弱者の最終解決

http://www.arsvi.com/2000/03073101.doc によれば、

警察庁調べ(検挙件数)で、平成14年度  殺人197(120)傷害1250(1197)暴行219(211)  という件数が挙がっている。( )内は「うち夫から妻」。いわゆるDV*1被害者である。わたしはDVのことをよく知らない。ここでは上記urlを読んで感じたことだけを極めてかたよった角度から語らせてもらう。パレスチナやイラクでは沢山人が死んでいるが、日本人が死んだだけで大騒ぎする。実は国内でもたくさん人は死んでいる(むごたらしく殺されている)であっても大きく報道されない<死>たちは私たちの意識には上がらない。かりに考えようとしてもどのように考えたらいいか分からない。ここで挙げられた120人の女性と77人の男性の死。警察庁の把握する「配偶者からの殺人」とは、いわゆるDV以外のものも含まれているのか、その点はよく分からない。平成10年から189,170,197,191,197と数字はほとんど定常的に並んでいる。より軽度な犯罪である傷害、暴行が4年間で4~6倍というありえない増大を示しているのと対照的である。この増大は“家庭内には国家権力は介入できないとする常識”がDVの啓蒙により崩れてきていることを示しているだろう。統計図表上著しい偏差はもう一つあり、被害者が女性である率が殺人では61%なのに傷害暴行ではいずれも96%と大きな差がある。そもそもhttp://www.arsvi.com/2000/030731kr.htm に書かれていたこの差に注目したのがこの文を書くきっかけになったのだ。そもそも「被害当事者の95~97%は女性」である。ところが殺人においてだけは4割つまりほとんど半数にせまる割合で、(おそらく)それまで長い間加害し続けてきた男性が殺されている。*2

一般にミクロな権力関係は「服従せよ、さもないと(鞭で)打つぞ」という脅かしにより、成立する。それは、(かならずしも不可能ではない)反抗をしないという選択を服従者がなすことによって成立している。DVの場合、反抗に対してはより大きな暴力が加えられる。反抗は不可能に見える。ところが服従していても暴力は加えられる。これでは服従の意味がない。したがって加害者を殺すという究極の選択がクローズアップされ、それはしばしば実行される。

ナチ、シオニスト右派やネオコンは最終解決という思想に引きつけられている。しかし「最終解決」は弱者の思想であり、権力側がそれを行使するとき世界は破滅する。

*1: ドメスティックバイオレンス(DV)を直訳すると「家庭内暴力」となるが、日本ではこれまで子どもが親に振るう暴力を「家庭内暴力」と呼んできたことから、それと区別し「配偶者・恋人など親密な関係にあるパートナーからの暴力」と解することになっている。 http://www.arsvi.com/2000/030731kr.htm

*2http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/tokyo4.html#natasha ちなみに、松下昇氏のこの文章では、タイ人女性が売春強要したボスのタイ人女性を殺した事件を扱っている。被害と加害の逆転という点で同じである。

近代思惟はあった、中国にも

 前にも書いた島田虔次『中国における近代思惟の挫折』上・下*1をやっと読んだ。この本は1949年著者31歳の時に出版されたものだが、以後長い絶版期間なども経つつ、著者が3年前に亡くなった後今年6月と9月に東洋文庫から新たに出たもの。(ジャンルがマイナーですが)戦後が若い頃の熱気むんむんの名著といえるでしょう。図書館に返さないといけないのでなにか書いておこう。さて、

・「人間史の近代(近世)という普遍から特殊中国を見る、という大きな構想のもとに、陽明学が宋学の全展開の極限であり、それが最後に行きついたところには、西欧のいわゆる「近代精神」「近代原理」をも萌芽的には認めることができる(ただしそれは最終的には「挫折」したのであるが)というきわめて大胆にして独創的な主張をなすものであった。」と井上進氏は、この本の根本をまとめている。p273下

