視線が地図の上を、表六甲から裏六甲へつき抜けて
いくと、奇妙な地名が山系の両側に、ひっそりと息づ
いている。カミカ、ハクサリ、ザグガ原、ボシ、マン
パイ、シル谷、カリマタ池、キスラシ山、シブレ山……
地図なしにそこを歩いたら、ここが、そんな地名をもつ
ことを予測しえないだろう、と考えるときの怖しさ。
地図の上に舞い込んできたホコリを吹き払おうとして、よくみるとタンポポの綿毛だ。微かな筒状のかたちに含まれている〈生命〉を、異なった空間へ変移させるために、更に微かな白い毛が放射線状についている。十数本まではかぞえられるが、それ以上正確には綿毛と綿毛との間隙を区分できない。しかし、この放射線状の毛がいまもっている方向へどんどんのびていけば、六甲よりも巨大な空間を含んでしまうだろう。
第四章の六項のメモたちが、相互の間隙へ直角に入り込み、みずから介入しつつとらえているヴィジョンは、次のようなものでもありうると想像してよい。
〈 〉
かならず、すべてのものは、感覚に、とらえる前に弯曲してしまうのだと思いこんで、やっと動き出すことが可能になり、動き始めて以来、いつでも、どこでも、強調しようとした感覚が、逆にかすんでしまうのを知ったと、波が揺れながら語る。街の東端で用もないのに途中下車し、つくりたての高速道路と、見すてられた住宅群を横断して、魚のとれないこの砂浜へやってきてたたずむ幻影よ。あなたの、うちよせては帰っていく運動の仕方は私のと同じだ。そして、ここからは見えないけれども、子午線の下あたりで、流れがいつものように方向を変えはじめていることも、あなたは知っていますね。
そうだ知っている。雨あがりの川にかかっている橋である私は次のことも。六甲から性急に走り下る水勢を緩和するために、河床は数十メートル毎に段状につくり変えられている。吸いかけたタバコのフィルターの色をした泥水は滝を垂直に降下する度に速度を分断されている。泡立つ水の前線は、前線であることが分るほどほど孤立し、コンクリートに石をはめこんが河底が、歯をむきだして笑う。いくつにもとぎれた水の軍勢が左右不対称の前線を、たえずジグザグに変異されながら私の下をくぐっていく。ふりむくと河口のむこう、暗い巨船の上に暗い海が浮いている。
時間が自律的に流れるにまかせ。圧力の少い空間へ自分が流れるにまかせている海が。海が……?
ここは見なれた風景ではない、と思いこむとき、ひざにくいこむ坂の傾斜、背中を流れる冷たさだけを支持しよう。海が、そのままの重量でショーウィンドウのガラスを飾り、氷山が六甲の耳たぶをかむ冬をつくりだすために。
〈かれら〉の恥ずかしさや、数字への不信や、肉親への哀れみを、デモ指揮者の唇をかむ恥かしさや、患者があたためる数字への不信や、娘たちが自分のリボンに触れるしぐさとつないでみよう。そのとき氷山に似たピラミッドの何本の稜線を越えていくことになるか。
いく切れかの雪、いやタンポポの綿毛が降りはじめている。
市電がそこで途絶える街の西端の街路樹の下で、だれも知らないだれかの墓をさがし疲れて休んでいる老人を語らせる声……埋葬や追悼は手にふれた途端にうそになる。それをたしかめにやってきたのが死者への思いやりというものだろう。
ただ一つ残った海水浴場で貸ヨットを見ている失業者を語らせる声……わざと組合運動ができないようにとやっていったら、一ばんどんずまりのところで、案外できるようになってしまうかもしれないな。
そのような声が、山系のこちら側と、海峡のこちら側をタンポポの綿毛を流す風のように流れるならば、次のような組織論が語られていても不思議ではない。
さっきの声を聞いて、遠心=求心を一致させようとする時間と、それを泥の中に埋める時間とが対話している、という風なことを一瞬でも考えたものはここに集まってくれ。かんたんにいうと、この空間に〈ない〉全ての組織構成員に、めいめいが仮装するのだ。きみたちのめいめいはこの空間にも、所属する組織にも、〈 〉をつけていく。そして……
仮装するとき。
所属組織の論理で一切の対象を扱うとき。
