シオニズムはユダヤ人の文化に敵対する。

http://www.diplo.jp/articles02/0208-2.html 

にあるフランス人が書いた文章には、「イディッシュ語(民族虐殺によりほぼ壊滅した)」という表現がある。だが、この説明は正確ではない(だろう)。そこにあるように、「イスラエルでは、死者、敗者、臆病者の言語であるとさえ見なされています。」シオニズムの組織的なイディッシュ語への敵対がその「ほぼ壊滅」を産んだのではないか。千年近い歴史を持ち豊穣な文化を育んだイディッシュ。「イスラエルは東ヨーロッパのユダヤ人の民の歴史を恥じており、イスラエルの過去からそれを消去したいかのように、ことが運んでいる。」p101(6)

これは日本の日の丸強制主義者にも似ているようだ。彼らは日本文化への誇りを言うが、彼らのいう日本文化とは教育勅語、カイゼルのドイツを真似た鹿鳴館のような偽物文化にすぎない。江戸時代までの長い歴史は西欧化されたわたしたちにはすぐ分かりにくいとしても、落ち着いて考えてみればとても興味深い。そして長い歴史はまた多様な文化との交流でもあった。民族離散というほど大袈裟でなくとも、21世紀は日本人にとっていっそうの離散の時代になることは確かだろう。日本ではなかったものを日本だとし、政府への服従を愛国心と言いくるめる、教育基本法の改正は阻止しなければいけない。

スピノザ、モーゼス・ヘス、ショラム・アレイヘムやブント、モスクワのハビマ座やレイネット・ロラネーズ、サラエボやローワー・イースト・サイドなどのユダヤ人の歴史を消去するためにすべてがなされる。p176

とりわけアンダルシアとその黄金時代とを再発見すること。ユダヤ教徒とイスラム教徒は協調し7世紀以上にわたって、中世西欧の最盛期を作り出した。キリスト教ヨーロッパがそれに追いつくのに何世紀もかかるような。p178

ちょっと儒学入門です。

さて最初は、天です。(ちなみに仏教では下位の神さまのことになる。)

『儒学のかたち』関口順 東京大学出版会 によれば、

  1. 天とは、つねに人のあるべきあり方の理想態、根拠、本来態。 p15

人倫社会の根拠をなすもの、ということです。

  1. 知識人は常に、天人の一致を志向する。
  2. 天の命ずるこれを性と謂う。性に従うこれを道と謂う。 中庸。36

儒学は教育を重んじます。その目的は、性つまり<内面化された天>を完全に実現することです。そしてその修養は必ず他人とのつながりの中で行われるのが特徴です。+天子の務めは民の養であり教である。p32

民は天子にも国君にも責任がない。物みたいなもんである。p33

えーどうもそのなんだ日本という国は、根本原理というものがないのかね。

大東亜戦争に負けて、国土が焦土になったのだからヒロヒトは皇祖皇宗に詫びるべきだったのではないのですか。よーわからんくにじゃ。

(11月14日記)

【第2文】Government is a sacred trust of the people,

政府は人民による神聖な委託物(信用貸し付け)である。

 原文、国民とあったが人民と変えた。the people というありきたりのことばに対し、国民はあくまで国家あっての国民という語感が強くするので嫌だ。大東亜戦争の終結自体、「国体の護持」を護持するという意志において行われたものである。したがってこのpeopleを国民と読んでしまえばすべては元の木阿弥だろう。

the peopleというものはいまだなかったのにそれがあるかのように文章が成立しているのがおかしい。いやそんなことはないか。国民は立派に存在した。いまだ方向性は明確ではないものの訓育程度の高さを誇る日本国民というものはあった。国家は国民の権威によるという思想もあった。

 でも人民という言葉はいかにもこなれない。スターリニズムの匂いさえする。そもそも憲法とは国民を成立させるための文章だろう。であれば国民という言葉を使うのは当然だ。問題は敗戦国をどういう論理で否定するか、にある。「独裁制度と奴隷制度、圧政と異説排除」ととらえてそれを否定した。それがおかしいわけでもなかろう。問題は、「このpeopleを国民と読んでしまえばすべては元の木阿弥だ」とするわたしの感じ方にある。

論旨のない文章を書いたのは久しぶり。とりあえずメモしておこう。

平和

いまある戦争の不在を絶対化してはならない。現在の国家バランスの中でも「独裁制度と奴隷制度、圧政と異説排除」はおおいに存在する危険性がありしたがってそれらと闘っていかなければならない。排外主義を排し平和を守り、よりよい平和をつくって行かなければならない。そう読めばよいと思った。

