結城浩さん という方が次のように書いて居られる。
(まあ信仰者ならだれでもこんなふうに、言うものなのかもしれないのですが。)
<祈り>というのは生活のなかにだけあり、自分の心や身体から降りてゆくことが価値でありその逆ではない、というのは興味深い。
自我を捨てること=共同幻想に己を捧げること、と捉えて否定するのが戦後の常識だった。だが本来、祈ることは自我を捨てることではあっても、共同幻想に己を捧げることではない。
ところで神が居なくとも、わたしたちは<祈り>を学ぶべきなのか?そうかもしれない、と私は思う。
http://www.hyuki.com/dig/prog.html
プログラミングを身につけるには / 生きた信仰の第一歩
聖書も同じだ。
いろんな聖書の解説書や聖書に関する本が売っている。
教会でも牧師さんが聖書の講解説教をやってくださる。
けれどもそれだけではだめだ。
自分で聖書を読み、自分でよく理解し、自分の口で祈り、
自分自身の生活の中に適用していかなくては、
聖書は身につかない。
自分で適用しようとしてみなければ、
聖書の厳しさも、神さまの愛も本当にはわからない。
自分の心の中の深いところは他の人にはわからない。
自分の心の奥深いところ、
誰にも見せず、誰にも開いていない扉を開くのは
その人本人にしかできない。
祈り方もわからず、聖書も読んでいませんが、
自分が自分の力ではもうだめだということはわかります。
神さま、助けてください。神さま、ゆるしてください。
イエスさま、どうぞ私の心に、今、来てください。(同上)