遠くの金正日

 えーちょっと、北朝鮮問題とかを考えないといけないのだが、気分が乗らず、まだ考えていない。雑誌『RENK』が送られてきてからだいぶ経つのにまだほとんど読んでない。表紙はなんと1997年に「万景峯’92」号に海上、小舟で接近し、「北朝鮮民主化支援連帯・金正日政権打倒」のアピールを行ったときの写真。6年たち猫も杓子も「反金正日」で盛り上がってるがおまえら6年前はなんかしてたの? という強烈な自負をさりげなくアピールしている。

彼の情熱に共感した在日韓国・朝鮮人と日本人が結集し、1993年6月3日、大阪で結成集会を開き、大阪市内をデモ行進をして、「北朝鮮政府はいますぐ強制収容所をなくし、すべての“政治囚”を釈放せよ!」「帰国者(在日朝鮮人/日本人家族)の自由往来を認めよ!」「国際人権規約を遵守し、言論・出版の自由、集会・結社の自由を保障せよ!」という声を挙げて、RENKの運動がスタートしました。

これはRENKの話で野原が北朝鮮に関心をもったのは、去年5月からです。

「最も深い惨劇は目に見えない」というタイトルで発言しています。

http://bbs9.otd.co.jp/908725/bbs_plain?base=84&range=1

「瀋陽総領事館駆け込み事件」で領事館の塀のところでウロウロしていた幼児は、キム・ハンミというらしい。彼女は国境ではないが、国境に類するものつまり領事館の塀(境界線)を越えること(侵すこと)によってはじめてわたしたちにとって見えないものであることを止めた。

サバルタンはどのようにして可視化するか、の例としてその少女をとらえたのでした。

http://www.bekkoame.ne.jp/ro/renk/  RENK

苦しんでいる子供たちのために金正日を助ける

わたしの参加している“受け継ぐ会”MLで、『「戦争につながる経済制裁をせず、拉致問題を平和的に解決すること、そして日本が植民地支配の責任を果たして日朝の国交正常化を実現することを政府に求める共同声明」賛同のお願い』という長い題のお願いが流れた。下記にあるのと同じものだ。

http://www1.jca.apc.org/aml/200311/36622.html ( 15 Nov 2003 )沢田ひで子氏の表現のようだ。

このような趣旨の発言は以前もあったように思う。いまごろの「左翼」のなかではこれに反対するのは少数派なのかなあ、と疲労感を予め感じてしまい、そのときは反応しませんでした。別の事情もあったので今回短い応答をしてみました。下記に貼ります。

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YYさま はじめまして。 野原燐といいます。

「北朝鮮への経済制裁に反対する声明」についてのメール読ませていただきました。 経済制裁については申し訳ないけれど是非についてはっきり意見を言えません。また学んでいきたいと思います。ただ以下の点について、意見、質問を持ちましたので僭越ですがメールさせていただきます。わたしは「救う会」周辺の一部が偏狭なナショナリズムをあおり立てていることを大変不快に感じています。しかしこの声明は「彼ら」(あるいは)「(好戦的な)アメリカ」「(反省をしない)日本」といった大文字の敵がまず措定されていて、それに対抗するためにはどうするか、という二項対立図式が全てを支配しています。この図式の中では「金正日政権の悪」というものは、たとえ在ったとしても、どこにも位置づけようがなく結局無視されてしまいます。大なり小なり苦しんでいる北朝鮮人民の立場に想像力を及ぼすこと、から最も遠い営為になってしまっているのです。

1.「拉致問題を平和的に解決すること」がまず考えられなければならない大事なことなのでしょうか。拉致問題が大事な問題であることは確かですが、それと同じように大きな問題は日本-北朝鮮間にたくさんあります。一つは、1959年からの帰国事業で北朝鮮に帰っていった約9万3千人の人々です。もちろん現在も北朝鮮国内で元気に活躍されていることが確認できる方も多いのですが、一方連絡がつかなくなった方も多いのです。その中には強制収容所に入れられている方や飢えから逃れるため国境を越え中国に潜んでいる方など緊急な援助を必要とする方もいます。後者の問題に目をつぶり拉致問題から発想するのはバランスを欠いていると思います。

2.>>>>今、「北朝鮮」には、食糧不足のため、栄養失調に苦しむ子どもたち、その果てに死んでいく人々が多くいます。その「北朝鮮」に物やお金が入らないようにする、封じ込める経済制裁をおこなったら、いったい、どのような事態になるのでしょうか。<<<<