・この本は細部に沢山誤りがあった、ということ。強調されるべきはその訂正方法である。原文をそのままにして、誤りあるいは説明した方が良いと思われる部分には註釈者(井上進氏)により補注を付ける、という方法をとっている。どんな本でも、誤りがあったとしても、それも含んで一冊の本として産みだされたものなので、その部分だけ器用に直してまたはめ込むというのはとても困難なことです。であるのになぜ「補注」形式をとる人が少ないのか?やはり著者、出版社というものは、自己の誤りを認めるよりはそれを隠し通したいという権威主義にどうしても流れてしまうものだ、ということだろう。ところで権威主義の権化のように思われている朱熹などは、そういう雰囲気とは対極的で友人たちとの対等なサロン的雰囲気において学を形成したらしい。

・31歳の青年が自己の全存在を賭けて書いたこの本はほとんど反響がなかった。そうなったのはある意味しかたない、と井上氏は言う。「ある社会において旧来の標準的理解を超える新しい意見や見方が出現した時」学界でもどこでも、ただしく評価されることなどありないのだ、と。*2なるほどー。ただまあ考えてみれば、江戸時代の日本に大きな影響を与えた明清時代の中国文化などに対して明治以来わたしたちは無視、という態度を取ってきた。西欧の文化・文明を基準にし日本文化の中でもその基準に当てはまりそうなものだけを拡大してあとはなるべく無視するというオリエンタリズムというパラダイムのなかにいたからだ。日本文化だけは例外的に西欧化への道をたどれるだけの素質があったが中国なんかは・・・、というわけだ。中国文化は無視というより、停滞を運命付けられたという否定的評価をあたえなければいけないものだった。そして日本は戦争に負けたのに、中国に負けたとは思わなかったからそのパラダイムは変化しなかった。全体が歪んでいるのに学界だけがまともであれるはずもない。

・戦後の論者は、儒教と聞くと教育勅語的暗い感じでだけ、つまりネガティブにだけ捉える人が多い。しかしわたしはそうではない。と島田は書く。「孟子、王陽明、黄宗義などの熱烈な儒教徒に対して満腔の共感をおぼえたことを否認するわけにはいかない。その共感のつよさは、儒教的思想家への讃辞はかならずただちに彼らの制限を指摘することに依って帳消しにしなければならぬ、というわが学界のエチケットをさえ、余りにしばしば失念させるほどのものであった。*3」ここからは、オリエンタリズム(西欧文明に対する奴隷根性)に浸された常識人たちに対しての痛烈な皮肉と(おそらく)その裏の孤独感がうかがわれる。

・島田は西欧一辺倒でも儒教護教派でもない中庸だったのかというとそうでもない。むしろ両方である矛盾だった。一方ではヨーロッパ近代に対するはげしい傾斜。「ヨーロッパ(風な近代)として中国文明が開化しなかったことに対する無念の情を強く感じていたことは疑いない。純粋に精神的な、霊的な恋愛、絶対超越者への魂の沸騰、そんなものが、いったい、中国にあったか。あるのはただ分別くささのみではないか。*4」一方では、魯迅の儒教文化に対する激しい糾弾にちゃんとうたれつつも「私は中国文明、儒教の文化、あの骨ぶとの文化に対して、ふかい畏敬の念をぬぐいきれなかった」といけないことであるかのように書く。「産業革命以前においては中国の方が総体的にむしろ先進国であった」「たとえば、人民の日常生活の利便の程度、都市生活の諸相、生産や運輸の道具や形式、精神生活の多彩さの程度などについて、知れば知るほど、中国の先進性を実感しないわけにはいかない」*5島田の立場は、かって(彼がこの「あとがき」を書いているのは1970年)科学的歴史学(生産関係が全てを規定する)によって否定された。科学的歴史学なんてものはいまは誰も高唱しない。人殺しシャロンと同程度のカーボーイ、ブッシュの時代になり、西欧近代の限界は多くの人に明らかに成りつつある。だが、一方「知れば知るほど」という条件が今日ほど失われた時代もない。

