執行についてはあまり語られない。

 法的思考は死刑判決というものをもってそこに執行の意味がすでに含まれるとし、執行というものは意味のない自動過程であるかのようにみなしたがる。わたしたちもそのような発想から逃れられない。しかし本当は違うのだ。判決を目指す公開の正義のゲームが時として数十年を要する複雑なドラマであることを人は知っている。しかし<一瞬>と語られるであろう執行もまたそれに劣らぬ複雑なアスペクトとドラマを持ったものであるのだ。ただそれらを語る言説を私たちがもっていないだけで。

自覚のクライマックスで死を与える

ぼくは犠牲たることを回避しない。自己を捨てることをこばまない。しかしそのprocessとして自己を無にすることを嫌うのだ。それを是認できないのだmartyr(殉教)ないし犠牲は、自覚のクライマックスでなされるべきだ。自己喪失の極限が犠牲たることに、なんの意味があろうか。

(林尹夫 p330『ねじ曲げられた桜』より)

林尹夫は10/30付けで紹介した佐々木八郎などと同じく「大東亜戦争」の最後に特攻として散っていった若きインテリ兵である。45年7月撃墜された。

彼が過ごしていた海軍基地では、読書そのものが禁止されるという馬鹿げた事態が起こった。上の文章はそのような情況への怒りである。

愚劣なりし日本よ

優柔不断なる日本よ

彼は資本主義と軍国主義の病に侵された日本の破滅を願った。しかし彼は「新たな日本を創るため」特攻機に乗ることをためらわなかった。

<死へとかかわる存在>においてこそ、<そのつど私のものであるという性格>の自己自身が構成され、それ自身に到来し、その置き換え不可能性へと到来するのだ。自己自身の自身は死によって与えられる。

(p96デリダ『死を与える』のハイデッガーの論理の解説の部分より)

彼一個の死を、60年も経ってから、自らを国家に捧げけたのだとして、安物の国家主義の昂進の方向へ利用してしまう奴らを叩きつぶせ!

戦争がなくなればそれでいい

禍津日神も戦争を憎んで、それを去らなければ戦争を下されるが、それは善人に戦争を下す神さまではない。戦争を承知しない神様である。戦争がなくなればそれでいいという神様である。ここに戦争を祓うことが可能になるべき道理がある。(略)

それが私の見た所に於いての平田先生の神道の神髄である。

(p98山田孝雄『平田篤胤』畝傍書房 昭和17年)

これは嘘です。山田孝雄はこんなこと書いていません。「禍」と「穢れ」を戦争に置き換えてみました。

 憲法9条の絶対平和主義を馬鹿馬鹿しいと今頃はみんな言うが、それはそうかもしれない。でも、<日本の伝統>に副ってないこともないのである。

憲法9条は<近代の超克>のヴァージョンアップ、いや戦争に負けたのだからヴァージョンダウンか?まあどちらにしても<近代の超克>の変種と理解しうる。憲法改正は<近代の超克>をさらに超克するといった形でしかなされえない、と思う。思想的に露骨に後退するようなことをするのは有害無益だろう。わたしは憲法9条が絶対だとも正義だとも思っていない。だが今時語られている改正案は程度が低すぎると思う。

だいたい、長い長い日本の歴史の中で最も優雅さから遠かった昭和の20年間に郷愁を持つとは、DV依存の変態か!

祓え給え、清め給え

神道というものは

ただ、祓え給え、清め給え、といえばよい。

というものなのだろうか。山田孝雄は「それに相違ないのである」と言っているようだ。(同書p98)

日本書紀の中の今申したように、腹がへってたまらぬという御心が凝って客観化して食物の神さまになる。禍津日神も穢を憎んで、それを去らなければ禍を下されるが、それは善人に禍を下す神さまではない。穢れを承知しない神様である。穢れがなくなればそれでいいという神様である。

欠如=ある徳への希求が凝って<神>になる。いま自己を圧迫してくる悪に対し、ひたすら「祓え給え、清め給え」と祈る、そうすると穢を憎む神が悪人に禍を与えてくれる。ということだろうか。

しかしそれには可能の原理がなければならぬ。その祓いの可能の原理がこの荒魂の活動にやどる。それが私の見た所に於いての平田先生の神道の神髄である。

「神が悪人に禍を与えてくれる」とまでは篤胤も孝雄も言っていないだろう。ただそういう方向の可能性はあるくらいか。

確かにAという人間を捉えて悪人であると規定することは、人間存在の広大さに対し人知でもってさかしらに規定することになり、出来ないことだと宣長はいうだろう。

本居先生の神道の考え方は要するに善悪二元論である。禍津日神となおびの神が両立しておいでになる。さうして(略)禍福は糾える縄の如しいうような説明をして居られるのである。(同書p85)

でもってこれを救済しようとするこの頃の*1日本主義者は、ヘーゲルをもってこれを解釈する、と。

それに対し篤胤は、二元論ではなく、一元論になる。

悪は祓いうる。つまり悪は本質的な物でないから祓いうるのだ。したがって神道は一元論でなければならない、と。なるほど。

ところでこの『平田篤胤』という本は、字が大きく百頁ほどでしかも内容が極めて平易である。面白い本だと思った。昭和17年という出版時点でこの表題ではひょっとして無茶苦茶国粋主義的なのではと思ったがそうしたところはなくとてもほのぼのした感じ。

「平田先生の一番力を籠め、殆ど命を打ち込んでやられた一番重要な点」が現在全く理解されていない、となげきながらも!