アマルティア・セン氏の研究によれば、大量の餓死者の発生の原因は、その国家全体の食糧不足によるというよりも、分配の不公平性(を是正できない権力の遍在)による、ということです。伝えられているように1995年以降、約200万人(以上?)もの餓死者が出たとするなら、その原因を「食糧不足」という一見ニュートラルな言葉に求めるのはかえって誠実さを欠く態度ではないでしょうか。その責任が金正日政権にあると考えるのが妥当でしょう。「いったいどのような事態になるのでしょうか」と書かれていますが、「経済制裁無しで大量餓死者が出たのかそうでないのか?」事実認識をまず確認しておかないと、議論がはじまりませんね。

3.金正日政権打倒を唱えるのはいけないことなのでしょうか?

4.>>>>しかし、それは、日本が、その植民地支配責任を果たすものとしてある日朝国交正常化を実現していく中でこそ、解決に向けた道が再び開かれてくるものだと思います。拉致の事実を一切認めてこなかった朝鮮民主主義人民共和国政府が、初めてこれを認め、謝罪し、解決の方向に大きく動き出したのも、日朝の国交を正常化することを前提とした交渉と会談の中においてのことでした。<<<<

「日朝国交正常化」は金正日政権にとってその政権の延命のために行われます。したがって、「日本が植民地支配責任を果たす」といってもそれは建前だけで良く、要は政権に膨大な援助が入ればそれでいいのです。そんなことでは、北朝鮮人民への責任を果たした事にもならないし、日本人が加害責任に向き合うことにも繋がりません。5.>>>> 日本が、それら植民地支配によって朝鮮の人々に与えた被害に対する責任を果たすことによって、日朝間の正式な国交関係を結び、国交正常化を実現することは、植民地支配をした日本の側の責務です。<<<<

 繰り返しますが、「日朝間の国交正常化を実現する」という手段によっては、「日本が、それら植民地支配によって朝鮮の人々に与えた被害に対する責任を果たす」ことはできません。国家と国家の間のボス交によって巨額の金銭が行き来するだけです。               野原燐

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声明と声明批判

下記に声明「イラク戦争と日朝関係」がある。署名は和田春樹(歴史家)ほか著名人103人。 (2003年4月9日)

http://www.wadaharuki.com/seimei20030409.html

それに対する批判、(2003年4月22日)日本脱北者同志会

http://www.jnkd.com/declaration.htm#wada

(2003年4月20日)北朝鮮帰国者の生命と人権を守る会

http://renk-tokyo.org/modules/news/article.php?storyid=50

沢田ひで子氏に対する野原の批判は、上記の「声明と声明批判」にわりとパラレルなものかもしれない。読み返して考えてみよう、今日は時間がないので明日にでも。

南京・いつまでも

『南京・閉ざされた記憶』という小さな展示を見てきた。えーと1937年七七事変(廬溝橋事件)以後日本軍は華北と上海に軍を展開し、やがて11月上海陥落、12月南京を包囲し、12月13日南京占領となります。このとき、<南京大虐殺>が行われました。“揚子江の河岸に何千という人のかたまり、そこへ向けて、誰彼なしに九二式重機関銃を撃ち込んだんです”というある兵士の証言。“日本兵は私を押し倒し乱暴にズボンを剥ぎ取った。ふとももを両手で開き、指を性器に押し込んでえぐった”という中国人女性の証言。眼を背けるしかない虐殺の証拠がきちんとパネルにされ、58枚整然と並んでいる。

「虐殺は確かに悪かったしかし66年前の出来事をなぜ執拗に反復し続けないといけないのか、日本はもう充分謝った謝り続けてきた・・・」というようなことを言う人がいる。しかしそこには嘘がある。南京大虐殺と名前は有名だが、そこで実際何があったか、きちんとした展示を見るのはわたしははじめてだ。インテリたちは南京ではなくアウシュビッツについて高尚な思索を巡らすことを好んできた、といってもまちがいではなかろう。日本は敗戦国だ、つまり戦争を遂行した価値観というものを根底から覆すべくイデオロギー攻撃が成されたはずだ。子宮に竹槍を突っ込んだものはその事実を頭蓋に突っ込まれるまで宣伝を受けるはずだ。実際にはそうした宣伝はなかった。

欧米の帝国主義秩序への反逆という高い理想を掲げながら、中国娘を強姦し回っていたとはそれだけで圧倒的な自己矛盾である。日本が日本であり続けるためにはその矛盾を直視し乗り越える必要があった。だがそれはなされなかった。日本を占領したのはアメリカ軍だった。ヒロヒトの戦争責任を追及せず占領統治に利用した米軍は、対米敗戦意識を植えつけることには熱心だったが、対アジア敗戦意識を強調しなかった。

