力を入れずに天地を動かし

上の文では、ローザ・パークスの非暴力直接行動に対し、日本には与謝野晶子の抒情しかないのか、と書いた。しかし考え直してみると、だがたかが抒情であっても捨てた物でもない。

「君死にたもうことなかれ」を改めて、読んでみた。長いので2連だけ掲げる。

http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/yosanoakiko.htm 与謝野晶子

堺の街のあきびとの、                  

老舗(しにせ)をほこるあるじにて、

親の名を継ぐ君なれば、

君死にたまふことなかれ。

旅順(りょじゅん)の城は滅ぶとも、

滅びずとても、何事ぞ、

君は知らじな、あきびとの

家のおきてに無かりけり。       

  あきびと=商人。あきんど。

商人による自由都市の伝統(伝説)、家のおきてを自己のよりどころとして持ち出している。「老舗をほこる」ことと国策に逆らうことは21世紀の現在も私たちに於いてはまったく結びつかない。しかし晶子の時代、つまり教育勅語ができたばかりの時代にはそうではなかったことに注意したい。明治維新も大阪の商人が金を貸したから成立したのだ。

 それに貿易商だとしたら日本だけが栄えても商売は成立せず必ず相手国も必要だ。国内だけに基盤を持っているわけではない。(急に自分のことを思い出したが、私が赤ちゃんだった頃、父はオーストラリアに2年も単身赴任していた。戦後(オーストラリアは交戦国)まもなかったのに関わらず父はその地の方々にとてもよくしてもらったという。考えてみれば私が育つことが出来たのも幾分かはかの国のおかげなのだった。)

 古今集のかな序で、紀貫之は、「力を入れずに天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあわれとおもわせ、(略)るは歌なり」と言っている。天地鬼神を動かすくらいだから政治を動かすくらいはわけなくできるはずだ。

批判されて反論した文章には次のようにある。

http://pegasus.phys.saga-u.ac.jp/Education/docs/hirakibumi.html

私が「君死に給ふこと勿れ」と歌ひ候こと、桂月様太相危瞼なる思想と仰せられ候へど、當節のやうに死ねよ\/と申し候こと、又なにごとにも忠君愛國などの文字や、畏おほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方却て危瞼と申すものに候はずや。私よくは存ぜぬことながら、私の好きな王朝の書きもの今に残り居り候なかには、かやうに人を死ねと申すことも、畏おほく勿體なきことかまはずに書きちらしたる文章も見あたらぬやう心得候、いくさのこと多く書きたる源平時代の御本こも、さやうのことはあるまじく、いかがや。

 ここで「畏おほき」と彼女は本当に感じていたのかもしれない。だからこそ、真実「畏おほき」ところの大君の御意志を私意によって振り回してそうであることの自覚を持っていない役人やマスコミというものに不信を感じたと。

<人神思想>

「神の死」「ドストエフスキー」についてグーグルしたら下記のような頁を見つけた。Seigoさんと言う方の充実したドストエフスキーサイトの1頁。

この頁では、ドスト氏の小説の中の登場人物に二つの極端な類型を発見できるとする。即ち、

「人神思想」

(人神(じんしん)=神のような人。「神」に対抗して、自ら「神」たらんとする人物。)

ラスコーリニコフ(『罪と罰』)、キリーロフ(『悪霊』)、イヴァン、大審問官(『カラマーゾフの兄弟』)、

「神人思想」

(神人(しんじん)=人のような神。「神」の意志を体現した、「神」への謙虚な信仰や他者への同情と博愛に生きる人物。)

ソーニャ(『罪と罰』)、ムイシュキン公爵(『白痴』)、チーホン僧正(『悪霊』)、マカール老人(『未成年』)、ゾシマ長老、アリョーシャ、マルケル、イエス(以上、『カラマーゾフの兄弟』)

http://www.coara.or.jp/~dost/26-4.htm ドスト氏の小説における「人神思想、神人思想」の系譜

 キリストにも神にも興味がなかった十代の私が何故「神の死」というテーマに囚われたかといえば、まさにここでいう、人神思想、人は神になれるという思想に惹かれたのであろう。修行もしないで神になれる!のだからこんなスゴイ事はない!

