2012/03/10 06:17 id:noharra
ブクマとトラバを送ったのだから応答したらどうかね?。ツイッターの質問大歓迎というのは嘘だったわけかね?。
オーセルとか言う女は俺は「死んだ方がいいバカ女」「いっそ中国共産党がぶっ殺してくれないか、その方が世のためじゃないか」とすら思うが、君はどう思う?
私の単純ミス
なんと去年のブログ記事を今年と間違えてブログに貼ってしまった!
(訂正前)
2.18時より チャクラ(北浜)にて 祈りの集い ◇
追悼・平和 法要 ◇ ダライ・ラマ法王からのメッセージ朗読
林 孝瑞 師(四方僧伽・スーパーサンガ幹事)
◆登山家 大西 保 氏
◆チベット音楽 川辺 ゆか 氏
◆大樹玄承師(スーパーサンガ 関西地区代表)
となり、川辺ゆか氏、大樹玄承氏は、天鷲寺とだぶる。大丈夫か?
出かけようという方は、よくご確認の上お願いします。(2/10日 11時記)
2015/06/13コメント欄
bogus-simotukare2015/06/13 13:45 id:noharra
でいつになったら野原君は
1)「河野談話否定論者・三浦小太郎が幹部を務める守る会を退会して、三浦への抗議意思を表明」
2)「退会しないが三浦のような歴史修正主義者のデマゴーグは守る会役員にふさわしくないとして三浦の役員解任、守る会除名を主張」するの?
手前が三浦のような河野談話否定派のデマ屋を野放しにしてる時点でこんなお為ごかし文章を100回書こうと200回書こうと何の説得力もないと気づけよ、チンカス野郎。
bogus-simotukarebogus-simotukare 2015/06/13 13:48 noharraくん
悪い、悪い、間違って二度投稿しちゃったけど二度目は削除してくれると助かるわ。
それと浅野については「ある理由」とかぼかさないではっきりと「浅野の米国人学者声明翻訳を誤訳だと小山エミ氏が批判してるから」てはっきり書いたらどうよ?
「君と三浦小太郎の関係みたい」に浅野をかばわないといけないい、腐れ縁、しがらみでもあんの?。本当に君ってくだらないゴミ野郎だよね(毒)。
トマサ・サリノグ、日本兵に幽閉されて。
〔ビデオ証言(英語によるナレーションつき)〕
トマサ・サリノグ証人
私はトマサ・サリノグです。一九二八年一二月八日アンティケ州パンダンに生まれました。一九四二年、日本軍が上陸したとき、父と私は、サンレミギオ山に避難しました。当時の知事、アルベルト・ヴィラヴェルトは避難した人々に家に戻るよう呼びかけました。夜になって、日本の偵察隊がキャンプに戻ってきました。キャンプはイシハラ〔石原産業倉庫〕にあり、そこへ四人の日本兵がやってきました。父と私はもう眠っていました。日本兵が呼びますと、父はこういいました。「気にするな、返事をしてはならない。静かにしているのだ。もう遅いから、彼らはしばらく立ち去らないだろう」。私たちはまた寝ようとしましたが、眠らずに耳を澄ませていました。日本兵は怒って扉をたたきました。扉は破られ、父は立ち上がって戸口へ行きました。私も立っていました。一人の日本兵が入ってきて私の腕をつかみ、言いました。「子供か、いっしょにこい。おまえはわれわれとくるんだ」。父は、「一緒に行ってはならない、もう夜も遅い、行ってどうするのだ」、といいました。日本兵は父の言葉を耳にすると、走ってきて刀で父を打ちました。父は倒れ、私はかけよって父を抱きおこしました。父がまだ生きていると思ったのです。他の兵士たちもやって来ました。私を蹴りました。私は立ち上がりました。彼らは私を連れだし階段のほうへ行きました。私は引きずられながら父のほうを見ていました。その時父の頭が体から切り碓*1されているのを見たのです。私は父から目を離すことができませんでした。私は泣きじやくりました。
彼らは私を大きな家に連れて行きました。「子供、泣くんじやないよ」と日本兵は言いました。私は小柄でしたが、ぽっちやりしていました。その時一三歳でした。父は私に良くしてくれたのです。兵士は私の体を持ち上げて床に落としました。起きあがろうとしましたができませんでした。まるでピンで留められたようでした。抵抗しようとしましたが、彼は固いもので頭を殴りました。ここが殴られたところです。そうして彼らは部屋から出て行きました。