主人の語り/奴隷の語り

今日は朝ちょっと家事をした以外ずっと暇でパソコンの前でいろんな本をめくったりしていたのだが、いまいち気分が乗らず一行も書けなかった。

はてなで、http://d.hatena.ne.jp/entre/  「遅ればせの革命」というサイトを発見、面白かったのでコメントしてみた。

# noharra 『!!全国のまつろわぬ日記書きよ!!、と大時代に呼び掛けられ、ふ、不意を突かれて応答してしまおう。例えば「テロ」といった一つ一つの言葉の使用法が、権力行使に必須の言説の配置をいま作っていること、だからそのことに自覚的に一つ一つの決まり文句の使用法をパロディ化することだけでも、大きな抵抗になりうる可能性を持つ。そのように感じ、同感します。“大丈夫、君が心配しなくても、自衛隊は<テロ>では死なない。”自衛隊の先駆けだからこそ殺された二人に対し、テロの犠牲という言葉を使って疑わないマスコミに疑問を感じていたので、entreさんに賛成します。野原燐』

E・サイードは、世界というものはつねに主人の語り(正史)によって作られているとし、それに対し対抗的物語を対置する。(master narrative/counter narrative)*1 そうだったのか、うん。イラクやパレスチナがどういう現実としてわたしたちに認識されているかというと、当事者アラブ人ではなく、欧米の帝国主義的視点からである。例えば「自爆テロ」。占領地における民族解放闘争といった文脈であれば中立的なのに、ことさらに宗教性が強調されたり、自爆という奇形性があげつらわれる。そして平和な市民が殺傷されたことの悲劇性が強調される。<テロリストではない>イスラエル自衛隊が<テロリスト捜索のため>パレスチナ人の家屋を破壊しテロリストではないパレスチナ人を殺してもそれは報道されない。

誰がテロリストであるかを決める権限は帝国主義者の側にある。だが、そう断言してしまったら、歴史や記憶の圧殺を拒否する対抗的物語が正史に一矢を報いる可能性、すらないのではという絶望におちいる。この問題について、希望を与えるのは皮肉にもイスラエル=シオニストたちの言説=宣伝戦略である。彼らは武力行使とともに、言説=宣伝戦略を大々的に展開することにより現在のバランスを(1350億ドルのアメリカの支援)手に入れている。現在の言説の付置は彼らの努力によって歪められた結果である。アプリオリに帝国主義者の側とサバルタンの側が存在する訳ではないのだ。即ち、対抗的物語の側にもチャンスはある。

*1:cf現代思想サイード特集p88

正義の最後の声

サイードの悲報の直後に行われた、イスラエル軍によるガザ地区への大規模な侵攻は、まるでこの世界から正義の最後の声さえ失われたと宣言するかのごとく、暴虐の限りをつくすものだった。ラファから届くレポートのすべてに、過去にも類を見ないほどの破壊の様相のすさまじさとともに、「世界はなぜ沈黙しているのか?」という痛烈な問いかけが書き込めれていた。(浜邦彦)*1

*1:p118 現代思想サイード特集

金正日像を倒せ

今や情勢は決戦の日に向かっていっている。一寸先も予測することができない霧の中の状況ではあるが、正義は必ず勝利するというのは、明確な歴史的真理である。独裁の扉がどれほど高くみえても、一瞬に倒れる紙の帳であるだけだ。そのような日が遠くない将来訪れるだろう。万寿台丘陵に先を争って走って行き、金正日銅像の首に鋼をかけるようになる、その日はくるだろう。

2003年4月26日  北朝鮮民主化前進大会参加者一同(於 ソウル) p121『RENK』24号より

今日会った人からは、「金正日打倒を言うためには、バランス上、日本解体を先にしてから言うべきだ」と言われた。残念ながら余りピンとこなかったが、たかだか自民党政権すら打倒できずに「金正日打倒!」なんて言うのは、たしかにおかしいとは言いうる。ただ金正日の悪(自国民抑圧)は小泉の悪(アジア民衆抑圧の責任)とはレベルが違う、とやはり思ってしまいます。ブッシュは世界中で人々を殺している、なぜ打倒ブッシュを少なくとも同じ勢いでとなえないのか、と聞かれるとうまく答えられないです。北朝鮮問題にはサイードはおらず、言い返すのも困難ですがでもそんなことは大したことではない、とわたしは思っている。