仮装者同志で会議・討論するとき。
最大限一致と最低限一致のふくらみをもつ方針を一切の状況に投げつけ行動するとき。
この投げつけや行動が、敵対者や無関心者から反射してくるとき。その反射が、仮装者をとおりぬけるのに、更に仮装し続けようとするとき。
これらのすべてのときに生じる不安を階級関係と対応させて新しい組織をつくりだしていく。そのとき、同時にきみたちの仮装そのものをはぎとりながら。
仮装組織論……とよんでもいいが、この組織論がひらめくめくのは、六甲が、これらすべての異和感と、最も無縁な組織空間にあるからだ。それを逆用して、ここに存在しない組織からの派遣者に仮装し、自己の所属する組織をも〈 〉へ入れていく。
ここに存在しない組織といっても分派闘争系列図を調べればいいわけではない。そのような図は、もっと深い位相での分派闘争を一枚の紙で切りとってきたものにすぎないのだから。
条件……一人でもやれるか? 舞台へではなく、場外へ出られるか? 政治組織以外のα・β・γ系を、自在に昇降できるか? 仮装が不要になったとき仮装の罪で処刑されてもよいか?
遠くからの訪問者があれば胸の谷間と首すじにある目印しをたどって山上の平原へ行こう。しかし、霧につつまれて夕方に最終バスがなくなると、タンポポをさがすひまもなく空腹がやってくる。
同じ頃、いつか、ひらめきが訪れたらいくつか論文がかけるだろう、と自足して研究会を開いているものたち、と絶縁しているものの前にタンポポの切手をつけた〈第n論文〉をめぐる諸註が送られてくる。……
第n論文に〈 〉をつけたのは、それを強調するためでもなく、いつか未来にかく予定だという意味でもない。第n論文が、永遠に仮構の位相にあることを示すのである。
またnというのは、いままでかいてきた論文の順序であるが、第n論文では、他者の作品の分析をするのではない。たとえ結果としてそうなっても、主眼は、この仮構の論文をかかせる何ものかの力を追求することである。諸註とは、このことを示している。
いま、ここで第(n-1)論文までの文章を構想すると共に、第(n+1)論文以後の文章に註をつけていくとすればどうなるか。
この仮定をするとき、第n論文以外のすぺての論文が〈 〉に入ってしまう。逆にいえば、こののことは、第n論文が意識的に、また必然的に〈 〉に入り、論文系列の位相から逸脱した結果として可能になっている。
〈 〉をめぐる諸註が、既成の研究論文の枠内に、どんな影をおとすか。枠をこえて発散するか、枠の中で収束するか、枠をつくっていくのか、よく見るがいい。ただし、きみたちの頭蓋が影の実体に触れたとき破裂しても、それはこの論文の知ったことではない。
〈 〉
私が知らない間に、映画をつくっている映像たち。この街で一ばん見はらしのいいといわれる大学への階段をのぼっていくものの比重は風景に対して稀薄になり、まだ一人の観客も登場してていない試写会には、フィルムの回転音だけが白昼の闇に対抗している。
映像たちよ。撮影される前の自分に会いにでかけても無駄だ。六甲はいつも、そこにあると思われているところにあるとは限らない。いちばん必要なときと、いちばん必要でないとき、不意に現われてきただけなのだ。タンポポの綿毛を流すほどの風があれば、六甲は揺れる。そして、だれかが疲れて手を放せば、いつでも背景や小道具はくずれ落ちる。
複数の焦点と、隆起するフィルムのために生じた断層、そこには、撮影意図からの変移を示すための映像の他に……。
六甲は美しくて住みよいという満足感も、やがて未来はこのようになるだろうという計算も、腕時計の肌ざわりから手錠を感じとらない心も、反革命を革命と判断するのに、いつも遅れてくる発想法も、すべて映しだす映像がうごいていなければならない。
〈 〉
ペン先を入れた小さなケースをとりだそうとすると、ペン先が語る。
楽にかいてみたら? 軽くとんでみたら? そのとき、かえって重い字のおとす影が、何百ものロマンの影であることが、はっきりしてくるでしょう。