彼らはまたやってくると、水を持ってきて、私の体を洗いました。その晩私はレイプされました。その兵士はまた戻ってきて、私にこういいました。「私はおまえの父を知っている。私とおまえの父親は友達なのだ」。「友達なら、なぜ殺したのか」と私は尋ねました。すると、「おまえをよこすように言ったとき、おまえの父は言うことをきかなかった。それで頭にきた」。だから男は腹を立てたのだというのです。
私はそこに一年いました。ときには二人、あるいは三人の男にレイプされました。四人のことさえありました。彼らはかわるがわる私をレイプしました。いったいどうしてこんなふうにレイプされるのに耐えられるでしょう。ただ泣くだけでした。
しかし私は彼らから逃げることができたのです。日本兵たちは山で活動して帰ってくると、酒をたくさん飲みました。酒を飲んで遅くまで起きていました。そのため翌朝大慌てで、鍵を置いて行きました。私はその鍵でドアを開け、調理場に衛兵がいないかどうか急いで確かめました。逃げるなら今だと決心しました。毎晩兵隊たちが部屋にやってきて、つらい目にあわされたことを思いました。鍵をつかみ、衣類の入った箱を持って下へ降りました。家の外に見張りはおらず、私は塀の外に出ました。精一杯走りました。とても怖かった。私はある老夫婦に助けを求めました。「おじいさん、私をここにおいてください、水も運びますし、薪も集めますから」と。
泣きながら頼みました。その老夫婦は行くところのない私を哀れに思い、受け入れてくれました。
三日後、オクムラがイロイロからから車で来ました。私を見ると、車をとめ、老夫婦に、水汲みをしている若い女をよこすように求めました。「女はどこだ、かくまうと、おまえたち二人とも首を切るぞ」、といいました。彼らは怖くなって、私を引き渡しました。
私は泣きながらこの将校に連れられていきました。すると彼は、「怖がるな、私はいい男だ。私のために働いてくれれば、お金を払おう。床を掃き、私のものを洗濯し、干すのだ、いいな」、こういいました。私は承諾しました。オクムラとの暮らしは楽でした。というのも彼は一週間に一度、ときには二週間に一度戻るだけだったからです。ほとんど彼はイロイロにいました。戻ってくると、私をレイプし、彼の友達も私をレイプしました。
一九四四年から四五年にかけて、私はオクムラのもとにおり、一九四五年にアメリカが上陸しました。オクムラと一緒だったのは、半年ほどでした。その後、私は家に帰りましたが、私の家は壊されていたので、テイタ・アタロを訪ね、彼女のもとにいました。受けた傷は深く、とても耐えられないと思いましたが、私は生き抜くために、耐えなければなりませんでした。結婚は一度もしませんでした。あらゆる求婚を断ってきました。結婚したくありません。もし結婚すればあらゆることが再び起きるような気がするのです。もし夫が私を傷つけたら、私はどうしたらよいのでしょう。誰が守ってくれるでしょう。誰のものへ行けばよいのでしょう。誰が面倒を見てくれるでしょう。私は、日本兵の使い古し、といわれるのです。
わたしは正義を求めます。私は正義を求めます。
p132-134『女性国際戦犯法廷の全記録・ 第5巻 日本軍性奴隷制を裁く-2000年女性国際戦犯法廷の記録』isbn:4846102068 より
*1:noharraがテキスト化したときに誤字を作っているようだ。いま本が手元にないので確認できません。
従軍慰安婦・朴永心の証言
『女性国際戦犯法廷の全記録・ 第5巻 日本軍性奴隷制を裁く-2000年女性国際戦犯法廷の記録』http://www.ryokufu.com/books/ISBN4-8461-0206-8.html
〔朴永心被害証人ビデオ証言]
--どのようにして日本軍「慰安婦」として連行されたのですか。
朴証人:私は四人兄弟の三番目です。上に兄が二人、下に妹が一人いました。幼い頃母を亡くし継母に育てられました。家はとても貧乏でした。一四歳のとき南浦に行き洋服店の女中として働きました。
一七歳のときでした。一九三八年三月だったと思います。ある日、日本の巡査が軍服に帯剣のいでたちで洋服店に現れました。彼はいい金儲けの口があるが行かないかというので、そのままついて行きました。そうして私は日本軍の性奴隷になったのです。