順位の成立条件

徒競争は、童子も売柴人もなし得るところであるはずであり、公卿大夫より天子の尊きにいたるまで平等に同一に為しえるのであらねばならぬ。*1

えー、今日は近くの河原で小学校のマラソン大会がありました。マラソンといっても何十キロも走るわけではなく、1年生から6年生が1キロから2キロを走るものです。でもわたしのように運動全般が苦手なものとっては、2キロ(片道1キロ)といってもけっこうな距離です。最初は一団となって走っていますが後半ではもう先頭からビリまで大変な差が開きます。気が散ってまっすぐ走れない子や足にハンディキャップのある子などもいて、最後の2,3人がゴールするのには、それまでの子の倍以上の時間がかかっているようにも見えました。時間もあったので、競争とは何か、といったことをぼんやり考えました。まず何故マラソンなんか参加せなあかんのや、わしゃ嫌じゃ、という反応があります。野原などはまずこのタイプですね。でも小学生たちは内心の思いはともかく、参加に疑いはもってにないように見えました。より強く成ることが善であるかどうかはともかく成長期にゴロゴロしてばかりだとよくないのでたまにマラソンするのは良いだろうと思う。見物にだけ来ていた父母などもついでに、少しは走ってみればよいだろう。「人の天性はさまざまであろう。」というその差異をまざまざと見ることができた。しかし(1)第一の差異は、非参加者と参加者の間にある。非参加者には参加してみれば能力があるものもある。能力があるはずだのに参加しないので本当にそうなのかどうか分からないものもある。小学校にきてない(予め排除されている)ものもいる。この差異は観察できない。(2)第二の差異は、ハンディキャップのある者(1割以下)とそれ以外の間にある。(3)以上二つを除いた上で、可視的に明瞭な差異の序列が現れる。ここでも先頭とビリの間には約2倍程度の速度差がある。練習を繰りかえせばこの差は縮まっていくはずだ。

より早く走ることはまあ良いことである。順位をつけることもいけないことではない。だが期末試験の順位公開はどうか。これはやめた方がよい、という人は多い。良い成績を取ることが善だという価値観が世の中で支配的なのでそれをますます強化するのは控えるべきだ、という主張なら納得できる。

昔は、売柴人と、公卿大夫との間には大きな差があり、同じスタートラインに立ち競争することはなかった。出自によって差別されず同じスタートラインに立つことができるようになってきたのはよいことだ。とそんなことは当たり前か。今王陽明論を読んでいるのだが、「聖人学んで至るべし」誰でも学ぶことによって聖人になることができる、という思想を強く押し進めた点で、王陽明は東洋における反差別思想を前進させたと評価できるらしい。

*1:p72島田虔次『中国における近代思惟の挫折』平凡社東洋文庫。isbn4-582-80716X ただし「格物」とあったのを「徒競争」に入れ替えた。

算数パズルは受けないか?

わたしは儒教の本を読了したのでそれについて書かねばと思いつつ上手くいきません。今日は小学4年から中学1年までの子供5人が来て家族パーティだった。わたしは儒教(神道)??なのでクリスマスパーティではない。問題を出して、チャチなプレゼントを渡した。下位3人には罰ゲームとして次の算数の問題をやらせようとしたが嫌がってやってくれない。仕方にないので1問はむりやり大人にやらせた。やっぱり算数パズルは受けない。でも日本は世界に冠たる「根付け」文化、俳句、短歌文化の国である。今日では200円ほどで売ってるフィギア付きお菓子なんてものも値段の割に信じられないほど精巧なものだ。即ち小さくて精巧なものが好きなのだ。文化でもヘーゲルやマルクスの如き大大思想を志向しても無駄だ、それより小さな問題を精妙に解く芸を競うということが、今後伸びていくはずだ。

子供にやらせようとした問題は以下の三つ。(1)縦横斜め、四匹ずつそろえたら良い。http://web2.incl.ne.jp/yaoki/week186.htm

(2)『三角形のPeg Solitaire』です。http://web2.incl.ne.jp/yaoki/week180.htm

(3)数字をあるルールで「777」とかにそろえる。http://web2.incl.ne.jp/yaoki/week169.htm

(4)この問題が出来なくてくやしい。「3匹の豚と5匹のライオンがおり、5×5のマス目があります。 縦、横、斜いれてくださいめのどの線上にも同じ動物は配置できるが、違う動物は配置できない。8匹を升目にいれてください。 」http://web2.incl.ne.jp/yaoki/week179.htm