ペンを持つ手が答える。その誘惑はだれよりも自分がよく惑じている。同時に、はじめから楽にかこうとしても解決はしない。かきおわったときに、やはり、このかきかたが一ばん楽だったのだと、世界が一瞬でも感じるように……と祈るだけなのだ。
どこらも風信のとどかなくなったこの季節を逆回転するように、無人の丘でさかさまに倒れると、憂愁の重力が〈 〉のまぶたにかかり、黄色い花びらをはさみこむ。
臨時工であることを示す黄札が、作業服の上で立ちすくんでいる。……海底から水面を見上げると、のこぎり状の葉が浮く。……崖下を走る電車をみつめているときにも視界に侵入してくる斜面にはりついたタンポポの根。牢獄でのわずかな散歩時間中に、くつ下をずり上げるふりをして、たった一本の黄色い花を、すばやくむしりとる囚人。
油コブシが見ている坂道で花びらを押しひろげ、花芯から放たれる香りをさぐろうとすれば、遠くの路上で遊ぶ幼児が、ふと手をとめるだろう。それでも、花芯のむこうの綿毛がとりだされ、その綿毛のむこうの花びらがとりだされ……とりだされた何ものかは決意する。あの幼児の運命を、こんどは自分がになうことになる。になうときにせまってくる力をすべて花開かせよう。
まどろみの間に、どこかで着地していることば……
飛び上ろうとするとき、いままで殆んど意識しなかった条件から、いちばん強く規制される。
風に乗って舞うのは、関係のあるすべてのものに許しを乞うため。
岩の肌や、茨のふところに落ちたときは、いま創りつつあるのだと思いこまなければ、とても忍耐できない。
まどろみが、〈 〉のまぶたから、はみ出し、その直前、小さなケースの中のペン先は、綿毛に変移している。
〈 〉
首都へ、群衆がビルディングに吸いこまれる時間に到着するため、深夜に六甲を通りすぎていくものたちよ。ここは、ネオンの棲息する海、テレビ・アンテナの群生する荒野ではない。いま、プラットフォームで鳴るベルを、発車の合図だと思っている限り、きみたちはどこへも行けはしない。
この列車をレールから逸脱させて六甲を横断して走らせるには、どれだけの労力が必要か計算しよう。風のような非人称の苦しみを〈 〉のかたちをした貨車に積みこめ。ゼネストの前夜すわりこむときに持っているものの他は出発に不要だ。
そのようにささやきかけても、たじろがないものたち……足のくみかたや、字のかきかた、胸にとびこんでしまったタンポポの綿毛があれば、そっと微笑してつれて行け。
いつ、どこへ出発しようとも、すべての風景と交換しつくしてしまっているという抒情からの出発を。今日、最後にあの大衆浴場で会ったきみも。
〈 〉〈 〉〈 〉〈 〉〈 〉〈 〉
六項のメモたちのとらえるヴィジョンは、このようなものでありうると想像してよいか。ここまで書いてきたとき、いわば表六甲を分水嶺にまで登りつめたとき、不意に裏六甲が姿をみせるように、不安としか表現のしようのないものがみえてくる。
第四章の六項のメモたちの間へ降下する六項のメモの過程をいままでかいてきたのに……
一つの過程をかいているとき他の過程を空間的に排除してしまう不安と、一つの過程をかいているとき他の過程が時間的に変移してしまう不安がみえてくる。
これらの不安は〈六甲〉をかこうとする試みが、そのために見えない領域をつくりだしてしまうことから生れているのだろう。
このようにかきつけるとき、すでに無意識のうちに〈六甲〉の道は、分水嶺をすぎて表六甲から裏六甲へ入りこんでいたのかもしれない。不安がみえてきたとき、山系の全体も、おぼろげにみえてくるのか。
そういえば、序章から第二章をへて第三章までが表六甲の道であり、第四章以後が、すでに裏六甲へ通じていたのだろう。だから第五章は、第二章と同位相にあり、第五章の六項のメモたちは、第二章の〈私〉たちと対応している。
ちがう点は、希望に似た不安がみえてきたことで、不安は、原告団のように告発する。
……
その通りだ、と認めつつも、何ものかが私に語らせて、不安の告発の時間を短縮しようとするのである。
おお、その告発を聞くために、ここまで書いてきたのだ!