--「慰安婦」として連れ回された経路について。
朴証人:はじめ、ほかの娘と一緒に平壌に連れて行かれました。二二歳の女性でした。車に乗せられしばらく走り続けました。数日後着いてみると見たこともない所でした。最初に連れられて行ったのが南京でしたが、そこの「キンスイ楼」に入れられました。私はそこで歌丸という日本名で呼ばれました。そこで三年ほど性奴隷の生活を強要されたと思います。
たしか一九四二年頃だったと思います。ある朝、表へ呼ばれました。出てみると七名の別の女性たちもいました。皆朝鮮女性たちでした。一緒に行こうと言うのでしたが二名の日本人兵士がいました。その二名が私たちを監視しながら慰安所を後にしました。別の慰安所に行くというのです。
私たちは南京で汽車に乗りました。上海に行きました。船に乗り換えシンガポール経由でビルマのラングーンに着きました。ラングーンからラシオにある「イッカク楼」へ行きました。慰安所の名前です。そこでまた性奴隷の生活をすることになりました。慰安所の〔経営者が私に名前を付けました。若春という日本名でした。ラシオには二年ほどいました。私がその時相手をしていた二名は今でも名前を憶えています。オオタミノルという将校とタニという軍曹です。
一九四三年〔正しくは四四年〕春だったと思います。日本軍は私たちを再び車に乗せビルマと中国の境にある拉孟(ラモウ)へ連れてゆきました。日本軍はそこを松山と呼んでいました(中国側の呼称が松山)。その時から連合軍の捕虜になるまでそこにいました。日本軍の性のなぐさみものとしてだけ生かされました。
松山に来て間もなく猛攻撃が始まりました。連合軍の爆撃でした。私たちがそこで相手をさせられたのは日本軍第五六師団でした。主に歩兵と戦車兵の相手をさせられました。毎日数十名の日本軍から性行為を強いられました。その合間を縫っては握り飯を作り、爆撃の中を運びました。日本軍の戦闘壕へ運んで行ったのです。そこには初め一二名の朝鮮女性が連れられて来ましたが、八名が爆撃で死に私たち四名が残りました。
--その後、生き残った「慰安婦」たちはどうなったのですか。
朴証人:私たちは……日本軍が日本国民を乗せるということを[……]。日本が敗れたのです。日本軍は、戦争に敗れると何の知らせもなく自分たちだけで逃げました。私たち朝鮮女性四名は、怖くなって防空壕に隠れましたが、中国軍にみつかりました。それで外へ出ましたが、私たちを取り調べたのは米軍将校でした。米将校があれこれと質問しました。
--ここに一九四四年九月三日、米軍が朝鮮人「慰安婦」を捕虜にしたという写真があります。ここにあなたはいますか。
朴証人:これが私です。この服装で裸足で、……髪も編み下げ〔おかっぱのことと思われる〕にして、確かに私です。連合軍の捕虜になった時、妊娠していました。
--捕虜になった後どうなりましたか。
朴証人:トラックに載せられ昆明の収容所へ行きました。収容所で捕虜として扱われました。そこには日本軍捕虜がいました。収容所にいってから、おなかがカチカチに張ってきてとうとう出血しました。収容所内の病院に入院しました。中国人医師が注射をし手術しました。妊娠した後も日本軍に絶えず性行為を強いられたのが原因だったと思います。胎児が死んだのです。
収容所には一年ほどいたと記憶しています。
黄検事
今ビデオ証言をした朴永心さんがこの会場においでです。朴永心さんです。
〔拍手〕
(p65-67 同書 2000.12.8つまり法廷一日目の記録より)
はだかの「慰安婦」
半月城通信 No.92 に、朴永心さんについての記述があります。
14歳少女を強姦する
http://www.osaka.catholic.jp/sinapis/overseas/archives/houkoku/00rora.html#_pagehead フィリピン人元「従軍慰安婦」の証言の集い
「二度と私と同じ被害を出さない思いで」フレシダッド・レイエスさん
当時、私は 14歳でしたが、(略)
1943年、新しい日本軍の部隊がやってくるということで、彼らのために歓迎会を開くことになりました。先生たちの指導のもとに、私たちは日本の歌や踊りなどを練習しました。(略)