*1:平凡社東洋文庫 ISBN:458280716XISBN:4582807186

*2:p274下

*3:p262下

*4:p262下

*5:p263下

弱者の反抗可能性

前日(12/23)に書いた「弱者の最終解決」は訂正していきたい。趣旨は以下のとおりです。

「弱者の最終解決」について、ある方から論旨不明と言われた。(感想ありがとうございます) おっしゃるとおりである。短い文章に異質の多くのことを詰め込みすぎて意味不明になっている。書き直した方がよいだろうが、とりあえず、モチーフをどんどん列挙しておこう。

  1. DVで殺される日本人は毎年200人いる。
  2. 日本人が殺されてもそのほとんどは社会的にニュース価値がないとされ、わたしたちの問題意識に上がらない。
  3. DV犯罪の表をながめると一つの特異性に気づく。DV被害者=女性であるのに(例外は4%)、殺人の場合被殺害者の4割が男性になっている。
  4. これを理解するためには、ある種のゲーム理論が有効である。(B=弱者、A=強者とする)
  5. 一般にBがAに服従するとはどういうことか。(この場合服従という関係性が悪であるとも善であるとも見なさない。上司への服従はむしろ善であるが。)服従しない場合、AはBに罰を与えうる。普通は「与えうる」という理論的可能性だけで服従は継続される。二人の間における関係をゲーム理論的に考えてみましょう。
  6. http://member.nifty.ne.jp/ysakurai/ にある、桜井芳生氏の「フーコー的権力論を語りたくなる状況に関する、 非フーコー的権力モデル -続・ナッシュ(ハーサニ)交渉解援用による、権力と意味の一モデル-」という長い題の文を前日読んでいたのでこういったことを考えたのでした。
  7. (モデル1)Bは常に反抗可能性を持っている。であるが実際には反抗せず暴力は顕在化しない。Bは(長い間)服従状態にいる。だが次の瞬間、Bが反抗する可能性は存在する。
  8. この(モデル1)は、DVには当てはまりそうもない。DVにおいては最初から暴力は顕在化しているからだ。
  9. (モデル2)Bもひょっとしたら反抗可能性を持っている。であるが実際には反抗できるとも思っていない。Aの暴力は最初から激しくBを無気力化するという効果を生んでいるから。Bは(長い間)服従状態にいる。だが次の瞬間、Bが反抗する可能性は存在する。
  10. この場合Bの反抗はAの暴行をエスカレートさせるという効果を生む。したがってBの反抗は理性的ではない。しかし反抗しないでも、暴行のエスカレートが生まれることがある。この場合反抗しないことに理性的根拠は無くなる。理不尽な暴力はBを無気力化し関係は長期化する。不思議なことに、関係から逃げることをBは望まない(らしい)。
  11. BによるAの殺害は何を意味するのか。離婚別居といった水平的な逃亡ではなく、関係自体の抹消、垂直的な道が選ばれる。(このことの意味はよく分からない)いずれにしても確かなことは、(モデル1)に比べてもはるかに希少だと思われた反抗可能性が存在したことが強力に判断できる、ということである。
  12. 前回の文章の分かりにくい原因の一つは「最終解決」という言葉に引きつけられてしまい論旨が乱れた点にある。この言葉は一旦削除する。
  13. いままで書いたことは、二人の間の人間関係の話である。したがってイスラエル/パレスチナといった固有の歴史と数千万の人々の存在が関わる話とはレベルが違う。安易な適用は慎むべきである。しかしながら、「暴行のエスカレート」といった事柄を考えようとするとやはり、イスラエルを思い出してしまう。(モデル3)を記述してみてから、ミクロとマクロはやはりレベルが違うのかどうか考えてみよう。
  14. (モデル3)Bは反抗可能性を持つ。Aの暴力は最初から激しいがBを無気力化するという効果は生まなかった。むしろ効果的だったのは「言葉の上での和平や合意」、Bの総体ではなくボスたち(アラファトたち)だけへの懐柔だった。「和平という言葉」によりAは有利な立場を得る。だがAの思いこみの中ではBはそもそも存在すべきものではない。この場所は神によってわれわれに与えられた荒れ地でなければならない。したがって、Bが存在するならそれはテロリストという呪われたカテゴリーにおいてでなければならない。AはBを挑発し、Bは反抗する。
  15. モデル1と2では、長い服従が続いた後、それでもBの反抗(可能性)が存在するのだ、というのが論点でした。(モデル3をDVに対比的に考えると、イスラエル建国からの50数年はDVであれば最初の2,3日に当たるのかもしれない。)わたしのモチーフは反抗可能性の存在を言挙げすることにあるので、その意味からは、モデル3は最も強力な傍証となる。