*1:S17年頃

神の死について

近代において、共同体内存在であった個が自由になり個人になった。ここで自立した諸個人による交流の場市民社会が形成されればよいが、実際は上手くいかないことも多い。市民社会から排除された女性や犯罪者からの異議申し立てが起こる。

また市民社会を形成しうるのは教養ある市民であり、教養とは国家と神への信頼である、と考えられる。

しかし<神は死んだ>。

ここで対応法は3つ。

α.一つは神は死んでないとがんばる。

β.一つは神無しで生きる。

γ.一つは「神の代わりを出現させようとして狂う」*1。である。

βは一番スマートのようだが、結局世界にある圧倒的な不正義に目をつむり自分たちだけの権益を守る思想とつながるのではないか。

α、神が死んだとしても、神という名前だけは残る(例えば「皇高皇宗」)その名前とイデアへの尊敬を絶やさないような私個人の思いをなんとか拡げていけばいいのだ。このように考えると否定しなくともよいようにも思える。

神がない以上、わたしたちはいつも狂気の淵にさらされている。そう考えるとαβγは余り違わないところに収束してくかもしれない。しかし、体制派のひとは既成の権力関係をそのまま神の代わりに信仰せよと迫ってきたりするのだ。侮蔑し唾を引っかけてやれ。

反ブッシュ、小泉!

ブッシュが来る!小泉が来る!

11/16 日米首脳会談 in 京都・迎賓館 抗議行動へGO!

11月15日(火)18:30~

円山公園ラジオ塔前集合、その後デモへ

(京阪「四条」駅下車、東へ徒歩10分/市バス206号系統「祇園」下車)

11月16日(水)午前10:00~

京都教育文化センター集合、迎賓館に向けてデモへ!!

(京阪「丸太町」駅下車、5番出口より東へ徒歩3分)

※出町三角州集合は使用許可が降りなかったため、変更になりました。

ローザ・パークス

 今週のもう一つの大きなニュースといえば、ローザ・パークス女史の死去という事件でしょう。1955年に人種差別の続くアラバマ州モンゴメリーで、白人専用のバスの座席に座り続けたために逮捕され、この事件を契機に、60年代の公民権運動へと黒人コミュニティが立ち上がったのです。パークスは歴史を変えた勇気ある女性ということで、その後は公民権のシンボルになっていきました。

 小学生の子供に読ませる偉人伝や、社会科教科書には必ず登場することから、正に国民的英雄と言って良いのでしょう。歴史上の人物としての知名度はトップクラスの存在です。その死去は92歳という大往生で、アメリカ社会に静かな服喪のムードをもたらしました。激しい意志とは裏腹に、穏やかで知的な語り口のインタビューのテープは何度もTVで取り上げられました。また老境を迎えたパークス女史が淡々とした微笑みを浮かべながら、問題の「バス」の席に座って過去を振り返っている写真なども、どのTV局も繰り返し映していました。

 そのパークス女史へのブッシュ大統領の対応は、やや異例といって良いでしょう。異例というのは、保守派で黒人票を意識せずに当選した大統領にしては、強めの対応をしているという意味です。自身が追悼のスピーチを発表していましたし、遺体を国会議事堂に安置して一般の弔問を受けるという民間人としては最高レベルの弔意が示されています。

 また、全国的に半旗が掲げられましたが、テロや戦争でなく、またレーガン大統領のような保守派の政治家でもない、公民権の「母」の死を悼んでの半旗というのは国のムードを落ち着かせたように思います。

http://ryumurakami.jmm.co.jp/recent.html JMM最新号

ローザ・パークスさんのことは実はよく知っているわけではない。ただとにもかくにも、彼女を国民的英雄としてUSAは弔ったと。「東条有罪」反対派が過半数を占めそうな日本はどうなのか。「君死にたもうことなかれ」という唯の希望を歌にしただけの与謝野晶子では弱いと思う。日本人にとって人権とは何か?

力を入れずに天地を動かし

上の文では、ローザ・パークスの非暴力直接行動に対し、日本には与謝野晶子の抒情しかないのか、と書いた。しかし考え直してみると、だがたかが抒情であっても捨てた物でもない。

「君死にたもうことなかれ」を改めて、読んでみた。長いので2連だけ掲げる。

http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/yosanoakiko.htm 与謝野晶子

堺の街のあきびとの、                  

老舗(しにせ)をほこるあるじにて、

親の名を継ぐ君なれば、

君死にたまふことなかれ。

旅順(りょじゅん)の城は滅ぶとも、

滅びずとても、何事ぞ、

君は知らじな、あきびとの

家のおきてに無かりけり。       

  あきびと=商人。あきんど。

商人による自由都市の伝統(伝説)、家のおきてを自己のよりどころとして持ち出している。「老舗をほこる」ことと国策に逆らうことは21世紀の現在も私たちに於いてはまったく結びつかない。しかし晶子の時代、つまり教育勅語ができたばかりの時代にはそうではなかったことに注意したい。明治維新も大阪の商人が金を貸したから成立したのだ。

