は流れに逆らう泳法だ。流れこそは人間を辱める。流れに逆らう手段は、それらがより悪しきものであればあるほど、わたしにはいっそう楽しいものだと思えるのである。*1

*1:p56バタイユ『有罪者』現代思潮社

脱北できなかった脱北者

http://www.asiavoice.net/nkorea/bbs/wforum.cgi?no=406&reno=392&oya=392&mode=msgview&page=0

朝民研掲示板から貼ります。

「野口さんといっしょに拘束された二名の脱北者を中国当局が強制送還してしまったようです。迫害のおそれがある場合は強制送還してはならない、というノン・ルフールマン原則に反する措置です。

http://www.mainichi.co.jp/news/selection/archive/200403/10/20040310k0000m040115000c.html 」

「2人は、60年代に帰還事業で北朝鮮に渡った50代の男性と40代の女性で、日本に帰ろうと昨年11月末に中国に脱出。東南アジアで保護を求めるために移動中の12月10日、南寧市で支援に当たっていた基金の野口孝行さん(32)=逮捕、こう留中=とともに拘束された。基金や日本の親族らは「送還されれば、生命の危険がある」と釈放を訴えていた。(上記毎日新聞より)」

 日本政府は「帰還事業で北朝鮮に渡った元在日朝鮮人」であれば、日本への受け入れを認める、やむを得ない場合はそうしても良い、という基準を持っているようです。ただし国際的にも国内的にも内緒にして行うことになっている、ようです。内密の内に帰ってきた方はすでに数十人いると言われています。何故内緒にするのか。国内において、受け入れろ!という声より受け入れるな!という声の方がずっと大きいから、というのも大きな理由の一つでしょう。脱北者の受け入れに日本はもっと積極的に成るべきだと思います。

削除します

昨日「波状言論」への悪口を書いたがイマイチなので削除しようと思った。なにげないワルクチというものは感心しない、批判するなら20年経っても忘れないほどの思いでやれ、と思うので。ただ今見ると「波状言論」からのリンクが28もあるので一応残しておきます。似たようなことはできたらまた書きます。

世捨て人(削除予定)

入金したので「波状言論05号」、とか言うのをメールしてきた。1/4ぐらい斜め読みしたが、北田氏と東氏若いのに昔語りなんかして うーん みっともないんじゃないの。要は自分の思想の核がないんだろう、だったら学問だけしとけ。

まあ野原の如き世捨て人がこんな雑誌読むのが間違いだが。