(問題点)ゲーム理論的発想とは何かについてわたしはよく分かっていない。ゲーム理論的なものは思想的に正しくないのではないか? という疑問に答えられない。

かんにんの四字

…『雲萍雑志』の原文ではこうである。 「ある人、文盲なるものを異見して、世の交はりは、他の事はいらず。唯堪忍の二字 をよく守るべしといへば、文盲の人は、頭をかたむけ、かんにんとは、四字にて侍ら ずやと、指をもてかぞへ、御許にはおぼし違へなるべし。かんにんと四字にて侍ると いへば、異見せし人云ふ。愚昧の人かな。堪忍とはたえしのぶとよみて、二字なりと いへば、またかうべをかたむけ、たえしのぶならば、又一字ふえたり。五字となり侍 るべし。何と仰せありとも、我等は四字とおもひ侍れば、四字にてかんにんはいたし 侍るなりといへるに、その人また云ふ。汝が如き愚昧の文盲は、実に諭しがたし。人に似て虫同様なり。おのれがまゝにすべしと、大にいきどほりければ、文盲の人笑て 何とも仰あるべし。我等は、かんにんの四字を知り侍れば、悪口せられても、少しも 腹立ち侍らざるなりとて、笑ひ居しとぞ。その智には及ぶべく、その愚にはおよぶべからず」裏モノ日記 2003年12月

http://www.tobunken.com/diary/diary.html にあったこの笑い話は面白い。ある!ある!いまでも、という感じがするからだ。教師といったものはとかく謙譲の美徳とかそう言ったことを言いたがるが、自身は臆病さの鎧を着た自己愛の塊であり他者のことなど全然見えてないことが少なくない。その点庶民(被抑圧階級)は自己なんてものを出そうならたちまちそれは否定されるということなど骨身に染みて分かってるわけだ。というわけでインテリは自己否定を、庶民は反抗のTPOを学ばなければならないわけだ。

弱者とはだれか?

12/25の「弱者の反抗可能性」に対して、またAJさんが「疑問」を届けてくれた。了解を得たので下記にコピーペーストします。*1

ところで、訂正文を読んで以下の疑問が又、湧いて来たので記してみます。

1)弱者とはだれか?   権力関係で、支配、服従、隷属・・を強いられる存在はたしかに、強者に対して弱い位置にいる。しかし、夫婦関係それに準ずる関係ではいくら封建社会においてでもふたりを権力関係とは呼ばないでしょう。つまり、弱そうにみえる位置をとりながら<弱い>ことを武器にして支配的になることも可能なので女性の関係技術のひとつでしょう。強い夫の方が結局は従属していることもあり、強弱は判定し難い。

2)Dvの場合、夫の暴力ははじめから、といううわけでなく、必ず蜜月があるようです。そして、それがサイクルになつていて激しい暴力の後必ずまた、蜜月が来る。ここら辺りが被害者に見える妻が逃げたりしないメカニズムとなっているのではありませんか?

3)しかし最期に妻の側から逆襲が起こる。これは「反抗」と呼ぶよりは妻からの「宣言」ではないでしょうか?と言うのは、そもそもDv的夫は関係意識の底の方で他者性に欠けており、自分と妻の区別がなくてふたりの一体化を思い込んでいて妻は自分の一部だと感じているのでは?従って妻が他者として現れてくることに耐えられずメッタ打ちをやって否定しようとする。やられる側は、場合によってはそれが気持ちいいこともある。しかし度を越せば「宣言」へ。なにのマニフェストかと言うと妻にとつて夫は不可分のもの。つまり、殺すことで自分化-永遠化させる働きを持たせるのでは?結局ふたりは共に他者性に問題がある、といえる。

4)3のスキームはイスラエルがパレスチナの地を自分のものと思い込んで先住民を差別支配するのに擬似しているが、DVと決定的にちがうのは性的関係では反発と見えて引き合っている複雑さが必ずあります。<愛憎>といえる両義性が個的な関係では必ずあります。国家レベルでは少ない。

5)従って、「弱者の反抗」というべきメカニズムはDV関係ではあり得ないのでは?