告発の時間を早くおわらせたい……がしかし、いままで〈六甲〉をかいてきた時間は、どんな流れかたをしてきたのだろうか。
いままで、どの章をかいているときでも、できるだけ早くかきおわり、解放されようとねがってきた。けれども、分裂し、からみ合う構想を、できる限り時間の方へ投げつけてきたとき、いつもその極限で、全く意外な表現が可能になった。
とくに第四章をかいている最終過程で、メモ相互の間隙へ直角に降下する方向全体を一つの表現として提出しうるのに気付いたとき、汚い文字、抹殺し、捨てることが、そこから与えられる最後で唯一の快楽になっていたメモ群が、突然、光を放ちはじめたのを忘れることができない。この光は、ほんとうは、徴かながらも序章からずっと〈六甲〉の道を照らしていたはずである。
けれども、私は、この光を十分にとらえ切ってはいない。なぜなら、どの章をかきおわったときにも、とくに第四章をかきおわったとき、切迫した時間から、安らかなおののきの空間へ投げこまれてしまったから。
そればかりではない。その安らかなおののき。その空間も、ゆっくりと、しかし確実に変移しはじめ、次の切迫した時間へ進んでいくから。そのことに、いま気付いたから。
長距離コースを泳ぎ切ったものが、ゴールの後でもなおプールの端でターンするように、切迫した時間に触れて、安らかなおののきの空間へもどっていく。……もどっていく? 何ものかに投げかえされているのだ。
この断絶、この苦しみは、何かに似ていないか。そうだ! 切迫した時間を付着させている首都から、まどろんでいる空間、六甲への漂着。時間に咲くタンポポとのすれちがいから、空間に咲くタンポポヘの陶酔。
これらは罪の拡大再生産だろうか。……ここからは、もう、私だけのために語ろう。
切迫した時間から、安らかなおののきの空間への無意識的な断絶……というかたちは、逆転させることができるのではないか。安らかなおののきの空間から、切迫した時間への意識的な飛躍。
そのとき、時間との接しかたに関する罪の深さが逆の意味をもちはじめてくるだろう。
いかにして逆転させるか。いまは一つの予感しかない。α・β・γの構造とその時間的な根拠をさぐること。
〈六甲〉からはみだそうとする油コブシで、こんなことをかいた記憶がある……
〈 〉が生まれてくる契機は、ほぼ次の三種類に分けられる。
α、〈 〉の変移を徹底化しようとするとき。
β、α の運動に対する表現内からの不安を放置するとき。
γ、αやβの運動に対する表現外からの不安を放置するとき。
α・β・γというのは、この湾曲した世界における何ものかを区分しようとする力(ピラミッドをつくっている力といってもよい)が、〈六甲〉におとしている影のような境界線ではないだろうか。
もし、そうであるとすれば、いや、必ず、そうであるようにさせなければならないのだが……切迫した時間から、安らかなまどろみの空間へ、という変移は、激しければ激しいほどよいのだ。また、このかたちとa・β・γ系のかたちとの比較できる領域が、広ければ広いほどよいのだ。
〈六甲〉から、すべての不安の占拠がはじまる。いまは、一点でのみ時間の構造と接しているにすぎない空間としての〈六甲〉から。
不安をこの世界に深化拡大することによって告発し、占拠する、関係としての原告団をつくろう。
はるかな時間=空間から、〈六甲〉へのささやきがやってくる。これから占拠される不安たちのささやきが。
私はいま、序章に対応する位相にあると感じている。……すると私は、第五章を表現しようとしているうちに第六章=終章まで表現してしまったのであろうか。あるいは、序章から第五章までを表現することが第六章=終章を表現することになるのであろうか。
断言できること……この瞬間から〈六甲〉をかき続ける主体は、私だけではなく、私たちである。
関係としての原告団よ、〈六甲〉を吹き抜ける風にのって、当然の比喩だが、タンポポの綿毛のように、弯曲した世界へ突入していけ。