ある日、新しい兵隊たちは3台のトラックに分乗して、私たちの小学校にやってきました。私は「7番の札」をつけ、日本の歌を歌いました。歓迎会の翌週の水曜日、いつも通り授業を受けていた私たちのクラスに二人の日本兵がやって来ました。彼らは教室に入って来るなり、「7番目に歌った女の子は出て来い」と言いました。私を迎えに来た様子でした。授業をしていたフィリピン人の先生も、「あなたを必要としているようだから、ついて行きなさい」と言いました。私は非常に不安でしたが、二人の日本兵に従って、小学校の建物の裏にある日本軍の駐屯地に向かって歩きました。
(略)
日本兵は嫌がる私を無理やり駐屯地の中に連れて行き、腕を引っ張り、小さな部屋に閉じ込めました。しばらくすると、5人の日本兵が部屋に入ってきました。そのうち2人が私を勢いよく床に押し倒しました。
その後彼女は強姦される。
悲しみは北の果てに
慰安婦とはなにか、定義をめぐってもたぶん異見があるのだろう。下記は慰安婦ではなくただの辺境の下級娼婦(予備軍)だろうか。とにかく(おそらく満州国ができる前)そのエリアの田舎道を歩いている若い女の群、である。
くずれかかった島田髷をグラングランとゆすりながら、赤いおこしをまくり、ゴム長靴をはいて、しめじめした田舎道を歩く十五、六人の若い女の群がいる。
ここ密山あたりへ来る女は、ひ子窟(ヒシカ)の女市場から売られて来たのである。あまりきれいなのがいないのは、下物だからだろう。きれいであってもゴム長じや興がさめるが--
女共のうしろには、面構えのよろしからん男が鞭を持って、羊か豚を追うように尾いている。女共は大ぶん歩かされたとみえヒョロヒョロしている。これからもっと奥の、ソ連境へまででも連れて行って売り込むものとみえる。今夜にも売れたらその日からでも、何ともわからん男--どこの国の人間やらわからぬ男を抱かねばならぬ。「女販売人」からみれば、女というよりは女に似たけだものと思っているだろう。男を抱かせさえすればそれてお金になるのだから、女みたようなものでありさえすればいいのである。どこのだれの子か、どこの村から拾って来たのか知らぬが--
どうせこのあたりに稼いでいる男は、女のいいも悪いもない、徳利の穴から出すものを出せばすむ
のだから--
しかし、このあわれな女たち、これからどこへ行ってどうなるものやら。どうせ、このあたりの土となるものだろうが--それもしらずに--
櫻井忠温の『哀しきものの記録』文芸春秋新社(昭和32年発行) p251 より。
この女たち、わたしは日本人じゃあないと思っていた。でも良く読むとおそらく日本人だ。p203にこう書いている。
大連の北にひ子窟(ヒシカ)という海岸がある。(略)ここが内地で浚った女共を陸揚げするのである。そして女の市が立って、上物と下物とを選り分け、それぞれ相場を極めて送り出すのである。下物は大てい北満送り、あの方さえ役に立てば目っかちでもいいという程度--そんな片輪は拾っては来ないが--大連や奉天向きは特種、遼陽、四平街だのはまず上玉の方である。下物の下物は競売にかける。
「内地で浚った女共」というのは日本人ということになりますね。わたしが日本人と思わなかったのは、この七〇年以上女性であっても日本人であれば満州あたりでそんな扱いは受けないと思っていたからです。でも八〇年以上前にはこういうこともあったのでしょう。
というかわたしがいいたかったことは、女が何国人であってもそんなことはどうでも良い。ただじめじめした田舎道を歩き続ける女たちはあわれだ、とそう思うことが大事だということです。*1
従軍慰安婦問題は、語り得ない言葉を語り初めた彼女たちの実存によりそうように見ることはもちろん必要だが、上記のような哀れさの底、あるいは彼女たちと交わった男たちのことも直ちに断罪しない、すべてを呑みこむ歴史の巨大なはらわたの一つのエピソードとしても理解すべきだと思う。
*1:「しなてる 片岡山に 飯(いひ)に餓(ゑ)て 臥(こや)せる その旅人(たひと)あはれ」聖徳太子以来の、日本人が大事にすべき伝統的感受性です。
1100-12-25
4/1コメント欄
4/1 最初にだましたのは誰か?