 過去を振り返るとき「~に過ぎなかった」と言い切ってしまうのは簡単なことだが錯誤である。過去の錯誤を指摘する現在が過去より上位にある保証などどこにもないのにその疑問なく指弾は発せられる。全共闘運動への総括などに特徴的に見られる傾向だ。

 人は神になれない、というのは錯誤だ、と言ってみる。例えば、死刑執行人。人は人を殺せない。人を殺すためにはひとは獣になるか神になるしかないわけだが、戦場と違い死刑執行人は獣であることはできない。したがって、死刑執行人はすでに幾分か神でなければならない。

 特攻隊員は自己に死を与える。国家は既に敗北しており、自己の死は無駄になるだけだ。彼らは自己の死を全きゼロと交換することを強いられた。彼らは自ら神になることによってしか自らに死を与えることはできなかった。

 他人のことはよい。わたしは神ではない。ただ私というものがどのように規定されようがわたしにはその規定をアプリオリにはみ出す何かがあることは私には自明だと思われる。

ひとは人類を愛せない 

コーリャ「神を信じていなくても人類を愛することはできるのです。ね?ヴォルテール(注:18世紀のフランスの啓蒙思想家)は神を信じていなかったが、人類を愛していた!」

アリョーシャ「いや、ヴォルテールは神を信じていました。が、それはほんのちょっぴりでした。だから彼は人類を愛していたけれど、それもほんのちょっぴりだった、と思うのです。」

カラマーゾフの兄弟 http://www.coara.or.jp/~dost/2-3-1.htm#B

自己が自己である限りでできることなど、ほんのちょっぴりだ、とドストは言っているようだ。それは確かにそのとおりだろう。しかし自己は“自己である自己”より大きいのだから、愛はほんのちょっぴりよりちょっぴり大きい物で有りうる。

<皇祖皇宗に対し責任をおとり被遊>

 今度の敗戦については何としても陛下に御責任あることなれば、ポツダム宣言を完全に御履行になりたる時、換言すれば講和条約の成立したる時、皇祖皇宗に対し、又国民に対し、責任をおとり被遊、御退位被遊が至当なりと思ふ。今日の趨勢より見れば、或は之は難しき問題なるやも知れざれど、而し現在表面に顕れたる過渡的の動きや、米国其他の諸国の思惑等は度外視し、真理の示すところに従ひ、御行動になるが至当にして、これにより戦没、戦傷者の遺家族、未帰還者、戦犯者の家族は何か報いられたるが如き慰を感じ、皇室を中心としての国家的団結に資することは頗る大なるべしと思わるる。若し、如斯せざれば、皇室だけが遂に責任をおとりにならぬことになり、何か割り切れぬ空気を残し、永久の禍根となるにあらざるやを虞れる。

元内大臣 木戸幸一

(p132『天皇と日本人の課題』伊崎正敏isbn:4896917545

講和条約調印直前の51年秋のことである。引用は、『東京裁判資料・木戸幸一尋問調書』粟屋憲太郎「解説」からだそうだ。

「この伝言はたしかに天皇に伝わり、天皇もまた退位を希望した。*1*2

 わたしたちの憲法はその1条に天皇をいただいているわけですから、やはり天皇という一個の人格に価値の根源を求めてしまうことも或る程度避けられないでしょう。昭和の前半と後半をヒロヒトという同一のペルソナが表象しているという事実は憲法より重い。つまり日本は国民主権の国ではなくそれ以外の何かだったのです。

 ところがそうだとすると困ったことが起こります。天皇制の倫理的根源は皇祖皇宗であるわけです。宣長や篤胤も儒教の理、天、民といった審級をただ単に否定した訳ではありません。言あげせずともそのような価値は自ずから天皇とその背後(皇祖皇宗)に現象しているというのが彼らの考えでした。