 それに貿易商だとしたら日本だけが栄えても商売は成立せず必ず相手国も必要だ。国内だけに基盤を持っているわけではない。(急に自分のことを思い出したが、私が赤ちゃんだった頃、父はオーストラリアに2年も単身赴任していた。戦後(オーストラリアは交戦国)まもなかったのに関わらず父はその地の方々にとてもよくしてもらったという。考えてみれば私が育つことが出来たのも幾分かはかの国のおかげなのだった。)

 古今集のかな序で、紀貫之は、「力を入れずに天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあわれとおもわせ、(略)るは歌なり」と言っている。天地鬼神を動かすくらいだから政治を動かすくらいはわけなくできるはずだ。

批判されて反論した文章には次のようにある。

http://pegasus.phys.saga-u.ac.jp/Education/docs/hirakibumi.html

私が「君死に給ふこと勿れ」と歌ひ候こと、桂月様太相危瞼なる思想と仰せられ候へど、當節のやうに死ねよ\/と申し候こと、又なにごとにも忠君愛國などの文字や、畏おほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方却て危瞼と申すものに候はずや。私よくは存ぜぬことながら、私の好きな王朝の書きもの今に残り居り候なかには、かやうに人を死ねと申すことも、畏おほく勿體なきことかまはずに書きちらしたる文章も見あたらぬやう心得候、いくさのこと多く書きたる源平時代の御本こも、さやうのことはあるまじく、いかがや。

 ここで「畏おほき」と彼女は本当に感じていたのかもしれない。だからこそ、真実「畏おほき」ところの大君の御意志を私意によって振り回してそうであることの自覚を持っていない役人やマスコミというものに不信を感じたと。

<人神思想>

「神の死」「ドストエフスキー」についてグーグルしたら下記のような頁を見つけた。Seigoさんと言う方の充実したドストエフスキーサイトの1頁。

この頁では、ドスト氏の小説の中の登場人物に二つの極端な類型を発見できるとする。即ち、

「人神思想」

(人神(じんしん)=神のような人。「神」に対抗して、自ら「神」たらんとする人物。)

ラスコーリニコフ(『罪と罰』)、キリーロフ(『悪霊』)、イヴァン、大審問官(『カラマーゾフの兄弟』)、

「神人思想」

(神人(しんじん)=人のような神。「神」の意志を体現した、「神」への謙虚な信仰や他者への同情と博愛に生きる人物。)

ソーニャ(『罪と罰』)、ムイシュキン公爵(『白痴』)、チーホン僧正(『悪霊』)、マカール老人(『未成年』)、ゾシマ長老、アリョーシャ、マルケル、イエス(以上、『カラマーゾフの兄弟』)

http://www.coara.or.jp/~dost/26-4.htm ドスト氏の小説における「人神思想、神人思想」の系譜

 キリストにも神にも興味がなかった十代の私が何故「神の死」というテーマに囚われたかといえば、まさにここでいう、人神思想、人は神になれるという思想に惹かれたのであろう。修行もしないで神になれる!のだからこんなスゴイ事はない!

 過去を振り返るとき「~に過ぎなかった」と言い切ってしまうのは簡単なことだが錯誤である。過去の錯誤を指摘する現在が過去より上位にある保証などどこにもないのにその疑問なく指弾は発せられる。全共闘運動への総括などに特徴的に見られる傾向だ。

 人は神になれない、というのは錯誤だ、と言ってみる。例えば、死刑執行人。人は人を殺せない。人を殺すためにはひとは獣になるか神になるしかないわけだが、戦場と違い死刑執行人は獣であることはできない。したがって、死刑執行人はすでに幾分か神でなければならない。

 特攻隊員は自己に死を与える。国家は既に敗北しており、自己の死は無駄になるだけだ。彼らは自己の死を全きゼロと交換することを強いられた。彼らは自ら神になることによってしか自らに死を与えることはできなかった。

 他人のことはよい。わたしは神ではない。ただ私というものがどのように規定されようがわたしにはその規定をアプリオリにはみ出す何かがあることは私には自明だと思われる。

ひとは人類を愛せない 

コーリャ「神を信じていなくても人類を愛することはできるのです。ね?ヴォルテール(注:18世紀のフランスの啓蒙思想家)は神を信じていなかったが、人類を愛していた!」

アリョーシャ「いや、ヴォルテールは神を信じていました。が、それはほんのちょっぴりでした。だから彼は人類を愛していたけれど、それもほんのちょっぴりだった、と思うのです。」

カラマーゾフの兄弟 http://www.coara.or.jp/~dost/2-3-1.htm#B

自己が自己である限りでできることなど、ほんのちょっぴりだ、とドストは言っているようだ。それは確かにそのとおりだろう。しかし自己は“自己である自己”より大きいのだから、愛はほんのちょっぴりよりちょっぴり大きい物で有りうる。