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20070401#c1175470452
ebizoh ebizoh 『海老蔵中道右派です。
>最初にだましたのは誰か?中国まで連れて行ったのは誰か?は映画で描かれていません
最も可能性として高いのは、朝鮮人の女衒が親か本人を騙して中国に連れて行ったのでしょうね。それで日本軍に騙されたことになってしまうのは、冤罪ですね。
野原さんも被害者の証言を冷静に見ることができるようになって、良かったですね。』
ebizoh ebizoh 『ついでに、以前の積み残しの返答をさせていただきます。
元エントリが容量オーバーのため。
>--あなたの「証拠を出せ」ゲームに乗るつもりはありません。
もう、私と野原さんの間では、証拠を出せゲームとやらは、ほぼ終わっているのでは?
議論のフェーズは、お互いのほぼ共通の事実認識がある(ここに齟齬があれば、また証拠を出せゲームとやらが復活?)ことを前提に、その事実がどのような法的意味を持っているのかを考えることに移っているでしょう。
>--あなたの「証拠を出せ」ゲームを仮に前提とした場合、ミッチナ報告の読みの点であなたは矛盾を犯している。
>これを認めてください。
おそらく、証拠を出せゲームの次のフェーズである法的評価ゲーム?のことを言われていると思われますが、矛盾はありません。
1、私は、ミッチナレポートは要約部分しか読んでいないので、そこに明記してあった、レポートの調査対象となった慰安婦の平均年齢が25歳ということ、実態は戦地売春婦であること、しか知りませんでした。この事実認識からは、実態としても違法性を基礎付ける事実はなく、日本の国家としての法的責任は生じません。
2、野原さんのご紹介のサイトによれば、対象慰安婦には未成年の者がかなりの割合で存在したそうですね。しかし、当該サイトはその下段に示した参照書籍の内容を要約したものなので、サイトの筆者と参照書籍の筆者という2者の主観を経ています。つまり、2回も主観的間違いが混入する可能性があるので、原典であるミッチナレポートの本体の該当部分を確認することが本来は必要です。
3、原典確認は一端脇に置くとして、未成年者が一定割合いたことを事実と考えても、朝鮮人台湾人占領地の現地人については除外規定があるため違法ではありません。日本人の未成年者がいれば違法でしょうが。
4、そして、日本人未成年者という違法な実態を基礎付ける事実があったとしても、日本が国家責任を負い得るのは、その日本人未成年者に対してだけですね。』
noharra noharra 『○○最も可能性として高いのは、朝鮮人の女衒=日本軍の依頼を受けた三下=下級ヤクザですね。
>>>それで日本軍に騙されたことになってしまうのは、冤罪ですね。
と思うのは、旧皇軍の親族だけでしょう。
>>>野原さんも被害者の証言を冷静に見ることができるようになって、良かったですね。
なめたような口をきかれるんですね!海老蔵さまは』
noharra noharra 『エビゾーさん
>>>1、私は、ミッチナレポートは要約部分しか読んでいないので、そこに明記してあった、レポートの調査対象となった慰安婦の平均年齢が25歳ということ、実態は戦地売春婦であること、しか知りませんでした。この事実認識からは、実態としても違法性を基礎付ける事実はなく、日本の国家としての法的責任は生じません。<<<
「この事実認識から」ってあなた!!