 敗戦を皇祖皇宗に恥じない天皇というものはありえません。にもかかわらずわたしたちはそうした天皇を大事にしてきました。

 この矛盾を解決するためにはどうしたらよいでしょう。わたしは天皇から憲法という拘束を外すべきだと思います。憲法からいえば、1条~8条の削除ですね。こういうとすぐ天皇制廃止論者か、とか言われるわけですが、一体ひとは天皇制を何だと思っているのでしょう。*3千年以上続いた天皇制を守りたい、のではないのですか?天皇の憲法からの自立が天皇制廃止だなんて一体誰が決めたのか。解答いただきたいものだ。

*1:同上伊崎p133

*2:だが実際には、時の実権者マッカーサーと吉田茂に反対され実現しなかった。

*3:天皇制という言葉はあまりよくないとわたしも思うのですがここでは便宜上使っています。

我祖宗の御制に背き奉り

我が国の軍隊は、世々天皇の統率し給うところにぞある。

昔、神武天皇、みずから大伴・物部の兵どもを率い、中国のまつろわぬものどもを討ち平らげ給い、高御座に即かせられて、天下しろしめし給いしより、二千五百有余年を経ぬ。(略)

古は天皇みずから軍隊を率いて給う御制にて、時ありては皇后・皇太子の代わらせ給ふこともありつれど、大凡、兵権を臣下に委ね給うことはなかりき。

中世(なかつよ)に至りて、文武の制度、皆唐国風に倣(なら)はせ給ひ、(略)朝廷の政務も漸文弱に流れければ、兵・農おのずから二つに分かれ、古の徴兵はいつとなく壮兵の姿に変わり、遂に武士となり、兵馬の権は、一向(ひたすら)に其の武士どもの棟梁たる者に帰し、世の乱れと共に、政治の大権も亦其の手に落ち、凡(およそ)七百年の間、武家の政治とはなりぬ。

世の様の移り換りて斯くなれるは、人力もて換回すべきにあらずとはいひながら、且つは我国体に戻(もと)り、且つは我祖宗の御制(おんおきて)に背き奉り、浅間しき次第なりき。

「軍人勅諭」明治15年

天皇の軍隊を高らかに宣言している。

鎌倉から江戸幕府まで長く続いた武士政権については「我祖宗の御制(おんおきて)に背き奉り、浅間しき次第」と否定する。

ただ最近のなかった派とは違い、「凡(およそ)七百年の間、武家の政治」があったことをしっかり認めている。

こうそこうそう

こうそ《くわうそ》

【皇祖】

○(1)[国]天皇の先祖。

○(2)[国]天照大神(アマテラスオオミカミ)または神武天皇の称。

○(3)[国]天照大神から神武天皇まで代々の総称。

◎皇祖皇宗

こうそう《くわうそう》

【皇宗】

○[国]天皇の代々の先祖。

 第2代綏靖(スイゼイ)天皇から前代までの歴代の天皇をさす。

教育勅語

教育ニ関スル勅語

朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國軆ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン

斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ挙挙服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

明治二十三年十月三十日

   御名御璽

昭和23(1948)年 国会で排除・失効確認を決議

告文

 告文(こうもん=天子が臣下に告げる文。こうぶん)

皇朕(わ)レ謹(つつし)ミ畏(かしこ)ミ

皇祖(こうそ)

皇宗(こうそう)ノ神霊(しんれい)ニ誥(つ)ケ白(まう)サク皇朕(わ)レ天壌無窮(てんじょうむきゅう)ノ宏謨(こうぼ)ニ循(したが)ヒ惟神(ただかみ)ノ宝祚(ほうそ)ヲ継承(けいしょう)シ旧図(きょうと)ヲ保持(ほじ)シテ敢(あへ)テ失墜(しっつい)スルコト無(な)シ顧(かへり)ミルニ世局(せいきょく)ノ進運(しんうん)ニ膺(あた)リ人文(じんもん)ノ発達ニ随(したが)ヒ宜(よろし)ク