私たちのであうたたかいが、〈六甲〉第六章=終章を表現することである。
刊行リスト
- 松下 昇(についての)批評集 α篇1(88年5月)
- 松下 昇(についての)批評集 α篇2(89年6月)
- 松下 昇(についての)批評集 α篇3(95年6月)
- ~ …α系は国家による批評
- 松下 昇(についての)批評集 β篇1(87年9月)
- 松下 昇(についての)批評集 β篇1更新版(94年9月)
- 松下 昇(についての)批評集 β篇2(88年9月)
- 松下 昇(についての)批評集 β篇2更新版(94年9月)
- 松下 昇(についての)批評集 β篇3(94年9月)
- 松下 昇(についての)批評集 β篇4(94年9月)
- ~ …β系はマスコミによる批評
- 松下 昇(についての)批評集 γ篇1(87年11月)
- 松下 昇(についての)批評集 γ篇2(87年11月)
- 松下 昇(についての)批評集 γ篇3(87年11月)
- 松下 昇(についての)批評集 γ篇4(88年3月)
- 松下 昇(についての)批評集 γ篇5(88年11月)
- 松下 昇(についての)批評集 γ篇6(93年9月)
- 松下 昇(についての)批評集 γ篇7(93年9月)
- ~ …γ系は個人による批評
- 表現集1(88年8月)(註1)
- 表現集2(88年12月)
- 表現集3(94年4月)
- ~
- 発言集1(88年9月)
- 発言集2(88年12月)
- 発言集3(94年5月)
- ~
- 神戸大学闘争史 -年表と写真集-(89年5月)
- 〃 (その後さらに更新中)
- 神戸大学闘争史 -別冊1(93年4月)
- 神戸大学闘争史 -別冊2(93年4月)
- ~
- {3・24}証言集 上(89年12月)
- {3・24}証言集 下(90年1月)
- ~
- 菅谷規矩雄追悼集(90年10月)
- ~
- 救援通信最終号(91年5月)
- ~
- <6・20討論の記録-不確定な断面からの出立->(91年10月)
- ~
- 正本<ドイツ語の本>(77年9月)
- 五月三日の会通信1~26(70年7月~81年12月)
- 訂正リスト(93年5月)
- 時の楔-< >語に関する資料集-(78年10月)
- 時の楔への/からの通信(87年9月)
- 時の楔通信<0>~<15>~号(78年10月~86年7月~)、
- 訂正リスト(93年5月)
- 概念集1 (89年1月)
- 概念集2 (89年9月)
- 概念集3 (90年5月)
- 概念集4 (91年1月)
- 概念集5 (91年7月)
- 概念集6 (92年1月)
- 概念集7 (92年3月)
- 概念集8(92年11月)
- 概念集9 (93年11月)
- 概念集10(94年3月)
- 概念集11(94年12月)
- 概念集12(95年3月)
- 概念集 別冊1-オウム情況論-(95年10月)
- 概念集 別冊2-ラセン情況論-(96年5月)
- ~
- 概念集シリーズへの索引と註(96年1月)
- 概念集シリーズへの補充資料(96年1月)
- 序文とあとがきから見た既刊パンフのリスト
- 〃 2
- ~
mixiというもの
松下昇についてどこから語ることができるか?
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=2887146*1
松下昇についてどこから語ることができるか?
まず遺書を引用する。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/11000101
として遺書を引用しました。
ですがちょっと思い直して削除しました。
どうも文体がぶっきらぼうで、読者に語りかける方向性が
はっきりしないからです。
どうしたらいいかな?
坂本さんの文章も、自閉的な他人に開かれていない難解な文章と
一般的には評されるだろうと思いますが、
Uさんはそれほど異和感はなかったですか?