14歳 楳図かずお

野原が最も尊敬し好きなマンガ家は大島弓子である。自分のモチーフ追求を軸にマンガを強引に作り上げる観念的なマンガ家であるという点で、楳図は大島と共通点を持つかもしれない。ただわたしは楳図のよい読者ではない。機会があって(自腹を切らず)『わたしは真吾』と『漂流教室』を読んだくらい、だ。楳図は有名な割にあまり読まれていない(たぶん)。小学校4年の息子が楳図に興味を示したので、(悪趣味だから子供に買ってやるのはどうかと人並みなことも思わないではなかったが)近くのリサイクル古本屋に一冊350円で1~4が並んでいたので買って、息子に与えた。先に息子に与えるのはけっこう危険である。とまあそんなことはどうでも良い。

テキスト主義者ならテキスト(マンガ)に即して語らんかい!はい。(1と2を読んだだけで、これは20冊もあるのでそろえるかどうかも未定だが)(ところでチキンジョージを“ぐぐって”みたらライブハウスばかりだった)えーこの作品はチキン・ジョージというモンスターの誕生から始まる。チキンジョージとは鶏肉自動作成工場の偶然のミスから生まれた生物が(ご都合主義で)高度の知能を持ったモンスター。彼は孤独感を理屈で根拠を捏造することで埋めようとし、現代文明(未来文明)が数千数万種の動物たちを滅亡させたことへの復讐を自分の使命と考える。息子には粗筋ではなく感想を書けと高圧的に命令したくせに自分でも粗筋しか書けない。反省。言うまでもなくわたしたちは牛や豚を食べているが、彼らは近くでゆっくり見ると大きいだけあって威厳と存在感に溢れている、ここには大きな矛盾があるが皆が知らん振りをしている。こうした誰でも知っているタブーを主題にする蛮勇こそが、名作を産みだす条件だ。(続きを読まないと分からない。)

考えてみれば、人間の数だけ、死は存在する。

(養老孟司 11月16日毎日新聞書評欄より)

桃寿さんの詩「遺書を書こう」を読んでみよう。

http://cute.cd/moonly/loli-isyo.html(閉鎖)

http://www.rktlb.com/momoju/

   不安定で ボロボロで すぐに崩れてしまいそうな

   脆くて 駄目で 情けない グラグラのあたしだから

と詩は始まる。実際に(追いつめられて)遺書を書くことと「遺書を書こう」という文章を書くこととの間には対極的とも言うべき距離感がある。投身自殺で叩きつけられた無惨な死体とそれを無表情に観察し記録する者との距離にも等しい距離が。ということはつまり、「脆くて 駄目で 情けない」あたしの存在とそう書いている<あたし>の間にも無限に近い距離があるということだ。だがしかし、「脆くて 駄目で 情けない」と日記に書きつけるわたしはいつも書く私ではなく、書かれる私にだけ同一化している。桃寿さんの詩がありきたりのナルシズムを免れている理由は、この勘違いを決してしない点にある。ただ、しないのではなく<できなかった>のだ、と思う、彼女の場合。

   まず 財産はないので その辺はどうでもいいです

   それから 写真や日記なんかは 気持ち悪いので焼いてください

彼女は冷静に的確に列挙する。

   恋人には ありがとう、って言って 他の人には さようなら、って

   面倒だけど 伝えて下さい

「面倒だけど」というのは最後の言葉を媒介してくれる伝達者に向けられている。自殺者としたら異様な平常心だ。

   一通り書き終えて 署名して 封をする

公務員にしたいぐらいしっかりしている。

書けば書くほど、書かれたものは<脆くて 駄目で 情けないあたし>からは乖離していくのだ。だから彼女は遺書を破る。そして、

   あたしは窓から飛び降りた

   「―――――。」

彼女は閉塞を拒否し行為を選ぶ。

だが、そこにも錯誤しかなかった(とたぶん彼女は書いている)。

「遺書を書こう」ふたたび

グラグラのあたしを書く、主体の不在=不安を表現にどう憑依させるか。

まずわたしがいるのだがすぐ崩れてしまいそうだ。言葉を重ねることで不安定さを表現することができる。方法の獲得。方法が消え去らないうちに、書かなければいけない。

財産/日記/服/友だち

 ここでも「どうでもいいです」という始まり近くにある行が効果的に働いている。

ごめんね/ありがとう/さようなら

 と丁寧だが丁寧さは「こころがここにない」ことの表現になりうる。

思い残す事は何もない/私は幸せに逝きました。主体は不在なので、思い残すことなど最初からありようがない。

これで何時でも死ねる/と思うと/安心した

主体が不在とは、安心の否定である。一歩一歩丁寧に辿ってきたのに矛盾に到達した。

あたしは窓から飛び降りた

振り出しに戻り別の選択支を選ぶ。画面が消え何も映らない。

彼女には表現をことさらクリシェの側に押しやって否定してしまうといった傾向がある。<主体の不在=不安>を書くためにはそれに成功してはいけない。成功しそうになったら否定しなければいけない。

以上、彼女は方法を確立した詩人だったということで、であればわたしは彼女の何に引っ掛かっているのか。(12月7日追加)