 皇祖

皇宗ノ遺訓(いくん)ヲ明徴(めいちょう)ニシ典憲(てんけん)ヲ成立シ条章(じょうしょう)ヲ昭示(しょうじ)シ内(うち)ハ以(もち)テ子孫(しそん)ノ率由(そつゆう)スル所(ところ)ト為(な)シ外(そと)ハ以(もち)テ臣民(しんみん)翼賛(よくさん)ノ道(みち)ヲ広(ひろ)メ永遠(えいえん)ニ遵行(じゅうんこう)セシメ益々(ますます)国家ノ丕基(ひき=国家統治の基礎)ヲ鞏固(きょうこ)ニシ八洲民生(やしま〈日本の美称〉みんせい=日本臣民の生活)ノ慶福(けいふく)ヲ増進(ぞうしん)スヘシ茲(ここ)ニ皇室典範(こうしつてんぱん)及憲法ヲ制定ス惟(おも)フニ此(こ)レ皆(みな)

 皇祖

皇宗ノ後裔(こうえい)ニ貽(のこ)シタマヘル統治(とうち)ノ洪範(こうはん)ヲ紹述(しょうじゅつ)スルニ外(ほか)ナラス而(しか)シテ朕(ちん)カ躬(み)ニ逮(および)テ時(とき)ト倶(とも)ニ挙行(きょこう)スルコトヲ得(う)ルハ洵(まことに)ニ

皇祖

皇宗及我カ

皇考ノ威霊(いれい)ニ倚藉(いしゃ)スルニ由(よ)ラサルハ無(な)シ皇朕レ仰(あおぎて)テ

皇祖

皇宗及

皇考(こうこう)ノ神祐(しんゆう)ヲ祷(いの)リ併(あわ)セテ朕カ現在及将来ニ臣民(しんみん)ニ率先(そっせん)シ此ノ憲章(けんしょう)ヲ履行(りこう)シテ愆(あやま)ラサラムコトヲ誓(ちか)フ庶幾(ねがわ)クハ

 神霊(しんれい)此(こ)レヲ鑒(かんがみ)ミタマヘ

http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/dainihonnkokukennpou.htm

1889(明治22)年 2月11日公布

皇室典範及憲法制定の告文

終戦の詔勅

詔書

朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク

朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

抑々帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所曩ニ米英二國ニ宣戰スル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ残虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯クノ如クムハ朕何ヲ似テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムニ至レル所以ナリ

朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ開放ニ協力セル諸連邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス

朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク擧國一家子孫相傳へ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ

御名御璽

昭和二十年八月十四日

http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/syuusenosyou.htm

永久の禍根

 長々と引用したが、要は、「我カ皇祖皇宗(略)徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ」の通りである。つまり、皇祖皇宗こそが徳(人間としての価値ある行為)を立てたのだ、ということ。

 さらに、教育勅語の起草者井上毅の論文「言霊」には次のようにある。「お治めになる」に相当する言葉が古事記には二つある。即ち、知らすと「うしはく」である。後者が単に領有するという意味であるのに対し、前者は占有とか支配といった意味はない。知らすとは「中の心が外物に対して「鏡の、物を照らす如く、知り明(あから)むる意」である。即ち、日本の「国家成立の原理」は「君民の約束(=契約)にはあらずして一つの君徳」にあることを示しているのが「知らす」という言葉。*1そして八木(やつき)によれば、この君徳とは単に中国風の「慈善の心」といったものをはるかに超えている。勅語の「宏遠」「深厚」ということばには人間的理解を超越するまでの原理の有り様を暗示しようとしているのだ。*2

 ところがその後天皇は戦争を始めてしまい、結果「終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スル」あるいはそれ以上ということになった。

「朕何ヲ似テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ」。この文章は当然、天皇自らの退位を(許される場合には)意味しよう。したがって冒頭の木戸幸一の伝言を受け天皇が退位を決意(再決意?)したのは当然である。

ところが退位は為されなかった。わたしたちは<徳の根源>を失ってしまったのだ。

*1:以上p127による。八木公生『天皇と日本の近代・下』isbn:4061495356

*2:八木、同書p151