あなたの「証拠出せゲーム」は「わたしの心の内の事実認識」なんてものを一旦出発点に立てるのですか??
何のための「証拠出せゲーム」か、意味不明ですね。
>>>2、野原さんのご紹介のサイトによれば、対象慰安婦には未成年の者がかなりの割合で存在したそうですね。しかし、当該サイトはその下段に示した参照書籍の内容を要約したものなので、サイトの筆者と参照書籍の筆者という2者の主観を経ています。つまり、2回も主観的間違いが混入する可能性があるので、原典であるミッチナレポートの本体の該当部分を確認することが本来は必要です。<<<
ミッチナレポートの本体の該当部分を確認することを誰がするのですか?
>>>3、原典確認は一端脇に置くとして、<<<
この論点についてだけは「証拠出せゲーム」は一旦中止するのですね。
その根拠は?
>>>>未成年者が一定割合いたことを事実と考えても、朝鮮人台湾人占領地の現地人については除外規定があるため違法ではありません。日本人の未成年者がいれば違法でしょうが。<<<
違法かどうかなど、私の論点ではありません。
正しい福岡県民*1なら「朝鮮人台湾人占領地住民を日本人と差別扱いする」ことなど考えられない、というのが私の主張です。
>>>4、そして、日本人未成年者という違法な実態を基礎付ける事実があったとしても、日本が国家責任を負い得るのは、その日本人未成年者に対してだけですね。<<<
そういう人はいなかったとでもお思いですか?』
ebizoh ebizoh 『>>>最も可能性として高いのは、朝鮮人の女衒=日本軍の依頼を受けた三下=下級ヤクザですね。
>>>それで日本軍に騙されたことになってしまうのは、冤罪ですね。
>と思うのは、旧皇軍の親族だけでしょう。
いえ。私の先祖には旧皇軍に参加した者はいないのですが、日本軍は違法な募集は止めさせるよう努力してたでしょ?漏れたのもいたかもしれませんけど。
>なめたような口をきかれるんですね!海老蔵さまは
いえ。本心でございますよ。野原様。
>「この事実認識から」ってあなた!!
>あなたの「証拠出せゲーム」は「わたしの心の内の事実認識」なんてものを一旦出発点に立てるのですか??
いいえ。だって、野原さんは、ミッチナレポートの内容をどう評価するかと質問されたので、正直に答えたまでですよ。
>ミッチナレポートの本体の該当部分を確認することを誰がするのですか?
議論している以上、私と野原さんの両方ができればベストですね。
>>>3、原典確認は一端脇に置くとして、<<<
>この論点についてだけは「証拠出せゲーム」は一旦中止するのですね。
>その根拠は?
その先のことを野原さんが聞きたいだろうと思ったので、仮定の話として議論に応じただけですが。
>違法かどうかなど、私の論点ではありません。
>正しい福岡県民*2なら「朝鮮人台湾人占領地住民を日本人と差別扱いする」ことなど考えられない、というのが私の主張です。
野原さんは福岡県民なのですか?私は東京都民です。
というか、差別扱いしたのは過去の日本政府ですから。
私は現在であれば人種差別はしない誇り高い日本人のつもりですが(天皇機関説が妥当と考えるので右翼ではないかも)、ただ当時の法によれば違法ではない、という当然のことを区別して言ってるだけです。
>>>4、そして、日本人未成年者という違法な実態を基礎付ける事実があったとしても、日本が国家責任を負い得るのは、その日本人未成年者に対してだけですね。<<<
>そういう人はいなかったとでもお思いですか?
いたとしたら、政府や軍の管理不行き届きは責められるべきですが、日本人慰安婦って誰も国家責任追及してないんですよね?してる人がいたらぜひ教えてください。』
4/9コメント欄