どうもこのMIXIという場の性格もよく分からない。
今まではインターネットに繋ぐことさえ出来れば見れるサイトやブログを作ってきました。
インターネットは世界に広がっている、誰でも対等とかオプティミスティックに言う人がいますが、実際にはそこに前提されている文化を共有しないと入れないわけで、少なくとも最低限の知力と資力がないものは排除されています。おそらくそのような排除された者たちを目の前にいる者たちより重視する(しようとする)のが松下の方法論だった、とも言えるように思います。
そこでネット一般よりさらに限定された場で展開することの意味は何か?と考えるとすぐには答えが見つかりません。
・・・
どうも消極的ですみません。
*1:入会希望者はメールください。
うーん 松下昇
というわけで、松下昇ですが。
まず彼を紹介しないといけないか。
生年は1936年であるとのこと。
1996年5月6日朝10時ごろ死亡。
http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/matut11.htm
同時代生まれは誰か調べてみよう。
http://www.excite.co.jp/book/guide/chrono/?index=1 現代作家ガイド―年代別/生年月日検索
ところが、30年代生まれは
1934生 筒井康隆 ともう一人しか居ない。
流行作家としてもてはやされる年齢はとっくに終わって数十年後に再発見される(かもしれない)のを待つ年齢になっているということか。
1936生 寺山修司 1983死。
横尾忠則 もかな。
(生年別に著名人をざっと並べたデータベースがありそうなものなのに、みつからなかった。)
とりあえず見つかった3人をみるとかなり個性派ですね。
破壊~ハチャメチャ~前衛 みたいなイメージがうかぶ。
松下もそのような、ポジティヴなハチャメチャ派だった。とここでは紹介してみよう。
本居宣長とは誰か
- 作者: 子安宣邦
- 出版社/メーカー: 平凡社
- 発売日: 2005/11
- メディア: 新書
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祭りになっている?この本をリンクしてみよう。
義理があるので!
とても分かりやすい宣長入門書ではあるのですが、それだけではない。
本書は11の問いからなるが、それをみつめていると読者は不安になるはずだ。
問いを読んでいる(自分が問われているのではない)はずなのに、自己の立脚点を問われているのを感じるからだ。子安氏のラディカリズムをうまく定着することができた本。
(と読んでもないくせに偉そうに)
なぜこんなに、すらすらと平気に
私は学校で、万葉の講義をしているが、時々、なぜこんなに、すらすらと平気に、講義をすることが出来るか、と不思議に思うことがある。先達諸家の恩に感謝する事は勿論であるが、此処に疑いがある。教えながら、釈きながら居る人の態度として、懐疑的であるというのは、困ったものであるが、事実、日本の古い言葉・文章の意味というものは、そう易々と釈けるものではなさそうだ。時代により、又場所によって、絶えず浮動し、漂流しているのである。然るに、昔からその言葉には、一定の伝統的な解釈がついていて、後世の人はそれに無条件に従うているのである。私は、これ程無意味な事はないと考える。
(p149-150折口信夫「神道に現れた民族論理」『全集3巻』isbn:4122002761)
切断と現前のマジック
どんなことでも、我ながら「すらすらと平気に」どんどん出来てしまうのは幸せなことだし、そこに“ある真実”があることも疑えない。しかるに、上記折口の文章ではそのことに対し「不思議に思う」とされている。
凡庸な解釈では、行為する自己/意識する自己 の対立において後者の優位を信じるのは愚か、ということになるのだが、ここでは置いて、折口に従う。
「上つ代は、意(こころ)も事(こと)も言(ことば)も上つ代、後の代は、意(こころ)も事(こと)も言(ことば)も後の代」と宣長は言った。*1そうだとすると、わたしたちは現代人でしかありえず、古は理解しえないことになる。しかし宣長の主張はそうではなく、古事記は「いささかもさかしらを加えずて古より言い伝えたるままに記されたれば、その意も事も言も相かなって皆上代の実(まこと)なり。」わたしたちが求めている真実はすでにここ(古事記)に「古の語言(ことば)」として在る!「上つ代の言の文(あや)も、いと美麗しきものをや」!