6)本来的な「弱者の反抗」はどこに存在しているか?・・はまたの機会に。(以上AJさんからのメールより)

*1:「了解を得たので」と書くと、了解を得なければコピペしないという原則を持っているようだがそうでもない。私信はともかく、ホームページや公刊された本などについての著作権侵害は緩やかに考えて良いと思う。一般人(って変なことばだが)同士の場合、この程度のサイトでも相手がサイトを持ってなければ、私の方が情報強者である場合もありうる。そういった問題への配慮は必要になるだろう。

他者

他者といっても自己と全然別のものではなく、本質的には自己と同じものなのです。*1

『精神現象学』は面白くないこともないのだが、読むのに時間がひどく掛かるのが困りもの。長谷川宏訳作品社(isbn4-87893-294-5)で、読んでます。なんとか読了したい!すこしずつメモをつけてみようと思う。

 他者が自己と同じ、だなんてそんなことを言われても日常感覚としては納得できない。だがまあ儒学では、世界は<理>であり自己の根拠も<理>であるのだから同一性が支配している。それに比べると、ヘーゲルでは他者~否定性が最後には消滅する(のだろう)が、この分厚い本を通じてずっと大活躍し続ける。というか儒学では二千年経っても、仁、理、気、性など十いくつかの言葉があるばかりで、カテゴリーのダイナミズムやドラマがほとんどない。この本は同じく同一性の勝利に終わるはずなのに、まったくそう思わせない、むしろハラハラドキドキこれでもかいわんばかりに葛藤が出てくる。これは、なまなましい他者との葛藤をあつかった戯曲、小説たちが(ある変容を施しただけで)そのまま哲学として、取り上げられていること、からくるのだろう。アンティゴネ、ヴィルヘルム・マイスター、ファウスト、群盗、ドン・キホーテ、ラモーの甥、あるいは革命、ナポレオン、イエス・・・

*1:金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』p128 isbn:4480082905

食欲

 われわれが食物に面し、それをとって食べるさい、食物が自我に対立し自我から独立して絶対におかすべからざる他者性をもつと信ずるとすれば、とって食い自己化し得ないが、他者にちがいないとしても、自我に対立するだけの力をもたず、無力であると自我で確信しているからこそ、とって食べることができるのです。この意味で根底に無限性の立場をとる自己意識であってはじめて欲望を持ちうるといえます。*1

バタイユ、ラカン以後わたしたちの時代はまさに欲望の時代だ、といいうるだろう。ヘーゲルの欲望はそれとは違いそんなにギラギラしていない。金子氏のこの文章を引用したのは目の前の一切れのパンを食べることが、“根底に無限性の立場をとる自己意識であってはじめて”可能だ、という大袈裟さに落語的おかしさを感じたため。

*1:金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』p129 isbn:4480082905

生命

長谷川訳のヘーゲルをちょっと引用してみよう。

まわりの生命界から栄養を奪いとって自己を保存し、自己統一の感情に浸る個体は、この行為によって、自分の自立の根拠たる他との対立を克服する。自己統一を自覚することが、まさしく、他との区別を流動化することであり、形態が一般的に解体することである。が、個の自存状態の破棄されることが、逆にそれがうみだされることでもある。というのも、個の形態の本質たる生命界の全体と、自立した生命体とは、もともと単一の存在であって、生命体が自分とは別のものをとりこめぱ、この単一の本質が破れて分裂が生じるのだが、こうして、無差別の流動状態に分裂の生じることが、まさに、個が形成されることにほかならないのだから。このように、単一の生命界は、分裂してさまざまな形態をうみだし、と同時に、自存する区別を解体していく。分裂の解消がさらなる分裂と分化なのだ。運動全体のうちに区別される二つの側面--自立した共通の媒体のうちに静止して共存する形態と、生命の過程--がたがいに浸透しあっていて、過程が形をなすとともに形をこわしていき、形は形で、こわれたかと思うとまたできあがっていく。流動する場というとらえかたは生命の本質を抽象化したもので、形をなすときはじめて生命は現実の生命となる。そして、それが部分にわかれるということは、部分がさらに分裂することであり、部分の解体にほかならない。まさにこうした循環過程の全体が生命をなすのである。*1