宣長は上つ代を後の代から切断しながら、古事記に感動する宣長という回路だけに於いては、古はいままさに現前すると考えた。単に理解できるだけはなく現前し感動を与えるのだ。*2
宣長による切断と現前のマジックは、弟子たちにはもはや何のパラドクスとも感じられず、だたただ古言(伝統)が勉強され研究されつづける。その流れの中で、万葉が「すらすらと平気に」読めるようになってきたのだ。
「すらすらと平気に」のまっただ中で、ひとはそれに異和を感じることはできないはずだ。なぜ折口だけが「なぜこんなに、すらすらと平気に」という疑問符を提出することができたのだろうか。
*1:http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040913#p1
*2:この<感動>が現在の靖国問題にまでつながってきた。
直ちに其の神に成る
えっと折口を読もうとしていたのに宣長まで出してきたので話が別の方向へ転回しわけがわからなくなってきたぞ。
我が国には古く、言霊の信仰があるが、(略)
それよりも前に、祝詞には、其の言語を最初に発した、神の力が宿っていて、その言葉を唱える人は直ちに其の神に成る、という信仰のあったために、祝詞が神聖視されたのである。そして後世には、其事が忘れられて了うた為に、祝詞には言霊が潜在する、と思うに至ったのである。
だから、言霊という語の解釈も、比較的に新しい時代の用語例に、あてはまるに過ぎないものだ、と言わねばならぬ。
(p165 折口信夫「神道に現れた民族論理」『全集3巻』)
たかだか8世紀前半にまでしか遡れない古事記の言語をもって「古の(こころ)=事(こと)=言」がそこにある、とする宣長の方法論には明らかに無理がある。当然、「それよりも前」の時代の人々は違う論理で生きていたはずだからである。
神がもっと身近にいた太古を折口は自身に近づける。「直ちに其の神に成るという信仰」云々と折口は言うのだが、それは畢竟彼の詩的直感による構成物ではないのか。であれば凡人にはなかなか近づけなくとも当然か、という感想が起こる。
どうも話が全然まとまらないのですが、少し分かってきた。
<古(いにしえ)>を読む、再現前させる二つの方法があると。
一つは、昔からの一定の伝統的な解釈にそのまま乗っかって「すらすらと平気に」語る方法。
もう一つは、宣長、折口それぞれやり方は違うが、常人離れした努力の果てにどこかで神懸かり的に、いまここに直接<古(いにしえ)>が降りてくるというパフォーマンスを行うこと。
この二つの異質な物をむりやり同一化したものが「靖国」的な、日本=日本の同一律であり、それは最強であり最悪だ、と。
祇園に行きました
一昨日。四条河原町から観光客用の窓がずっと並んだ道を少し行ってつき当たりに階段があり登ると祇園さんです。最初に蘇民将来の社がある。手を合わせた。*1行灯の沢山灯ったところの向こうにメインの神社がある。ここの祭神は牛頭天王だったな、と思って説明書きを見るとスサノオになっている。あとから考えるに、これはやはり明治の廃仏毀釈期に訳の分からない神を記紀の神に整理し直した影響だろう。その向こうは円山公園。戦争と基地強化のための日米首脳会談反対! 11・15-16京都行動 というのに参加するためわざわざ電車に乗ってきたのだ。誰からも誘われず誰にも言わずに。京都15日(火): 午後6時30分~ 場所 円山公園 ラジオ塔前 というメモだけをたよりに。時計を持っていなかったがまだ予定の時刻より1時間近く早いかなと思って行くと灯りのまわりにそれらしき人々が十数人居た。公園が広いので人数少ないなあという印象。自販機の灯りをたよりに本を読みながらそこでじっと待っていたがかなり寒くなってきた。月がとてもきれいだ。…やっと始まる。沖縄や座間、韓国など現地の反基地運動との連帯のアピールが主だった。鳴り物を鳴らしているのが面白い。デモ出発。人数がだいぶ増えている。数が多かったせいか、一列3人とか4人とかの規制はされずいい加減に広がって歩く。わたしは大きな横断幕の端を持つことになった。通行人の反応は余りないが良かった方だろう。デモとは歩くことと怒鳴ることだ。アーンポ フンサイ、トーウソウショウリとシンコペートする二拍子はジグザクデモの時か。まあそれの変形が主流だが単調になりがち。ここは開発の余地が大いにあると思った。
<反ブッシュ>の意志表示をしました。という報告。
*1:八坂神社の境内摂社である疫神社は、疫病除けの神、蘇民将来を祀っている