例えば、我々自身も生物の自立した一個体でありながら、他の生物を食べることつまり、<生命界>との連続性を確認することによってしか生き延びられない。生命界は絶えざる分裂と分化でありまたそれと同時に、「生命の本質は、すべての区別を克服していく無限の、純粋な回転運動--静止しつつたえまなく変化する無限の運動--」でもある。生命界における多様な力の葛藤が総体としてある均衡において一つの世界として語りうるものになる、という思想は儒学的だ。儒学においては生命界におけるエコロジー的絶妙なバランスがむしろ人間社会の理想モデルになる。<生命>はヘーゲルにおいては体系の最初の方に出てきて、つぎに出てくる<自己意識>によってあっさり否定される。この二つのカテゴリーは王陽明の「心即理」に似ている(もちろん「理=生命」「心=自己意識」)が、王陽明にとって「理」が最終のカテゴリーとしての権威を失うことはなく、唯一の我が心はなるほど全肯定されるのだが聖人のそれと同一として理の側に引きつけられた上で肯定されるにすぎなかった。前項「食欲」で書いたように日常生活のなかの些細だけれどえげつないと言えば言える否定性みたいなところに執着するというのは哲学者ヘーゲルの偉大なところだ。

*1:p125『精神現象学』長谷川宏訳作品社(isbn4-87893-294-5)

不幸な意識は幸福な理性へ

「自己意識」の章が難解だが刺激的なのに比し、「理性」章(のはじめ)はつまらない(だがその分今までよりはだいぶ早く読める)。長谷川氏によれば、「不幸な意識がどのように分裂を克服したのかは説明されないまま、「B.自己意識」から「C.(AA)理性」に移ると、不幸な意識は幸福な理性にうまれかわっている。」*1これまで外界が、自分の独立と自由を否定するかに思っていたのに、もはや平静、「現実の一切が理性以外のなにものでもないことを確信する」に至る。まだ161ページ、1/3弱のところでそんなことを言って後が続くのか心配だぞ。この理性の勝利と「わたしはわたしだ」という命題が同義だとされる。解説によればこれはフィヒテ哲学の核心なのだと。で、「C.(AA)理性」はABCに分かれ、最初の「A観察する理性」(168~236)は当時の自然学の理論をなぞり批判しているだけでつまんないと長谷川氏も言っている。とっとと読み飛ばそう。

*1:p135長谷川宏『ヘーゲル精神現象学入門』isbn:4062581531

人生は偶然か

・・有機体は、偶然のつながりのなかで生きているかにみえる。*1

見たところは偶然に見えるが、本当は「自己保存の必然性」という本質をもっている、とヘーゲルは言う。でもこれは現実が自分の理論に当てはまっていないのにむりやり理論を優先させて、レトリックで誤魔化しているところだ。

・・有機体が行うことは、一般的な概念の埒外にあり、その直接的内容からするとまったく法則性がないものである。だから、その行為には内容もなければ効力もなく、機械の働きにも及ばない。*2

ここはけっこうクリティカルな部分だ。一般に人間のやることは、機械や動物よりも偶然性やデタラメ性が強い。一面ヒューマニズムの代弁者であるはずのヘーゲルはしかし偶然性を許容できない。しかし機械の方がまし、と言ってしまえば、恐怖の全体主義国家主義者ヘーゲルになってしまう! フランス現代思想がjeuとかいうのはこういうところからきていたのか。ところで偶然とは何か?

ところで、AJさんへの応答と「主と奴」レジュメが遅れています、すみません。

*1:p181『精神現象学』

*2:p182